369 Harmonia II     
(5/21 コンサート・プログラムノートより)

 「蛇」と「虹」と題された二部から成る弦楽六重奏曲「369」は人類学者、中沢新一さんに聴いてもらうために作曲された。ぼくが中沢さんの著作の良き読者であるなどとは言い難いのだが、例えば芸術の起源に関する中沢さんの説明は、いつもぼくにとって自分が今何をしようとしているのかを、もっともリアルな言葉で教えてくれる教科書なのだ。その中沢さんに、何とか今の自分にできる方法で語りかけることはできないか?・・それが、ぼくにとっての今回の目標だった。
 今回のコラボレーションはその言葉から想像されるような、ふたりの作家+学者が、ああでもないこうでもないと互いのスキルを持ち寄って行った共同作業ではない。ぼくの仕事は、最初はざっくばらんにプロジェクトのアイデアを出すつもりで赴いた中華料理屋でのミーティングで、中沢さんが開口一番「三輪さん、”裏ベリオ”をやりましょう!”ウラビデオ”みたいでいいでしょ?」と切り出し、「は?」とぼくの目が点になったところからスタートした。中沢さんの話を聞くと、人類学者レヴィ=ストロースのテキストを下敷に作曲されたL・ベリオの代表作「シンフォニア」で、ベリオはそのテキストの本意を理解していないというのだ。そして、あのような形ではなく、もっとL=ストロースの本意にそった形の音楽があり得たはずだと・・!
 あの、ベリオにできなかったことをぼくにやってみろとでもいうのだろうか?その難題にぼくはもう、修行の旅に出るしかないと思いつめた。結局旅には出なかったが、それから中沢さんの本「虹の理論」で紹介されている(L=ストロースが取材した)南米の「虹の蛇」にまつわる神話との想像上の旅が始まった。混色の蛇、解体された蛇から現れる虹と世界の生成、その最初の引き金となった、魚たちを一網打尽に殺してしまう毒。それらはさらに、半音階法や和声論に続き、ロマン主義音楽の話にまで展開されていく。「虹の理論」の「人類学者の手記」で中沢さんは言う:「二十世紀音楽の起源の場所には、毒物と性の誘惑者と愛の死と死と病気が、おおきな渦を巻いているのだ。そしてその渦のなかからは、あざやかな虹がたちのぼっている。その虹を最初に、空高くかけのぼらせたのは、ロマン主義だ。その虹から、現代のすべてがはじまった。」
 R・シュトラウスなら、この謎めいた「虹の蛇」神話を細部にわたって見事な音楽にしてみせたのかもしれないが、ぼくにはその力量も意欲もない。そして、もしベリオが何かを「理解してない」と言うならば、まさにその物語や感情を音楽によって表現するというロマン主義的(?)姿勢、つまりその時代性のことなのではないか?ベリオに限らず、現代音楽の概念や制度もまたロマン主義の時代に確立し、固定化し、今でも因習として続いているものだからだ。それは百年も前のことであるし、人類の歴史からみればつい最近のことでもある。
 音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか?その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか?もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。


弦楽六重奏のための「369 Harmonia II」のコンピュータ・シミュレーション

 「369」を作曲するにあたって、ぼくはまず想像上の民族に伝わる演奏技法を考えた。弦楽器の開放弦とその弦上の特定のポジションを素早く指で押し離しながら弓で演奏する奏法。そして、この押し離す指を弦に軽く触れるようにすることによって生まれる開放弦の倍音を響かせる奏法である。前者はいわゆる2音のトレモロで、後者はフラジオレットと呼ばれ、どちらも弦楽器の奏法として目新しいものではない。普通と違うのは、この民族(南米神話にちなんで南米の「古代ツダ民族」ということになっている)はこの奏法しか知らず、この奏法のみが弦楽器の「正しい弾き方」であるという設定だけである。 「虹の技法」と名付けられたこの奏法による音楽は多くの点で「転調可能、無調も可能」な西洋音楽とは異なるものにならざるを得ない。なぜなら開放弦の低音は調弦によって固定されており、開放弦上の高音は、音階とは無関係に、倍音が鳴るポジション、即ち弦全体を正確に2〜8等分割したポイントに限られているからである。そして、響く倍音もまた、常に開放弦の基本周波数の整数倍に限られることになる。
 若きA・シェーンベルクの名作「浄夜」と同じ編成でもあるこの作品では6つの弦楽器、合計24本の開放弦、ただしオクターブを無視すると、完全五度関係にあるたった5種類の弦を6人の奏者が「虹の技法」を使って演奏することになる。作曲は「音符」単位ではなく、「第X弦の第Y倍音」という単位を使って行われ、それらの組み合わせに、6人の奏者の間で絶え間なく循環して行われる「蛇居拳算」と名付けられた単純な数学的演算が使われた。この演算によって6人の奏者それぞれの「状態」は時々刻々と更新され、奏者はその状態に従って奏法や弦と弦上のポジションを変えて演奏する。曲の冒頭で6人は同じ状態で始まり、演算としては無限ループを繰り返すだけだが、たったひとつの突然変異、間違い、異次元からの介入、ビッグバン・・何と呼んでも構わないが、つまりはひとりの状態が変化し、そこからとめどなく新しい状態が生成されていく。第二部もまた、ひたすら「蛇居拳算」を繰り返すことに変わりはないが、同一原理の異なるアングルからの眺めによって、5つの特殊な和音が暗示される。


「虹の技法」についてどうしてももっとよく知りたい!

 これらの仕組みから想像してもらえるかもしれないが、曲全体は原理的に純正律の響きを基調とした全音階的なものになるはずだ。つまり、「369」はロマン主義音楽時代にほぼ完成をみた(現代テクノロジーによってそれはさらに完璧になっている)西洋音楽における抽象化され、自由に組み合わせ可能な素材としての音/音符によって構築されることを真っ向から拒絶しつつ、弦楽六重奏というもっとも西洋音楽の正統な編成によって奏でられる架空の民族音楽である。論理演算とコンピュータ・シミュレーションによって組み立てられ、旋律もなく展開もない、ひたすら変化する音響の持続だけによる、この修行のような(?)音楽が中沢さんの最初の提案に何か返事をしたことになったのか、まして、どのように受け止められるのかはもちろんわからない。今回演奏の場に立ち会ってもらえる人々に対しても同様だが、他者に「わかってもらえた」ということが、一体何を意味しているのか、ぼくにはよくわからないのだから。もし何か言えるとすれば、この作品を手がけていた少なからぬ期間、ぼくは中沢さんとL=ストロースの本を詩として読みかじり、ほとんど毎日中沢さんと想像上の対話を続けながら、世界の理不尽な出来事との関係を考え続けたということである。

2006年4月、三輪眞弘


弦楽六重奏のための「369 Harmonia II」リハーサル(いずみシンフォニエッタ大阪アンサンブル)