対談 三輪眞弘×水野勝仁「コンピュータがもたらした世界」

08. 逆シミュレーション音楽における「オリジナル」の概念

水野 ここで話をまたちょっと音楽の方にずらしてみたいと思います。アートでは、オリジナルとかコピーっていうのが「複製芸術」って言われているんですけれども、三輪さんの今やられている逆シミュレーション音楽のなかで、オリジナルとかコピーという複製芸術と共に出てきた概念というのは適用できるのでしょうか。
三輪 えっと、それは録音や録画されたものという意味ではなく?
水野 作品としてですね。
三輪 オリジナルはたぶんあるんだろうと思います。つまり、《またりさま》なら《またりさま》のあの論理的なシステムがあって、8人でやって、鈴とカスタネットを使いましょうというような。よく言うんですけれども、その論理システムを考える事というのは作曲にとってはどうでもいいことだと一応言うんですね、わざと。ただし、そういう論理システムがないわけにはいかないわけで、絶対になきゃいけないわけですが、それがいかに巧くできているかという話ではなくて、それをいかに目に見えて耳に聞こえるものにするか、それが作家のセンスであり才能、感性っていうものなんだと考えています。そういう意味で、例えば論理演算だけを別のパターンを誰かが作ったとして、それは僕のコピーじゃないかとか言うことはたぶんないと思います。逆にいえばこれからの音楽は論理演算に基づくパフォーマンスしか音楽とは呼べないだろう、ぐらいに強気で言っているわけですから(笑)。12音技法で作られた作品は全部シェーンベルクの作品のバリエーションかと言ったら、誰もそうは言わないわけですね。それと同じような意味において、論理演算とか逆シミュレーション音楽の定義にあるようなものに基づいた作品が、僕以外の人から生まれてきたら、それは僕は大歓迎で嬉しいし、それを自分のバリエーションだとは思わないし、そのアイデアっていうものが自分の特許のようには全く考えてはいません。
水野 アイデアそのものがオリジナルでもあり、みんなやってほしい、というか方法として伝播していけばいいというわけですね。逆シミュレーション音楽は「規則の生成」と「解釈」と「命名」3つに分かれていますよね。一通り三輪さん自身がこの3つを全て作られているわけですね。たとえば、誰かが「あ、ここに三輪眞弘という良い論理を作った人がいる」と、でも「この物語が気に入らないな」ということで解釈みたいなものも含めて、じゃあその物語を書き換えて誰かが発表したとするときには、それは三輪さんのなかでどういう扱いになるのでしょうか。
三輪 それはすごく明確で、まず第一にあらゆる芸術作品というのは音楽に限らず、定義にある3つのステップというのがあると思うんですね。いわゆる規則の世界があり、それをいかにリアライズするか、という世界がある。そしてそれにまつわる物語がある。これは全ての芸術作品に共通していると思います。それを今までは大概の場合は一人の作家が全部引き受けてきた。別にこれは分担しても違う仕事で異質のレベルなんだから、違う人がやってもいいんだと僕は基本的に思います。ですからリアライズの部分や物語のところが、全く違うものになったら、それはそれで別の作品としてあって良いし、たぶんもうちょっと付け加えると、物語があるっていうのは単に、物語があるだけじゃなくて、この物語だったら例えば鈴とカスタネットを叩くときに、こうは叩かないだろうとか、そういう感性的なものに対するフィードバックを期待してるんですね。つまり、この物語でこれはないでしょうというものがあって。それは微妙な人間の感覚的な判断なので。またはこの規則だからこういう物語が生まれたというのもあるんだけど。その3つがやっぱり有機的につながるっていうのが、作品かなと思っています。
水野 物語を新しく書いてくれたとしても、それがつながっていれば、というかつながらざるを得ないという。出てきたものはつながってしまう。その論理があってそれに決まった物語はない、ということになりますか。
三輪 えっと、決まった物語はないですね。だから物語が全然違った物語だったら、たぶん鈴とカスタネットではおかしいとなるかもしれないし、作品としては当然そういうようなバランスとい複合的な判断になっています。
水野 いま三輪さんが他の人がやってくれたら嬉しいけども、と言われていたんですけれど、まだこの方式で三輪さん以外の音楽を作られている人はいないのでしょうか?
三輪 手順派のように、グループを作ってチャレンジしてくれた若者達もいて、それはそれは貴重な体験だったんですけれども。その後はあまりないと言うしかないですかね。

© IAMAS ARTIST FILE #01 MASAHIRO MIWA