対談 三輪眞弘×水野勝仁「コンピュータがもたらした世界」

09. 逆シミュレーション音楽の現在と展望

水野 その理由ってあるのでしょうか?逆シミュレーション音楽は多くの賞を受けていますが、そういったこととは関係なく実践では難しいのでしょうか?
三輪 それもあると思いますけれども、たぶんそういうシーンみたいなものは、どこにも入らないというのか。僕自身は西洋音楽の作曲なので、作曲をやっているし《またりさま》という作品は西洋音楽の歴史に対してのひとつの自分なりの答えとしてやるわけですけども。日本の現代音楽シーンの人は、まったくそういうことは考えてはくれません。「三輪はわけ分かんないメディアアートの世界でやってる、自分とは関係ありません」と。こっちは一生懸命気にしているのに、全然気にされないわけですよ。それで、初めてそれをオーケストラ版にして演奏されてやっとそのシーンの中にいる人と認知されるような。そういう進み方ですから。こういう試みみたいなものを、もちろん勝手にやる若者たちが増えていくしかないんだと思うけれど、少なくとも自動的にそういう人たちの受け皿が用意されているという訳ではないということです。
水野 受け皿自体から作っていかないといけないわけですね。それを教育という方法で実践されている。
三輪 いや、あるいは、YouTubeとか見ると、ものさしをピンピン弾いて旋律をやるとか、超絶技巧のいろんなYouTubeの動画がアップロードされてますよね。なんかああいうようなカタチで、いやこれ普通この速さでできないよねみたいなものが、日本全国規模とか世界規模になったらこんなとこまでいく人がいるんだみたいな、そういう現代的な期待感みたいなものがあって、そういうものに。
水野 ネットを介して。
三輪 はい。
水野 もし、拡がっていったとすると、音楽シーンも全体的に西洋音楽と相対化されるというか、変わっていくのではないかということなんでしょうか?
三輪 そこから先は難しい話になりますよね。だから、この美術館という場所もそうだけれども、例えば僕の専門の音楽でも、いわゆる僕は西洋音楽を勉強したわけで、作曲を勉強して、日本にはもちろん伝統的な音楽があるわけですよね。その2つが少なくとも20世紀の間はあまり良い関係ではなかったというか、お互い知らんぷりしてる関係というか。そういう関係で、普通の人にとってみれば伝統音楽の世界も、ずいぶん閉鎖的でよそよそいしい世界かもしれないけれども、じゃあ現代音楽は自分に身近なものかと言ったら、それもまたよそよそしい。どっちもよそよそしい。つまり音楽というもの、または美術というものも同じ事だと思いますけれども、普通の人にとってそれは自分との関わりのないようなところで行われ、進行していっているという状況があって。なんかそれはどう考えても不自然なことのように僕には見えるし。《またりさま》とかこういうパフォーマンス作品とか、そういうところでゼロから考えていくような、つまり伝統みたいなものもあるし、もう一方では十二平均律に訓練された耳を持っている人がたくさんいる、みたいなところもあるし。そういうものとのミックスというか、なんか接続できないかという期待みたいなもの、野望みたいなものがあるんですね。
水野 この逆シミュレーション音楽で大きな賞を、2007年に獲られていますが、そこから6年経って、いま三輪さんがやられているというのはそういう接続、西洋音楽や十二平均律といったものと逆シミュレーション音楽を結びつけようとしている実践を、今なさっているのですか。
三輪 少なからずそういうことは考えています。つまり、また現代音楽シーンの話になりますけれど、本当に優れた演奏家は作曲家が楽曲を書いてくれるのを待っているんですね。たぶん作曲家の方はそれに応えられていないんだと思うんです。応えられない事情というのが、応えられない難しさのみたいなものを、身に沁みて感じてますから、そうなんですけれども。最初言ったように、とても難しい事を書いてもいくらでも練習してやってもらえるけれど、それは本当に新しいチャレンジなのかと言ったらそうでもない。というようなジレンマのなかで、どうやっていくか。たぶん一度《またりさま》みたいな、西洋のコンサートホールやそういうようなシーンから離れたところでやってみて、それをまたフィードバックしていくような、流れっていうものは自分のなかで考えられないだろうかっていうのは、強く感じています。

© IAMAS ARTIST FILE #01 MASAHIRO MIWA