IAMAS

綜合学A(現代美学特論)

現代アートやメディアアートとも密接な関わりを持つ「ポピュラーカルチャーとは何か?」という問題を考えます。
ポピュラー・カルチャーとは、娯楽を目的とした文化商品とみなされがちであるかもしれません。けれども注意深く検討してみると、そこには人間や社会について考える様々な手がかりを見出すことができます。アニメ、マンガ、ゲームなどについて、どのように理論的に語ることができるのか、それらを批評したり研究するとはどういうことなのか、それらは私たちの文化のどのような変容を指し示しているのか、といった問題を考察します。

講義形態

3人の担当者によるリレー講義とします。吉岡が代表者として最初の講義時に説明しますが、より具体的な進め方については各担当者の指示にしたがってください。

講義計画・項目

1「ポピュラー・カルチャーと無意識」
6/5(吉岡)

本講義の統一テーマである「ポピュラー・カルチャー」をどのようにとらえるべきか、それは他の文化から何によって区別されるのか、文化を「ポビュラー」たらしめるものは何かといった問題について、概観的な説明を試みます。
そのためにまず、私たちが知らず知らずに内面化している近代的な芸術観、「ハイ・カルチャー」という規範について考えます。次に、そうした高級文化ではすくい取ることのできない、20世紀以降の大衆社会・メディア社会における「無意識」という問題を考えます。精神分析と社会批判との関係を概説し、時間の許す限り、実際に私たちが親しんでいるポピュラーカルチャーの具体的事例が、どのような意味で「無意識」と関わりあっているのかについて考えます。

2「ポピュラー・カルチャーとメディア・テクノロジー」
6/20、7/11(室井)

現代「ポピュラー・カルチャー」と呼ばれているものは、前近代における民衆文化とは決定的に異なり、それはメディアとテクノロジーの進歩を度外視してはそもそも考えることができません。「ポピュラー・カルチャー」においては、ある領域ではテクノロジーが前景化され別の領域では意識化されることはありませんが、そうした表層的な現象を越えて、テクノロジーがポピュラー・カルチャーの「存在可能性の条件」となっていることは誰も否定できないでしょう。その意味で、ポピュラー・カルチャーについて問うことは、テクノロジーについて問うこと、とりわけコンピュータの普及以降のメディア・テクノロジーについて問うとこにほかなりません。
さて、コンピュータ以降のメディア・テクノロジーは、ぼくたちの世界観や身体になにか新しいものをもたらしたのでしょうか? 写真以降のテクノロジーに関するさまざまな議論を振り返ると同時に、新しいメディアにさらされている自分たちの具体的な経験をもとにして考えていきます。テクノロジーと技術の問題を対立や併存ではなく、もともと同じ活動性から始まったものとして捉え直し、グローバル・マーケットと経済活動に組み込まれてしまったジャンルとしてのメディアアートではない新しい「技芸」の可能性について、議論をしながら考えていきたいと思います。そうした議論を通過した上で、ふたたび「ポピュラー・カルチャー」をどのようにとらえればよいのかという問いに立ち戻ってみたいと思います。

3「ポピュラー・カルチャーの美学は可能か? 」
6/13、7/6(秋庭)

美学とはそもそも近代の学問であり、市民社会以降の「芸術」の役割やその制度性と不可分なものとして発達してきました。つまり美学とはその成立上、「モダン」な思考なのです。それではポストモダン、あるいはそれ以降の状況において、美学はどのような役割を果たすことができるのでしょうか。
とりわけ、近代芸術とはその到達範囲も社会的機能も大きく異なる「ポピュラー・カルチャー」を前にしたとき、美学にはいかなる課題が与えられているのか、「ポピュラー・カルチャー」について考えそれを分析するためには、美学はどのように自己を変容させる必要があるのか、そもそも、ポピュラー・カルチャーに美学は必要なのか? そうした原理的な問題について考えるために、近代美学の祖のひとりとされているカントの『判断力批判』とその歴史的受容を再検討します。カントの思想は近代の始まりであると同時に古いヨーロッパの形而上学の際にきわめて重要だからです。

4「ポピュラー・カルチャーとは何か? 」
7/20(秋庭・室井・吉岡)

最後の回では3人の講師が集まり、これまでの講義内容を踏まえて、学生と徹底的な議論を行う予定です。

教科書・参考書等

授業中に指示または配布します。