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インタラクティブ・アートへのご招待

坂根 厳夫


 ようこそ、インタラクティブ・アートの世界へ!
 こんなインタラクティブ・アートは初めてという人は、何はともあれ、作品のなかに入り込んで、手を触れ、からだを使って、作品との対話を楽しんでみてください。
 すでに一昨年の「インタラクション'95」 の会場にいらっしゃって、からだで音楽を作ったり、絵に描いた人工生物が水中に泳ぎだしたり、美女と対話したりできる珍しい作品の数々を体験した方たちは、今回の展覧会のなかで、さらに新しいインタラクティブ・アートの出現に驚かれることでしょう(1)

 まず今回の展覧会で気づかれることは、インタラクティブ・アートの対象やテーマが、さらに広がり、宇宙的な世界にまで視野を広げて対話できるものから、人間のより細やかな五感への反応に訴え、ときには皮膚感覚で参加できるものまでが出てきたことです。さらに作品のなかに、時間・空間の相対性や、イメージと言葉の連想作用までを持ち込んで、文学的、暗喩的な意味の読解までを誘いかける、思索的なアート作品も出現してきました。

 世界には、この他にまだまだ多くの新しいインタラクティブ・アートが生まれ始めています。いままでのパフォーマンスや音楽や、環境彫刻やパブリック・アートなどの芸術のジャンルを横断して、映像や、音や、テキストや、空間装置と人体との相互作用までを包み込んだアートの新ジャンルで、まさにマルチメディアの名前にふさわしく、総合的な全身体験を触発するアートといってもいいでしょう。

 いったい、こんなインタラクティブ・アートは、いままでの人類の長いアートの歴史のなかで、どんな経緯から生まれ、これから先どう発展していくのか。人間の創造行為としての文化のなかで、それはどんな意味を持っているのか。前回のインタラクティブ・アート展の回顧も含めながら、考えてみましょう。

インタラクティブ・アートの歴史と系譜

 インタラクティブ・アートとは、狭義にはコンピュータの出現によって可能になった新しい観客参加型の作品で、歴史的には70年代末から80年代初めにかけてクローズアップしてきたアートです。コンピュータの高速な演算処理機能をベースに、人間のからだや手足の動きと、作品のイメージや音や動きとを結びつけるインターフェイスをなかだちにすることで生まれてきた対話型の作品のことで、60年代末からアーティストやメディア技術者のなかから、実験的につくり始められてきたものです。

 しかし、もともと芸術の創造行為そのものを振り返ると、作家が対象の作品と一種の対話をしながら生みだしてきたわけだし、出来上がった作品を鑑賞する際にも、観客が作品の意味や情感を自分の想像力を働かせて味わってきたわけで、これもまた広い意味では対話 (インタラクション) を前提にして成り立っています。つまり、広義にはすべてのアートはインタラクティブ・アートといってもいいのです。じっさい、古い中世の絵画には、観客がその意味を解読するために積極的に働きかけて始めて意味が伝わる、だまし絵やかくし絵を、作家が観客を意識しながら、ときには自分の興味からつくり出してきました。今世紀になってからも、マグリットやエッシャーの作品は、見る側に一種の謎解きの興味をそそり、盛んな内面の対話を誘ってきたもので、暗喩を含んだ現代のコンセプチュアルアートと同様に、これらも広義のインタラクティブ・アートといっていいでしょう。

 ニューヨーク在住のメディア・アート評論家、レジナ・コーンウェル女史は、広義のインタラクティブ・アートは、2 、30年代のマルセル・デュシャンの作品や、5、60年代のハプニング・アートにまでさかのぼることができるといっています。むしろ、50年代から、伝統的な芸術の権威主義に対抗して起こってきたさまざまな新しい芸術運動のなかから、この、見る側に主体性を求めるインタラクティブ・アートが生まれてきたという面も無視できません。60年代に、マクルーハニズムが盛んになって、メディアの新しい力を人々が認めはじめ、人間が五感を通じて世界を自分で再発見する参加性への願望が生まれてきたことと、これは期を同じくしています。従来のガラスの陳列ケースのなかで、歴史的な作品をただ見せるだけだった科学博物館や美術館の展示方式にも、革命的な参加性の概念が導入され、もっと自由に、見る側を主体にして世界を再発見しようという価値観が登場してきた当時の風潮も、このインタラクティブ・アートの登場に棹さしたといえるかも知れません。

インタラクティブ・アートのもつゲーム性

 インタラクティブ・アートが、観客の自由な参加によって、始めて意味が成立する作品となったために、作品の価値や作家の権威をめぐる問題も起こってきました。かつての古典芸術のカリスマ性が失われがちで、作品そのものがゲームのように楽しく、作家の存在が裏方に隠れて、目立たなくなってきたことです。インタラクティブ・アートとゲームのあいだには幾つかの共通性も見られます。

 たとえば、80年代以降に盛んになってきた、コンピュータやインターフェイスを媒介にした狭義のインタラクティブ・アートは、むしろ、直接的にはコンピュータの誕生によって可能になった新しいメディア技術の落とし子といっていいかも知れません。さきのコーンウェル女史は、むしろ、そのもとをたどると、60年代に軍部の積極的な援助でコンピュータの開発が進み、ハッカーたちがそんな環境を背景に、自由な好奇心から生みだしたタイム・シェアリングやパソコンの技術にまでさかのぼれると見ています。つまり、ハッカーたちが開発したテレビ・ゲームと、その広い参加性の拡張から生まれたインタラクティブ・アートとは、同根であり、一種の兄弟だというのです。ただコーンウェル女史によると、確かにその祖先は同じであっても、現在の商業主義的なテレビ・ゲームと、より自由な意識の解放から生まれたインタラクティブ・アートとは、その目標や価値の上では明らかに違うものだといっています。最近のテレビ・ゲームが、軍事目的からの直接的な落とし子的な性格を受け継いで育ち、目標に対して攻撃的で、ただ略奪や勝利や成功の目的だけに向かって進みがちであるのに対して、インタラクティブ・アートは、観客の心をより自由に解放し、参加者次第で無数の違った鑑賞の仕方を可能にする点で、大きな違いがあるとみています。むしろ、インタラクティブ・アートは、挑戦的なゲームというより、自己発見的な遊びとしてのゲームに近いのです。それはちょうど、こどもたちが、かつてMIT のシーモア・パパート教授が開発したLOGOという言語を使って、自分の力だけで一種の発見の喜びに支えられながら、自由にコンピュータを学んでいくときの遊びの精神に満ちた創造的な精神活動に近いもので、これは、これからの教育のあり方の理想にも近いとコーンウエル女史は主張しているほどです(2)

 確かに、今回の展示作品のなかにも、ゲームにも似た楽しさを与える作品が少なくありません。IAMAS の客員芸術家岩井俊雄が、昨年暮れにアメリカの会社から出版した『SimTunes 』は、確かにCD-ROMによる一種のゲームですが、これは従来のシューティング・ゲームなどとはまったく違い、参加者の個性によって無数の新しい音楽を生みだせる創造的なツールであり、むしろインタラクティブ・アートに近いといってもいいでしょう。

インタラクティブ・アートの進化

 狭義のインタラクティブ・アートは、こんなふうに、多かれ少なかれコンピュータ技術やインターフェイスの技術によって支えられていますが、その背景にデジタル技術の進化があることを見逃せません。デジタルなデータベースを使うために、同じ作品を表現のメディアを変えて生かすことができ、プログラムを変えることで、次々に新しく進化させていくこともできます。前回の「インタラクション'95 」に出品されたカナダのリュック・クールシェヌのインスタレーション作品『ポートレート・ワン』が、ほとんど同じデータを使って、CD-ROMにもなって展示されていたのはその例です。

 なかでも、現代のインタラクティブ・アートのパイオニアの一人であるジェフリー・ショウの作品には、その進化の軌跡がはっきりと伺えます。じつは1989年に、神奈川県が主催して、川崎市のかながわサイエンスパークで「インタラクティブ・アートへの招待展」を開いたとき、ジェフリーは、『アリスの部屋』という新作を発表しました(3)。このときに展覧会のキュレーターをしていたのも私ですが、ジェフリーと二人で作品のコンセプトを共有しながら協力し、中に入るとサイズが大きくなるアリスの部屋の一つに、詩人の谷川俊太郎氏に頼んで作ってもらった二行詩が使われています。大きな日本語の詩の文字が部屋の二方向の壁の間を横切っていく作品です。この詩文『喜びの杖のひとふりで現れる君だけの部屋/星雲の渦中に君の永遠の座標をさがせ 』は、じつはデジタルのデータベースであるために、その後何度も他の作品のなかで活用され、後の『バーチャル・ミュージアム』にもでてきます。89年に『アリスの部屋』で使われた回転テーブルの原理も、その後の『バーチャル・ミュージアム』の回転ステージや、今回の作品『場所 - そのマニュアル(Place-A User's Manual )』にまで、さらに進化して使われています。

 89年のときに、『マン・マシンTV NO.1 ~8 』を出品した岩井俊雄も、当時の作品を少しずつ進化させて新しい作品に挑戦し、いまではこの分野で最先端の活躍をしている作家の一人です。

 クリスタ・ソムラーたちの作品『フォトトロピーII(Phototropy II)』も、2 年前に名古屋のARTEC で展示した『フォトトロピー(Phototropy )』の進化したものです。彼らはすでに前回のインタラクション'95 で、『進化する人工生物(A-VOLVE)』 という、人工生命の成長原理を使った作品を発表しましたが、同じ作品でも、展示のたびに、ソフトウエアを改良し、新しい機能をつけ加えて進化し、さらに使うコンピュータの速度や機種も進歩して、観客によるインタラクティビティ (参加性) そのものが進化しているのです。このように、インタラクティブ・アートは、観客と作家との間のインタラクションだけでなく、作家自身が創造の過程で絶えず再発見を繰り返し、新しい作品にまで成長していきます。ここにも、いったん完成したら、そのまま美術館に入って保存され、凍結されてしまう、いままでのアートとの大きな違いがあります。参加を通じて絶えず人間の創造性が触発されるという意味で、これはこれからの新しい教育方法の理念にも近いのです。

 単なる商業主義的な、売れるテレビ・ゲーム生産のためだけの人材教育でなく、人間の豊かな創造性を触発し、メディア文化を高めるための人材育成が、これから先はさらに重要になってくると思われますが、インタラクティブ・アートには、その未来の人々の意識を触発する可能性さえ期待されているのです。

今回の展覧会のコンセプトと展覧会の見方、味わい方

 今回の出品作品群には、メディア・アートの対象となる世界の広がりが現れています。その一つは、地球や惑星といった宇宙的なイメージとの対話を取り入れた作品群で、もう一つは、微妙な五感感覚、とくに触覚に訴えかける作品群があります。その中間には、時間・空間に寄せる意識や、仮想イメージと現実イメージの交錯から生まれる魔術的な作品、さらに生物の成長や環境問題をテーマにした作品など、そこには情報化時代の人々の意識の進化をさえ感じさせるバリエーションがあります。

[宇宙的なイメージを求めて]
 例えば ベルリンのART+COM の出品した『テラ・ビジョン(T-Vision)』は、大きなトラック・ボールを手のひらで回すと、目の前のスクリーン上で、地球が自在に回転し、それにズーミングして近づいたり、宇宙の彼方に押しやって眺めたりもできます。それだけでなく、地球上のさまざまな場所に接近して、建物の内部の奥にまで入り込めるものです。これはかつて映像作家のチャールズ・イームズが、1本のズームカメラの目で、原子の内部から宇宙の果てまでを連続的に描いた『パワーズ・オブ・テン』を、より多元的なズームの軸によって、進化させた現代版だともいえるでしょう。

 マイロン・クルーガーは、60年代末にいちはやくインタラクティブ・アートを始めたこの道のパイオニアですが、ここでは小さな惑星の周りで手を広げて高く低く飛翔できる、ゲーム感覚に満ちた作品を出品しています。2 か所に離れた場所から参加して、同じ惑星の周りを飛び回りながら仲間を見つける楽しみも味わえます。

[ 空間・時間との対話]
 一方、会場のなかでも目につくのは、ジェフリー・ショウの直径9メートルもある円形スクリーンの作品です。これは中央の回転するステージに乗って、液晶ビデオカメラの画面上の地図を参考にしながら、スクリーン上に展開する10個の丸いコロシアム型の世界に近づき、好きなところで内部にズームインして、その世界を円形スクリーンのなかに取り込むというふうに、次々にズームイン、ズームアウトを繰り返し、他の世界に旅してアリス的な体験ができるものです。また同時に、声をだすとそれに反応して画面に英語の文字が次々に現れてきますが、これがジェームズ・ジョイスの文章から引用した単語など、無数の詩句の一節になっています。いずれも人間の場所と関連のある文章で、そこには通常の旅とは違った、文学的な味を感じることもできるでしょう。

 同様に、ジム・キャンベルの作品も、空間と時間の関係をテーマにしています。ビデオカメラが写し取った現実の観客の姿を時々刻々と捉えながら、その現実時間を表示する時計とは少しずつ変化させて、奇妙な時空の感覚を味あわせるのです。
  カナダのヘンリー・ジーの作品『本を読む男(Regard)』は、観客が部屋に入ると、その位置や距離によって向こうの椅子に座っていた男性との間で無言の手振りによる会話が展開する、やはり空間性を生かした作品です。

[ 触覚のゲーム]
 宇宙的なイメージとの対話とは対照的に、この会場には五感、とくに触覚性を重視した作品群もあります。例えばモニカ・フライシュマンたちの作品『ナルシスの水鏡(Liquid Views )』。モニターの上に顔を寄せると、自分の顔が水の流れに映り、手を触れると水面が揺れて顔がひしゃげていきます。あのギリシャ神話のナルキッソスの伝説を連想させてくれる作品です。同様に、手のひらの触覚で参加する作品に、カナダのテクラ・シフォルストの『ボディマップ(Bodymaps: artifacts of touch)』もあります。畳一枚ほどの大きさのテーブルの上に張られた白いビロードの布が、プロジェクターによって水の流れと化し、そのなかにからだを横たえているのが、作者のテクラ自身です。観客は周りから手を伸ばして自由に触れることができ、触り方によって微妙に水中のからだの姿勢が、かすかな音を立てて変化します。その背後にコンピュータやセンサーが働いていることさえ忘れさせてくれる、想像力を刺激する作品です。

[ 虚像と実像の交錯]
 もうひとつ、会場の作品を虚像と実像の交錯という視点から見直すこともできます。 例えば、藤幡正樹の『ビヨンド ページ(Beyond Pages)』は、机の上に広げられた大きな映像の本のページに、タッチペンで触れると、絵のりんごが音を立ててかじられていき、ページをくるごとに、次第に小さくなっていくページや、電気のスイッチを押すと、机の上の本物の電気スタンドに明かりが灯るページも現れます。この虚実の交錯に立ち会う感覚は、遠い日の万博でみた、チェコのラテルナマジカの魔術的な驚きをほうふつとさせてくれます。

 クリスタとロランが作った『フォトトロピーII(Phototropy II)』は、闇のなかを懐中電灯の光で照らすと、浮かび上がる繭や卵のなかから、蝶やとんぼなどの昆虫が孵化し、成長して、空中に飛び立っていく作品で、生物の遺伝や成長をテーマに作品を作り続けてきた作家らしい新作です。

[ 芸術と遊びの接点] 
 インタラクティブ・アートは、じっと眺めているだけでは何も始まりません。観客がその場所に入り込み、装置に手を触れたり、ときには体を動かし、声を立てたりすることで、初めて作品が反応しはじめ、対話が始まります。しかもその反応のしかたは、観客がどうそれに呼びかけ、行動していくかで、さまざまに変化します。いわば、観客が主体になって誘導する一種のゲームでもあり、発見の喜びをともなう遊びでもあります。

 なかでもIAMASの最初の客員芸術家である岩井俊雄は、今回もインタラクション'95のパフォーマンスで実演した『映像装置としてのピアノ』と同様に、観客がイメージと音の融合によって生みだす新しい作品を発表しています。今回はピアノでなくヴァイオリンを使い、弓で弦をこする代わりに、指先で台の上のタッチセンサーをこすると、目の前のヴァイオリンの弦の上に重なるように、その上から美しい光芒のイメージが現れ、ヴァイオリンの音と連動して、刻々と表情を変え、イメージと音のハーモニーを生み出します。いわば、ここでは観客自身が演奏者になって、音とイメージの作品の創造にまで参加できるのです。

 昨年夏、ニューヨーク、ソーホーのグッゲンハイム美術館で開かれたMediascapeの展覧会では、彼の『映像装置としてのピアノ』が、ジェフリー・ショウやビル・ビオラ、ウーディ・バズルカたちの作品と一緒に展示されて好評でした。昨年12月には水戸芸術館で、音楽家坂本龍一氏と共演し、ステージの上に置いた自動ピアノ2台を結ぶ巨大なスクリーンの上に、坂本氏の弾くピアノからイメージの光芒が立ち上がって、空中をリズミカルに舞い、その光芒がもう1台のピアノの上に降ってきて再び音楽となるという、イメージと音楽の交錯パフォーマンスでした。岩井のこんな作品に一貫して流れているのは、自分自身が観客の一人として、それに参加し、自由な発見と創造の喜びをもたらすものの追求です。


 すでに見てきたように、会場のインタラクティブ・アートには、このように遊びの精神を誘い、参加する観客自身に豊かな自己発見を触発するものが少なくありません。それはもはや芸術というジャンルには止まらず、より広い人間存在のなかの遊びの本能や発見の喜びと結びつくもので、むしろカイヨワやホイジンガーの遊びの文化の文脈によって見直すべきものかもしれません。従来の芸術至上主義からは一歩距離を置き、人類のサバイバルの可能性と文化性との両立を探る視点もそこには感じられます。インタラクティブ・アートの視点から、やがて芸術の社会性や倫理性の問題にも発展し、そこから、人類のサバイバルのための芸術という問題意識にもつながってくる予感がするほどです。

 このように、現代のインタラクティブ・アートの持つ意味は、もはや単なるゲームやメディアの段階を超えて、人類がもっていた根源的な時間・空間・言語・表情・行動心理といった意味にまでつながっていきます。この問題意識は、日常の現実感覚とさまざまな思索の交錯する結節点にもつながり、同時に過去から連綿と続いている歴史的な感覚おも触発するものです。これからのインタラクティブ・アートは、常にその形態を変容させながら、時代を超えて、人間の根源的な問題意識のふるさととして、存続していくのに違いありません。


(1)
岐阜県企画部国際情報科学芸術アカデミー開設準備室刊
「インタラクション'95    :インターラクティブ・アートへの招待展」カタログ〕
(2)
Regina Cornwell, Interactive Art and the Video Game: Separating the Siblings", (CAMERAWORK, A Journal of Photographic Arts, Vol.20, No.1, Spring Summer 1993)
(3)
神奈川県アート& サイエンス国際展実行委員会刊 「不思議の国のサイエンスアート展図録」(1989.11.10,神奈川県文化室)