インタラクティブ・アートへのご招待
坂根 厳夫


はじめに
インタラクティブ・アートの歴史
現代芸術のなかのインタラクティブ・アートの位置づけ
現代のインタラクティブ・アートの系譜と発展
世界のメディア文化センターの活性化
インタラクティブ・アートのユニークな特性
今回のインタラクティブ・アート展の特徴
出品作品の紹介とみどころ


はじめに

 ようこそ、再びインタラクティブ・アートの世界へ!

 1995年以来、私たちが大垣市で開く3度目のビエンナーレ展だけに、この新しいメディア・アートの作品を心待ちにされていた方も少なくないでしょう。はじめはこの珍しい作品群に恐る恐る手を触れたり、手足を動かしたりして、音やイメージの変化に驚いた人も、やがて作品との対話の呼吸を飲み込むにつれ、ついのめり込んでしまった人も多いことでしょう。今回初めての人のなかにも、周りで始まるそんな参加のゲームにつられて、見よう見まねでやってみたくなる人も多いに違いありません。

 インタラクティブ・アートとは、文字通り、参加することで初めてその意味や、楽しさが伝わってくる作品です。じっとそばでたたずんでいるだけでは、何も起こりません。作者自身、あなたの積極的な参加を予想しながら、それに応えて次々に展開するプログラムを用意しています。ときにはあなた自身が、まるで主役になったかのように振る舞える作品も多く、作家はあなたの反応をちゃんと計算に入れて、協同で作品がうまく展開していくように、配慮をこめて作品を作っているのです。

 こんな対話型の作品のゲーム的な性格に、果たしてこれがアートだろうかと疑問に思う人もいるかもしれません。かつての芸術ジャンルの絵画や彫刻の展覧会のように、作品とじっと向き合って、孤独な内面の対話を交わすのにふさわしい静けさが欲しいと、若干、不満を抱く人もいるかもしれません。

 しかし、現代のインタラクティブ・アートが誕生してくる背景には、それなりの長い歴史があり、それは芸術だけでなく、人間の知的行為としての科学や技術の発展の過程とも密接に関係しながら生まれてきた、新しいジャンルの一つでもあるのです。

 それに、ひとくちでインタラクティブ・アートといっても、すでに世界にはさまざまな作品が生まれています。なかには暗喩的で一見分かりにくい作品から、象徴的で内省的なイメージの展開で訴える作品まで、意表をつく多彩な作品も現れています。

 ただ、今回は、いままでと多少趣向を変えて、現代のインタラクティブ・アートの傾向やこれからの可能性について、より多くの人に理解していただけるよう、意識的に、だれにでも親しみのもてる、分かりやすい作品をそろえました。なかには、観客と作品のあいだのインタラクションを成り立たせている裏方の技術までを暗示させ、そのアイデアや演出の工夫を読み取っていただけるような配慮もしました。そこから、次の世代の若いメディア・アーティストたちを少しでも触発して、この分野のこれからの可能性を考えていただけたらと思ったのです。まずはみなさんご自身で実際に会場を訪ねて、会場の作品群と虚心に思い思いの対話を始めてください。

インタラクティブ・アートの歴史

 すでに、前2回の展覧会でも、繰り返し述べてきたように、芸術の歴史のなかで作家自身が観客の積極的な参加を誘い、観客が一種のなぞ解きの快感を味わえるように仕組んだ広義のインタラクティブ・アートは、中世のころから世界各地に幾つも見つかります。だまし絵や隠し絵などは、その一例です。しかし、現代のインタラクティブ・アートは、その流れとは別で、60年代以降にコンピュータが実用化されてから、それを使って利用者が、自分で設定した目標達成までの戦略を自由に選べる一種のゲーム的なプログラム開発のなかに、その起源をたどることができます。やがて、そのコンピュータへの入力を、キーボードやマウスやタッチペンなどでなく、人間の触覚や身振りを感知するセンサーなどのインターフェイスによって仲立ちできるまでに進んできて、観客自身が直接からだを使って作品の世界に介入できる可能性が生まれ、そこから今日のインタラクティブ・アートが登場してきたといっていいでしょう。

 好奇心と、人一倍時代の精神や先端技術に敏感なアーティストたちが、この可能性を見逃すはずがありません。すでにコンピュータが発明された60年代の後半には、幾つかのインタラクティブ・アートのひな型も世界各地に生まれ始めていたほどです。

現代芸術のなかのインタラクティブ・アートの位置づけ

 現代芸術の視点から見ると、これは従来の芸術よりも、もっと広い人間の知の営みから生まれた別の創造行為と思えるかも知れません。確かに、その背後では、コンピュータ科学や、さまざまな技術の支援が重要な役割を果たしています。しかし、芸術と科学、芸術と技術の融合そのものが、今世紀始めからの人類の創造活動のなかで大きなテーマであったことを考えると、これもまた未来に向けてその存在を主張しはじめた新しい芸術活動の一つだといってもいいでしょう。それどころか、いままでの芸術自体が、長い歴史の過程で権威主義に走るあまり、見る側の主体的な参加や解釈を忘れがちであったことに対する一種の抵抗にも通じるものがあります。ニューヨーク在住の美術評論家、レジナ・コーンウェル女史も、芸術の歴史のなかの、そんな権威主義的な芸術への抵抗運動のなかに、今日のインタラクティブ・アートの精神に通じるものがあったと主張しています。今世紀始めのマルセル・デュシャンたちの新しい芸術運動や50年代のハプニングも、いまから見ると一種のインタラクティブ・アートの先駆的な存在だったというのです。そういえば、同様な参加性への意識は芸術の分野だけでなく、科学教育のなかでも60年代後半から盛んになってきていました。歴史的な記念物を、一方的な価値観から大衆に展示する従来の美術館や科学博物館の展示方式に代わって、むしろ観客の視点を主体において、その展示物の意味や、自然現象の意味を再発見しようという気持ちに応えた新しい参加型のミュージアムが世界的に増えてきたことにも、それは現れています。いずれにしても、芸術と科学という二つの領域が今世紀半ばから互いに影響しあって、このインタラクティブ・アートを生み出したという歴史的背景を、あらためて考えてみる必要があるように思います。

現代のインタラクティブ・アートの系譜と発展

 そんな歴史を背景に、70年末から80年代中頃までさまざまなインタラクティブ・アートのパイオニアたちが各地に現れて、新しい作品を発表しはじめました。例えば、数学者でアーティストでもあったアメリカのマイロン・クルーガーもその一人で、60年代末には、床の上の迷路が観客の動きによって変化するインタラクティブ作品を発表、現代に至るまで多彩な作品を発表してきています。70年代後半からは、MIT の高等視覚研究所(CAVS)やメディア・ラボの前身であるアーキテクチャー・マシーン・グループの学生や研究生のなかから、ユニークなインターフェイスのアイデアが生まれて、このインタラクティブ・アートの進出を側面から促進してきました。学生時代に『アスペン・ムービー・マップ』の開発に参加したマイケル・ネイマークや、スコット・フィッシャーは、そんなインタラクティブ・アートのパイオニア達です。スコットはその他に、ダンスに合わせてスクリーン上にイメージが自動生成する作品を開発し、後にNASAの仮想環境ワークステーションを創設して世界的に知られるようにもなりました。そして80年代後半からは、従来の芸術のさまざまなジャンルの作家たちも次々にこの世界に入ってきて、より芸術性の高いインタラクティブ・アートの作品が生まれてくるのです。

 いま、ドイツのカールスルーエにあるZKM (芸術・メディア技術センター)の視覚芸術研究所長を務めるジェフリー・ショーは、いちはやく、暗喩性とシンボリズムに満ちた芸術性の高い作品を次々に発表して、世界的に評価された第一人者です。いままで絵画や彫刻、音楽、写真、デザイン、ダンス、ビデオ作品などを作っていた作家たちも、次第にインタラクティブ・アートの世界に入ってきて、コンピュータ・グラフィックスの学会であるSIGGRAPHや芸術と技術の総合的なイベントとして知られるオーストリア・リンツのARS ELECTRONICA といった世界の登竜門に作品を提出し、世界的な評価を確立した作家も増えてきています。90年代にはこうした作家たちが、世界各地で展覧会を開いて、インタラクティブ・アートの全盛期を迎えたのです。

世界のメディア文化センターの活性化

 そんな新しいメディア・アートの動向を背景に、欧米では、新しい作品の創造や展示の舞台となるメディア文化センターを作る動きも増えてきました。前述のように、70年代末にオーストリアのリンツ市で始まったイベント、アルス・エレクトロニカは、その後90年代に入って、4つのコンテスト部門の一つにインタラクティブ・アート部門を設け、1996年9月には、新しいビルのアルス・エレクトロニカ・センターも発足しました。同様に、80年代末から創作活動を始めてきたZKM も、翌年1997年10月には、大規模なメディア文化センターとして正式に発足。日本では東京・西新宿で、同じ流れに呼応して、NTT のICC ミュージアムが一足先に同年4月に発足しています。また、1967年に技術と芸術の融合を目指したセンターとしてMIT のなかに発足したCAVS (Center for Advanced Visual Studies) も、メディア時代の潮流に乗り切れずに、90年代始めには活動がほとんど停滞状態になっていましたが、昨年からメディア・ラボのスティーブ・ベントン教授がこのCAVSの再建に乗り出し、新しいメディア時代の芸術センターとして生まれ変わろうとしています。

 じつは私たちの学校IAMASも、こんな70年代からの世界のメディア文化の跡を追いながら、世界中の作家やセンターと連携をとって現在の学校の基礎を作ってきました。世界的な作家を招く客員芸術家制度も設け、今回のようなインタラクティブ・アート展を中心としたメディア文化フォーラムのビエンナーレを開催してきたのも、そんな世界の文化の潮流と未来の展望を重視してきたためです。

インタラクティブ・アートのユニークな特性

 インタラクティブ・アートの特徴は、こんな風に、一つの作品だけを取り上げても、作家や観客の参加の姿勢によって、次第に進化していけるところにあります。これは従来の芸術作品に比べて大きな相違点です。かつての芸術作品が、作家が制作を終えた時点で価値を凍結してしまい、その後はただ保存や投機の対象となってしまいがちであるのに対して、インタラクティブ作品の場合、作家自身、あるいは協同制作者がそのプログラムのバージョン・アップやインターフェイスのデザインを改良していくことで、新しい作品に生まれ変わると同時に、観客の参加によって内容をより深め、メッセージを蓄積し、生きもののように成長していける特性をもっているのです。それはちょうど人間が丹精こめて育て上げる造園や歴史的な都市などと同様に、時代の精神を吸収しながら育っていく生きものにも似ています。作家が最初に作ったオリジナルな価値と同様に、その成長のプロセスに期待することが多いのも、この創造分野の特徴だといっていいでしょう。

今回のインタラクティブ・アート展の特徴

 ただ、過去2回のインタラクション展を体験された方のなかには、今回の展覧会を見て、どこか雰囲気が違うことにお気付きになった方もいらっしゃるでしょう。

 前回に比べて、作品のスケールが若干小さくなり、親しみやすい展示形式が増えたと感じられたかたも多いと思います。ひとつは出品作家の顔触れが、すっかり若返ったことがあります。もちろん、IAMASの客員芸術家のクリスタ・ソムラーやロラン・ミニョノー、それにタマシュ・ヴァリツキーのように、世界のメディア・アートのコンテストで何度も受賞したベテランの作家もいます。また、80年代始めからビデオ・インスタレーション作品で国際的に活動してきたイタリアのグループ、スタジオ・アッズーロも、今回は大がかりな作品を出品しています。しかし、全体を見渡すと、出品者の過半数を大学院の学生や教師、それに研究者が占めていて、学生の大多数は20代の若さです。しかも、彼らの作品は一見スケールは小さくても、観客を作品との対話に誘うインターフェイスの工夫に、なかなかユニークで魅力的なアイデアが見られるのが特徴です。コンセプトや内容自体に重厚なメッセージや暗喩性を込めようという姿勢よりも、まずそのアットホームなインターフェイス・デザインの楽しさに力を入れているのを感じます。会場全体のなかで、とくにイメージの重厚なメッセージで特筆できるのは、スタジオ・アッズーロの作品で、これは15世紀のイタリアのパオロ・ウッチェッロの絵画から触発されたコンセプトを下敷きにしています。どちらかといえば、いままでの現代美術やビデオ映像作家の姿勢に近く、作品のコンセプトや文化的背景を知ることで、作品の真意がより見えてくる暗喩性に富んだ作品です。

 こんな風に、今回の展示作品には、インターフェイスのデザインへの関心に傾斜した作品から、コンセプトやコンテンツへのこだわりで見せる作品まで、創作手法にかなりの幅が感じられます。さらに、観客自身がどれほど作品の主役として、最終的な作品のイメージに参加できるかという点でも、作品によって若干の違いがあります。『セルフポートレート』などは、観客自身のイメージを主役にしようとしている点で、観客自身の対話の楽しみを意識した作品です。一方、スタジオ・アッズーロの作品の場合には、観客の声や拍手に反応する隠しマイクというインターフェイスは使っていますが、その観客の音はレーザー・ディスクに記録されたビデオ・イメージのひき金として使われ、観客自身がイメージづくりに参加できるわけではありません。むしろ、いままでの長いビデオ・インスタレーション作品の制作活動のなかで積み上げた、すぐれたイメージづくりや演出の実績を生かして、ビデオそのものの重厚な味で観客の心を捕らえようとしているのです。こんな風に、インターフェイス・デザインのユニークさで見せるか、それを仲立ちに誘導する作品内容の芸術性で見せるかの違いは、これからのインタラクティブ・アートの方向の広がりを予感させてくれます。その違いは、それぞれの作家の創作の姿勢や経験や文化的背景の違いなどからも来るもので、それが作品の個性ともなっているのです。こんな多様な可能性を知れば、一口でインタラクティブ・アートと総括することなどできないことも分かってきます。そのインターフェイス技術やデザインのユニークさ、内容としてのメッセージの多様性を理解しながら、これからの発展の可能性を見守っていく必要があるように思います。しかも、これらのインターフェイスの技術は、芸術の領域を超えて、社会的な応用分野への波及効果をもたらす可能性にも満ちています。芸術的表現のためだけでなく、これからの人間的な生活環境のなかで役立つインターフェイス・デザインにも貢献する可能性があるのです。今回の、展覧会の出品作品を狭い意味での芸術的評価だけに限定しないで、より広い文化的・社会的視点からも見ていただければと思います。

 今回の若い出品作家が、少数の教育機関や研究機関に集中していることも、もうひとつの特徴です。例えばMIT のメディア・ラボ、NYU のITP 、それにパロアルトのインターバル・リサーチ研究所のメンバーなど。じつはこれも偶然というより、意識的な配慮からでした。前述のように、MIT のメディア・ラボは70年代中頃から今までインターフェイス技術開発の触発的な役割を果たしてきた学校。ITP は20年前に、ニューヨーク大学のティッシュ・スクール・オブ・ジ・アートに誕生したメディア・デザインの大学院で、そのインタフェース・デザインの教育は定評があります。一方、インターバル・リサーチ研究所は、すぐれたメディア・アーティストを研究者にかかえ、ユニークなインターフェイス・デザインの実用的な開発に力を入れているところ。しかも、この三つの機関の間には密接な関係があり、相互に研究員やインターン制度の交流も進めています。ロンドンのRCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート) のコンピュータ関連デザインと称するコースも、このインターフェイス・デザインの研究では有名で、ここも、インターバル・リサーチ研究所と芸術家・研究員の交流を進めています。これからのインタラクティブ・アートやインターフェイス・デザインの創造的開発には、世界中の研究・教育機関のネットワークによる協力が必要になることは明らかで、そんな未来への開発環境や教育環境のありかたを考えるためにも、この展覧会がひとつの足場になればと思ったのです。日本のこれからのメディア文化を考えるためにも、今回の作家たちとの語り合いや連携が、新しい問題提起を触発する契機になればと思います。

出品作品の紹介とみどころ

 カタログには各作家による個々の作品の解説が載っていますが、ここでは、全体を展望して感じる各作品のみどころを紹介してみます。まず今回は、どこかでコンピュータを使いながら、観客参加の場面では、できるだけ身近な人々の日常的な生活感情や、遊び感覚、歴史的な郷愁にまでつながる作品が多いのに気がつかれるでしょう。これも現代の成熟しつつあるメディア・アートの状況を象徴するものかも知れません。以下、出品作品のなかでコンセプトの似た傾向の作品群をまとめてみました。

[郷愁と追憶を求めて]

 私たちの追憶や郷愁につながる意識に関わる作品がいくつも並んでいます。まず会場に入ってすぐの右手に大きく広がる囲われた部屋のなかで展開するクリスタ・ソムラーやロラン・ミニョノーの作品『霧の特急列車』。これは、まるで新幹線の列車内部のようなつくりで、観客が向かい合って座る3 対の座席とその間の窓で構成されています。座席に座って窓外を見ると、深い霧ごしに懐かしい町や風景が過ぎ去ってゆき、旅の追憶をかき立ててくれるようです。しかも、窓に触れるとそのイメージは幻想的に変容していきます。じつはこの解説を書いている段階では、そのイメージやインターフェイス自体はまだ完成途上。私自身想像力を逞しくして、そのファンタジーを思い描いています。
 タマシュ・ヴァリツキーの『フォーカス』も、同様な、追憶のテーマにつながる作品です。彼がカールスルーエのZKM に滞在していた6年間に撮りためた懐かしい交友の人々の顔写真を、記念写真のように合成して展示していますが、これまた霧のなかのように焦点がぼやけた写真です。しかし、観客が目の前のタッチパネルに手を触れた途端、その部分に焦点が合い、しかもカメラの焦点深度を調節するレンズのリングのように、深度を変化させる移動スケールをゆっくり動かしていくと、ピントの合う範囲が次第に広がっていきます。この新しいインターフェイスは、タマシュが客員芸術家としてIAMASに着任して以来、新しく開発したデザインで、その触覚的な(レバーの)感覚がこんな写真イメージへの郷愁をいっそう親しみのあるものにしてくれるでしょう。写真の群像の幾つかも新しく追加して、昨年9月にアルス・エレクトロニカの展覧会で発表した時から、一段と進化した作品になっています。
 MIT のメディア・ラボの若い大学院生二人である、デビッド・スモールとトム・ホワイトが制作した『意識の流れ』も、どこかで人間の文字がもつイマジネーションへの記憶を触発する作品です。会場に一見場違いなように組まれた石組の池の水に、上部から水に浮かんで流れてくる木の葉のような言葉のかずかず……。それとなく単語を拾って読むと、ことばからの連想が起こって、さまざまな意味の記憶が意識のなかを循環していきます。そばの柔らかいパッドで覆われた触覚のインターフェイスに触れると、光のカーソルが水中に現れ、光に触れさせると、文字が木の葉のように回転して、次々に似たような意味をもつ新しい単語へと変容していきます。文字のもつ意味の記憶から、人は自らの体験を回想し未来に思いを馳せる存在。そんなことばの心理的効果を巧みに取り入れた新鮮な作品です。
 同様に、なかでも日本人にとって郷愁を誘うイメージは、会場に置かれた愛らしい器のなかに何百本と束ねた線香が林立する不思議な作品、イレーヌ・ブレチンの『風にそよぐ草』でしょう。線香の先端には火を思わす小さな電球の光がまたたいて、口で息を吹きつけると、その火が手前から向こうへと流れていき、お盆の季節に祖先の霊を呼ぶ気持ちをさえ誘います。器の下に生える草も、揺れ動く器とともに風になびき、思わず、ひとときの自然との対話に浸れるようなさわやかな作品です。

[光とかげのゲーム]

 コンピュータの機能には、もともとプログラミングによって実体そっくりのイメージを生み出すシミュレーション作用があり、それを生かした仮想現実の分野も広がっていますが、そんな特徴を利用した作品もここには幾つかあります。なかでも光とかげの演出による作品が2点目立ちます。例えば近森基と久納鏡子の『KAGE-KAGE』は、いままで各地で展示し、受賞してきた作品『KAGE』をさらに進化させて、垂直な2枚の壁の間でみせるバージョンです。光が生む円錐のかげと見えたものが、じつは本物のかげでなく、観客が円錐に触れるたびに、予想もしなかった不思議な仮想のかげが飛び出す愛らしい作品。こどもから大人までを童心のかげ遊びに誘いかける作品です。
 もう一つ、光と人間の相互作用を誘導する作品には、スコット= ソーナ・スニッブの『境界線』があります。広場に2人が立つと、その足元に2人を隔てる1本の光の境界線が現れ、3人、4人と増えていくと、同様に3 本、4 本と境界線が割り込んでいく不思議体験。認知システムを生かしたインターフェイス・デザインの試みで、ふだんの交友関係でも、人と人を隔てがちな心理的な距離感や、物理的な距離が生み出す微妙な心理的影響などについても、考えさせてくれる作品です。

[スケッチやデッサンのような絵画的な行為を触発する作品群]

 エミリー・ウェイルの『セルフポートレート』は、現在進行形で制作中のソフト作品の一部。大型モニターの前に立つ観客の姿が、あるときはチョーク・デッサン風に、あるときは輪郭線のシルエット風に多彩な展開をして、動くポートレートが目の前で自動生成していきます。その画素の種類を選択するプログラムを、彼女自身の工夫するインターフェイス・デザインの上にうまく取り入れて制作するため、現在研究室で挑戦中。展覧会開催までにはぜひ完成を期待したい作品です。
 彼女と共にITPで研究するダニエル・ローズィンの『マジック・キャンバスの肖像』も、同様に絵画的なイメージを追って、観客参加を誘う作品。キャンバスの上に向かって、不思議な光ファイバーの筆でなでると、会場に備えた数台のビデオ・カメラが捕らえたイメージから、幾つかを選択してその上に描き込み、合成手法で風変わりな肖像画や風景画を次々に生み出せる作品。絵の具を選ぶように、筆を絵の具の缶に浸して、ビデオ・カメラを選択する仕組みも凝っていて、楽しめるデザインの作品です。

[バランス感覚の迷路ゲーム]

 MIT のメディア・ラボの大学院生であるウィリアム・キースと、前述の新しいメディア・アートのセンターとして再出発しはじめたCAVSで、新しい企画を練っている主任研究員のロナルド・マクニールが共同制作した『からだで探る迷路ゲーム』。市販の迷路ゲームに、ボールの乗った板を傾けて進行方向を誘導し最後の穴に落とし込むものがあり、このアイデアをそのままコンピュータで、床のイメージの迷路上に再現する高度な人工知能的作品です。床の上には確かに迷路が投影され、転がるボールも見えて、その上に観客が立つと、まるで床面全体が人物の位置に重心をかけたように傾きはじめ、それにつれてボールも低い方に転がり始めます。そこで自分の位置を移動しながら全体の傾きを調節し、ボールを次第に迷路の出口に向かって誘導していくゲームです。現実には床の傾斜は生じていないのに、視覚的に傾きを錯覚してしまう仮想現実的体験の作品でもあります。コンピュータによる高速度計算によって、観客位置から重心を割り出し、ボールを移動させる知的作品で、このインターフェイスのプログラムには学生2 人が参加して、挑戦しています。

[古典絵画の暗喩的作品]

 最後に展開する大型作品が、スタジオ・アッズーロの『戦いの断片』。床に掘られた4 つの矩形の穴を満たした水、砂、落葉の山、深い竹藪は、観客が気付かないと、いつまでもそのままの状態を保っています。しかし、その一つの穴の近くで観客が声を出すと、次の瞬間水や砂場や落葉の穴のなかから、人体が格闘しながら飛び出してくるのに、びっくりさせられます。その人体は互いに手足をからませながら、虚空をうってひっくり返るなど、激しいアクロバット的な展開をみせます。一か所の格闘のシーンも多彩で、その迫力は、この種のメディア・アート展のなかでも異色です。じつはこの作品、1996年に、イタリアの都市ルッカの古い城塞の跡のなかで行われた展覧会『戦いのすべて』のなかで展示された大がかりな作品のなかの一部で、ここでは全部で十数点の作品のなかから4点の連作だけを紹介しています。このテーマはスタジオ・アッズーロのチームが、15世紀のイタリアの画家パオロ・ウッチェッロの作品『サン・ロマーノの戦い』をヒントに考え出し、インスタレーション作品に仕立てたものです。『サン・ロマーノの戦い』は、当時の戦闘に登場する騎士や馬や武器の林立する風景を描いたものですが、その構図は、全体の活動的な動きを一瞬制止させ、一見カリカチュア化して見せるような心理的効果をもっていました。しかも、その作品制作を依頼したルッカの町は古い城塞都市で、町の回りに高い城壁をめぐらせて外敵をさけてきたために、侵入もほとんど受けず、平和な町であったそうです。チームは、学生時代からファンであったウッチェロの作品のそんな絵の効果や、展示会場となった城塞のあとの独特な雰囲気から触発されて、絵の一見凍結した動きを、観客参加で、なめらかな動きに変容するビデオ作品として見せようと試みたようです。それは同時に、人間の戦争と平和のアイロニーを風刺しているようにも思えます。制作に当たっては、何人もの俳優を使って、はだかの人体の格闘シーンを演出していますが、ここには人類誕生以来、今日のハイテックの戦争にいたるまで、あらゆる戦闘の根源にある人間の闘争本能や、結局は機械そのものの優劣よりも、瞬時の人間の決断や応答の速さがものをいう闘争の実体を、むしろ暗喩的にとらえているようにさえ思えます。同時に、一種のバレエのシーンのように絡み合う美しい肢体の交錯を鑑賞することもできるでしょう。この部屋の突き当たりには、ルッカの会場の一番奥の巨大な柱の壁面に投影されたスタジオ・アッズーロの制作によるコラージュ的なビデオ作品も流しています。これはパオロ・ウッチェロの原画( ウフィッツィ美術館所蔵) の上に、彼らの制作したこの人体像の動きや、馬の動きなどをコラージュとして描いた作品で、それ自身が一つの映像作品でもあります。イタリアの歴史や文化、とくに絵画史までを参照にして初めてその屈折した意味を感じとることのできる、新しいインタラクティブ・アートで、今回の展覧会の異色作。これからのインタラクティブ・アートの未来について考えるときの、恰好の問題提起ともなるでしょう。

 現代のインタラクティブ・アートは、こんな出品作品でもお分かりのように、いまでは私たちの日常の意識の領域にまで入り込み、人々のもっている根源的な時間・空 間の意識や言語や行動心理にまで関わる新しい表現活動にまで発展しはじめています。 一見ゲームにも似ながらそこに留まらず、未来の精神文化にも影響するパワーをもち はじめています。しかもこれらのインターフェイス・デザインや開発を支える技術に は、明日の家庭生活や社会環境にも直接、間接に貢献していける可能性があります。 現代の情報化産業は、ともすれば現実的で近視眼的に走りがちですが、これからの人 類の共生環境のゆくえまでを考えていくと、人間の感性や知恵を融合させるこんなメ ディアの新しい分野への展開も、もっと重要になってくると思います。今回の展覧会 を通じて、そんな意味や可能性を少しでも汲み取っていただければ、幸いです。