「発達障害の子どもたち」
「狭い世界」ならまだ分かるのだが、「It's a small world」の奇妙な日本語訳「世界はひとつ」の歌声を聴く度に、「世界は沢山だろう」と言い返したくなるのは私だけではないだろう。その歌詞からは、どうしても自分の見ている世界だけがあり、それを中心に思考している姿が見えてくるのだ。 私の普段見ている世界がまったく異なった風景として立ち現れるという経験は、思い返して見れば誰にでもある(?)ことなのだろうが、自閉症の側から見た世界の知覚体験とその世界を最初に私に語ってくれたのは、ドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』であった。日本での発行年を見ると、私がその本を手にしたのは、1993年頃、養護学校で自閉症の子供達を相手に日々悪戦苦闘していた時代である。「何故そんなに手を噛まなくてはいけないんだ。何故そんなに何回も壁に頭を打ち続けるんだ。」と歯形の残る手の甲や、塗料のついた額を見ながら為す術もなかったことが思い出される。その後、一時、様々な映画やテレビ・ドラマあるいは小説などで、自閉症を始めとする発達障害や身体障害が、一種の流行のようにとりあげられた時期はあったが、それから既に15年たち、毎日目にしていた彼らとは、ほとんど出会うことはなくなった。 『発達障害の子どもたち』は、精神医療に携わり長年発達障害児童に接してきた著者の目から、その症例を簡潔に整理しつつ、あらためて彼らに対する教育現場、家庭環境、社会環境を問い直さんとする書物である。著者は、自閉症の認知的特徴として、1)情報の中の雑音の除去ができないこと、2)一般化、概念化という作業ができないこと、3)認知対象との間に、事物、表象を問わず、心理的距離が保てないことの三つをあげている。最初の、「雑音の除去ができないこと」は対人的な情報に対して選択的な注意が困難であることを意味している。自閉症の幼児には、母親の出す情報も機械の出す雑音も同じように流れ込んでおり、彼、彼女は情報の洪水にさらされることになる。そして、そのような不安定な心の世界から自分を守るために、自閉症の幼児がとる戦略は、自分で一定の安定した刺激を作り出し<感覚遮断>を行う方法である。一定のリズムでとびはねる、回転する、目の前で手をひらひらさせるなど、それらは外界の刺激に対するバリアーとして働くという。あるいはまた、一つの木をみても、わずかに黄色くなった葉、虫に少し食われている葉など、一枚一枚の葉が個別に意識され、全体としての木が意識されないという<過剰な選択性>が働くこともあるようである。 自閉症でない私たちは、その世界を体験することはできない。しかし、ここにあげたわずかな例によってでさえ、それを通して想像し、またある場合にはふと思い当たることだってあるのではないだろうか。自分の見ている風景、体験している世界、それは決してフラットでもなければひとつでもない。別な意味で発達障害の私たちが是非読むべき本である。
安藤泰彦(大学院教員、スタジオ4)
- - - - -
※自閉症には、知的障害を伴う広汎性発達障害と知的障害を伴わない高機能広汎性発達障害(アスペルガー症候群)がある。
- - - - - 『発達障害の子どもたち』 杉山登志郎著、講談社、 1922、2007 (巻末の「参考文献一覧」が参考になる) 378/スギ//
『自閉症だったわたしへ』 ドナ・ウィリアムズ著、河野万里子訳、新潮社、1993 371.42/ウイ//
「おどりの美しさと美しい舞踊」
桜の美しさというものはない、あるのは美しい桜である、と断じたのは小林秀雄であったが、「美学」という表現にはその美の本質なるものを追求しようという姿勢が露骨に表われている。しかし、この『おどりの美学』の「美学」は少し違うかもしれない。もともとは郡司正勝の恩師にあたる小寺融吉の『舞踊の美学的研究』(1928)を継承する形で書かれたであろう本書は、舞踊の美しさを追及する美学というよりも、舞踊というおそらくは人類史上最古の芸術である身体表現について、それ自身が(つまりは舞踊を構成する人間自身が)美しさを有しているという前提で著わされていると思われる。たとえばこんな記述がある。 「生理的肉体のかもしだす美は一時の花である。舞踊の美は、舞踊のもつ特有の時空のなかで、一時の花である生理的肉体を障害とし、これを克服することによって永遠の芸術の花を開いてみせるのである」。 肉体の表現である舞踊から肉体を消去ないし超越して舞踊そのものの美を発生させること。郡司のこの舞踊論はきわめてモダンな発想であり、彼が土方巽の暗黒舞踏に多大な関心を寄せていたのも首肯できることなのだ。 本書は五つの章から成立している。「おどりの生態」「おどりの歴史」「おどりの美学」「かぶき舞踊」「おどりの周辺」である。日本舞踊の入門書として読む場合には後半の二章が役に立つだろう。汗牛充棟なる文献を駆使して、まるで見てきたかのように江戸円熟期のかぶき舞踊が再現される。 評者は身体表現、とくに日本の古典芸能に強い関心をもっているのだが、この著作に教えられたことは多い。「もともと舞踊には、人物を表現しようとする意図はなかった。(…)舞踊はそれ自体主題をもっているが、人物を形成はしないのである」とか「(舞踊が)素材そのものの肉体それ自身が、生の動きをたえず営みつづけているということ、またこれを観ている観客が、そのおなじ肉体をもっているという点で、そこから構成される美の感動は、他の芸術と異るものがある」といった表現には、古典舞踊のみならず、暗黒舞踏やコンテンポラリーダンスといった遠い射程にある身体表現を意外に近いものにしてくれるセンスが宿っている。 この著作から、いま一度「舞踊とは何か」という大問題にとりかからなければならないのである。
小林昌廣(大学院教員、スタジオ4)
『おどりの美学』 郡司正勝著、演劇出版社、1959 769.1/グン//
「真の科学的思考のために」
「以上の考察をやるうち、何度か美術の問題のそばをかすめて通った。そこで、このような展望の中では美術が科学的認識と神話的呪術的思考の中間にはいることを簡単に述べておいてもよいだろう」という一説がこの著作の冒頭の章であり、この著作においてもっとも重要な章である「具体の科学」にはある。 つまり本書は単に文化人類学の画期的な書物にとどまるのではなく、科学的思考-美術-神話的呪術的思考のトライアングルをコアにして、その回転するエネルギーによって、従来の人類学や植物分類学、動物分類学などを一気に変貌させようとする強い意志によって書かれた作品なのだ。言語学と数学とに起源を発し、およそ近代人とか理性人と呼ばれて久しいヨーロッパの知性に確かに深い疵を穿ったのがこの著作だ。 その知的継承者としては、とくにわが国においては中沢新一が顕著であり、斬新な南方熊楠論であった『森のバロック』(講談社学術文庫)から全五巻のカイエ・ソバージュシリーズ(講談社選書メチエ)を経て近刊の『芸術人類学』(みすず書房)にいたるまで、書名を含めて、レヴィ=ストロースの巨大な影響下にある思想を紡ぎつづけている。ちなみに、『野生の思考』の原題は「ラ・パンセ・ソバージュ」、書名としての共通性の文脈のなかには、野口整体に関するすぐれた解釈書である永沢哲『野生の哲学~野口晴哉の生命宇宙』(青土社)を加えておいてもいいだろう。 ともあれ、最初の問いに戻ろう。科学的思考の起源にあるのは「構造から出来事をつくりだす」ゲーム的思考であり、神話的呪術的思考の根幹には「出来事の集合の分解・再構築」が行なわれることで構造的配列を試みる「ブリコラージュ」的発想が息づいている。美術(アート)とはそれらの間隙で、めまぐるしい速度で往復する現象に対して名づけられたものなのだ。出来事と構造への相互に引き裂かれた状態を統合したいという欲望こそが美術(アート)と呼ばれるのだ。 都市と未開、現代と古代、科学と呪術、理性の哲学と無文字社会など、後者に対する前者の優位性というそれ自身が神話であることをこの著作は語ってくれている。レヴィ=ストロースのほとんどの文献は邦訳されている。中沢の『芸術人類学』にならうわけではないが、アーチストとエンジニアこそが彼の書物を読まなければならない。
『野生の思考』 クロード・レヴィ=ストロース著、大橋保夫訳、みすず書房、1976 316/レヴ//
「枝雀の身体論」
少し湿った噺から。 病いと文学の関係について考えていた頃、「夭折論」のような文章を書いたことがある。松田優作、寺山修司、中上健次、石原裕次郎など、若くして亡くなった人びとについて言及していたのだ。そのときにほとんど無意識に45歳で死んだ三島由紀夫ははずしていた。彼の場合、自決という手段を選んでいるし、その年齢で生涯を終えるという設計図を描いていたきらいもあるので「夭折」とは呼べなかったからだ。だが、同じ自殺でも、桂枝雀(1939-1999)は「夭折」と思いたかったのでリストに加えた。享年60歳。日本人の平均余命からいえばまだ若いではないか。同じ噺家でも古今亭志ん朝(1938-2001)は享年63歳であったが、当時は個人的にショックが大きくて、とても論じる余裕なんぞなかったのでリストからははずしていた。 枝雀はぼくのなかで高座の姿に重なって、松本俊夫監督の『ドグラ・マグラ』(1988)の、あのマッドサイエンティスト正木博士が印象深い。落語家という商売とはまったく異質な、むしろいかなる落語のネタにも登場しないであろうキャラクターになりきっている枝雀がそこにはいたのである。枝雀の自殺の原因についてはいろいろ云われているからここでは論じないが、彼がその爆発的な芸風とは裏腹に徹底した理論派であったことは知っておいていいだろう。笑いを「緊張の緩和」と称し、数多の落語研究者が分類してきたサゲ(オチ)を四つに分類し、さらに自身のレパートリーを60に決めていた。それだけではない。SRと呼ぶショート落語や英語落語、さらには創作落語にも熱心であった。いまどき大学出の落語家なんぞめずらしくもないが(ついこの前も天満天神繁昌亭で阪大同窓会という落語会があった)、やはり枝雀は落語だけをしていくにはキレすぎた存在だったのだ。 (師匠の米朝は愛弟子枝雀の死を知って、「あいつは××××やからしゃーないのや」と思わず云ったとか…) だが、いやだからこそ、映像に残された枝雀を楽しもう。彼が全生涯と全知能を費やして開拓した「枝雀落語」の世界に、その片鱗に触れようではないか。同じネタでCD全集も出されているが録音場所が違っているというマニアックな戦略をしている。噺家の結界である座布団から飛び出さんばかりに動きまくり、興が乗ればカラダ全体が次第に右斜め前へとせり出してくる、あの独特の枝雀的身体の世界は、まだいかなる身体論も言及しつくてはいないのである。 蛇足ながら、オススメのDVDは以下のとおりである。
「いたりきたり」(38集) 「代書」(1集) 「地獄八景亡者戯」(10集) 「親子酒」(17集)
DVD『枝雀落語大全』(全40タイトル) 東芝EMI、2002-2003 D696-735
≪参考文献≫
『わらわせてわらわせて桂枝雀』 上田文世著、淡交社、2003
『哲学的落語家!』 平岡正明著、筑摩書房、2005
『桂枝雀のらくご案内』、ちくま文庫、1996
『上方落語 桂枝雀爆笑コレクション』(全5巻)、ちくま文庫、2006
『THE枝雀』(CD+DVD)、東芝EMI、2006