テーマ:身体とテクノロジー 身体はあらゆる意味でその自然らしさを失い人工化されてゆく。そうして人工身体こそが「新たな自然」と捉えられている。 スポーツや身体障害など日常/非日常の身体 をめぐって「装着」「実装」「移植」といったテーマで身体の可能性について 考え ます。
▼ごあいさつ▲
身体はもれなく誰もが「ひとつ」持っています。つまり、身体を「所有」しているわけです。身体そのもの、そして身体のさまざまな状態を英語ではhaveを用いて表現します。たとえば「私は頭が痛い」という日本語は“I have a headache”と言います。痛みを持つ、という意味です。けれども日本語では「痛い」というように、もっと全体的・全身的な表現を使います。理屈ぽく言えば「私は頭が痛いという状態を持っている」ということになるのでしょうが、痛みと身体とが離れられない状態として表現されていることはまちがいありません。
日本語文化圏だけの問題ではないのですが、私たちは身体をひとつのあいまいな空間として捉えているきらいがあります。ですから「痛い」というのも、痛みに包まれた空間に自分の身体が置かれているといった状況で理解することができるでしょう。そしてまた、身体というものは「ひとつ」では機能させることのむずかしい存在です。もちろん、手を挙げるとか舌を出すといった運動は単独でも可能かもしれません。それとて「手」や「舌」といった解剖学用語はたったひとつの身体のためにあるものではなく、多くの身体の共通部分として見出され命名されたものですし、手を挙げる動作や舌を出す表情というのも「自分はいま手を挙げている」とか「自分はいま舌を出している」というように自分の行なっている動作や表情を「意識」することによって理解しているわけですから、そこにはつねに他の誰か(他者)がやっているようにしているという意識が伴っていることになります。つまり、身体は必ず「他者」の存在が必要であるということなのです。
ここで他者というのは他人という意味に限定されません。たとえば「鏡」という物質的なものも他者として機能しています。人は鏡がなければ自身の顔を見ることすらできません。ただし、鏡に映された自分の顔というのは、もちろん「鏡という他者」に向けられたものではなく、鏡のより向こうの存在=社会という外部に向けられたものにほかなりません。鏡に向かって微笑む。それは外部に向かって微笑むということになります。テクノロジーによって開発された鏡という物質は自身の身体を無限の外部へと切り開く装置として機能していることになります。人が用いる道具というものは人の機能を補助するものと人の機能を拡張するものに大きく分けることができます。鏡は道具ではありませんが、人を社会的存在へと導くという意味ではそのどちらとも言えるのではないでしょうか。
私たちが「身体とテクノロジー」というテーマで考えたいのは、身体という存在、身体への意識、そして身体イメージというものがテクノロジー(さらにそれによってつくりあげられた装置や道具)によってどのように変貌していったのか(あるいはしなかったのか)ということです。身体変工という言葉があります。新旧のテクノロジーを用いて身体の内外にさまざまな「装飾」を施す技術の総称です。現在ではほぼ日常的になったピアスやタトゥーなどがそれに含まれますし、歴史的に行なわれていた纏足や密教の行者が最後の修行として位置づけていた即身成仏も身体変工の典型的な例と言えましょう。ただし「装飾」とは言ってもそれらは流行のファッションという意味ではなく、歴史や文化、民族に限定された身体へのアプローチであるという意味合いです。身体変工というテクノロジーによって身体が歴史的、文化的、民族的なものになるのです。
あるいは身体を医学テクノロジーによってその機能を回復ないし拡張させることも可能です。眼鏡、コンタクトレンズ、補聴器といった感覚の補助から移植臓器、人工臓器などの体内の生理的機能の回復、さらには義肢(義手や義足)による運動・支持機能の補助などが例にあげられるでしょう。これらは正常な身体機能が失われた状態の人に対して人工的(生体臓器移植の場合もありますが、それも医学テクノロジーの進歩によって可能となりました)な装置を装着することで弱った機能を回復させるという目的があります。ですから身体機能の「拡張」というのは医学においては現実的ではないのですが、近い将来には身体機能を拡張させる装置が医学的に開発されるかもしれません。
しかし、医学の文脈を離れれば、あらゆるテクノロジーは身体機能の拡張のために貢献しているといっても過言ではないでしょう。車や電車や飛行機は、人の「移動」という身体行為を大きく拡張しています。コンピュータは人の知性や記憶といった能力を拡張させていますし、文芸や映画は人の想像力を拡張させています。そう考えれば建物や都市なども人の「生きる」というもっとも根源的な身体機能を拡張させた「装置」であるということができるかもしれません。こうしてテクノロジーと身体をめぐる問題群は日常生活のあらゆる場面にまで浸透し、ほとんどテクノロジーや身体とのつながりを意識しない状態になっています。
いわば「拡張された身体意識」とでも呼べるようなこの現実に対して私たちはどのように身体をテクノロジーを考えていけばいいのでしょうか。さらにこれからのテクノロジーは身体に対していま以上のどのようなことができるようになるのでしょうか。公開ゼミではそのような地平に思考の錘をおろしてみたいと思います。