第29回京都賞、思想・芸術部門(音楽)の結果について
第29回京都賞、思想・芸術部門(音楽)はセシル・テイラー氏に贈られることが決まった。6月21日の京都賞受賞者記者発表会における同部門の審査委員長である長木氏のコメントにもあったように、これまでの音楽部門の歴代受賞者は西洋芸術音楽の主に前衛作曲家あるいは音楽家に限られており、ジャズという異なる音楽ジャンルの音楽家が今回はじめて選ばれることになった。このことは京都賞における音楽というものの位置(価値)付けに大きな変化があったということを意味するものだろう。
まず断っておくべきことは、ぼくは今回の選考に参加した立場にあり、今回の審査結果に異論はない。ただ、今回の選考で感じた自分でも未整理の疑問点をここに残しておきたい(同様の考えは審査会の場でも述べた)。
言うまでもなく、今回感じたことは「ポップスの音楽家が”人類の精神的深化”を求める京都賞に選ばれた」というそのことだ。ここで言う「ポップス」とは”メディアテクノロジーに媒介されることによって成立している「音楽」のすべて”というぼくなりの定義(個人語では「録楽」のこと)であり、狭義のポップスやロック、ジャズ、クラシック、エスニックなどの音楽ジャンルの区別ではない。そして、ジャズの歴史とはまさにメディアテクノロジー、すなわちレコードと放送の歴史と表裏一体のものであったはずであり、ぼくもまた、それらを通してセシル・テイラーを知っている。彼がそのジャンルにおいて、いや、100年前までは存在しなかったジャズという新しいジャンルの誕生後に、その革命的な成熟を促し、同時に音楽的にも高度で洗練された技芸を極めた音楽家だったことを信じることもできる。つまり、今回もまた世界的に称賛されるにふさわしい音楽家が京都賞に選ばれたことを疑ってはいない。しかし、その彼を選ぶためにぼくら審査員は必要だったのだろうか?
記者会見で「西洋芸術音楽の前衛(作曲家)に限定せず、世界で活躍するいろいろな分野の音楽家に賞を差し上げたい」という内容を長木氏は語った・・その「考え方」自体はもっともに聞こえる。しかし、そのような考え方、発想をそもそも可能にしたのは、地球規模の、途方もない数の音楽がメディアテクノロジーによってポップスとなり、流通し、データベースによってフラット化されたからではないか。もはや多くの現代人はメディアを通さない「ポップスではない音楽」があることなど考えてもみないのが現実だろう。そして当然のことながら、たとえば西洋芸術音楽の前衛としての現代音楽など、その数から考えても他のポップスに比べてあまりに小さな領域に過ぎないということになる。つまり、それは京都賞においてはじめて「音楽」というものが「ポップスとして/において」評価されたということを意味するのであり、それこそが今回起きた「大きな変化」だったのだとぼくは理解している。
もしそうだとすれば、京都賞では現代音楽に限らず、現在まだかろうじて残されている世界の様々な文化における固有の音楽はおそらく評価の対象にはならず、まず何よりも「数の原理」やグローバルな音楽市場における歴史的な「影響力」の大きさなどを評価の基準にするしかないはずだ。しかし、世界中のより多くの人々を「感動」させること、多数から好まれることこそが”人類の精神的深化”を模索する指標となるのだろうか・・ぼくはそう思わない。様々な民族の音楽はもとより西洋音楽も含めて音楽/芸術は徹頭徹尾、文化に固有個別のものであり、”精神的”という言葉を持ち出すならば、その評価は原則として固有個別の領域に踏みとどまる以外の道をぼくは知らない。そして、だからこそ、今までは審査にあたって各音楽分野の「専門家」が必要とされてきたのではなかったか。つまり、音楽のジャンルを限定せずに世界中の音楽や音楽家において、ましてその”精神的”な深さを互いに比べてみることなど、その文化を共有していない他人にどうしてできるというのだろう。能楽の巨匠とシタールの名手とP・マッカートニーをポップスとしてではなく、「数の原理」や社会的な「影響力」以外の指標で「ある程度は公平に」比べることさえ、おそらくできないと思う。つまり、西洋芸術音楽/現代音楽の権威の失墜を誰もが認めざるをえなくなった今、ぼくらはそれを測る「ものさし」もまた今回、断念したということであり、残された、少なからぬ人々に了解可能な「ある程度公平なものさし」とはポップスとしてのそれでしかないということになるだろう。そして、そこに博識な人は役立つとしても「専門家」は必要ない。京都賞はそのような扉を今回開いたのだと感じている。
今回の、このような「大きな変化」にぼくはいまさら驚いているわけではなく、また、音楽をポップス(録楽)と混同することによって生じたこのような変化を問題にする人などほとんどいないことも知っている。ただ、今回の結果は、自分自身との関わりも自覚した上で、京都賞の理念でもある”科学の発展”と”人類の精神的深化”、すなわち、根本的に存在理由の異なる科学と芸術が”バランス良く解明され、発展”するどころか、”精神的”なものまでもが「科学のためのものさし」で一方的に測られ、値踏みされていく出発点のようにも思える。それは地球上に残された様々な文化における音楽/芸術、言い換えれば感性や美意識の多様性を駆逐し、テクノロジーによって、いや、テクノロジーが、後戻りのできないたったひとつのグローバル・スタンダードで人類の「文化」を覆い尽くすこと、すなわち、今現在のこの地上で起きている様々なこととまったく同じことがここでも繰り返されたということなのかもしれない。
2013/6/23 三輪眞弘