Studien、または「赤ずきん」前夜

満潮と3つの月

 三輪祥一に捧げる


 作品集「満潮と3つの月」は高校卒業後ドイツに渡り、学生として作曲の勉強を始め、現代音楽を知り、見よう見まねではじめた大学生時代の試行錯誤の記録ですが、学生時代後期にコンピュータに出会い、作曲されたものを中心に紹介します。コンピュータを使った現在のスタイルや音楽におけるぼくの興味はすべてこの時期に確立したといっても過言ではないかもしれません。作曲年代をみると結局CD−1からほぼ10年後の86、87年という短い時期が非常に決定的だったことがわかります。たしかに、それまでの高校をでてから後の長い学生生活の間、ぼくはひたすら作曲科学生として勉強し、しかし自分の書いた無数の習作に自分でも満足できず悶々としていました。そしてある時たまたま買ってみた小さなコンピュータが面白くて何もかも投げ出して短期間にプログラミング技術を貪欲にマスターし、それに伴ってさらに音楽的なアイデアを拡げていった、そしてそれらが形としてまとまり始めたのがこの86、87年という年で、プログラミングの習得と作曲がほぼ並行して行われていました。とにかく作曲、コンピュータ、自分、それらをひとつにまとめていこうとした過程をこのCDで覗いてもらえれば幸いです。


1:架空木管五重奏のための BQMOVM1E (1986)
コンピュータによる自動演奏
Studio Recording at Robert-Schumann-Hochschule, Duesseldorf on Nov. 10. 1986

(13' 31")

2:
部分音クラヴィア (1986)
コンピュータ・オペレーション:三輪眞弘
Live Recording at Max-Planck-Institut, Berlin on Jun. 6. 1986

(13' 42")

3:
満潮と3つの月 (1986)
コンピュータによる自動演奏
Live Recording at Max-Planck-Institut, Berlin on Jun. 6. 1986

(23' 41")
 
4:ピアニストとコンピュータのための
Duoklav (1987)
ピアノ:ラインハルト・コールベルク
Live Recording at Robert-Schumann-Hochschule, Duesseldorf on 1987

(13' 18")

(total: 64' 13")


Thanks to Rheinhard Kolberg, Tessin, all friends at Robert-Schumann-Hochschule



 BQMOVM1E <はじめてのアルゴリズミック・シミュレーション音楽>
題にあるように架空の木管五重奏曲という設定でコンピュータがリアルタイムに作曲し、それをその場でサウンドサンプラーに本物の楽器音を使って演奏させていく、という曲です。もし人間の演奏家によってコンピュータが提示する音符を初見で即座に演奏してもらえるのならばそちらの方が望ましいわけですが、それは不可能なのでコンピュータ制御可能な(MIDI制御)サンプラーを使っています。サンプラーは当時ぼくの夢でしかなかったEmu社製のイーミュレーターというものです。もちろん当時木管五重奏の個々の楽器を音域別にサンプルしたライブラリーなどなかったので、すべてこの録音に使われている5種類の楽器音は当時の友人による生演奏音です。
さて、この作品ではそれぞれの楽器の音域や可能な演奏速度などは「現実的」なものになるように調整されており、楽譜として書き直せば同じものを人間によって演奏することが可能なはずです。コンピュータをその場で走らせる意味は毎回新しいテーマ、新しい形式、新しいアンサンブルが生成され、2度と同じ曲が生まれることがないからです。特にこの作品では曲の統一性や変奏、形式について従来の西洋音楽の作曲技法を非常に意識した上でのコンピュータならではのアプローチがいたるところで試みられています。
それはまず何よりも組曲のような楽曲構成にはっきりと見られます。はっきりとキャラクターのある小部分の集合から構成されており、さらにこれらは、ただ新しいものが生成されそれが羅列されるのではなく、一度生成されるとそのキャラクター(楽想、とでもいうもの)が記憶され、必ず後にまた同じキャラクターの小部分が「還ってくる」ように仕組まれています。
コンピューター用語である「スタック」という記憶方式がこの曲の形式の生成メカニズムとして使われています。その結果全体としては必ず始まりに対応する部分が終わりにも来ることになり、D-E-D-F-DのようなDに挟まれたロンド風の部分や、大きな同じキャラクターの小部分の枠で囲まれたまとまりが様々なスケールで形成されることになるのです。この仕組みは極めて単純とはいえアルゴリズミックな作曲においてこのように曲全体の形式にまで工夫を凝らしたものをぼくはきいたことがありません。・・というわけでこの作品は演奏時間も不定なのです!
さらに先に触れたそれぞれの小部分のキャラクターをどのように生成するのか?ですが、これは新しい小部分が生成されることになった際にまず、乱数によってひとつの基本旋律(音価と音程、それに休符の情報による)が決められ、この旋律を各楽器はそれぞれの早さで基本旋律上の任意の位置から任意の方向に読みとり演奏します。これによって、同じ旋律を追いかけたり、逆行形が現れたり特徴的なリズムや跳躍がそれぞれの楽器に現れたりすることになり、同じではないけれども統一性が感じられる、その小部分に特有のキャラクターを作りあげることになり、それぞれの楽器が奏した旋律自体ではなく、この基本旋律の情報がキャラクター情報として先のスタックに記憶されて行きます。なお、この基本旋律の生成は短い小部分の曲間の無音時に行われます。このような仕組みがセリエルな音楽に多くのヒントを得ているのはここで言うまでもないでしょう。

 

 部分音クラヴィア <はじめてのインプロビゼーション> &
 
満潮と3つの月 <はじめてのアルゴリズミック・コンポジション>
このふたつの作品はベルリンのマックス・プランク研究所でのコンサート(正確にはアーティスト、Tessin氏の展覧会のオープニングコンサート)で初演されました。「パーソナルコンピュータ・ミュージック」と題したこのコンサートは、友人と3人共同で行ったもので、これがぼくにとっては初めて自分の意志で自分の作品を公開する努力をした経験でもありました。
会場はコンサートホールではなく、高い吹き抜けのある広い近代的な科学研究所のエントランスホールで、このふたつの作品がこの空間の中で演奏されることを、かなり意識して作曲しています。両作品とも演奏者はなく、スピーカーから出てくる音を鑑賞してもらう作品ですが、シンセサイザーの演奏を制御するコンピュータのオペレーションは演奏中に作曲者が行い、聴衆は会場の広いエントランスホールを自由に歩いたり立ち止まったりしながら聴いてもらうような環境にしました。スピーカーは前方に2つ、それから遠くから聴こえてくるように、吹き抜けの3階にひとつの3スピーカーシステムとし、シンセサイザーはこの作品を実時間で演奏するために同時に8台使っています。これは当時のシンセサイザーが複数の音色を同時に出せなかったり、チューニングを一音一音別々に設定できなかったりしたためで、同機種の8台のシンセサイザーを「束ねて」一音一音、音色やチューニングを設定し直す情報と一緒に順番に鳴らしていくしかなかったからです。
さて、コンピュータに出会って以来ぼくの興味のほとんどはコンピュータを使った楽曲の構成にあり、いわゆる音響合成にはあまり関心がなかったのですが、唯一の例外としてサイン波を重ね合わせて音色を合成する加算合成にはこのころから関心を持っていました。ある音色は理論的に複数のサイン波の集まりに分解でき、逆にそれ(倍音または部分音という)を合わせるとその音色が再び合成できるという古くから知られている理論で、部分音という言葉はある基音の整数倍の周波数をもつ「派生した音」という意味あいです。「部分音クラヴィア」はこの原理に従ってサイン波を重ね合わせて「音色」を動的に合成する作品ですが、この作品で使われるすべてのサイン波はまず強いアタックによってはっきりと発音され、その後極端に長い余韻というか、持続によって影のように存在し続けます。これによって、まず個々のサイン波がはじめに「ひとつの音」として認識されながら、一方その後の「余韻」によってある特定の低い基音の部分音として存在するというアイデアです。つまり、ひとつの音でありながら、それは同時に音色を形作る別の音の部分でしかない・・という発想に夢をときめかせた、というわけです。また奇数倍音は平均率音階からどれも少なからず外れているので、和音としても器楽的ではない響きが生まれ、また複数の基音の倍音が重なると雲のような実に複雑な音程の重なりが生まれます。このシステムをぼくはMIDIキーボード上のある鍵盤を強く叩けばその音程の高域の部分音、弱く叩けば基音または低域の部分音を生成するようにプログラムし、キーボード演奏しました。この曲の最後の部分で複雑な高域の音響が低い「イ」とも「エ」ともつかない声に聴こえるのにお気付きでしょうか?
さて、BASICでコンピュータ内蔵のサウンドチップをかろうじて鳴らして喜んでいる状態から出発したぼくは、「満潮と3つの月」を書いた当時すでにMIDI入出力のドライバーからMIDIノートの時間管理ライブラリ、そしてプログラム本体まですべてアッセンブラーを使って自分の力で書いている状態にまでなっていました。この作品では題名通りそれぞれ固有の音色、音階、リズムパターンを持つ3つの「月」がその調性的な引力を持ち、お互いの関係を時々刻々と変えながら互いを強調したり打ち消しあったりしながら、まるで森羅万象の様々な状態を開示するように現れてくるように考えられています。環境音楽でもない、ゲンダイオンガクでもない、「何か別の音楽」を夢見て、当時それでなくても長いこの作品を「今度はどんな”演奏”になるんだろう?」と何度も何度も飽きることなく聴き返しながらパラメーターを調整していったことを思い出します。

 

 Duoklav <はじめてのインタラクティブ・システム>
アルゴリズミックな作曲を人間が実際に演奏する器楽作品の作曲に結びつけたいとぼくは考えていました。しかし「BQMOVM1E」では毎回違うテーマ、形式、演奏があるから面白いのであって、そのひとつを記譜して人間の演奏家に演奏してもらうことにどれほどの意味があるだろうか?人間の演奏は、演奏だけではなくその場、その時間を聴衆と共有することに意味があるのではないか?ぼくの作品の場合、コンピュータが聴衆とその場、その時間を共有しているはずなのだが、それは誰からも見えない。それは見かけ上、テープの再生と何ら変わることはなく、ほとんどの聴衆は何度もその曲を聴いてくれるわけではないのでアルゴリズミックな自動生成による「毎回結果が違う」意味あいもほとんど無いに等しいものではないか、ということがぼくにははっきりとしてきました。つまり毎回違うから「発見」があり、表面的な形が変わっても変わらぬ「構造」を聴いて欲しいのだ、というぼくの夢は「初演が最後の経験」となる現代音楽のコンサートではまったく通用していないことに次第に気付いていったわけです。
演奏中に実時間で働き続けるコンピュータでしかできないこと・・その可能性のひとつに人間の演奏にインタラクティブに反応するコンピュータシステムがあります。いわばコンピュータがもう一人の演奏家として人間の演奏に対等に参加するようなイメージです。ぼくは次にこの可能性を試してみようと考え、この作品が生まれました。「東の唄」と同様、この作品は人間のピアノ演奏とコンピュータによるピアノ演奏によるピアノ・デュオというコンセプトで作曲されていますが、コンピュータのピアノ演奏はサウンドサンプラーによって行われます。
この作品では技術的な限界もあり、ピアノの横にコンピュータを置き、コンピュータのキーボードをピアニストが手で操作するような最も原始的な形態で演奏が行われます。つまりピアニストは演奏中に要所要所でコンピュータ演奏のモードを切り替えたり、大忙しで演奏するわけです。ひとつの旋律的な断片を人間とコンピュータの奏するピアノが幾度となく反復しながら次第に密度を増してゆき、中間でひとつのピークを迎え、その後は人間とコンピュータとが交錯しながら奏するフガート、そして再びエモーショナルな即興演奏部分が続きます。
先に述べた様々な問題意識の答えとしてぼくとしては「よくできました」と当時学生であった自分を誉めてあげることもできますが、形式や、手法、表現している世界など、これ以前の作品はずっと自由で多くのチャレンジがあったように感じます。確かに難しい「人間の演奏」の問題、そしてピアノという楽器を前にしてそれらの課題と必死で闘うあまり、その自由な発想の部分がかなり奪われ、当時勉強していた現代音楽の語法や様式の亡霊がこの作品の多くの部分を支配しています。これは自由ではありません。しかしこの作品から人とコンピュータとのインターラクションというテーマはアルゴリズミックコンポジションと共にぼくにとっての最重要課題として後に引き継がれていきます。