再現芸術における幽霊、または
ラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための「新しい時代」について

 録音したものを再生することによって聴かれる作品、それは人間が創り出した「作品」であることは確かにしても、ぼくは「音楽」ではないと考えている。それはちょうど写真が絵画ではなく、映画が演劇ではないのと同じで、また「作品」の良し悪しのことではなく、そのあり方において本質的に異なっているということだ。もちろん、これを言葉通り受け取ったら現在、「音楽」と呼ばれているもののほとんどが「音楽」ではないことになってしまうわけだが、その通りである。「録音芸術」(とここでは呼ぶことにしたい)は、ただひとつ「音波に関わる」ということだけが「音楽」と似ていても、他は何ひとつ「似ていない」まったく新しい事態なのだと感じるのだ。だとすれば、それは「音楽」とは異なるのだから、その本質を考えてみるときに「音楽」の伝統や知識を安易に援用できないということにもなる。
 歴史的に「録音芸術」は拡張された音楽表現の可能性として作曲家達によって始められたと言われるが、それは本当なのだろうか?例えば、ピエール・シェフェールは音楽家ではなく技師である。彼が音楽との関連においてミュージック・コンクレートを考え、少なからぬ作曲家や芸術家達に影響を与えたにしても、それが音楽表現上の内面的な必然性から生み出されたものだとはぼくには思えないのだ。それはほんの一例にすぎないが、つまり「録音芸術」と「音楽」の歴史との間には大きな断絶があり、「録音芸術」について考えるとき、それを「音楽」の中で捉えようとすると、必ず説明しきれない何かが残るということだ。

 むしろ「録音芸術」を考える上で参照すべきだとすれば、それは写真や映画などの「再現芸術」(と勝手に名付けよう)の方だろう。(それにしても写真や映画はジャンルとして確立しているのに、どうして「録楽」というジャンルは存在しないのだろう?)これらは作品の複製が可能であるという点でも共通で、現代ではさらに転送も可能な表現形態である。
 「写真のように」正確に描かれた絵画ではなく、本当の写真が可能になった時代、画家のドラクロワは「写真が示すおぞましさは、それが文字どおり機械そのもののおぞましさであるにもかかわらず衝撃的なものだ・・」と語ったという。ドラクロワが受けた「衝撃」をぼくらはもはや実感することはできないが、その意味を考えてみることはできるはずだ。見えるものを人間の目や手を介さずに定着(再現)すること、そこには人間の視覚に関わる自動機械の誕生と、それを受け入れるぼくらの圧倒的な「意識の無力」がある。もはや視ている主体は人間ではなく、人間は機械が自動的に見たものを視ている。「衝撃的」なのは「写ってしまったもの」に写真家の意図が介在していようがいまいが、また、それがどれほど人間の目にとって不自然なものに見えたとしても、それをそのものとして「視てしまう」人間の「意識の無力」のことなのだ。人間の意識とは無関係に、 視覚は「そのように視る」以外の術を知らず、人間の方こそが自動機械そっくりだったとぼくらに思い知らしめたのである。この「意識の無力」の体験は他者の視覚をそのまま受け入れてしまうという前代未聞のものともいえるが、その他者とは人間ではなく「機械そのもののおぞましさ」いわば「幽霊」なのである。
 まったく同様に、聴覚の体験においてもまた、おそらく人類で初めて録音された音(たとえば「声」)を聴いた時代の人々はこの幽霊の「おぞましさ」がありありと感じ取れていたに違いない。即ち「再現芸術」が成立するにはテクノロジーにまつわるこの「おぞましい」幽霊が必ず付いてまわるのだ。それは、昔とは比較にならない高品質な映像や音響再生が可能になった今、ぼくらにとってすでに慣れ親しんだものである一方で、その幽霊としての姿が見えなくなればなるほど、ますますぼくらの精神に対する大きな力をふるい始めているように思える。

 ラジオとマルチチャンネル・スピーカーシステムのための「新しい時代」はそのような意味で「音楽」としてではなく、ぼくが考えるところの「再現芸術」として計画された。ただし写真ではなく、時間を扱うという意味で「映像作品を創る」ように作品を考えていったのだが、それは決して視覚的なイメージで音響を捉えるということではない。そうではなく、西洋「音楽」にまつわる一切の比喩、即ち「録音芸術」における作曲、演奏、楽器、形式論などの、それが「音楽」であると見なすことから生まれる「たとえ話」をいったん否定し、そのうえで自分に何ができるかを考えてみようとしたのだ。その際、ぼくにとっての究極の目標は先に述べた「再現芸術」一般を成り立たせている「幽霊」をできるだけ純粋な形でぼくらの無意識の世界から今ここに呼び出すことである。
 ところで、この「幽霊」にぼくは少し心あたりがある。ぼくが映像作家、前田真二郎と共に2000年に発表したモノローグ・オペラである。
 ネットワーク上を流れる出所不明の不思議な旋律。それを神からのメッセージだと信じる人々が架空の新興宗教団体「新しい時代」である。信者である主人公の少年は自分が声変わりする前に肉体を神に捧げる儀式を通して自らの存在を記号化し、それはやがてその不思議な旋律の中に組み込まれ、彼自身が旋律と同化するという物語だ。このオペラは、当時の様々な社会問題と微妙な関係を保ちながらも、その奥に一貫して「テクノロジーとは何か?音楽とそれはどのように関係しているのか?」というテーマがおかれていた。オペラなのでもちろん舞台上で人が演ずる作品ではあるものの、7年前、このオペラを創りながらぼくが曖昧に予感していたものこそ、この「幽霊」のことではなかったのかと今思うのである。
 今回の作品では、このオペラ「新しい時代」で使われた「神の旋律」やテキストも素材として使われているが、それらはオペラ作品とは切り離して、むしろオペラのことなどまったく知らずに聴いてもらう方が良いかもしれない。ただし、両作品は深いところで同じものをテーマとしているため同じ作品名にした。また、この作品全体の時間構成、即ちどの瞬間に何が聞かれ、何が聞かれないか、などの作品内部におけるあらゆるパラメーターは、常に流れ続けるこの「神の旋律」の時々刻々と生成される4音からなる和音によってすべて決定されている。つまり、「神の旋律」が異なれば作品全体が異なったものになるという意味で、この旋律は作品に使用された音響素材のひとつではなく、そこには作品全体の生成原理としての特別な意味が、オペラ「新しい時代」とはまた違った形で込められている。

2007/1/30 三輪眞弘