いわゆる駅の発車メロディーを考える

ぼくは以前から、全国の鉄道会社を相手取って訴訟を起こしたいと思ってきた。「いわゆる、駅の「発車メロディー」によって私は日々精神的苦痛を受けている。即刻この「発車メロディー」をすべて止めるか、それが難しければ、過去のブザーやベル(音)に戻すと共に、慰謝料 100,000円(=訴訟に必要な費用?)を払え!」・・という内容だ。

言うまでもなく、12平均律上の調性的な音楽的旋律(機能和声的進行を含む)が、ベルと同じように扱われ、駅ではめちゃめちゃなタイミング、すなわち一切音楽的な理由とは無関係に和音が何重にも重なり、個々の旋律がそもそも和声的に解決しないどころか、旋律の途中で唐突に中断され続ける、この「旋律の屠殺場」のような聴体験は、まず、日々音楽について考えている作曲家にとって耐え難い苦痛であることは言うまでもない。そして、そのように感じ続けてきたのは本当に、日本でぼく一人だけなのだろうか?

また、作曲家という立場で言うならば、ほとんどの「発車メロディー」は、よりによって、なぜ機能和声進行を伴う旋律なのか、まったく理解に苦しむ。駅構内でランダムに重なりあう旋律を考えろというならば、協和音を諦めてポリトーナルにするとか、たとえばフランス印象派で試みられたような、音階音が自由に出現する旋法的な旋律にした方が、その「苦痛」ははるかに軽減されるはずである。・・いや、もちろん、もしそうだったとしても「発車メロディー」を容認できるわけではない。なぜなら、そのようなものはそもそも「聴く必要がない」ものなのだから。

さらに、「発車メロディー」として作られたわけではない旋律、すなわち「発車メロディー」で借用された、多くの人たちに親しまれている旋律を作曲した原作者はどのように考えているのだろうか? 少なくともぼくにとってそれは明らかにその旋律を創った作曲家のみならず音楽というものに対する冒涜である。同時にそのことは、そのように「音楽として」創られた旋律を単なる「信号として」扱うことに何の躊躇も思慮もない自虐的な感性をぼくら大人が子供たちに強制していることにもなるのではないだろうか?

言うまでもなく重要なのは、利用者の意志や了解が無視された形で、日本の鉄道で移動するからには誰もが必ずこの「発車メロディー」なるものを、暴力的、強制的に「聞かされる」という点だろう。安全のためのブザーやベルを聞かされるのは仕方がないとしても、音楽は「聞かされる」ものであってはならない。さらに、駅構内においてブザーやベルで、昔は(海外では現在でも!)、何も困ることはなかったという点でも、このようなメディア・テクノロジーの濫用は、傍迷惑な「悪ふざけ」であり、反社会的でさえあるとぼくは感じている。

おそらく、もし今、山手線の「発車メロディー」をすべてベル(音)に戻したら、東京の駅の「風景」ががらっと変わってしまうことだろう。しかし、それの意味するところは、他愛もない旋律(の断片)であったとしても、確かにぼくらの心(意識)にそれらが音楽的旋律として「作用」していたという事実に他ならない。それが本当に重大な問題なのかどうかは人それぞれの判断だが、少なくとも明らかなのは、東京ならば、1日平均何十分も出来損ないのめちゃめちゃな「音楽」、いや、めちゃめちゃに重なりあい切断され続ける旋律を日々、何万、何十万の老若男女誰もが生涯にわたって、必ず執拗に聞かされなくてはならないという事実である。これをぼくは恐ろしいことだと思う。

なお、訴訟については法律の専門家である友人に相談してみたところ、「勝てないだろうし、支援してくれる弁護士もいないだろう」という返事があった。勝てない理由は、法律は「一般通常人」を守るもので、「極端な人」に配慮するものではないからだとのことだ(<もっと正確に説明してくれたのだが)。
訴訟はあきらめるにしても、そして「それもまた日本の文化なのだ」という主張を受け入れたとしても、おそらく誰一人真面目に考えることもなく築き上げられた「発車メロディー」というシステムの、このようなあり方を、ぼくは日本の作曲家、音楽家の一人として今後も考えていくつもりだ。たとえ、それが「一般通常人」にとってこの社会の政治とも経済とも直接関係のない「どうでもよい」ことにみえたとしても。

2011. 12/17~19 三輪眞弘

参考文献
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 いま我々がなすべき課題の一つは、機能主義ではなく機能を新しい視点でとらえなおすことによって、我々が社会生活を営む上で必要な各種の信号音のデザインを実践に移すことである。
 私が現在有効であると考えているプランの一つは、駅それも多数の路線が発着するターミナル駅における発車ベルのデザインである。例えば、東京の国鉄新宿駅では、都内及び近郊上り下り、合わせて十本もの電車が常時発着しているわけだが、それらのホームはすべて同じ地平で隣接しており、しかも発車ベルはかなりの音量で発せられるため、少し離れた改札口または階段付近などからでは、一体どの電車が発車しようとしているのか全く判断がつかない状態である。視覚的には、路線ごとに車輌の色分けをするなど、ある程度明快な区別がなされているにもかかわらず、聴覚的な配慮は皆無に等しい。「印刷技術と遠近法の発達と共に、耳はその最も重要な情報収集器としての地位を目に譲り渡した」という言葉が、まさにふさわしい状況ではないか。
 そこで私が提案したいのは、各路線ごとに発車ベルを音質、音程、リズム等の点から区分することである。そのことによって、発車の告知がより明確になるばかりでなく、時々起こる異なる路線同士のベルの重なりも、神経をいらだたせることなく、むしろそこに生まれる音の諧和を楽しむことさえできるのではないだろうか。そこにおいては、発車ベルは信号音として他の音から独立して聞かれると同時に、信号音以外のものにもなり得るのである

(庄野泰子「音風景を生きるデザイン」『波の記譜法ー環境音楽とはなにか』より、時事通信社 、1986年)
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