万葉集の一節を主題とする変奏曲 / 海ゆかば
サイボーグ:
入歯があったり眼鏡をかけている人をぼくらは「サイボーグ」とは呼ばない。しかし、筋電義手や補聴器、人工臓器など様々な器官の一部を人造物で代替するようになると、この言葉のイメージに少しずつ近づいていく。さらにそれが、単に不足した身体的機能を補うだけではなくその能力を「拡張」するものであればなおさらだ。ところで、歴史の中で人間が生み出してきた道具、機械など多くの人造物を、本質的にそのような「身体の拡張」と考えてみることはできないだろうか。それはもちろん、人間の体内に組み込まれているとは限らないが、たとえば、特に感覚器官や神経系(脳)の拡張としての携帯情報端末は現在、腕時計や眼鏡などに内蔵され、最終的にそれらは人間の体内に組み込まれることを目指しているように見える。ぼくらは近い将来、何も持ち歩かなくても自分の目では見えないものを視、耳に聞こえるはずのない音を聴き、知るはずもないことを知るようになるだろう。そしてそれは、占い師が使う水晶球ではなく、携帯情報端末という形ではすでに実現しているのだ。
そもそも時代を遡ればこのような「拡張」は、特に音/音楽に関して言うならば、まず蓄音機、そして何よりもラジオ放送から始まった。たとえば太平洋戦争中、多くの日本国民は当時はまだ「携帯」ではない「情報端末」としてのラジオによって戦況を知らされ、またその終戦は玉音放送で伝えられた。国民は聞けるはずのない天皇の声を初めて聴いたのである。
海ゆかば:
万葉集に収められた大伴家持の長歌『賀陸奥国出金詔書歌一首』の一節に信時潔が作曲した『海ゆかば』もまた、そのような時代に頻繁にラジオから流れた「音楽」として、あるいは学校などで「歌わされる」曲として知られ、おそらく当時この曲を歌えない日本人はひとりもいなかっただろう。そしてそれは作曲家の意図とは無関係に、大日本帝国政府が増え続ける戦死者を美化、神格化するために「利用」した曲なのだとぼくは考えている。つまり『海ゆかば』こそ、勇ましい士気高揚の歌ではなく、兵士の、若者の、ほかならぬ自分の親族の死を藁をも掴む気持ちで美化し、物語化せざるを得なかった人々にとっての「情報端末による音楽」だった。なぜならそれは、他の美しい「音楽」がいつでもそうであるように、ラジオ放送という支配的メディアによって国民各個人、ひとりひとりにおいて内面化さ(せら)れた「歌」に違いないからだ。その時、ラジオは単に情報を伝達するための端末などではなく、もっと個人的で深い情動を国民的規模で引き起こす装置だったのだ。ぼくは「ラジオの持つこの強大な影響力」、言い換えれば、機械によって人間が感覚器官を「拡張」することによってもたらされたこのような事態に恐れを感じているだけではなく、当時と比べてテクノロジーが格段に進化した現代においてそれはアクチュアルであるどころか、さらに深刻な危機を生み出しているように感じる。
MIDIアコーディオン:
一方、フォルマント兄弟が開発したMIDIアコーディオンの歌唱・発話システムは外在化された「発声器官」である。臓器と言っても良い。よく管楽器奏者は言う。「楽器は自分の呼吸器官の延長である」と。しかしF兄弟のアコーディオンは弾いてみても「自分の体の延長」とはあまり感じない。もちろんそれは通常の楽器に比べてはるかに複雑な装置だからだが、理由はそれよりも、自分とは異なる固有の「声」を持っているからだろう。ある声には必ず「声の主」が居るはずだが、合成音声の主はいない。「誰のものでもない」声だけの(非)存在は他者のようであり、そうでもない。まるでそれだけが投げ出された臓器のような、胸に抱いた幼子のような、つまり「自分の能力を拡張したわけではない」という限りにおいてこれはサイボーグではなく、外見を人に似せているわけでもないのでアンドロイドでもなく、自律的に動くわけではないのでロボットでもない。ならば、単なるマンマシン・インターフェースなのかときかれれば、定義としては確かにそうかもしれない。しかし、そうとも思えない。
アンサンブル:
岡野勇仁がF兄弟の歌唱・発話システムを操り、誰のものでもない声で『海ゆかば』を唱(とな)える。その時、いずみシンフォニエッタは「伴奏」をするのだろうか。ソリストがいてアンサンブルがあり、指揮者のもとに音楽家たちが力を合わせ、同じ時空を共有しながら「ひとつの音楽」を奏でる。・・普通はそうだ。「音楽」の魅力、喜びとはそういうものだったはずだ。確かに7歳違いのぼくの父母は同様に『海ゆかば』を学校で自分も歌ったと話していた。しかし、あの悲惨な歴史が再び繰り返されようとしている今、ぼくもまた同じことを繰り返すことなどできるのだろうか。・・そのように思いつめ、ぼくはアンサンブルの音楽家が決して「力を合わせ」たり「心をひとつに」したり「しない」ことを考えた。具体的にはアンサンブルのメンバーが時空を共にしながらも全員が異なるテンポ(拍節の速さ)で演奏するという方法である。アンサンブルをひとつの「器官」だと考え、コンピュータがそれを統括すればこの器官の自律性は保たれ、その機能を維持できるだろうと期待したからだ。そのために、いずみシンフォニエッタのメンバー全員に異なる速度のメトロノーム信号を配信する「IAMASメトロノーム・サーバー」を独自に開発し、音楽家たちにはそれぞれ手持ちの携帯情報端末だけを見ながら演奏してもらうことにした。ただし、その「器官」が本当に機能するものなのか、それが「音楽」たり得るのかはやってみないとわからない。
23. Oct. 2014 三輪眞弘