そんなに詳しいわけでもないのにブライアン・イーノの音楽と自分の音楽について話すことを引き受けたのは、遅ればせながら彼の言うGenerative Music(生成する音楽)について知ったからである。複数のパラメータをユーザがセットして「自動演奏」させるアルゴリズミック作曲&演奏ソフトというアイデア、また設定した同じパラメータによって演奏する度に無限のバリエーションを生む「パラメータ・セットが作品である」という定義など、まさにこれはぼくも昔考えた覚えのあることがらである。そしてこの音楽環境のパラメータ・セットに必要なデータ量はきわめて小さいはずだからプラグインで実現されるインターネット上での展開も今ならある意味で当然のものと頷ける。
今、そのようなものを「考えた覚えがある」と書いたが、実際にそのようなものを10年以上前に苦労して作ったことがある。ぼくが当時試みたそれも確率的な決定によって無限の音楽的なバリエーションを生成するエンジンを持ち、その上にそれらを制御するパラメータ群を自由に変更、編集できるインターフェース部分を持ったものだ。もちろん当時のぼくが使っていたコンピュータにウィンドウシステムなんてないし、あらゆる面でそれは洗練されていなかったけれども、基本は同じである。そしてぼくもこれを「汎用」のソフトとして使われることを当時真剣にに想定していたのだが、しかしほどなく無意味だとみなし開発を止めてしまった。イーノが開発に関わったというそのソフトをだから、ぼくはつい音楽家としてというよりはソフト開発者としての目で覗いてみた:一番複雑になりやすい時間軸の制御における自由度と扱い易さはどうか?望めば劇的な変化やビートのある音楽も可能か?インタラクティブにコントロールできる可能性は?複数のパラメータをさらに統合して制御するメタ・パラメータはあるか?・・等などである。その答えは「多機能ではない」、「ストレートで癖がない」などいろいろあるが、ここで大切なのは当時ぼくが「無意味だ」とみなして止めてしまったこの種のソフトが決して無意味ではなかったことをぼくに告げたかどうかである。(それにしてもマン・マシンインターフェースにこれだけ言うべきことを持つイーノが関係したソフトがなんでウィンドウズ専用なのだろう?不思議だ・・)
イーノはあるインタビューの中で<*>「私の規定した法則に従って作られた音楽を買った人が、それをコンピュータに入れることで、私の聴いたことがないような音楽になりうるんです。そうなるとその音楽は誰のものかということになって、すごく難しいんです。」と述べている。まさにこれが当時ぼくが悩んだ点である。このようなソフト上であるユーザが設定したパラメータ・セットがそのユーザの作品と言えるのか、ということだ。イーノは「すごく難しいんです。」とだけ答えている。
ぼくは当時自分のソフトを開発している間、次々と浮かぶ「こんなこともできたらいいな」というアイデアをソフトに組み入れ、バージョンアップしていったのだが、やがてその作業に終わりのないことに気付いていった。そして「もしユーザがこんなことを望んだら・・」と考え、その想定に対処すべく莫大な時間を使ってプログラムを改良していくことが空しく思えてきた。「汎用性」という名の下に誰かが使うかも知れない、使わないかも知れない機能をなぜぼくが苦労して組み込まなければならないのか?まず、ユーザーに無限の可能性を与えることは絶対不可能であることは十分にわかった。そしてその中でどの可能性をソフトにインプリメントするのかは開発者の音楽観や必要性に従って勝手にきめられることである。そもそも音楽における新しいパラメータを発見し、考え出すことそのものが自分にとっての作曲行為だったのではないのか?・・そう自問自答した。結局ぼくは「パラメータ・セットは作品となりえない」と結論したわけである。別の言い方をすると「その環境、システムそのものがそれを作った人の作品なのだ」と考え、現在もそう考えている。
さて、Koan(公案)と呼ばれるこのソフトであるが、そのような観点から言えばそれは先に述べたようにソフトとしてぼくを驚かせるようなことはひとつもなかった。確かにそこでイーノ自身の手によるパラーメータ・セット、つまり「作品」を楽しむことができるわけだが、それが面白いのは彼がソフトの開発そのものに関わったからだとぼくはやはり解釈する。しかしそんなことより、先の「無意味ではなかったか?」というぼくの問いについて考えてみるならば、ぼくがムキになって答えを見つけようとした「誰の作品か」という問いそのものを曖昧にする透明性、匿名性というものにイーノの打ち出したアンビエントという概念が踏み込んでいる点にあるのではないだろうか?確かに彼のCDをきくと「誰が考えたものでもない」ような、無造作で無作為でイイカゲンなメロディーや和音が随所に見られる。大切なのはそれらをアンビエント・ミュージックという視点から誰もがきちっと位置付けることができるという点である。つまり、それをどのように聴くのかきちんと説明されているということだ。そこの地平線上でイーノという人が忽然とその存在を現すのである。逆に言えばこのソフトを使ってこの「生成する音楽」というものが成り立つのはイーノの概念的裏付けがあればこそのものなのだ。それさえあれば自動生成によってどんなバリエーションを作っても、さらには他の人が自分のKoanピースを作っても大差はない。そしてそれはあくまで「イーノの音楽」と呼ぶこともできるし、別のユーザのサインが入ったアンビエントというジャンルの中の「新曲」と呼ぶことだって可能なのである。
自分自身の試みはもちろん、この種のソフトを非公開のものも含めてぼくはその後、少なからず見てきた。しかし結局そのソフトから生成される音楽が一体「何なのか」、「どのように聴くのか」についてこれだけ誰にでもわかるように、ひとつの言葉で了解させることができたのはイーノしかいなかった。たとえそのアイデアはイーノが初めて提示したものではなかったとしても。イーノは言う。「未来の音楽はライブ演奏される音楽、録音された音楽そして生成される音楽の三つになる」・・をを!わかりやすいではないか。
ぼくがアルゴリズミック作曲の説明に好んで使う比喩の「風鈴システム」という表現はイーノの場合、wind chimeによって説明しているところで笑ってしまった。現在言われているアルゴリズミック作曲は、たとえそれがどれほど複雑なものであったとしても、風鈴というブラックボックスを通して風という入力が音という出力に変換されていくことと同じ図式である。さて、本当に自由なgenerative music、当時ぼくが望んだ本当の「汎用」的なシステムは学習が可能で自己組織化ができる近未来のアルゴリズムによってついに実現するのだろうか?・・いや、ぼくらが考えなくてはならない音楽の問題はそこではないのである!

みわまさひろ