文化庁メディア芸術祭(アート部門)と
サイバーアーツジャパンーアルスエレクトロニカの30年展

月刊「美術手帖」5月号(2010年)

 「よその国のお手本に憧れ、ひたすらそれをマネし続けること」それが日本の美術や音楽すなわち西洋芸術であり、それがマネである限り、みずからの切実な問題として考えられることもなければ共にそれを育てていくこともできない。なぜならお手本はいつもよその国にあるのだから・・。
 この二月に開かれたふたつのメディアアートを扱った展覧会でも、また改めて感じたことである。「メディアアート」=何らかの「装置」に依存した芸術。そのようなものがそもそも存在し得るのかはまだ誰も知らない。ただ、ぼくらは半世紀前頃から、人類がこの地上に存在する限り必ず人為的なエネルギー(電力)が安定的に供給され続けることを暗黙の了解として子供たちの将来や人類の未来を考えるようになり、いつの間にか装置の正確な作動が人類存続の大前提にさえなってしまったことを知っている。高度な技術を頼りに生存を続けるぼくらの精神や文化が有史以来百年前までと同じものであろうはずがないのは当然だが、では一体それは具体的にどのようなものなのか。・・まさにそのことを「芸術、技術そして社会」というスローガンを掲げるオーストリアのアルスエレクトロニカ・フェスティバルは、時代に先駆け三十年も前から問い続けてきた。ところが、百年前とは異なりグローバルな現代社会の状況を共有しているにも関わらず、明治以来と同様「なぜそのようなお手本が西洋で生まれねばならなかったのか?」を一切問うことはなかったという意味で、日本の両展覧会はやはり今まで通りのマネでしかなかった。それは出品された作品のことというよりは、展覧会のコンセプトがまったく見えてこなかったという意味である。

 しかし、今回ぼくが感じたことは展覧会に対する不満というよりも、むしろ自分を含め作家たちがこの国でそれらを「許してきた」ことに対する反省である。ぼくらはメディアアートならぬ「メディア芸術」という役所の意味不明な造語を許し、メディアアートがアニメーションやマンガなどと並ぶ「一部門」であるという、どのカテゴリーの作家にとってもよくわからない一方的な断定を許し、メディアアートをあたかも西洋美術の一ジャンルのように扱うかと思えば、アルスエレクトロニカという真摯な人類史的挑戦を子供向サイエンスパークのように紹介することを許し、しまいには政治家の「これからはアートも重要な産業になる」などという侮辱にまで甘んじて、それでも黙っているのならむしろ黙っている側にも責任があるだろう。
 メディアアートなるものによって問われているのはつまるところ、装置に依存して生きるぼくらが忘れ去ろうとしている「人間にとっての芸術」の意味なのである。それに対してもはやマネすべきお手本など世界中どこにもないことは言うまでもない。そしてだからこそ、メディアアートは伝統や権威に臆することことなく、芸術、科学という分野の枠をも越えて誰もが自分で考え、語り合える無二の可能性なのだと信じたい。
 メディアアートのみならず伝統的な(西洋)芸術分野でも「海外で評価されないと日本では評価されない」というウソのような本当の不条理の中で活動してきた日本の作家たちの状況を、他ならぬ作家たち自身がいよいよ変えなくてはならないとぼくは今回、感じたのである。

2010.3.20  三輪眞弘