ミュゼ用原稿:(98. 2. 25)

音楽を自分の専門とするようになってずいぶんたつのに、やっとCDを出すということがどのようなことなのか最近少しみえてきたような気がしている。

かなり前、前作の「赤ずきんちゃん伴奏器」を出す前から、ぼくは自己紹介用の3本組カセットテープを編集していた。「いつかこれを発表するんだ!」と勝手にきめていたのだ。その当時、具体的なアテなど何もなかったが、やがて幸運なことにこの夢は叶った。「赤ずきん」は1本目、「東の唄」は2本目のカセットのCD化である。これらは録音は違うにしても、曲順もタイトルも、そのカセットとほとんど同じである。そしてまだ発表されていない3本目は「サテライト」と名付けられた、「赤ずきん」と「東の唄」に収まらなかった作品を集めた小品集で、タイトルは「本命」の作品群の周りをを廻る「衛星」という意味だ。

ところで、ここで話している作品集CDは、多くのポピュラー音楽のように録音が作品としての最終的な発表形態というものではなく、あくまでも実際に演奏されることを前提とした作品の、実演の「記録」で、それは通常のクラシック、ジャズのCD等と比べられる種類のものである。

そして、現代音楽というフィールドで作曲家として作曲し、主にクラシックの演奏家にステージ上でそれを音波にしてもらう、というこれまでのぼくの活動スタイルは、再び日本に住むようになって状況が変わった今、必ずしもすべての前提ではなくなってしまったため、今回CD「東の唄」を完成させたことが、ぼくにとってひとつの大きな区切りになった、という感覚がある。もちろん3本目のカセット「サテライト」がまだ残っているのだが、これはこのまま「予定通り」のCD化はせずに全く別の扱い方と方法で近い将来発表したいと思っているので、ぼくにとってはドイツでの作曲活動、即ち現代音楽・コンピュータ音楽という限定されたジャンルにおける活動の成果のすべてが「赤ずきん」とそれに続く「東の唄」なのである。

このように2つのCDはあらゆる面でペアであり、一体のものであるが、それでも「赤ずきん」には「赤ずきん」が、「東の唄」には「東の唄」が収録されている、という点に、まずなにより大きな違いがある(!?)。時間的にも最も初期の、未熟だけれども大胆で、現代の音楽における様々な問題を問う「赤ずきん」に対して「東の唄」は、ぼくにとって「赤ずきん」で示した方向性における音楽的、技術的にたどりついたひとつの到達点、ということになる。つまりこれがあらゆる面でぼくのもっとも成功した作品だと思っている。

また、タイトル通り「東の唄」と対をなす「東のクリステ」は、技術的にシークエンスレベルのリアルタイム操作を中心にした「東の唄」に対し、それをオーディオレベルにまで拡大したもので技術的にはさらに先に進んだものになったのだが、システムが莫大・複雑すぎて再演は今後多分不可能である(多額の費用と時間がかかる・・)と考え、日本移住直前にかなりの無理をして、現代音楽ではなかな難しいスタジオ録音を決行し、とにかく記録として残したものである。

そして、最初に話したことに少し反するが、CD「東の唄」のもうひとつの収録作品、「私の好きなコルトレーンのもの」は本来3本目のカセット「サテライト」に納められていた作品である。逆にいえば世間一般のCD収録時間の常識を無視して「東の唄」は本来2曲で完成させる予定だった。ぼくの側からいえば、物理的な時間ではなく、内容的にもアルバムとしての統一性からいっても、それでCDを買ってくれた人から恨まれることはないと考えていたからだ。なのに、あえてもう一曲加えたのは「正味30分のCDではあんまり短い」という意見があったことも確かだが、何より個人的にこの曲をすごく愛していること、そしてぼくが今持っているテープの中で演奏、録音の両方ともCDにするのに十分に質が高いものがこれだけだったこともその理由である。

ところで愛してる、とか本命、衛星、などと何度も勝手なことを言っているわけだが、これが「作った人の主観」と言ってしまえばそのとおりにしても、ぼくにはかなり明確な基準が自分の中にある。「コルトレーンのもの」が「愛されているけど本命ではない」とはどういうことか?女性関係のことではない。自分が苦労して作ったものを愛するようになるのはアタリマエにしても、実際は、いつも、そう「うまくいく」とは限らないことは想像してもらえるかもしれない。さらに本命であるというのはそれが予想外に「うまくいった」ことではない。そうではなく、それが現代に生きる自分以外の人々に是非、聴かれる「べき」作品かどうか、という自己判断である。これはある意味でとてもオコガマシイ発想であることは承知の上だが、ぼくにとっては自分に対してだけでなく他の人の作品を聴くときもまた同様である。作品にに限らず、人間の作ったものには人間の作ったものとしてのクオリティーが必ずある。そのクオリティーとはある種、別の視点で「なければならない作品」と「あっても良い作品」という区別があると思うのだ。(そして「なくても良い作品」がこの世にはさらにあるわけだが)ぼくにとって「赤ずきん」以来、クオリティーとは無関係に「あっても良い作品」というレベルを少しだけ越えた作品とみなし、「私がつくりました。聴いてください」と自分からいうようになった。「コルトレーンのもの」が本命ではない、という意味は何よりこのことで、別の言い方をすれば、たとえそれがどんな評価であったとしても、これだけを聴いてもらって自分の音楽を一度に評価してもらっては少し悔いが残るのである。ただ、これは結構表面的なことである。つまり、「コルトレーンのもの」を本当に覚えるまで何度も聴いてもらうことが可能で、そこで行われていることに注意深くまなざしを向けてもらえることが許されるなら、それはまったく「本命」の作品とかわりはない。しかし、わかりやすさが全然違うのである。本命は、ぼくが考えたことやいろいろな試みが非常に音楽の表層に明確に現れており、それらを多くの人々に総合的にみてもらうことが可能なはずである。確かに表面的に違いないのだが、現実の問題として、辛抱強く、「コルトレーンのもの」を本当に覚えるまで何度も聴いてもらうことを多くの人に期待することは、今のぼくには許されていない。

CDを出すこと、これを「世に問う」ことだと学生時代以来ぼくは考えてきた。しかし、問われている「世」とは何なのか?ぼくの音楽を繰り返し聴いてくれる友人は「世」ではないのか?そもそも何人の「世」がそのCDを、実際に黙って耳を傾け、さらにその音楽に何かを問いかけてくれるのか?そんな、一人前になったら誰でもわかるハズのあたりまえのことが今頃わかり始めている、というのが冒頭に述べたことである。そしてプロは「本命」以外の作品を見せるべきではない、という考え方が、本命の作品をとりあえず出し終えた今、少しづつ変わりつつある。

作品の内容についてあまり触れなかったが、「スピーキング・ブックレット」、「「東の唄」徹底解説」と称して、紙のブックレットではなく、CDの空き時間を使ってトボケた(技術的にそうなってしまうのだ)人工音声と実例による解説を厳格な(?)作品と並べてCD上に載せてみた。笑いながら参考にしてほしいと思う。

みわまさひろ