「G‐M」03 脱 出 (3)
タカシのノート 1977年6月10日(金)
3度目の休息。通路の隅に腰をおろして、水筒の水を飲んだ。20キロくらい、一気に歩き通せるかと思ったけど、ぜんぜん甘かった。この暗さと、そして蒸し暑さのせいだ。といっても、本当の真暗ではなく、ものの形を見定められる程の、青いぼんやりした光がある。蒸し暑さも、耐えられないほどのものではなかった。腕時計をみると、もう午前2時をまわっている。 ねえさんたちと別れ、歩き出して、そろそろ8時間近くなる。
悪夢というほどではないけど、歩いても歩いても道が進まない。そういう夢を、何度かみたことがある。少し、それに近い感じ。 けれど、そういう夢にはつきものの、焦りや恐怖感は別にない。田村さんが、何もかも詳しく説明してくれたからだろう。ふつうの道を歩くのと違うから、たぶん倍は時間がかかるでしょう、と彼女は注意した。「けっこう、きついわよ」。そのとおりだ。
「明後日になれば、わたしも〈外〉に戻るから、それまで待つなら、いっしょに行きましょう。でも、どうしても一人でいま出発したければ、地下道を歩いて出ることもできるわ。約20キロ。この市の下を通っていくのよ。どうする?」
昨日の夕方、あの〈処置〉が終わったときに、彼女は言った。歩いて行きたいです、とぼくは答えた。待つことも、彼女に連れて行ってもらうことも、べつに嫌なわけではなかった。ただ、「地下道を歩いて出る」という考えに、魅了されただけだ。彼女は微笑んだ。「いいわ。それじゃ、これを持っていらっしゃい。」
田村さんがぼくに手渡したのは、いくつかの物が入った布製の袋だった。
「中にあるものを出してみて。」
ぼくは、それをひとつずつテーブルの上に並べていった。袋のなかには、いくつかのカード、ノート、筆記用具、 錠剤の入った容器、折り畳まれたレインコートみたいな薄いジャケット、小型のヘッドフォン、水筒などが雑然と入っていた。
「サバイバル・キットよ。」
ほんとにそんな感じだった。一見どれも見慣れた物だったけど、触ってみると、いつも使っている日用品とは何かが違っていた。どこがといって言いにくいのだけれど、なんだかすべてが途方もなく精密に、しかも頑丈に造られているように思える。
「ほとんどは、実際に使っているうちに自然に使い方がわかるようになってるわ。でも、とりあえず教えとかなきゃいけないのは・・・」と彼女はノートを手にとって言った。「まずこのノートね。これが、いってみれば〈通信機〉よ。もちろんそれだけのものではないんだけど、当面は通信に使うと思うわ。おねえさんに手紙を書きたいときには、これに書きなさい。タカシくんの書いたことが、字でも絵でもなんでも、そのままここにあるもう一冊のノートに現れるから。試してみる?」
もちろん、ぼくは試さずにはいられなかった。ノートの最初のページのはじめの行に、『6月10日』と、どうしてだか明日の日付を記してみた。すると、田村さんがねえさんの前に広げたもうひとつのノートの第1ページの同じ箇所に、ぼくの書いた文字が、色合いも筆跡もそっくりそのまま現れた。ねえさんはぼくのほうを見て、それから自分もペンを出して、その次に『金曜日』と書き加えた。それは、今度はぼくのノートに、見慣れたねえさんの字で、くっきりと現れた。
「面白いでしょ? まあファックスのようなもんだと思えばいいわ。」 田村さんは付け加えた。「ただ、電源も電話線もいらないだけ。大事に使ってね。もっとも、万一なくしたって、こんなノートは〈外〉でなら、どこでも手にはいるけどね。魔法のようにみえるでしょうけど、たんにそういう仕組みになってるだけよ。どう説明したからいいか、つまり紙の繊維のなかに細かな機械的構造が織り込まれているわけ。とても便利なんだけど、ただこの世界の中では、わたしたちのいるこの部屋のなかでしか、作動しないの。だから、タカシくんは〈外〉に出たら、どこも使えるけど、マリ子さんは、ここに来て使ってもらうしかないのよ。」
「この部屋は、いつでも入れるの? それにこのノートは、いつもこの場所に置いてあるんですか?」ねえさんが尋ねた。
「そうよ。この部屋に鍵はかかってないわ。でもいまのところ、この市では他に、誰も入る人はいないでしょ。用がないもの。ノートも、使うのはマリ子さんだけよ。万一他の人が使おうとしても、読むことも書くこともできない。あなたがさっき最初の一語を書いたときから、このノートはあなたを〈憶えて〉しまったから。」
田村さんはそのほかのいくつかの道具についても、わかりやすく説明してくれた。たとえば錠剤。
「自分がどこにいるのかわからないような、不安な感じがしたら、すぐ飲みなさい。〈脱適合化処置〉の結果を定着させるためのものよ。無理して飲まないでいると、元に戻ってしまうこともあるから気をつけて。」
田村さんがすべての説明を終えた頃には、もう6時に近くなっていた。ぼくはテーブルの上に並べた道具をひとつずつ自分のナップサックにつめ、最後にそれが入っていた袋も畳んで入れた。そして、最後には聞こうと思っていたことを、やっとのことで口にした。
「戻ってくることは、できるんでしょうか?」
ここをいったん出たら、当然もう帰れないのだと、なぜか自分で決めつけていたのだ。だから思い切って聞いたつもりだったのだけれど、彼女の答えは意外なほどあっさりしていた。
「もちろん、できるわよ。あなたがそう望めば、いつだって。この世界にもう一度入るには、〈再適合化〉の処置を受ければいいだけ。さっきの〈脱適合化〉と同じくらい簡単なことよ。ただそれをすると、あなたが〈外〉で経験したことのすべては、もう思い出せなくなってしまう。つまり、帰ってきたタカシくんにとっては、〈外〉は存在しないことになってしまう。だから、なんというか、たしかに戻ってはこれるんだけど、この世界の中においては、そもそも出ていかなかったのと同じことになってしまう。・・・ということは、本当の意味では〈戻った〉ことにはならないわね。なんかややこしいけど、わたしが何を言おうとしているか、わかるでしょ?」
マリ子のノート 1977年6月10日(金)
午後6時すぎ、わたしたちは田村さんに導かれて、非常口の階段をいちばん下まで降り、地下道の入り口に立った。入り口には重い鉄の扉があった。殺風景なただの扉だったが、ここにも鍵らしいものは見あたらなかった。わたしはタカシと握手をし、抱き合って別れを告げた。
タカシとこんなふうに抱き合うなんて、子供の頃はともかく、はじめてだった。いままでこらえてきた涙が、どうしようもなくあふれてきた。「どうしても帰ってほしかったら、そう書いちゃうからね」とわたしは言った。タカシはそれには答えず「ぼくも手紙、書くよ。」と言った。そして少し間をおいて、わたしの耳元で小さな声でつぶやいた。「さよなら。ねえさん、ごめんね。」
タカシは、扉を開け、もう一度無言で短くこちらを振り向くと、地下道へ消えた。扉が、ゆっくりと音を立てて閉まった。田村さんとわたしは、しばらくそこに立っていた。やがて、彼女がわたしのほうに顔を向けて言った。
「心配はいりません。地下道に危険なことは何もないわ。〈外〉だって、この世界よりもとくに危険ということは、ありません。・・・危険なのは外界じゃなく、わたしたちの心よ。さ、部屋に戻りましょう。」
わたしたち2人はさっきの部屋に帰ってきて、もういちどテーブルに向かい合ってすわった。
「〈危険なのはわたしたちの心〉って、さっきおっしゃいましたよね。その〈わたしたち〉って、田村さんやわたしのような〈外〉からきた存在っていうこと?」とわたしは聞いた。
「いいえ、そうではないわ。タカシくんも、この市の人々も、この地上のどんな市の住人たちも含めた意味よ。〈心〉をもつ存在って意味。」
「田村さん、タカシは、わたしが〈外〉から来たということの意味を、まだちゃんと理解していないと思います。いいえ、わたしだって、本当は、理解していないわ。少なくとも、田村さんと同じようにはね。たしかに、わたしは田村さんに言われて、いままで忘れていたある大切な事実を、はっきり思い出しました。それは、タカシの姉である人——つまりこの世界で、北川良江という母親から生まれた北川マリ子という人間——が、市役所の新人研修中に不慮の事故で亡くなったこと、わたしがその代わりとして、彼女の身体に似せて成形され、彼女の記憶をそっくり移植されたこと、つまりわたしは〈北川マリ子〉となったこと。わたしに思い出せるのは、そこまでです。わからないのは、どうしてそんなことをしなければならなかったのか?ということだわ。事故死も病死も、この世界で現実に起こっていることでしょ? どうしてわたしだけが、死んだ人間の代わりとして、生きなければいけなかったの?」
「こういうケースは、あなただけではないのよ。この市には約28万人の住人がいるけど、そのなかで現在、あなたを含めて744人、何らかの仕方で、〈外〉からきた存在が混じってるわ。約0.3パーセントというこの比率は、他の市でもだいたい同じのようです。理由はよくわからないけど、安定性の高い数値のようね。どのようにこの比率を維持するか、誰と入れ換えるかを決定するのは、わたしの担当じゃないんで、よくはわからないんだけど。」
「わたしはつい数時間まえまで、自分は本当にタカシの姉だと思ってました。いいえ、いまでも気持ちはまったくそのままなの。身体も心も彼女のものを引き継いでいるんですもの、どこに〈違い〉があると言える? けれども、わたしは〈本当は〉北川マリ子じゃない。そのことを、いまは知っている。これは不思議な感じだわ。そもそも、わたしが〈本当は〉北川マリ子じゃない、というときの、この〈本当は〉って、どういうことなのかしら?」
「それは〈人間〉的な問いね・・・。」といって彼女は微笑んだ。「あなたは、いままでどおり北川マリ子なのよ。そう思ってて、何もさしつかえないわ。ただ、一人の人間の母親から生まれた存在ではないってことだけが違うの。あなたもわたしも、人間のそれよりもっと大きな〈母〉から生みだされたの。ものすごく、大きなね。だからわたしたちの身体は、この市の人々のそれよりも長持ちするし、自由に加工し組み立てることができるのよ。もっともあなたの場合、この市で生きているかぎりは、当面そんなことをする必要はないけど。あなたにそのことを思い出してもらったのは、これからタカシくんと、ちゃんといろんなことを話しあえるようにしてあげるため。だってかれは、〈外〉に行ったのだから。〈外〉の世界を支配しているのは、わたしたちのような存在なのですからね。」
タカシのノート 1977年6月10日(金)
午前4時11分。地下道は突然行き止まりになった。突き当たりの壁に、この地下道に入ってきたときと同じような扉がある。着いた、とぼくは口のなかでつぶやいた。さっきまでは、この地下道が永遠に続いていくような錯覚があったのに、こうして着いてみると、もう終わりなのかという、妙に拍子抜けする感じだった。
ぼくは後ろをふりかえってみた。何時間も同じ場所を歩き続けて、もう眼に焼きついてしまった風景、ぼんやりした青い光に満たされた地下通路が、まっすぐに何キロも先へとかすんでいる。自分が歩き続けていた足音の単調な反響が、まだどこかに残っているような気がした。
扉を開けると、上に向かう階段があり、それを2階分くらい登ると、植物園で見た熱帯植物の温室のような場所に出た。階段の出口を中心にして、透明なガラスで出来た、半径10メートルほどの、半球形の構造物だった。外はまだ夜明け前で真っ暗だったが、地上であることは疑いなかった。
ガラスに顔を近づけて、外を眺めてみた。黒々とした夜空に、星がくっきりと見えた。近くに建物らしき影は見えず、人の気配もない。地上の様子は、暗くてよくはわからなかったが、なだらかな起伏のある荒野か、砂漠のようにみえた。
数分か、もしかしたら数十分も、この光景に見入っていたように思う。これからどこに行き、何をすれはいいのかは見当もつかなかった。けれども、とにかく、外に出てみようと思った。透明な壁の一部が、ドアのようになっていて、軽く開けることができた。開けると、〈外〉の匂いが流れ込んできた。
街も、夜になると違った匂いがした。街が夜に発するあの独特の匂いは、自分のいままでの、苛立たしい気分と、切り離すことができない。深夜の駅、公園、シャッターを下ろした商店街、遺棄されたゴミで汚れた河川敷、染色工場の長いコンクリート塀、住宅地の尽きる裏山の道——そうした、昼間は見慣れた街の一角が、とりわけ夏の夜ともなると、奇妙な蠱惑的な匂いを発する。最初のうちはそれが、自分の気持ちをなぐさめてくれるような気がして、いつまでも家に帰らず夜のなかをうろついていた。
でも、もうこの半年ほどは、それもダメだった。悪い仲間たちとつるんでいろんなバカ騒ぎをしたけれども、けっきょく〈夜〉という異界は見かけ倒しで、ぼくをどこにも連れていってはくれないことがわかった。昼も夜も、けっきょく同じことだった。それ以来、街のあの夜の匂いは、ぼくにとって、かえってうっとおしいものでしかなくなっていた。
けれども、いまこの夜に充満している匂いは、それとはまったく違った何かだった。街では一度も感じたことのない匂い、植物が枯れて乾燥しきったような匂いだった。
出て来たのと反対側のほうに回りこんで見ると、地平線上に白っぽい、巨大な半円形の影がみえた。最初は、地上に近いところかかってる雲かと思った。だが眼をこらしてよく見てみると、輪郭はほぼ完全な円弧をなしており、雲であるはずはない。それは、ドームのような構造物のように見える。距離は、たぶん2、3キロ先だろうか。だとしたらとても巨大なものに違いない。高さは数キロ、いやもっと大きなものだろう。
眼が慣れてきて周囲の様子がようやくわかってきた。地表は見渡すかぎり半分砂漠化した荒れ地で、人工的なものは、ぼくがいま出てきたサンルームのような建物と、遠くに見えるあの正体不明の巨大なドームしかない。ということは、あれが何であろうとも、あれに向かって行くしかないのではないだろうか。
そう思って、ゆっくり歩き出した瞬間、ぼくは呼びとめられた。
「そっちに行っても、なんにもないよ、タカシくん」。
ぼくは肩をビクッとさせて立ち止まった。何時間も一人でいた後だったので、驚きで、すぐに振り向くことができなかった。
「恐くないでしょ? 〈処置〉、受けたよね。なら、大丈夫。タムラさんから聞いて、迎えにきたの。あのお・・・あたしのコトバ、わかる?」
小学校5、6年生くらいの、女の子だった。濃紺の、皮のような光沢のある大きめのつなぎをすっぽり着ていた。髪は透明感のある緑色で、気のせいかそれが微かに発光しているようにも見えた。背後に、大型のスクーターのような乗物があり、そこからのびている綱を手でつかんでいる。見かけは子供なのに、視線はしっかりと相手の顔に向けたまま話す。そこには、子供独特の落ち着かない動作が、いっさい感じられなかった。田村さんと、どこか似ている、とぼくは思った。
「コトバはわかるよ。びっくりした。誰か迎えに来るなんて聞いてなかったし・・・」とぼくは答え、少し平静さをとりもどした。「とにかく、ありがとう。いや、その前に、はじめまして。ぼくは、あ、もう知ってるのか。」
「あたしはナツコよ。よろしくね。なかなか出てこないんで、どうしたのかと思ってたよ。じゃ、行きましょ。あ、これで行くのよ。タカシくん、後ろに乗って。」
彼女はそういって、スクーターのような乗物を示した。後部には、大人が十分2人乗れるくらいのスペースがあった。車輪らしいものはなく、何で動くのか見当もつかない。ぼくが乗り込むと、ナツコは前の操縦席らしい場所にすべりこんだ。後ろと違い、そこはちょうど彼女の身体がすっぽり入るくらいの大きさしかなかった。
「行くって、どこに行くの?」
「どこでも行くけど、まずどこかで休みたいでしょ。一晩中、歩いてきたんだし。お腹も空いてない?」
もちろん疲れてたし空腹だったはずだけど、そんなことを感じている余裕はなかった。とにかく、聞きたいことが山ほどある。こんなに狂暴なほど、いろんなことを知りたいと感じたのは、生まれてはじめてのような気がした。けれども、何から聞いていいかわからなかった。
「あれは・・・?」と、やっとのことでさっきのドームを指さした。ナツコはくるりと振り向き、ぼくの指さした方向をみて、まるではじめて上京してきた友だちに観光案内でもするような、ふざけた口調で答えた。
「あれ、何でしょう? ハイ、当たり! タカシくんがいままでいた場所。JP-77 と呼ばれてるコロニー。約28万人の人々が、20世紀後半の、そうね、だいたい1970年代の日本のライフスタイルで生きてるエコシステム。直径37キロ。あ、そうだタカシくん、タムラさんにもらったクスリ、飲んでる? 出てきた人は、はじめのうちはあれ飲まないとショック受けて落ち込んじゃうのよ。」
「大丈夫だよ。不思議なんだけど、こうして聞いてみると、いま聞いたことが当たりまえのような気がしてくるんだ。ただ、基本的なことを、もっと知りたい。」
「なんでも聞いて。だけど、走りながらでもいい? 夜の砂漠を飛ばすの、すきなんだ。さっきから、待ちくたびれちゃって。」
ぼくの答えを待たずに、ナツコは乗物を始動させた。聞き慣れたエンジンの音ではなく、大きな動物の低い呼吸音のような響きが起こった。それが高まるとともに、乗物はスムーズに加速されていったが、恐くなるほどの速度ではなかった。彼女のいうとおり、荒野の夜の空気が心地よかった。
「まず何聞きたいか、当てようか?」とナツコは走りながら、後ろを振り向いて話しかけてきた。「20世紀の人たちってさあ、『サイエンス・フィクション』っていうのをよく読んでたんでしょ? そのなかで、未来に時間旅行した人はかならず、ここはどこなんだ?いまはいつなんだ?って問いかけるのよね。それじゃない?」
あんまり彼女のいうとおりだったので、ぼくはなんだか恥ずかしくなって黙っていた。
「ごめん。からかいすぎた? じゃ、素直に言うね。もうすぐ、西暦でいうと、2258年6月10日の夜明けです。そしてここは、えーとね、この場所は、20世紀の地理だとたぶん、アメリカ合衆国ニューメキシコ州の一部ってことになるのかな・・・。」
(C)Hiroshi Yoshioka
