「G‐M」06
ホワイトボードに簡単な図を描きながら、田村さんはぼくの心の中で何が起こりつつあるのかを説明しようとしていた。ねえさんの勤める市役所の地下の、小さな会議室。お役所らしい愛想のない壁に「街にもっと緑を!」のポスター。その中で、子供たちに囲まれて微笑みかけているアイドル歌手・・・。「既視感」というのだろうか、はじめての場所なのに、いままでに何度も来たことがあるような気がする。
ぼくの記憶は、8回にもおよぶ「脱適合化」と「再適合化」のためにズタズタに引き裂かれているのだ、と田村さんは言う。その説明自体は、とくに難しいとは感じなかったのだけれども、それがどういう意味で困ったことになるのか、ぼくにはまだわからなかった。それはたぶん、記憶とは何か?ということを、ぼくが理解していないからだろう。説明が終り、田村さんが椅子に腰掛けたので、ぼくはきいてみた。
「つまり、過去のあることが思い出せなくなるってことですか? でも、ぼくは自分の記憶が変だとは、ぜんぜん感じないんですけど。あ、そうか。どんな大事なことでも完全に忘れちゃったら、もうそれが大事だってこともわからないわけだから、当たり前か。でも、それならそれで、かまわないような気もするな。ぼく、これまでの人生で、どっちかというと憶えていたいことより、忘れてしまいたいことのほうが多いしね。」
彼女は紅茶のカップを口に持っていきながら、目を細めてそれを聞いていた。
「あ、こんなヤケクソみたいな言い方してすみません。もちろんぼくだって、忘れたくないことはいくつかあります。楽しい思い出もあるし、学校の何人かの仲間のこと、家族のこと、もちろん田村さんのことも。でも、みんなちゃんと憶えてます。こういう記憶は、たしかなものだと思えるんです。うん・・・たしかに8回も〈外〉に出たっていう、そのときの記憶はないけど、でもそれだけのことだったらぼく、べつにかまわないです。」
「たんに、何かが思い出せなくなるっていうことじゃないのよ。」と彼女は言った。「タカシくんがこの先ずっとこの世界にとどまるつもりなら、いまのままでもたぶん大丈夫。最後に受けた〈再適合化〉の効力が何年かは持続するだろうし、その後障害が起こっても、処置の方法はあるわ。でも、もう一度〈外〉に出て行きたいんだったら、いったいどうしたらいいんだろう・・・。」
これまで確信をもって静かに話してきた田村さんが、そんなふうに急に途方にくれた顔になるのは、なんだかおかしかった。ぼくの方は、事態がよくわかっていないからなんだろうけど、不安はぜんぜん感じなかった。どうにかなる、と思っていたのである。それに、田村さんがそんなにぼくのことを心配してくれるのがうれしかったし、彼女でもわからないことがあるのかと、かえって親しみをおぼえたくらいである。
「〈適合化〉というのはね、タカシくん」と、何かを決心したように田村さんは続けた。
「たんに記憶のある部分を分断するとか、取り除くとかいうことじゃないの。そうではなくて、この世界で生きるために、心の働き方を根本から調整することなのよ。といっても、まだ最後の〈適合化〉の影響下にある今のタカシくんにこういう言い方をしても、わかってもらえるか自信はないんだけど・・・」
彼女は再び立ち上がって、タカシの向かい側にある壁のところに歩いていった。
「たとえばこの部屋、あなたは今までにもう、8回も来ているのよ。最初はおねえさんと二人で、わたしのカウンセリングを受けたわね。この部屋に、ぜんぜん見覚えはない? ここに貼ってある緑化運動のポスター、ここに来るとあなたはいつも、この歌手の女の子の笑い方はなんだかわざとらしい、って言ったのよ。8回も、同じ場所で同じようなことを。でも、それはタカシくんに限ったことじゃない。この世界は、そもそもそういうふうに出来てるのよ。 JP-77 は、1977年の日本のある地方都市をモデルにして設計された世界なの。ここでは、時計の時間は進んでいるのに、いつまでも1977年が反復されなければならない。ここでの人々の生活は、10年前、100年前と同じなの。ここの日常には、終りがないのよ。そのことを自然に受け入れられるように、心を調整しておかないと、この世界では幸福に生きられないでしょ? もちろん「幸福」っていったって、人々はいろんな不満を持ち、争いながら生きてるわ。でもどんな不満も争いも、ただの反復であり、既知のことなの。だから安全。もちろん、病気も事故もあるし、寿命もあるわ。でもこの世界に生まれ、ここで死ぬことは、基本的に安全なこと、〈永遠〉のうちに生きることなのよ。この世界のメリットとは、それが〈外〉の時間、何が起きるか分からない本当の時間の残酷さからまもられてることにある。それが、この世界が存在している意味なのよ。人間が長いこと夢見てきた、天国とかユートピアというものに、いちばん近いものが、実現されているのよ。」
かすかに、彼女の言おうとしていることがわかったような気がした。けれどもその理解は、先ほどの既視感のように、はっきり意識しようとすると消えてしまうのだ。まあいいや、とぼくは思った。自分の生まれた世界がどういうものかは、いずれわかる時が来る。いま確かなことは、ここから出て行きたいという思いが、まだ続いていることだ。けれどもそれはもう、がむしゃらな強烈な望みではない。永遠の反復だという、この世界に対する苛立ちや嫌悪感も感じない。ただ自分にとっては、〈外〉に出ることが正しいのだという、確信に近い思いだけが残っていた。
「このまま〈外〉に出たら、どんな危険があるの?」
「予測はできないわ。〈適合化〉の影響が不完全なものになっていくにつれて、分断処理された記憶どうしがつながり合うことになるでしょうね。つまりタカシくんは、忘れていたことをいっぱい思い出すことになるでしょう。でもそれが、自分の記憶として統合されるという保証はない。コントロールできない記憶が、心のなかに別な中心を作り出す可能性があるのよ。」
「よくわからないけど、それじゃあやっぱり、出て行くにはもう一度〈脱適合化〉を受けないとダメってこと?」
「いえ、もうこれ以上、処置を重ねることはしたくないの。ダメージが大きすぎるし、それにまた、タカシくんはここに戻ってくることになるかもしれない。同じことの繰り返しになる可能性が高いわね。」
「でも、田村さんはこういうことの専門家でしょ? いままで、ぼくみたいに何度も〈外〉との間を往復した人たちだって、いるんでしょう? そのときはどうしてきたの?」
「〈外〉との間を2回以上行き来したケースは、ごく少ないのよ。もちろん、記録はあるわ。22世紀のはじめ頃までは、まだ適合化のシステム自体に不安定な部分もあったから、今よりは少し多かったようね。でもほとんどの人は、2回目の〈脱適合化〉か〈再適合化〉で、そのまま〈外〉か、またはもとの世界に定着してきた。3回以上出入りを繰り返したケースは、本当に数えるほどしかない。とくに、〈G-M〉が世界システムの管理に介入するようになってからは、〈外〉に送られる人の数は激減してきた。ただ・・・この数年の現象なんだけど、2回以上の往復を繰り返す、いわば〈リピーター〉の比率が、どうも増え始めているみたいにみえるの。といってもまあ、〈外〉に送られる人の数自体が少ないので、これが統計的に有意な変化と言えるかどうか、わからないけどね。え? ああ、いままでの最高は、6回。だから、タカシくんのはいわば、新記録よ。やったね、おめでとう! ははは、冗談いってる場合じゃないよね。」
「その、6回ってのはどういう人だったの?」
「この JP-77 から200キロほど離れたところに、紀元前5世紀頃の北インドの村落をモデルにした世界があるんだけど、そこで育った女性ね。5回目に帰ってきたとき、記憶に障害が起こったわ。自分が誰だかわからなくなっちゃったの。自分のなかにたくさんの、別な人々の存在を感じるようになって、それは自分が生まれる前に経験した、別な人生の記憶なんだろうと彼女は解釈したのね。それで、そのことを村の人たちに話しはじめた。変わった能力をもつ女性だということで、最初は少し怖がられたけど、やがてそういう人として受けいれられ、わざわざ彼女に話を聞きに行く人もいたようね。この JP-77 みたいな世界だったら、そんなにうまくは行かなかったかもしれないわね。でもそれから十年あまりたって、彼女はもう一度〈外〉に行きたいと言い出した。それでわたしたちは彼女に6回目の〈脱適合化〉処置を施したんだけど、〈外〉に出て数週間後、彼女は自分の意志で、生きることをやめてしまったわ。」
「自殺したってこと?」
「自殺というか・・・部屋にこもって、食べ物も飲み物もとらずに、衰弱死しちゃったの。その現場にはわたし自身が立ち会ったので、よく憶えてるわ。そのとき彼女はもう40歳をすぎていたし、栄養失調で骨と皮ばかりになっていたけど、ベッドに横たわった顔は、眠っている子供みたいに安らかな表情だった。もちろんこの意図的な餓死が、繰り返された記憶操作のせいであると断言はできないわ。でもわたしは、とっても悲しかった。タカシくん、これ以上の〈脱適合化〉に慎重になってるのは、この人のことがあるからなのよ。」
「それは、いつ頃のことなの?」
「彼女が亡くなったのは2242年。ということは、今から18年前の、9月7日。」
それは、ぼくが生まれる1週間前だ。その女性が説いていたという「生まれ変わり」なんてものを本気で信じる気はないけど、こういう偶然の符合が、やはり何かを自分に告げているような気が、どうしてもした。田村さんの言った、〈リピーター〉が増えているらしいということも、この世界--といっても JP-77 のような世界のことではなく、それらを含む〈外〉の世界全体が、何らかのしかたで変わりつつある、知らせではないだろうか。その変化がいいことなのか悪いことなのかは、とてもぼくには言えない。けれども、自分は一人ではないこと、世界に起こっている新しい変化の徴候かもしれないという思いは、勇気のようなものを与えてくれるのだった。
「けっきょく、こうするのがいちばんいいのかな・・・」
しばらく沈黙したあと、田村さんはぼくに聞かせるというよりも、まるで独り言をいうようにつぶやいた。
「タカシくんが今までに受けたすべての〈適合化〉と〈脱適合化〉の影響を、できるかぎり中和してしまう。つまり白紙に戻してしまうというか。この世界のためのガードも、〈外〉で生きるためのガードも、取ってしまう。前代未聞で危険ではあるけど、そうすればもう、記憶操作の影響による障害を心配する必要はないわ。問題は、何の処置もしないで〈外〉に行った人間が、いったいどんなことを経験するかってこと。これは先例がないし、予測がつかない。でもね、タカシくん、あなたを見てるとなんだか、そうしてあげるのがいちばん正しいような気がしてくるの。そしてこれが、あなただけの問題ではないような気もする。何だか、あなたのような子はこれからも出てくるような・・・理由はわからないんだけどね。なんだか人間と〈外〉との関係が、少しずつ変わり始めているような、漠然とした予感がするのよ。不思議よね。」
(C)Hiroshi Yoshioka
