「G‐M」09
海に行く日
早く学校、終わらないかなあ。まだ一時間目がはじまったばかりなのに、ぼくはもう、うわのそらだった。海開きして間もない土曜日。学校が終わったらすぐ家に帰って、家族で海水浴に出かける約束をしてたんだ。ぼくの家は、内海に面した小都市の郊外にあった。父さんの運転するカローラに乗って、30分ほど走れば海に出る。着くまでの車窓からみた風景も、ぼくはよく覚えている。
そう、去年もちょうど今ごろ、みんなで海に行った。峠を越えて路が下りはじめると、潮風の匂いがした。後部座席の窓に顔を押しつけるようにして、ぼくは通り過ぎる景色に見入っている。道路沿いの木立が切れるたびに、遠くまで視界がひらける。幅数十キロの内海を隔てた対岸が、遠く霞んで見える。それよりもずっと手前に、こんもりした森を背にした神社のある、小さな島が浮かんでいる。さらにその神社と、こちらの岸との間の海上に、赤い鳥居が立っている。幼い頃から何度となくみてきた風景。この景色は、ぼくの幼い頃の夢のなかに何度も現れた。でも後で考えてみると、夢のなかの風景は現実の景色には似ておらず、むしろ土産物屋で売っている絵葉書の写真に近かったような気もする。
幼いぼくにとって、家族で海に行くのは楽しかった。乾いた熱い砂を踏む感触。打ち上げられた海藻が日に干されて、すえたような匂い。まだ夏休みに入らないので、砂浜はそれほど混んではいない。水に入ると冷たくて、まだ泳げないぼくはビニールの浮き輪をつけて父さんに引っ張ってもらった。水を鼻に吸いこんだ時の、つんとした痛み。日に焼けてひりひりする背中。浜にあがると、イカを焼く匂いがする。イカは子供には消化に悪いというので買ってもらえず、父さんは焼いたトウモロコシを半分に割って、ねえさんとぼくにくれた。
けれども、もうひとつの記憶がある。走るようにして土曜の午後、家の玄関を入ると、空気が重苦しく沈んでいる。ただいま、って言っても、誰も出てこない。しばらくして、ねえさんが2階からゆっくりと降りてくる。怒っているような、悲しんでいるような顔。ぼくを見て、「タカシが悪いのよ」とちからなく言う。ぼくの全身から、血の気がひいていく。喉もとに、なにか熱っぽい塊が上ってきて、声が出なくなる。さっきまでの高揚した気持ちが、幻のように感じられる。またあれが来たんだ、と思う。こうなったらもう、どうすることもできない。
「どうして、もっとキチンとできないの?」とねえさんがぼくを睨みつけながら言う。それは、かあさんの口調だった。かあさんが、ねえさんの口からしゃべっている。ぼくの家は、かあさんの感情がすべてを支配していた。でもそれは、かあさんがわがままな暴君だったということではない。かあさんの感情は、いわばかあさん自身にもどうにもならないものなのだった。ふだんの日も学校から帰って「ただいま」と言ったあと、ぼくは耳をすますようになっていた。「おかえり!」と明るい声がかえってくると、ホッと安心する。けれども返事がないときは、全身の皮膚を緊張させながら、おそるおそる家に入っていかなくてはならない。
危機は、どんなちいさなきっかけからもやってきた。あの海に行く約束の日にはたぶん、ぼくが自分の部屋を汚くしていたとか、学校からの通知を見せるのを忘れてたとか、そういうこと。小学校に入ったんだから、自分のことは自分できちんとしなさいよ、とたしかに前に言われていた。けれどもキッカケは、別にどんなことでも同じだった。かあさんの機嫌のいい時には、「しょうがないなあ」と言って許してくれるような、他愛のないことばかり。けれども、そうしたことの一つがある時突然、何もかもを台無しにするのだ。
けれども子供の頃のぼくにとっては、自分のしでかした小さな不注意が、すべての悪いことを引き起こす原因であるようにしか思えなかった。ほんの小さなことが、すべてを狂わしてしまう。かあさんの不満はやがて、ねえさんや父さんに対するものへと飛び火してゆく。父さんは、はじめは短い、きつい言葉でかあさんをたしなめるけれど、それが無駄だとわかると後は黙っている。けれどもねえさんはたいてい、かあさんと長い間激しく言い争う。そしてそれが、事態をますます悪くする。
ぼくは、恐いけれど台所に入っていって、かあさんにあやまればと思う。それで事態がよくなるなら、そうしようと決心する。でも廊下に父さんがたっていて、タカシ、しばらく部屋に行っていなさい、と抑揚のない声で言う。いま入っちゃいけない。台所はいまガラスが飛び散っていて危ないから。もう少ししたら、父さんが片付けるから心配ない。かあさんは今日、気分がすぐれないんだからね、夜はこれで何か買って食べておきなさい。
とにかくこうなってしまったら、もちろん海になんか行けない。それどころか、いつもならうれしいはずの土曜日の晩ご飯もない。ぼくは自分の部屋に入って、じっとしている。嵐がおさまるのをただ待っている。最初は、こんなにして自分の楽しみを突然台無しにしてしまうかあさんが、恐いと同時に恨めしく思って泣く。でも泣いているうちに、かあさん自身も本当はとても可哀想な人のように思えてくる。何か得体のしれないものが、かあさんの心を餌食にして、かあさんを苦しめ、そのことを通じてぼくたちみんなを苦しめている。でも、それが何なのかわからない。
娼婦
よく思い出せないけど、子供の頃の夢をみていたような気がする。眼を開けると、もうあたりは真っ暗だった。ヤミはまだ帰ってこない。6時間以上も眠っていたことになる。昼すぎにここに着いて、簡単な食事をとった後、彼女はここから2キロほど離れたところにある街に行くと言って出ていった。そこで4、5人の仲間たち、つまり他のリリトたちと会い、今後必要な物資も調達してくる、と言って。タカシは行かないほうがいい、とヤミは言った。なれない旅で疲れているだろうし、それにこの街はあまりガラのいいところじゃない、って。
知らない街は見てみたくもあったけれど、実際かなり疲れいてるのは彼女のいうとおりだったので、ここに残ることにしたのだ。いつ帰るとは、彼女は言わなかった。時計をみると、もう深夜の12時をまわっていた。出ていってから、10時間近くもたつ。このまま、ここで待つべきかどうか、ぼくには分からなかった。立ちあがって、周囲をみわたしてみる。この場所も、今まで見てきたのと大差はない、乾燥した荒地である。彼女が入っていった街は、夜になるとくっきりと灯りが浮き上がり、とても近くに感じた。しばらくはじっとそれを眺めていたが、気がつくとぼくはそこに向かって歩き出していた。
近くみえても、街に着くまで30分近くかかった。街は、突然はじまる。それを外の荒野から隔てる柵も城郭もない。ぼくは四角い敷石のならんだ通りを入っていった。人気はない。しばらく当てずっぽうに歩くと、広場に出た。広場にも人気はなかったが、それに面した盛り場らしい一角には、たしかにいくつかの建物に灯りがついていて、人の気配がした。〈あまりガラのいいところじゃない〉というヤミが言ったことを思い出して、ぼくは注意深くそこにむかって広場を横切って行った。
そのとき、突然うしろから肩をつかまれた。
「旅行者かい?」少年のような声が聞く。
「はい。」
「ヒトだろう、きみ?」
「・・・」
「ここ、あんまり安全なところじゃないよ。誰と来たの?」
率直な話し方はけっして警戒心を抱かせるようなものではなかったけれど、どう答えていいものかぼくにはわからなかった。思わず正直に答えそうになったけど、そもそもリリトといっしょにいるということが、この世界でどんな意味をもつのか、計りかねるのだ。けれども何もわからない以上、とにかく話してみるしかないだろう。ぼくは後ろに向き直った。ぼくに話しかけたのは、小柄な白人の少年だった。
「きみ、まだ〈外〉に出て来たばかりみたいに見えるけど、ちがうかい? いままでどんな目にあってきたか知らないけど、ぼくは乱暴なことはしないから安心して。といったってここでは何もかもが未知なきみには、こんなこといったって安心できないだろうけどね。」
「友だちといっしょに、今日来たんだ。その子が、この街に用事があるって出かけて行ったんだけど、帰りが遅いもんだから、ちょっと見に来たんだけど・・・。」
「きみの友だちって、まさか」とその少年は少し驚いたような顔をして、声を押さえて言った。「リリトかい?」
「・・・」
「心配しなくていいよ。今夜何人かのリリトたちがここで商売してるのは知ってる。ぼくは、リリトたちやその活動には無関心で、敵意も共感も抱いていない。びっくりしたのは、ヒトが彼女たちと行動をともにしているなんて、はじめてだからさ。」
その時、広場の向こう側にある建物のドアが開いて、何人かの人影がこちらに向かって歩いてきた。近づくにつれ、しだいにそのシルエットがはっきりとしてくる。ヤミと同じような姿の、数人の少女たち。それに混じって、彼女らの身長の2倍はあろうかと思われる、二人のたくましい男の影があった。
「タカシ、来てたの。」ヤミが、ぼくを認めて言った。彼女以外の4人のリリトたちがぼくのほうをいっせいに見た。そこにいた男の一人が、ぼくたちのほうには目もくれず、真鍮色の顔で夜の空を見上げながら、ものうい声でつぶやいた。
「名残りおしいねえ。せっかく来てくれたんだから、もう少し楽ませてくれないかい? お代ははずむぜ。」そう言って男はヤミのほうを見た。
「いいよ。じゃ、向こうで。」ヤミはそう言って、かれらがさっき出てきた建物のほうを指差した。
「いいじゃないかよ、ここで。すぐすませてやるし、誰が見てたってかまうもんか。」男はそういうとはじめて、ぼくとブライアンのほうを一瞥した。
「おや、こっちの若僧は何の変哲もないブリキ野郎だが・・・もう一人はこいつ、ヒトじゃないのかい? おいヤミ、おまえもつきあいが広いねえ。ヒトってえのは、これはこれで、なかなか楽しみがいのあるもんなんだぜ。」
男はそういって、ぼくの首筋をつかむと、恐ろしい力でいきなり自分のほうに引き寄せた。両手で頭蓋をつかまれると、身体の力が抜けて気が遠くなった。男の意識が、無理やりぼくの心のなかに押し入ってくる。その男のすさみきった狂暴な感情が、半ばぼく自身の感情のように強烈に意識された。楽しむだけ楽しんだ後は、こいつら皆殺しにしてやる。殺しながら楽しんでやる。リリトも、仲間の小僧たちも・・・。
「バカだね、あんた、こんな子供相手に何やってんのさ。」
そう叫ぶと、ヤミはぼくを男から引き離した。そして男の上半身に飛びつくと、両手で男の頭を抱きかかえ、男に接吻しながら言った。
「ここでしたいなら、望みどおりにしてあげるよ。だから、いい子にしてなさい・・・。」
男はあっというまに恍惚とした顔になってその場に膝を折った。ヤミは男に接吻したまま、眉をしかめて集中した表情をみせる。ぼくは、見ていられなくなって目をそらした。
次の瞬間、深い闇をつんざくような悲鳴が上がった。それはヤミが発したものか、男が発したものかわからなかった。目をあげると、信じられない光景がそこにあった。ヤミは男の喉もとを食い破り、噴出す血を浴びながら傷口から手を差し込んで、強靭な筋肉を引きちぎっている。しばらくすると男の喉にはぽっかりと穴が開いた。男の顔はもちろん耐えがたい苦痛に歪んでいたが、身体の自由がきかないようだった。ヤミはその穴から後頭部の方に深々と両手を差しこみ、彼女自身も同じ苦痛を感じてでもいるように顔をしかめながら、今度は彼女のものに違いない高い叫びをあげた。その瞬間、男の顔からは表情が消えてしまった。
見えない場所
厚い雨雲が、空を低く覆いつくしている。暖かい湿った風が、海のほうからたえず吹いてくる。砂浜のすぐ近くまで、人間の身の丈ほどもある葉をもった、見たこともない熱帯植物が茂っている。
この海岸に着くまでの行程は奇妙だった。ついさっきまでは乾燥した砂漠地帯を走っていたのに、着く前の15分ほどの間に、周囲の風景は急激に変化した。潅木の点在する荒野は、急に熱帯植物の繁茂するジャングルに変わった。ほとんど道などみえないような樹林の間を、この乗り物は器用にすり抜けて行った。さっきまでの乾燥した空気は、ほとんど息苦しいほどの湿気を含んだ風に変わった。そして、突然海辺に出たのである。
「もう大丈夫、タカシ?」
「たぶん。」
あの凄惨な出来事のあと、ぼくたちはいっしょに街を出て、ヤミの〈乗り物〉が置いてある場所まで歩いていった〈らしい〉。歩いて行ったということは、ぼくは気を失っていたわけではないのに、ほとんど何も憶えていない。広場で声をかけた少年といつ別れたのかも憶えていない。ただ途中、ぼくははげしい嘔吐に襲われて何度か立ち止まったことだけを記憶している。やっとのことで〈乗り物〉のところまで来た。
「すぐに移動は無理みたいね。もう2時間ほどしたら夜が明ける。それから移動しよう。」とリリトの一人が言った。
「どこに行く? タカシはどこに行きたい?」
〈乗り物〉を背にしてへたりこんでしまったぼくの顔をのぞきこんで、ヤミが聞いた。どこに行きたいかなんて、ぼくに聞いてもわかるわけないのに。けれどもどういうわけか、ぼくはぼうっとした頭で小さくつぶやいていた。
「海。」
「あっ、それがいいよ。海に行こう。」とヤミが言った。
それで、夜明けとともに再びみんなで出発して、ここに来たわけだ。
「わたしたち、存在しない場所に来たのよ。」とヤミが言った。
「・・・?」
「存在しないっていうのは、 G-M にとって感知できない場所、という意味。ここは、外からは見えない。わたしたちが何十年もかかって開けてきた、一種の〈穴〉のような空間なの。」
「でもこんなに開けたビーチが、外から見えないなんて・・・」
「広い空間のようにみえるけど、そうじゃないのよ。ある意味では、タカシのいた世界みたいなもの。タカシは子供のとき、海に行ったことある?」
「ある。いまでもときどき思い出すよ。」
「わずか直径40キロたらずの JP-77 に、海なんかあるわけないでしょ。しかもあのドームは、砂漠の真ん中にあるのよ。」
そうだ。ぼくは自分の子供ときの記憶を、〈外〉から眺めた JP-77 のドームの印象と結びつけて考えることを、わざと避けてきた。
「それじゃあ、この海も・・・」
「いいえ、この海は幻じゃないわ。本物の、アメリカ大陸の西海岸の一部。でも周囲1キロくらいの範囲で、強力な障壁を築いてあるの。人間の住むエコシステムの障壁よりも、ずっと強力なのをね。だから外からは見えないし、入ってくることもできない。だから〈存在しない場所〉なのよ。」
ぼくはあらためて四方を見渡してみた。静かな海は水平線まで続いており、遠くには半島の影がかすんで見える。
「タカシは、この世界のことどれくらい知ってるの?」
「ほとんど何も。 G-M っていう巨大な機械が、すべての生命を生み出していることは知ってる。でもそれが、具体的にどういうことなのかはわからない。」
「 G-M がどんなふうにして出来たかは知ってる?」
「何世紀か前の、人間の科学者たちが作り出したんでしょ? 人間がまだドームに引きこもる前に。」
「タカシが暮らしていた世界のモデルになった時代から少し後、つまり21世紀の後半に、人間はようやく、自然の生物に匹敵する人工物を作り出しはじめたの。人工的に作り出された動物や人間は、またたくまに人間の世界に広がっていったわ。最初は法律や倫理上のいろんな規制があった。けれども闇で出まわる人工生物のマーケットはどんどん拡大してゆき、国も警察も、もう押しとどめようがなくなってしまったのよ。人工生物を製造する巨大な企業体はしだいに他を吸収しあってひとつに統合されていった。そうして生まれた、巨大な人工物自動生成システムが G-M の原形なの。」
「リリトたちは、そこから生まれたの?」
「わたしたちは、 G-M が人間の手から離れて自分で動き始めたとき、最初に生み出されたモデルなのよ。もうわかってるかもしれないけど、わたしたちは〈娼婦〉なの。セックスをするための人形として、もともとデザインされたのよ。このタイプの人工物は、人間が地上を支配していた時代からすでに、マーケットではとても大きな分野だった。 G-M は、それが人間の手から離れてからも、しばらくはわたしたちみたいな存在を造りつづけた。セックスといっても、もちろん人間がするようなことだってできるけど、いまの人工物の男たちが望むようなことをしてあげるのね。つまり身体といっしょに、記憶と意識とを融合させるプレイ。わたしたちはこれがとてもうまくできるので、生き残ってきたともいえるわ。」
「生き残ってきたって、それじゃヤミたちは・・・」
「うん、わたしはもうすぐ270歳。なかなかのもんでしょ。」
そういってヤミは、小さな顔を傾けてニッコリと笑った。
(C)Hiroshi Yoshioka
