「G‐M」12
遍歴
あの時・・・。頭の中でそう呟いてはみるのだけれど、それがどういう「時」のことなのか、ぼんやりとしかわからない。いまから10年前、たしかに何か重大なことが起こったような気がする。それだけはわかる。10年前、ぼくはいま自分がいる場所から逃れたくて、やみくもにあがいていた。「ここ」から脱出しようとして必死になっていた。そして実際、脱出したのだ。いや、そうではなくて、脱出したつもりだったのに、いつのまにかまた元に戻っていたのだ。どういったらいいのだろう。この世界の奇妙な仕組みによって、そうならざるをえないようなことになっていた。外側に出て、その外側の平面をたどっていくうちに、いつのまにか内側にもどってしまう。「クラインの壺」だっけ。そういう奇妙な図形を、ずっと昔、何かの本でみたことがある。
10年。すべての記憶がぼやけているのに、この数字だけがはっきりと頭に響いている。それは穏やかな、年老いた女性の声だった。「タカシ、おまえは10年間眠っていたのよ。」意識が戻り、眼を開いたぼくに最初にそう話しかけたのは、祖母のハンナだった。ハンナ。見覚えのある束髪がかなり薄くなりすっかり白くなって、「10年」という彼女の言葉を裏付けていた。いつもの朝のように起き上がろうとしたが、身体の自由がきかない。手首から先だけがわずかに動いてシーツをこすり、そこに自分の指があることがわかった。なぜか、左手の小指の先だけが痺れたように感覚がない。
「わたしがわかる?」「うん。」かすれた微かな声だが、話すことができた。「もう大丈夫。安心しなさい。意識がもどったらだんだんよくなっていくって、先生がおっしゃっていたわ。」「ハンナ。」「何? 喉がかわいたの?」「ううん、ぼく、鏡がみたい。」「・・・。」
ハンナは一瞬とまどったような顔をしたが、すぐに病室の戸棚の上に立てかけてある小さな鏡をベッドの上にもってきて、ぼくの顔の前に持ってきてくれた。鏡の中から、30歳くらいの、青白い、骨張った僧侶のような男の顔がこちらを見ている。薄いグレーの寝間着を着ていて、髪が短く刈られている。
「ハンナ、ぼくは・・・いま何歳だろう?」
「あの事故からちょうど10年だから、今27歳よ、タカシ。びっくりするのも無理ないわね。ふつうなら、人生でいちばん楽しいはずの10年を、こんな狭い部屋の中で眠ったまま過ごしたなんて・・・」ハンナは手で涙をぬぐってから言った。「でも、もう心配ないわ。タカシ、おまえはまだ若いし、だいじょうぶよ。これからだんだん回復してゆくし、頭のいい子だったから、勉強だってすぐに追いつくわ。友達だってできるし、仕事も見つかるでしょう。」
「『あの事故』って?」
「まだ思い出せないのね。思い出さないほうがいいとも思うけれど、いずれ知る時が来るでしょうから言っておきましょう。お前たちは自動車事故に遭ったのよ。ゲオルクが、お前のお父さんが、買ったばかりのシボレーに乗ってお前たちを海に連れて行くっていって、あんなに楽しそうに出かけたのに・・・。」
はじめはただの印象の塊だった夢の記憶が、思い出そうとしてしだいに形をなしていくように、ぼくの頭の中でいくつかの人の名前や情景が互いに結びついていった。ゲオルク—とハンナはドイツ語で呼んでいるが—つまり父のジョージはやっと手に入れた新しい車で海に行こうと、家族たちを誘ったのだ。ぼくはもう17になっていたので、あんまり両親と外出なんてしなくなっていたが、この時は特別だった。ピカピカの新車に乗ってみたいという気もあって、母のヨシエと、姉のマリーと4人で鮮やかな褐色のシボレーに乗りこんだ。19・・そう、あれは1963年の初夏だ。ぼくたち4人は、サンフランシスコの郊外に住んでいた。母の良江は戦前にアメリカに移民した日系人の二世だ。父はユダヤ系ドイツ人で、生まれたのはミュンスターという小さな街の近郊だが、1930年代の半ば、ナチスの迫害を恐れた父の両親は一人息子の彼を伴ってメキシコに亡命した。もともと病弱だった祖父は、不幸にもその地で病に倒れたが、祖母のハンナと父は苦労の末アメリカの入国許可を取得し、いくつかの場所を転々とした後、サンフランシスコにたどりついた。電気工事の技能をもっていた父はそこで何とか職を得、第二次世界大戦が始まった頃、ぼくの母と知り合って結婚した。この結婚がなければ母とその家族はいずれ、日本人強制収容所に収監されていたかもしれない。日本がアメリカに宣戦布告した1941年に姉のマリーが生まれ、そしてその4年後、母の故国に核爆弾が落とされ、日本が降伏した1945年の9月にぼくが生まれた。父は戦争が終結した直後のぼくの誕生をたいへん喜び、この子には日本人の名前を付けたいという母の願いを寛容に聞き入れたそうだ。
子供の頃のこと、姉との間の子供らしい諍いとか、母に細かなことでうるさく叱られたことをよく憶えている。母はぼくを叱るときには日本語を使った。ぼくにも、ふだんもっと日本語を話しなさいと母は言ったが、小さな頃は日本語を話すのが嫌いだった。12歳くらいになってはじめて、この母の故国の言葉が分かることに内心誇らしい気持ちが湧いてきて、自分から学ぼうという気になった。そうしてぼくが言語に興味を抱きはじめたので、父は自分の母語であるドイツ語や、さらにはイディッシュという不思議な響きの言葉をもぼくに憶えさせようとした。だがそれらの言語はふだん父と祖母の間でしか話されないので、ぼくの理解は中途半端なままだ。
「タカシ」なんていうエキゾチックな名前のために、学校ではよくからかわれた。両目の目尻を引っ張り眼を細くして「ジャパニーズ」といってからかうアメリカ人の悪ガキたちもいた。そうだ、まだ小学校にあがる前、遊び友達だった近所のアメリカ人の家で行われた誕生パーティで、つまらないことからその子と言い争いになり、その子がぼくに向かってこの仕草をして、ぼくをからかった。それを見つけた彼の父は、いきなりまだ5歳になったばかりの息子の手をひっつかんで彼の部屋に閉じこめ、外から鍵をかけて、泣きわめく少年に「お前が今タカシにどんな悪いことをしたか分かるまで、そこにいなさい」と厳格な声で言い渡した。日本人であることをからかわれたことよりも、この子の父の思いがけない仕打ちのほうがショックだった。ふだんは仲がよかったその子に対して、ぼくが日本人で悪かったと思った。ぼくの父のジョージからは、そういう厳しい折檻を受けたことはなかったのだ。
そういうことは細かな点まで、まるで昨日のことのように思い出すことができる。ぼくの父は仕事熱心で、やがては自分で電気工事の店を構えるまでになり、生活は少しずつ豊かになっていった。1960年、15歳になったぼく一人を伴って、父は故国ドイツの親戚や友人たちに会いに行った。ドイツ。ぼくがはじめて訪れた外国は、学校の歴史の授業で教わった「敗戦国」というイメージとは全然違うものだった。本やテレビだけでは、外の世界のことは本当はなんにもわからないんだ、とぼくは感じた。次は一人で日本に行ってみよう、とぼくは心に決めた。言葉はドイツ語よりもずっと理解できるのに、日本という国は、ぼくにとって、ヨーロッパよりもはるかに遠い所にあった。サンフランシスコで出会う日系人や日本人たちの口から聞く日本も、テレビや雑誌で眼にするその国の風景も、なんだかこの世のものではないような、空想の世界のように思えていた。
そして1963年の6月のあの日、それまで使っていた仕事兼用の車の他に、家族のためだけの念願の新車が、家にやってきた。それは父の、母への誕生日プレゼントだった。ぼくはその時高校生で、ちょっと気むずかしくなっていた。「反抗」というようなものではなかったが、両親からは距離をとって、自分だけの世界に生きていた。「〈外〉に出たい」、とぼくは思っていたのだ。ぼくにとっての〈外〉は、太平洋の西一万キロの彼方にある、黒い髪と黒い瞳をもつ人たちが住む、アメリカよりもずっと古い国だった。だから、家族4人で海までドライブなんてあんまり気乗りする思いつきではなかったけど、その海の彼方にあの国があると思うと、生まれてからこれまで何度も見てきたはずの海岸に、また行きたくなった。
・・・ここまでは、はっきりと思い出すことができる。そして日曜日の午前、住宅街を抜け、海岸につながるハイウェイを気持ちよく走っていたことも、しっかり記憶にある。小さな丘を登り切って木立が尽きると、ガードレールの向こうにのびるかな水平線が、急に眼に飛び込んできた・・・。そこまでだ。その後何が起こったのかが、まったくの空白なのだ。そこまでの記憶の時間を、ぼくはハンナから聞いた話によってしか、この現在の時間とつなげることができない。彼女が話してくれたのはこうだ。父は下りの車線で長いタンクローリーを追い越そうとした。いつも何事にも慎重な父が、そのときにはいったいどうしたのだろう。事故の本当の原因はいまだに本当はわからないという。とにかく、ぼくたち4人の乗った車は、すぐ左を走っていた大型車の脇腹に接触してバランスを崩し、ガードレールを突き破って急な斜面を数十メートルも滑り落ちた後大破した。火が出なかったのがせめてもの幸いだった。だが運転席にいた父は即死、助手席にいた母は重体で病院に運ばれたが数時間後に息を引き取った。姉のマリーは奇跡的に比較的軽い骨折と裂傷だけで助かった。そしてぼくは頭蓋骨が陥没し緊急手術を受けたが、昏睡状態のまま眼が醒めなかった。数週間して姉は退院し、やがてぼくの身体の傷も癒えたが、意識は戻ることなく、いつ回復するかのめども立たなかった。
その眠ったままのぼくを、ハンナが10年間見守り続けてきてくれた。10年。亡命の途上に夫を病で亡くし、さらに息子夫婦をも事故で失ったこの祖母にとって、ベッドに横たわったまま、いつ目覚めるともしれない孫を看病する気持ちは、いったいどんなだっただろう。幸い、父の残した店と両親の事故死による保険金で、金銭的な苦しさだけは免れたという。姉のマリーは大学を卒業し、日英の言葉が自由に話せる能力を生かして貿易会社に就職した。そして2年前、彼女に日本勤務の社命が下ったのである。姉は最初、ぼくのことを気にして迷っていたらしいが、ハンナや周囲の人たちに励まされ、この機会を生かして在外勤務に応じる決心をした。今は日本のコウベという街で働いている。ぼくの意識が戻ったことをハンナが電話で告げると、驚き、涙を流して喜び、すぐに一時帰国の許可をもらうようにする、と言っているらしい。
これが、ハンナがぼくに話してくれたことだ。ぼくは17の時に事故に遭い、10年間、病院のベッドの上で意識のないまま過ごしてきたのだ。〈外〉に出ること、日本に行くことを夢見ていた少年は、人生においてもっとも変化に富み、多くのことを吸収すべきはずの年月を、静かに眠ったまま過ごし、目覚めた時には身体は大人の男になっていた。そしてこの事態をもたらした10年前の惨事の記憶は、すっかり抜け落ちている。
意識が戻ってから一週間、ハンナと話すときに感じるわずかな心の動きのほかには、ぼくの中にはおよそ感情の動きというものがなくなっていた。専門医たちがかわるがわるやってきては、いろいろな検査を行い、これからの回復訓練について相談をした。ぼくはそれらに、まるで機械のように答えていた。希望も、絶望も感じなかった。「失われた青春」「現代の奇跡」とマスコミが騒ぎ立てているらしい。新聞社やテレビの取材申し込みがあるが、今は病室には入れないようにしているから安心しなさい、と主治医は言った。だがぼくには、そんなことはどうでもよかった。たとえ写真を撮られ、新聞に載って何万人もの好奇の目にさらされようが、そんなことは平気だった。何をしたいということも思わないが、逆にどんなことでも受け入れられるような気がした。
「焦らないで、少しずつ身体が動くように訓練していけばいい」と主治医は言った。「たしかに自分の人生が10年間も奪われたことは知るのはショックだろう。でも君はまだ若いし、必ず回復する。歩けるようになる。そうすれば自分の力で、何でもできるようになる。希望を捨ててはいけない。」ぼくはけっして希望を捨てたりはしていなかったが、かといって希望をもっているわけでもなかった。もちろんリハビリテーションは言われたとおりにする。でもそれで回復して、自分の力で、いったい何をすればいいのだろう。それがわからなかった。この脱力感は医者の言うとおり、10年間の空白が心に残した影響なのだろうか。しかしぼくにはその「10年」が、どうしても空白とは感じられないのだ。昏睡状態の人間というのは、夢を見ることがあるのだろうか。医者に聞くと、夢とは浅い眠りの時にみるものなので、そんなことはないと言う。でもぼくは、この10年間がただの空白ではなく、その間に何かいろんなことを経験したような気がするのだ。それも、ふつうの人間がけっして経験しなようなことを。眠りであり、空白であると告げられているのとは、実は強力に「封印」された何かの記憶ではないのだろうか? いや、ぼくは何を言っているのだろう。こんなのまともな考え方じゃない。
そう考えると、頭が混乱してわけがわからなくなる。もっと単純に考えてみよう。ぼくは今、何がしたいのか。何を考えたらいいのだろうか。そうやってもつれた思考の糸を切り離していくと、ただ二つの考えだけが、繰り返し頭にうかんでくるようになった。ひとつはぼくが「眠り」につく直前、海が眼に飛び込んできたことだ。水平線が見え、その彼方にある国、〈外〉の世界について考えていた。そこに行きたい、という強い想いに、痛いほど胸を締めつけられた。もう一つは、姉のマリーがまさに今そこに、その〈外〉にいるということ、そしてまもなく、ぼくに会いにそこから帰ってくるということだ。姉さん、ごめんね、と心の中でぼくはつぶやいた。でも何を姉に謝っているのか、自分でもわからない。とにかく、姉さんに会いたい。姉さんと話せば、何かが変わるかもしれない。そう思えた。そうだ、ずっと昔もぼくはちょうどこんな風に、〈外〉に出たいと焦って、姉さんを苦しめたことがあった。姉さんにひどいことをたくさん言ったけど、姉はとても優しくしてくれ、ぼくを助けて〈外〉に出してくれた。そんなことが、たしかにあったような気がする。でもそれは、いったいいつのことだったのだろう・・・。
(C)Hiroshi Yoshioka
