Space in CyberSpace

「G‐M」15 別れ


 宵闇があたりを包んでいった。穏やかな波の音が微かに聞こえてくる。風は涼しく、海の湿り気を含んだ空気が、肌に心地よい。小学校5年生の頃、臨海学校で泊まった宿のことを、タカシは思い出した。畳敷きの大きな広間に布団を敷いて、ひとしきり大騒ぎした後、周囲の子供たちが小さな寝息を立てるようになっても、自分はなかなか眠ることができなかった。でも眠るしかないと眼を閉じてじっとしてると、内海の静かな波音がいつもでも耳の中に残っていた。みんな、どうしてこんなに簡単に寝入ることができるのだろう、とタカシは思った。だが波の音は耳障りなものではなく、海に近い街で育ったタカシにとっては、むしろ心安まるものだった。とはいえその音に注意を傾けているかぎり、眠りはやってこない。ああ、自分は今ここにこうしているんだという、ある種切ないような感覚が心に居座って、眠りを遠ざけてしまう。

 タンは用があるといって、夕方街のほうに出かけていった。今夜は帰ってこないかもしれない。もうすっかり暗くなった木陰で、ヤミとぼくは黙ったまま、膝をかかえてうずくまっていた。ぼくは何か話しかけたかったけれども、昼間いろんなことを話した後だったので、この静けさの中で何を言えばいいのかわからなかった。
 「このビーチとも、もう少しでお別れかもしれないわ。」とヤミがひとりごとのように言った。この場所は外から見えない安全なところだが、リリトたちが最後の2人にまで減ってしまった以上、このシールドを長く維持することは困難なのだ、という。そしてまた2人とも黙りこくってしまった。空気はかなりひんやりしてきたが、寒いというほどではない。海上は半月に近い月の光で、ぼんやりと明るく、沖合には見覚えのある島々の黒い影が浮かんでいる。リリトたちと行動を共にするようになってから、何度も訪れたこの休息の場所。この場所がなくなるかもしれないと思うと、胸がつまった。

 「ヤミ、ぼくは…きみたちの闘いに何一つ役立つことはできなったし、そもそも闘いの意味そのものも、今も理解できているとはいえない。でもね、きみたちの種族が最後の2人になってしまったこと、そしてきみたちがG-Mに敗北したと、聞くのは、とってもつらいんだ。自分がそれに対して何もできないのも、もどかしい。」
 「ごめんね、タカシ。せっかく〈外〉に出てきたのに、変なことに巻き込んでしまって。」
 「ううん、そんなことはない。ぼくはただ〈外〉に出たいと思っていただけで、そこがどんな所かも、そこで何をすればいいのかもわからなかったんだ。しかも、何度も〈外〉とJP-77の間を往き来することになって、ちょっと頭がおかしくなっちゃった。別に、何か目標があったわけではないんだよ。だから、ヤミやリリトの仲間たちと知り合って、これまで一緒にいられたのは、ほんとによかったと思う。どうしてかわからないけど、そんな気がするんだ。それにしてもヤミは、なんで何の役にも立たない人間のぼくと、これまでいっしょにいてくれたの? それが、今でもわからないんだ。」
 「それはね、」とヤミはまっすぐにぼくの方を見て言った。「タカシが、わたしを助けてくれたからよ。」

 「おぼえてる? タカシがまだ何度目かに〈外〉に出てきて間もないころ、わたしはタチの悪い人工物の集団に捕獲されて、〈処刑〉されそうになったことがあるのよ。処刑というのは、G-Mによる〈再プログラミング〉のことなんだけどね。今思い出しても悔しくて、腹が立つ。あの汚らしい人工物のヘンタイどもが、時代遅れの拘束衣なんか着せやがって、大げさに広場に連れ出してG-Mを呼び出すチャネリングの儀式みたいのをはじめやがった…。あ、ごめんね、タカシ、きたない言葉使って。」
 「それは、ぼくたちがはじめて出会った、あの南の街でのこと?」
 「そうだよ。タカシはきっと、自分があの時わたしを救ったことに、まだ気がついてないんだね。」
 「あのとき、ぼくは何が起きているのかわからなくて、でも殺気だった人工物たちが怖くて、情けない話だけど、しばらく気を失っていたように思うんだ。」
 「そのときに、何かのイメージを見たでしょう?」
 「うん、たしか野原のようなところに仰向けに横になっていた。上に真っ黒な夜空が見えた。少し離れたとなりに、白いガウンみたいなのを着せられた女の人が、やっぱり同じように横たわっていた。」
 「それが、わたし。」
 「そしたら、夜空の暗闇の深いところから、クモの巣みたいな白くて細い繊維の塊が降りてきて、その女の人に絡みついて、連れていこうとした。」
 「そうよ。最初は、こんな子供だまし、わたしに通用するもんかと高をくくっていたんだけどね。甘かったわ。それはG-Mが直接差し出してきた強い念波だった。とても強力で、抵抗できない。ああ、もう連れて行かれてしまうと思ったとき、タカシが真横からものすごい波動を送ってそれを切断してしまったの。ほんとに驚いた。」
 「ぼくは最初、横にいる女性はぜんぜん知らない人だと思ってたんだ。でもその人が白い糸に絡まれて連れ去られそうになったとき、何だかたまらない気持ちになって、そんなことを許してはいけないという、ものすごく強い感情がこみ上げてきた。不思議なことなんだけど、その人がまるで…ぼくのねえさんであるような気が、一瞬したんだ。まともに考えたら、そんなバカなことはあるはずないんだけどね。でも、その時はどうしてもそう思えたので、思い切りさけんじゃった。怒りとも、憤りともつかない、今まで経験したことのない気持ちの高まりだった。でも後からそれは、気を失っている間にみた夢だと思っていたんだ。」

 夜が更けてきた。ぼくはヤミにお休みと言って、〈ツォーン〉のいるそばの木陰に、就寝用の白い綿を敷いて横になった。それはリリトたちにもらったものだが、野外で休む時にはいつもこれを使ってきたのである。この綿は知能をもっており、ぼくの気分を読んで最適な温度と湿度で身体を包んでくれるので、野外でも気持ちよく眠ることができた。〈ツォーン〉はもう眠りについたみたいで、静かな長い寝息が聞こえてくる。
 「タカシ、もう眠った? あと少しだけ、お話をしてもいい?」とヤミが言った。「どうしても、知っておいてほしいことがひとつと、それから・・・」いつもとは少し言葉の調子が違っているように思えた。なんだかたよりない、まるでJP-77にいた、ふつうの人間の女の子みたいだとぼくは思った。
 「いいよ、もちろん。なんだか今夜はあんまり眠れそうもない気がするんだ。でも、〈どうしても知ってほしいこと〉なんて、ちょっとビックリした。ヤミがそんなふうにしゃべるの、いままで聞いたことがなかったから。」
 「聞いたら、ほんとにビックリよ。タカシのお姉さんのことよ。」
 「ぼくのお姉さん? ねえさんのことを知ってるの?」
 「もったいぶっても仕方ないから、そのまま言う。タカシのお姉さんは、わたしのお姉さんでもあるの。」
 「???」
 「あのね、JP-77というコロニーで北川マリ子という名前をもつ女性は、人間ではないのよ。人工物なの。」
 「それは知ってる。ぼくが〈外〉に出てきてから、ねえさんがノートに書いて教えてくれた。」
 「彼女は、私たちリリトと同じ、いちばん古い世代のモデルね。わたしたちは、G-Mから最初に産み出された仲間なのよ。でもそれだけではなくて、彼女とわたしとは、ひとつの同じ細胞から分化した、言ってみれば双子の姉妹なの。人間の双子みたいに似てはいないけどね。しかも彼女は、わたしたちリリトの仲間には加わらず、コロニーの中で人間たちと暮らすことを選んだ。G-Mからみると、ドームの中に少数の人工物がいることは、システムの安定性という面からは必要なことらしい。その意味ではG-Mにとって必要な存在でもあるんだけど、彼女は同時に、タカシのようにドームのシステムに適合できないで、そこから〈外〉に出ようとする少数の人間の手助けもしていたらしいの。そうした現象がG-Mにとって何を意味するのかは私にもわからいんだけど、少なくともG-Mはそのことを妨害はしてはいない。とにかくわたしはね、タカシ、あなたの心の中に、彼女についてのイメージを発見したときに、ほんとうに驚いた。わたしたちは生まれ落ちてから別々な道を歩き、270年間、会ったことがない。ごめんなさい、こんなことをいきなり言って、混乱させたと思うけど。」
 「今考えてみると、ねえさんはたしかに子供の時から、ぼくが育った場所の他の人たちとはぜんぜん違っていたような気がする。でもそれだからこそ、ぼくにとって、ほんとうに特別な存在だったのかもしれない。でも、ねえさん自身もあの世界の中にいるときには、自分が本当は何者かを知らなかったようなんだ。」
 「それは、たぶんそうね。コロニーの中で暮らす人工物は、そこに暮らす人間たちと同じ〈適合化処置〉を受けるから、自分自身を人間だと思って生きているのじゃないかな。そうしないと、コロニーの中で長く生活していくことはできないからね。」
 「ねえ、ヤミは、それじゃ、ねえさんに会いたい? 人間だったら、別々になった双子のお姉さんには会いたいと思うよね。それとも、人工物の気持ちは違うのかな。」
 「どうだろう…。わたしは、もうタカシに会ったから…。いいの。今、彼女に会ったとしても、あんまりいいことはないような気もするし。」

 「それじゃ、ヤミは、これからどうするの? G-Mとの闘いが終わったとしたら、この世界でこれから、何をして生きていくつもりなの? まあ、自分の将来もわからないぼくが、こんなこと聞くのもおかしいんだけど。」
 「わたしは…」とヤミはぼんやりと中空を見上げるような眼をした後、ぼくの方をみて言った。「もし、もしだけどね、タカシさえよければ、わたし、タカシとずっといっしょにいたい。」
 「ほんとに?」
 「うん、ほんとにだよ。でもね…そのためには、わたし自身が、ちょっと変化しないとだめなの。このままじゃ、いっしょにいることはできないのよ。知ってるでしょ? わたしが本当はどんな生き物か。」
 「それは、知ってるけど…。」
 「タカシにとって、わたしはきっと16くらいの、人間のちょっと変わった娘に見えてるのよね。でもそれは、わたしが今、たまたまとっている姿にすぎないの。こんなこと、人工物でないタカシには、理解しろといっても無理なんだろうけど…。」
 「ぼくはヤミが別な姿に変化しても平気だよ。でも〈変化する〉って、どう変化すればいいの?」
 「わたしは、タカシのようにやさしくなりたいの。そのためには、年をとらないといけないの。」
 「でも、人工物は…」
 「そうよ、人工物には老化も寿命もない。年をとることはできない。残念なことにね。わたし、人間のことをうらやましく思ったことは一度もないけど、タカシと同じ存在にはなりたい。でもそれは無理よね。だからたぶん、それにいちばん近いことは、こういうことかもしれない。」
 そう言って、ヤミはぼくの方に身体を寄せてきた。さっき海に入ったので、彼女の身体からは微かな磯の匂いがした。まだ知り合ったばかりの頃、彼女が海から上がってきて、いきなりぼくを抱きしめたときのことを思い出した。ぼくは、今度は呆然とするかわりに、ヤミのことをきつく抱きしめていた。たしかに彼女の言うとおり、ヤミは人間であるぼくから見れば、想像を絶するような怪物的存在なのかもしれない。それは頭ではわかっている。でもこうして身体が触れあっていると、ヤミはぼくには人間の少女としか感じられず、切ない思いと愛しさがこみ上げてくるのだった。その確かな感覚は、ヤミが本当はどんな生き物であるかという知識によっては、退けることのできないものだった。

 深夜の海辺でぼくたちは抱き合い、何度も交わった。欲望というより、まもなく失われてしまうかもしれない何かを、なんとかつなぎ止めたいというような、ある切迫した気持ちに、ぼくは突き動かされていた。それはどうしてだろう。ヤミの身体はしなやかで強靱であり、野生動物のように敏捷だった。人間であるぼくの肉体の方が、よほど壊れやすいものであるはずなのに。リリトは娼婦であり、彼女らは身体の交わりをこえて相手の精神の内部に入り込み、その中を探ったり愛撫したりする能力を持っている。たまらなくなったぼくは「ヤミ、ぼくの中にも入ってきて」と言った。「いいよ、あとでね。タカシの、うんと中の方まで入って、かわいがってあげるから」とヤミは答えたが、なぜか心の中には入ってこなかった。そうして、ぼくが幾度めかの射精の瞬間を迎えたとき、左手の小指の先が、突然高温で焼かれるような感覚を憶えた。そして次の瞬間、激痛が襲ってきた。見ると、ぼくの指先を咥えたヤミの口の周りに、鮮血が溢れ出している。何が起こったのかわからず、驚きと痛みのためにぼくは動転した。その時すかさず、ヤミがぼくの中に入ってきて痛覚を遮断し、今まで経験したことのないような深い眠りに、ぼくを誘いこんだ。「心配しないで、タカシ、大丈夫。」遠ざかっていく意識の中で、ヤミがささやくのが聞こえた。「驚かせてごめんね。朝になったら、何もかもよくなってるから。」

 眼が醒めると、陽はもうかなり高くまで登っていた。昔、学校をさぼって家に引きこもっていた頃、昼近くに自分の部屋で目覚めたときのことを思い出した。その想起とともに、この静けさの中に自分だけが取り残されたという、やりきれないような思いが湧いてきた。そして恐る恐る、夕べの出来事を思い出そうとした。わずか数時間眠っただけのはずなのに、その記憶はまるで現実とは思えないような、遠いところにあった。ヤミと激しく触れあったこと、最後に交わした言葉を最後までたどり、そして自分の左手を眼の前にかざしてみた。小指の第一関節から先が、切断されていた。痛みはもうまったく感じない。たしか「幻肢」といっただろうか、ないはずの指先の感覚が、まだ残っている。傷口は薄い銀色の金属のようなもので塞がれていて、そこにもう昼近い海辺の陽光が、鈍く反射していた。しばらくそれを眺めているうちに、なぜか涙がとめどなくあふれてきて、止まらなくなった。はては咳き込むほど、はげしく泣き続けた。はじめは、自分がなぜ泣いているのかすらわからなかった。ヤミはもういない。どこかに行ったのではなく、この世界から消えてしまったのだという思いが、息苦しいまでの発作のような嗚咽の中で、しだいに確実なものとなってゆくのだった。

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(C)Hiroshi Yoshioka