「G‐M」17 再 会
「タカシ。おとなの男になったね。」しばらく無言でぼくの顔を見つめてから、ちょっと、からかうような口調で、ねえさんが言った。なんだか、子供のときみたいだ。ぼくは、何だか恥ずかしいような気がして、なんて答えたらいいかわからず、
「え、うん、でも、ねえさんは、あんまり変わらないね。」と、どうでもいいような答えをしてしまったけど、それは別にウソではなかった。今の眼のまえにいる女性は、ぼくの記憶の中にあるねえさんそのままだ。でも考えてみると、それはおかしい。ぼくは10年間眠っていたのだから、ぼくの記憶の中にあるねえさんから、今の彼女は10歳年をとっているはずだ。でも、それが感じられない。いくら昔のねえさんを思いだそうとしても、ねえさんは前からずっとこのままだったような気がする。
「ビールを飲む? 眠ってたとはいえ、もうタカシは大人なんだから、いいのよね。」
テーブルの上には、缶のビールが二つ運ばれてきた。実は高校生の時にも、隠れてビールは飲んだことがある。ねえさんも、それは知っているはずだ。けれども今目の前にあるのは、見たことのないラベルのものだった。
「日本製のビールよ。とっても美味しいよ。」
生姜を油で炒める香ばしい匂いがした。テーブルの上に敷かれた安っぽいビニールのクロスは、触ると少し粘つくような感触があった。この小さな中華料理屋は、子供の頃何回か家族で来たことがある、とねえさんは言ったけど、ぼくには見覚えがない。まだ、昔の記憶が完全に戻っていないのかもしれない。家にそれほど経済的余裕がなかった頃、家族の誰かの誕生日だから今日は外食しようということになったとき、何度か来たことのあるお店だよ、とねえさんは言った。タカシと2人だけで来たことも、たしか、いっぺんだけあったかな、タカシが、ちょっと苦しんでいたとき。
・・・そう言われると、そんなことがあったような気もする。
「ねえさんは日本で働いているんだよね。いいなぁ。ぼくも、事故に遭う前、とっても日本に行きたいと思っていたんだ。実は日本のことなんか、よく知らなかったんだけどね。とにかく〈外〉に出たいと、切ないような気持ちを感じてた。2人でこの店に来たのって、その頃だったのかな。」
「そうよ。とにかくタカシが元気になって、こんなふうに会うことができて、ほんとうにうれしい。〈カンパイ〉、ね。日本語ではこういうのよ。」ビールを半分くらい飲んで、テーブルの上にトンとおくタイミングが同じだったので、ねえさんは、ぼくの顔をみてクスッと笑った。バスに乗らずに、ふたりで2キロほどの道を歩いてこの店まで来たので、渇いた喉にビールは心地よかった。もうわりと遅い時間なのに、けっこう人が入っていて、店の中には活気があった。
「そうだね、この店、昔いっしょに来たよね。はっきりとは思い出せないんだけど、今みたいなことが、ずっと前もあったような気がするんだ。」
「無理しないで、少しずつ思い出せばいいわ。それはそうと、タカシ、あなた今、ずいぶん有名人よ。」先ほどからこちらの方をちらちら見ながら話している、中国系の家族のほうを、軽く目配せしながら、ねえさんが言った。
「この間、新聞社が病院に取材に来たから。」
「根掘り葉掘り聞かれて、困ったでしょう。」
「いろいろ聞かれたけど、ぼくは本当にまだ思い出せないことも多くて、ちゃんとこたえられなかった。とくに、この10年間のことがね。昏睡状態にあったんだから、ふつうに考えたら当たり前なんだけど、ぼくにはどうしてもただ眠っていたなんて思えない。いろんな夢をみていたような感じか強くするんだけど、それが霞がかかったようにぼんやりして、わからないんだ。そのことも、新聞記者には正直に言ったんだけど、あんまり理解してはくれなかった。」
「夢をみていた、と思っているの、タカシ?」
「ううん、自分では正直、夢だとは感じていない。でも、眠っていた時のことなんだから、そう考えるしかないでしょ。それでね、記者のあと、牧師さんにも話を聞かれたんだけど、ぼくはその人のことも何だか、怒らせちゃったみたいなんだ。そんなつもりはなかったのに…。」
「その牧師さんは、どんなことを言ったの?」
「夢でも、それが十分に強烈な経験なら、現実と同じような意味をもつ、というようなことを言った。なぜなら、それはたとえ物理的な現実でなかったとしても、心の真実だから、何か重要なことの比喩になっている、っていうんだ。そう言われたとき、ぼくにはなぜか、それは違う!っていう確信が強くしたんだ。それで、夢の経験も、聖書に書いてあることも、けっして喩えなんかではない、事実なんだって、今考えると自分でもワケの分からないことを言ってしまったんだ。それでなんだか、牧師さんの気を悪くさせてしまったみたい。こんな変なことにこだわるなんて、おかしいよね。でも、もうすぐねえさんに会えるから、ねえさんにはこのことを話そうと思っていたんだ。」
「タカシはクリスチャンでもないし、理屈っぽい子でもなかったから、そんなふうに牧師さんと議論するなんて、きっと何か強い信念があったのね。」
「それがね、ぼくにも不思議なんだけど、それは信念というより、何か、とても具体的な感覚なんだ。ねえさん、もう知ってると思うけど、ぼくは、あの事故で、ちょっとした怪我をしたんだ。ねえさんは、だいじょうぶだった? ぼくは、目覚めてしばらくしてから、やっと気がついたんだけど、左手の小指の先が、事故のとき、ちょうど何かに挟まっていたのかな・・・。」
ぼくはテーブルの真ん中に自分の左手を置いた。ねえさんはそれを両手で包むように持って、ぼくの小指の先の、金属で閉じられた傷口をじっと眺めていた。」
「10年前の自動車事故で、ぼくはそこの所を怪我して、切断したんだって言われた。たしかに、ずいぶん前の傷跡らしいことは、ぼくにもわかる。本当にそうなの? ねえさんは憶えてる?」
そういうぼくの言葉を聞いて、ねえさんの顔には一瞬、ちょっと決意したような表情があらわれたけれども、やはり穏やかな声で言った。
「タカシ、あなたに渡すものがあるのよ。ううん、日本のおみやげじゃなくて、もっと前からの。どう言ったらいいのか、あなたが〈夢〉をみていたときに、ある人から預かったものよ。」
そう言ってねえさんは、テーブルの上に半透明の緑色に光る、楕円形のケースを置いた。それはとても美しく精巧な物質で、まるで別の世界からやってきたもののようだった。どう見ても、このテーブルや、その周りの中華料理屋の店内や、その外に広がる現実の世界に属しているものとは思えない。それを見たとき、ぼくはなぜか急にドキドキし、胸が締めつけられるような気持ちに襲われた。
「最初はショックを受けるかもしれないけど、心配いらないわ。すぐに、いろんなことを思い出してくるから。それを開けてごらんなさい。それは、あなたのものよ、タカシ。」
ぼくは、おそるおそるそのケースを開けてみた。白い綿のようなクッションの中に、長さ2センチくらいの、鈍い銀色に光る、先のつぼまった円筒型の物体があった。ぼくはすぐにそれが、ぼくの左手の小指の先に埋められているのと同じ素材であると感じた。
「これ…」
「それは、今はただのモノだけど、あなたの身体の一部になりたがっている存在よ。」
ぼくは、おそるおそる、その物体を手にもって、天井から下がっている電灯の光にかざしてみた。最初、奇妙と思ったその形は、よく見るとぼくの、失われた左手の小指の先のような形だった。それを見ると、どういうわけかぼくは急に動悸が激しくなって目眩をおぼえ、テーブルの上に右手をついて、それをテーブルの上に落としてしまった。
「タカシ、だいじょうぶ?」
荒い息をしてうつむいているぼくの肩に、姉さんが手をのばして聞いた。奥の席に座っている中国人の家族たちが、一瞬話をやめて、ぼくの方をいぶかしげに眺めているらしいのがわかった。
「だいじょうぶ。ごめんね。だけど、ぼく、これを見たとき、どうしてだか急に心臓がドキドキして…。」
その時、「おまちどおさまでした」と、店員が注文した料理を持ってきた。ぼくはあわてて、テーブルに落ちた金属片を拾い上げ、シャツの胸のポケットにしまった。運ばれた皿からは湯気があがり、中華料理の香辛料の匂いが漂ってきた。店員は、ぼくの取り乱した様子にはまるで気づかないような調子だったので、ぼくは少し落ち着きを取り戻した。
「ねえさん、ぼく…」
「うん」
「日本に行きたい。」
「……。」
「ねえさんが、今度日本に帰るとき、いっしょに行ってもいい?」
「…そうね。でもせっかくのご飯が冷めちゃうから、先に食べない? わたし、お腹が減ってるの。その話は、またあとで相談しましょう。」
それで、ぼくたちは別な話をしながら、食事をした。どの料理も美味しく、懐かしい味がした。その時も、ちょうど同じようなことが、前にもあったような、奇妙な感覚があった。姉さんと2人で食事をしているとき、ぼくは姉さんに、どこかに行きたい、と言ったような…。それは、たしか「日本」ではなかった。でも、どこか、ここではない世界のことだった。そうしたら姉さんは、やっぱり今みたいな、ちょっと困ったような顔をして、今すぐでないとだめ?待てない?って聞いたんだ。でも、それはいつのことだったんだろうか。思い出すことができない。
「タカシ、おまえが行きたいのは、本当は日本じゃないのよ。」
「え? どういうこと?」
「その、胸のポケットに入れたもの。あとで、落ち着いてからね、それをあなたのなくした小指の所に、当ててごらん。すぐでなくてもいいよ。今夜みたいに気持ちが高ぶるようだったら、少し待ってからにしなさい。急ぐ理由は、何にもないから。それで、いろんなことがわかるわ。苦しいかもしれないけど、このままいろんなことが、思い出せないでいるよりはいいでしょう。きっとそれが、おまえの運命なのよ、タカシ。どんなことがあっても、わたし、おまえの味方だからね。心配しないで。それで、もし本当に日本に行きたくなったら、いつか、いっしょに行きましょう。」
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(C)Hiroshi Yoshioka