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「おもろい」 — 興趣の大阪的な表現をめぐって

『美術フォーラム21』 2008年4月1日

 以前ある学会で、たいへん日本語の堪能な中国人の日本文学研究者が、こんなことを言っていた。日本人は学会などで他人の発表を誉めるような場合、「おもしろい」という表現を好んで用いる。中国人である自分は、最初それを奇妙だと思った。なぜなら「おもしろい」というのは個人的な感想であって、人の話を客観的に評価したことにはならないと思えたからである。では中国人だったらそういう場合に何というのですか?と聞くと、「価値がある発表であった」という意味のことを言うのだそうである。

なるほど、それは「おもしろい」と思った。そして自分自身、話を人から誉められるような時、「おもしろい」と言われるとの「価値がある」と言われるのとでは、正直なところどちらがうれしいだろうか、と考えてみた。少なくとも日本語で話しているかぎりにおいては、多くの人は前者の方がより深く心に届くと感じるのではないだろうか。それに対して「価値がある」といった表現は、どことなくよそよそしく響く。「価値はあるがおもしろくはない」という言い方すら可能である。これはどういうことだろうか。日本語においては客観的評価よりも主観的な心情が力を持つ、というようなことなのだろうか。そう考えてもどうもうしっくりこない。

この種の議論はともすると、言語についてのステレオタイプなイメージの影響を受けやすい。わたしたちは容易に、みずからのものではない言語を過度に理想化たり、逆に貶めたりする。その反面母語に対しては、まるで触れられたくない自分の田舎や家について語るかような嫌悪を抱いたり、かと思うと過剰な一体感を抱いたりする。いずれにしても平静ではいられないようである。とりわけ、母語と対照される他言語が支配的な力を持つ場合にはそうだ。今日そうした支配力をふるっているのは英語だが、この現実的支配はしばしば「英語は日本語よりも論理的で客観的な言語である」という無根拠な確信を誘導する。反面日本語は、情緒的で心情的な言語としてラベリングされる。そこから、だから日本語はダメなのだとも、いや、だからこそすばらしいのだとも結論できるだろうが、どっちにしてもたいした違いはない。そもそもの前提——異なった言語を論理性や客観性の度合いによって測定できるとする前提——自体が、論理性や客観性からはほど遠いからである。

話を「おもしろい」に戻そう。なにゆえ日本語において「おもしろい」という語はかくも多用され、重要な意味をもっているように思えるのだろうか? わたしたちは何かが「おもしろい」と言うとき、けっしてそれを「たんなる個人的な感想である」と意識しているわけではない。いや、さらに言えばこの「個人的」という言葉自体、けっして客観性や普遍性に対立するものとは思われていない。「わたしの個人的な思いとしては…」などと前置きされた発言が会議でもっとも大きな影響力を持つ、といったことがよくある。影響力を持つということは「個人的」ではないということである。「おもしろい」もまた、たしかに主観的な判断ではあるが、客観性を放棄した個人的印象を述べるものではない。「おもしろい」は明らかに他者の同意を要求している。おおげさに言えば、普遍妥当性を要求するひとつの美的判断なのである。したがって「おもしろい」の意味を知るためには、この判断がどのような仕組みで成り立っているかを少し注意深く考えてみる必要があるだろう。

「おもしろい」を単純に英語に訳すとしたら「インタレスティング」だろうか。「インタレスティング」は中学で習う基本的な形容詞でありながら、実に注意を要する言葉である。心から興味をひかれた対象についても使われることももちろんあるが、場合によってはこの語は、たんに失礼を避けるためにも使用される。たとえばどこか外国で、あまり口に合わない土地の名物をふるまわれ、感想を求められたときなどである。率直に「不味い」とは言いにくい場合、抑揚を押さえて「インタレスティング」と答える。うまく伝われば、相手はそれ以上すすめはしないだろう。同じような意味の「インタレスティング」が、たんに奇妙なだけで客観的にはとうてい評価できない話や文章、作品などについても言われることがある。「おもしろいが価値はない」のである。しかもこの場合の「おもしろい」は変わっているという意味であり、軽い侮蔑と端的な無関心が含まれている。

大学でカント美学の話をすると、学生は美的判断の「無関心性」ということにひっかかる場合が多い。レポートをみると、自分が美しいと思うものに「無関心」でいることなんてありえないではないかという反論(?)や、「関心【ルビ:インテレッセ】」を「利害」という意味に引きつけて解釈し、美の判断はお金に基づいたものではないのは当然だと納得してたりする。こういう誤解をうむのはわたしの講義が退屈だからという以外に、「無関心」という日本語がもつ通常の意味が強すぎるためだろう。カントの言う「無関心性」とは、判断が対象の実在あるいは実在の表象に左右されないということ、つまり対象が〈ある〉かどうかはどうでもいいということである。対象を見ながらも、判断の極め手は主観の状態(感情)である。反省的判断というのは、そういう仕方で判断の階層を一段階上げることを意味している。無関心性というのは、対象の実在・非在がふつうに問題になるようなレベルからの〈離脱〉の契機なのである。

「おもしろい」という語の中には、実在性や利害に結びつく「インタレスト」という意味は、どちらかというと希薄である。「おもしろい」が積極的な文脈で使われる場合、その中心にあるのは「興」あるいは「興趣」といった概念であり、それはカント的な意味での無関心性に近いものである。興がのること、つまり「おもしろい」とは、事物のある/なしが問題になるような判断の通常のレベルからの〈離脱〉という契機に結びついている。それは実在の素朴な自明性を離れて「どこかに連れて行かれる」という感覚を伴っている。そこには幾分か、狂気に向かう要素がある。だが狂気に行ったっきりではなく、やがては共同体の常識の中に戻ってくる。「おもしろい」という直感的判断が要求するのは、そうした〈離脱〉への同意なのである。

このような文脈において、「おもろい」という大阪の、あるいは関西の表現について、どのように語ることができるだろうか?

まず確認しておかなければならないのは、「おもろい」と「おもしろい」がまったく異なった言説のレベルに属しているということである。「おもしろい」は標準語である。そしてわたしはこの文章自体を標準語で書いている。したがってその中で対象化された西の言葉としての「おもろい」は、「独特のニュアンスをもった、味わいのある方言」というような枠組でしか記述することができない。それでは、はじめからこの文章自体を関西弁で書いたらどうか? その場合は、この文章全体が何か奇を衒った、あるいは関西弁の魅力を売り物にした趣向、といったしろものになる。近代日本の書き言葉は標準語にしたがって構造化されてきたのであるから、そこから外れた言語表現は判断のカテゴリーとしてではなく、興味深い偏差として、あるいは珍奇な美的対象としてしか現れることができない。「おもろい」について正当に語ることは不可能なのだ。

だがこんなことで終わってしまってはそれこそ「おもろない」ので、あえて続けることにする。ひとまず、「おもろい」の後にどんな言葉が結合可能かということから探ってみたい。「おもろいやつ」「おもろい女(男)」と問題なく言えるが「おもろい人」は可能だが若干据わりが悪い感じがする。「人」という言葉のもつ抽象性が気になるのである。「おもろい」は「おもしろい」よりも対象への距離が近く、具体性を要求する。そしてそれは、笑いという身体的反応とより強く結びついている。だがこの笑いは、たんに「可笑しい」ということではない。子供の頃テレビでよく観ていた番組のひとつに『唄子啓介のおもろい夫婦』というのがあった。これは漫才師の京唄子と鳳啓介が司会をする視聴者参加番組で、年配の夫婦が出て来て自分たちの来歴を語るものである。無事平穏な生活を送ってきた夫婦は一組も登場しない。おおいに脚色はされていただろうが、たいていは夫の浮気、博打、酒、借金などが原因で自殺や心中の一歩手前までいったような悲惨な話ばかりである。それを、自分も夫の浮気で結婚生活が破綻した京唄子が、涙ながらに聞くというものである。

この「おもろい」は翻訳不能である。「おもしろい夫婦」ではこの企画自体が成立しない。「おもろい」はたしかに笑いに結びついているが、その笑いはどこかに諦観を含んだ笑いである。それは素朴な願望や計画といったものが、節度を越えた現実の苛酷さによってことごとく裏切られた末、それでもなおも生き続けているといった事態に向けられるような笑いである。そこで語られるエピソードの具体的な内容は、しばしば下品で露骨すぎるもの、大阪の言葉でいうと「えげつない」ものであった。だがそれらに向けられる眼差しは、具体的現実からの離脱を促す「おもろい」という判断に支えられていた。そのことは子供にも理解できた。だがこうした眼差しは、昭和四〇年代の民主主義教育の公的な言説とは折り合いが悪いものだった。ある時中学の授業で新任の教師がこの番組に触れ、「ああいうのが日本の大衆かと思うと失望する」と言ったが、ぼくら生徒は「なんておもろない人やろ」とシラケてしまった。

「おもろい」は具体的感覚に訴える力が強すぎるために、公的な言説の場で発話されると、まるでふざけているかのように聞こえる。学校の授業や、役所や会社での会議などの、近代的で合理的なコミュニケーションの手続き——つまり何かについて「発言」したり「問題提起」したり「議論」したりするという手続き——が規範化されているような空間においては、逸脱的で破壊的に響くのである。さらにこの表現は、発話主体を特定する。「おもろい」という言葉を使うのは主として男性や年配の女性である。だがそれは必ずしもジェンダー的な問題ではない。上品な印象を与えたい時には男性でも「おもしろい」を選択するだろうし、反対にあけすけにものを言いたい時は「おもろい」と言う若い娘もいる。この言葉を使用することで、階層を越えて自分が関西の言葉を話す共同体に属していることを宣言していることになる。だがそれは地域的なアイデンティティばかりではなく、世界に向かって自己を提示するある固有のチャンネルを選択するということでもある。

「おもろい」という判断には、単純な夢や理想の通用しないこの世界の過酷な現実を自分はわかっている、しかもそうした現実のもたらす過剰さや露骨さを自分は許容する度量があるという表明を、暗黙のうちに含んでいる。だから男であれ女であれ、近代的・合理的主体として自己を提示したり、自分の上品さや未経験を価値として示したい場合には、この表現は避けた方がいいと思われる。関西の言葉を話す人はそのことを直観的に知っているので、状況により相手によって「おもろい」と「おもしろい」を使い分けているのではないだろうか。

昨今、上方落語が脚光を浴びているので広く知られるようになったが、上方落語は多くの場合、見台【ルビ:けんだい】や小拍子【ルビ:こびょうし】といった道具を用いて演じられる。小拍子というのは小さな拍子木のようなもので、これで時々見台をピシッと叩くことが話題の転換や時間経過を表示する機能をもっており、それによって物語を手際よく分節してゆくのである。これは、江戸落語が基本的にはお座敷芸を前提としているのに対し、上方落語は街頭に床机を並べて行なう「辻ばなし」、つまり一種の大道芸から発展したことの名残であると考えられている。静かな室内で観客の注意が演じ手に集中するような状況とは異なり、様々なノイズに取り囲まれた屋外では人々の注意をつねに演じ手に引きつけておく必要がある。小拍子を叩くのは、元来はバナナの叩き売りで口上の合間に板や張り扇を叩いて注意を喚起するのと同じようなものではなかったかと思う。  このことは、「おもろい」という興趣の構造を理解する際に示唆的であるかもしれない。そこでは対象が閉じられた屋内の空間で「文化」として護られてはおらず、現実世界のあらゆる喧噪に直接晒されている。大阪には東京にはないエネルギーがあるというような言い方で大阪を誉める人がいるが、それは裏を返せば、大阪には文化を保護する制度的な枠組みが十分確立されていないということでもある。だからこそ何かしら強烈なもの、露骨で過剰なものを提示することで、いわば時々大きな音を立てて観客の注意を引きつけておく必要があるのである。「おもろい」というのは対象の内容についてばかりではなく、発話者によって行なわれる、そうした不断の喚起行為に対する評価をも含んだカテゴリーではないのだろうか。「おもろい」をたんに対象に対する評価としてとらえ、その何が「おもろい」のかなどと考え出すと、わからなくなってしまうからである。

「おもろい」という判断においては、対象とそれが認識される形式とが切り離せない。「おもろい」と発話するとき、そこでいったい何が「おもろい」のか——対象なのか、それが提示される仕方なのか、それともそれを「おもろい」と思う自分自身なのか——は決定できない。その意味できわめて反省的な判断なのである。一方「おもしろい」という語においては、それよりもはるかに内容そのもの、対象それ自体への志向が強く感じられる。先述したように「おもしろい」もたしかに既知の世界からの美的な離脱を契機とする反省的判断ではあるが、それは比較的すばやく、既知の価値体系の中に回収されやすいように感じられる。「おもろい」もまた美的判断としてやがては既知の世界に回収されるのであるが、ただ最初の離脱の「矯め」が少し長いのである。このことは、今日の文化状況を考える上で重要なことである。というのも、関西の言葉は今や芸能その他を通じてよく知られ、市民権を得てきたように見えるが、それとは裏腹に世界観の根底的なレベルにおいては、むしろ容赦のない標準(語)化が進行しているとしか思えないからである。

何年か前まで、痴漢行為撲滅キャンペーンの一環として「ちかん、アカン」という文字がでかでかと印刷されたポスターが、大阪の地下鉄には張り出されていた。いかにも大阪らしい「おもろい」文句だと思った人も多かったと思う。一方首都圏で見かけるのは「痴漢は犯罪です」というクソ真面目な標語で、これはこれでいかにも東京らしかった。それがいつからか大阪でも「痴漢は犯罪です」といったものしか見かけなくなった。これは、痴漢が深刻な犯罪行為であることを喚起するポスターなのに「ちかん、アカン」などというふざけた文句は不適切であるという苦情があったためではないだろうか。たしかに「アカン」という言葉は「犯罪です」という断定とはちがって、どこかに諦観を含み、人間の弱さを赦してしまっているようなニュアンスがある。こんな言い方は被害に遭った人の気持ちを踏みにじるものだ、というような非難があって取り下げたのではないのだろうか。

この推測がたとえまちがっていたとしても、われわれの言語をとりまく状況が現在、そのような方向にむかって進んでいることは間違いない。「おもろい」という言葉自体は別に禁止されてはいないけれど、そこに潜む反省の力は弱められ、その意味は「おもしろい」へと一元化されつつあるように思われる。「おもろい」が発話行為や発話の文脈に大きく依存し、言語化不能の経験を許容するのに対して、「おもしろい」はより対象の構造に結びついており、したがってより明示的に説明可能である。それは何事においても説明責任【ルビ:アカウンタビリティ】を要求するような今の時代にふさわしい表現と言えるであろう。林家三平という落語家は昔、寄席でネタがうけない時にヤケクソになって「これがなぜ面白いかといいますと…」と解説して笑いをとっていたが、現代はギャグとしてではなく、本当にそんなことが要求されるような時代になりつつあるのである。

先日、芸術系の大学で教えている知人からこんな話を聞いた。多くの芸大では2月から3月にかけて卒業制作展を行なう。それを観に訪れた在学生の親が、たしかに日本画や工芸の作品を観ると、卒業生たちは4年間でそれなりの技能を身につけていることがわかって納得するのだが、立体の作品やインスタレーション、メディアアートなどのコンセプチュアルな作品を観ると、ふつうの人が見たらゴミとしか思えないこんな制作物のどこに教育の成果があるのか、いったい大学では何を教えているのかと説明を求めるのだそうである。高い学費を支払っているだから、その「費用対効果」を要求しているわけである。これは人ごとではなく、わたしの所属しているような美学や芸術学のような分野においても事情は同じである。早晩、往年の三平師匠のように「この作品がなぜ面白いかといいますと…」と弁解しなければならない日が来るのではないだろうか。

わたし自身が学生だった頃(一九八〇年前後)には、そんなことを大学に向かって言う親はいなかった。それは、昔の親には教養があって芸術や人文科学を理解していたからではない。学費を払って子供たちが大学で何かワケのわからないものを作ったり書いたりしていても、「まったく何をやってるんでしょうかねー」とため息をつくだけでとどめておくだけの、判断の「矯め」があったからである。それを「見識」と呼んでもいいかもしれない。親が関西人だったら「うちの子ォは大学まで行ってなんやワケのわからん、おもろいもんを作っとる」と笑っていたかもしれない。

「おもしろい」「おもろい」といった言葉をめぐって妙な理屈を並べてきたと思われるかもしれないが、それを通して言いたかったのはようするにそうした判断の「矯め」、あるいは反省作用を表現する言語の重要性ということなのである。「おもろい」という語はそうしたことを示す一例としてとりあげのであり、それによって大阪や関西の言葉を何か特別なものとして祭り上げるつもりはない。ただ、今の社会は「おもろい」ものを許容する度合いがずいぶん低下していることはたしかだと思う。反省的言語がうまく機能しておらず、何よりもまず「ポリティカリー・コレクト」であるかどうか、意義や成果が簡潔に、明示的に説明できるかどうか、といった評価がすべてに先行している。これは、たんに社会全体の言語能力が、リテラシーが落ちているだけともいえる。端的にいって「しょうもない」世界である。だが、ボヤいてばかりいても仕方がない。生きているかぎり、「おもろい」ことはいくらでもあるとも言える。たとえ状況が最悪でも、そこに何かしらの興趣を見出してゆくバイタリティーやオプティミズムもまた、「おもろい」という表現の与える力だと思えるからである。


【英文要旨】"Omoroi" -- A Keyword to understand Osakan Aesthetics

"Omoshioi" may be one of normal translations of the English word "interesting." In Osaka or Kansai area, we have a slightly shortened form: "omoroi." Though the word may sound similar, "omoroi" is not just a dialect of "omoshiroi," but it reveals an important insight of people living in the west Japan. In this essay, the author discusses how the word reveals the aesthetics and world-view underlying Osakan/Kansai spirit, and emphasizes their importance in the context of Today's globalized culture. "Omoroi" is an aesthetic, reflective judgement in which an object is appreciated together with its context of presentation and perception. While by saying "Omoshiroi" we pay attention to the content of what we see, "Omoroi" seems to spare more room for the situation and context in which the judgement is made. It also conveys a feeling of resignation which leads not to a negative but to a very positive attidude to cope with harsh reality in our life.

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(C)Hiroshi Yoshioka