2109 - 百年後の人類へ
川崎市民ミュージアム『MUSEUM NEWS』 2009年3月21日
〈未来〉を考えるとき、100年とはいかにも中途半端な長さである。昔はいざ知らず、現代ではうっかりすると(?)生き長らえてしまう年月だからだ。日本には今、100歳を越える人が3万6千人以上いる(内86%が女性)。 100年は、ほぼ一人の人間が経験しうる時間の上限と言っていいだろう。子供の眼には、無限にも近い時間にみえるかもしれないが、人生も半ばを過ぎた者にとっては、けっして想像を超えた未来ではない。
個人の人生にとって100年がこれほど身近なものになった反面、社会全体の時間スケールはどんどん短くなっている。世界中の情報を瞬時に得られることが、まるで未来を覆い隠しているかのようだ。真剣に百年後のヴィジョンを持っている企業家や政治家が、今何人いるだろう? 学問研究や文化活動も一年後、長くても五年後には成果を出せと要求される。100年は個人にとってはリアルだが、社会の中では非現実的な時間とみなされているらしい。
1968年の映画『2001年宇宙の旅』が描いたのは、わずか33年後の未来だった。それは観客の多くがやがては生きて迎える時間だったが、途方もなく遙かなものに思えた。未来とは〈未知〉である、という感覚があったからだ。だが、その2001年も間近な1998年に発表された完結編『3001年終局への旅』はどうだろう? ここに描かれた1000年後の世界は、だいたいが予測可能なものばかりで出来ている。これはアーサー・クラークの想像力が衰えたというより、未来とは〈未知〉のものだ、という感覚が世界的に失われた結果かもしれない。
「予測」や「計画」ばかりがこれほど幅をきかせている世の中では、〈未知〉はむしろ過去の方にある、とでも言いたいくらいである。科学技術が予言する将来よりも、19世紀から次世紀のことを空想したアルベール・ロビダ(1848-1926)の『20世紀』の方が、よほど驚きに満ちており、〈未来〉らしく思える。ちなみに今から100年前(1908年)の朝日新聞には、夏目漱石の『夢十夜』が連載されていた。この美しい小品は、奇しくも「100年後」についての物語から始まる。語り手は死んだ女が蘇るのを、墓の前に座って100年待っている。のんびりしたものである。そして黒い土の上にいつしか伸びてきた百合の花によって、「百年はもう来ていたんだな」と知るのだ。
未知なるものとしての〈未来〉はたぶん、どこかしらのんびりした心情の中にしか、訪れてはくれないのだろう。100年後の人類に何を残すべきか?などとマジメに考え始めたとたん、〈未来〉はおそれをなして逃げてゆくのかもしれない。そもそも古今東西、未来予測などというものは当たったためしがない。(当たったこともあるようにみえるのは、後になって「俺は予測していた」と言い張る人が多いからだ。)だから結局のところ、今やりたいことを精一杯やるほかはない。100年後の人々はきっと、私たちがたとえどんなバカなことをしていようとも、面白く観てくれるだろう。
(C)Hiroshi Yoshioka
