Space in CyberSpace

スキン・ダイブ〜感覚の回路を開く

オンライン・エッセイ 1999年05月25日

美術家の小杉+安藤さん、Voice Gellery の松尾恵さんたちに誘われて、1999年05月25日(火)から06月12日(土)の期間、京都の元龍池小学校(中京区両替町小池上ル)で開催された現代美術展の企画にかかわることになり、「スキンダイブ」というコンセプトを考えました。以下はそれを説明する文章です。この展覧会には、その後も雑誌編集や美術企画でかかわることになる石内都さん、髙嶺格くんも出展しました。また IAMAS の卒業生で、残念なことに2007年に亡くなったメディアアーティストの酒井章憲くんも作品を出していました。会期中の企画として、鷲田清一さん、上田紀行さんと対談しました。


コンセプト文(Shorter version)

人間は、他の多くの動物たちとはちがって、皮膚によってダイレクトに世界と接触する存在です。衣服を着ることは、逆説的にも身体を「裸」にすることです。文明化とは、裸になってゆくプロセスのことだともいえる。さてこのような、生物学的身体の裸体化が完了した後、いわばテクノロジーと文化による、第2段階の裸体化が始まっているのではないでしょうか。人間は自然な皮膚の境界を越えて、心や身体といった内的なものを、外界にますます直接的に結びつけつつあるようです。身体の加工や臓器移植といったことばかりではありません。根本的には、コミュニケーションの変化こそがそうした「裸体化」プロセスを駆動しています。たとえばインターネットは、私的世界と地球規模の情報空間との間に、無数のリンクを張ってゆく仕掛けなのです。

「皮膚」は今や、たんなる境界面ではなく、複雑で多様な構造をもった共感覚的な場へと変容しつつあります。この展覧会「SKIN-DIVE」は、こうした意味での「皮膚」というテーマに沿って構成されています。技術や文化のめまぐるしい変化に惑わされることなく、アートというプリズムをとおして、三つの切り口から「皮膚」を眺めてみたいと思います。

■1 入れ墨などの皮膚加工への関心、スキンケアや脱毛など、皮膚のハイテク化した人工的管理。なめらかで非生物的な表皮へのあこがれ。そして「第二の皮膚」としての、衣服やファッション。また、「皮膚」のもつ心理的・文化的な意味。皮膚は欲望と簿嫌悪とをともに強く引き起こす、世界の意味の境界です。象徴的な意味での「皮膚」は、イジメなどの排除や差別、セクシュアリティ、さらには文化的インターフェイス一般の問題へとつながっています。

■2 スキンの「なかへ」とダイブすること。皮膚とはたんなる面ではなく、厚みをもつミクロな構造であり、そこでは「うち」と「そと」が溶けあっています。皮膚とは、内部の情報と外界の情報とが交換される、きわめて特異な空間なのです。それは、様々な捻れや共振性を内包し、繊細なエネルギーに満ちた亜空間なのです。ここから、「感覚」にたいする新たな展望がひらけてくるのではないでしょうか。感覚とはたんなる受容装置ではなく、膨大な情報の生態系に「住み込む」ための生きた知恵なのです。諸感覚はいわば、目で触る、指で聞くといった共振性をもっており、アートとは、そうした高次元の情報システムとしての 感覚への「回路を開く」 ことなのです。

■3 広大な感覚情報の海のなかを「素潜り」で探査してゆくこととしての「SKIN-DIVE」。現代の我々は巨大な科学とテクノロジーに包囲されてるとはいえ、生きることとは基本的に、裸で生きた世界の中へと潜行してゆくことだといえます。テクノロジーが進めば進むほど、むしろ裸の身体性のもつ意味はかえって大きくなってゆく。本物のダイビングと同じように、感覚情報の海へのスキン・ダイブもまた、海をよく知り自分の身体をコントロールするスキルを身につける必要があるでしょう。テクノロジーという「衣服」もまた、身体を包み込むと同時にそれを裸にし、未知の現実との接触へと導いていきます。ここから、「癒し」のより深い意味合いを探ることができかもしれません。


コンセプト文(Longer version)

人間の進化−−それはある意味では、自然の豊かな体毛を失うことを意味していた。他の多くのほ乳類と違ってわたしたちは、皮膚によってダイレクトに世界と接触する、「裸のサル」となったのである。人間だけが服を着るのは、実は人間だけが裸だからにほかならない。文明化とは、しだいに裸になってゆくプロセスのことだったのである。

このプロセスは、いまなお進行中である。生物学的な身体の裸体化が完了した後、テクノロジーと文化による第2段階の裸体化が始まった。人間は個体の皮膚という境界を越えて、みずからの心と身体を外界に、さらに直接的に結びつけてゆこうとする。たとえば臓器移植や人工臓器、やがて実現するであろう神経への直接的な感覚入力のことを考えてみればいい。交通や通信の発達も、身体と外界との直接的結合の進展を意味している。たとえばインターネットとは、内的で私的な世界と公的な地球規模の情報ネットワークとの、ダイレクトな結合としてみることができるのである。

「スキン・ダイブ」とは何か? それは地球文明の現在と未来のイメージを、「皮膚」というテーマとともに考える試みである。人類はまもなく、次の千年期へとシフトしようとしている。そうした現代世界の大きな動向を、めまぐるしい目先の変貌に幻惑されることなく、アートというプリズムをとおして、少し落ち着いて眺めてみようというものだ。そこには大きく、三つの切り口がある。

第一に、人間にとって皮膚(Skin)とは何か、ということ。入れ墨などの伝統的皮膚加工への関心、スキンケアや脱毛など、皮膚のハイテク化した人工的管理。あるいはパソコンのなかの、ポリゴンで作られたヴァーチャル身体や、アニメのキャラクターのもつ、なめらかで非生物的な表皮へのあこがれ。そして「第二の皮膚」としての、衣服やファッション。そうした、わたしたちの「皮膚」へのこだわりは、いったい何を意味しているのだろうか。

「皮膚」のもつ心理的・文化的な意味もまた、見逃すことができない。好きな人の肌はあこがれの対象となるが、嫌いな人の肌はそれこそ鳥肌が立つような嫌悪を引き起こす。皮膚とはまさに、世界の意味を分ける境いなのである。ここから皮膚という問題は、意味的な境界性、イジメなどの排除や差別、セクシュアリティ、さらには文化的インターフェイス一般の問題へとつながっていくだろう。  皮膚という表層の下にあるもの−−それは長い間タブーであった。だが現代のテクノロジー文明は、われわれを否応なくそうした身体の深部の様相に直面させる。たとえば90年代に急速に広がったピアシングなどは、ファッションがまさに皮膚という表層を貫いて身体の内部へと潜行しはじめた徴である。周知のようにアートもまた、死体、内臓、脳といったテーマに強烈な関心を抱くようになってきた。「内部」はもはや、おぞましい禁断領域ではなくなり、表層へと浮上し、表層と区別がつかなくなった。たとえばプラスティネーション技術によってユーモラスにポーズをとる死体たちを、わたしたちは道徳的な嫌悪感なしに鑑賞することができるようになったのである。

第二の切り口は、スキンのなかへとダイブすることだ。皮膚とはたんなる面ではなく、厚みをもつミクロな構造である。そうした構造のなかでは、いわば「うち」と「そと」が溶けあっており、隔てられると同時に結合されている。いいかえれば皮膚とは、自己の身体内部の情報と、外界の情報が交換される、きわめて特異な空間なのである。皮膚=境界とは、外界から自己を守るただの隔壁ではなく、さまざまな捻れや共振性を内包する、繊細なエネルギーに満ちた亜空間なのだ。

ここから、われわれがいままで「感覚」と呼んできた主題に対する、新たな展望がひらけてくるだろう。感覚とはたんに外界の情報を取り込む受容装置ではなく、多様で膨大な情報の生態系に「住み込む」ための生きた知恵なのである。いわゆる「五感」は、わたしたちが想像してきたよりもずっと複雑なものであることがわかってきた。諸感覚はいわば、目で触る、指で聞くといった共振性をもっている。アートとは、そうした高次元の情報システムとしての感覚への回路を開くことなのである。  最後に「スキン・ダイブ」とは、広大な感覚情報の海のなかを「素潜り」で探査してゆくことを意味している。現代のわれわれは、常に巨大な科学とテクノロジーに守られて生活していると感じているかもしれない。けれども生活がいかにシステマティックなものになっても、生きることとは基本的に、裸で生きた世界のなかへと潜行してゆくことなのだ。テクノロジー文明が進めば進むほど、かえってこうした、裸の身体性のもつ意味も大きくなってゆくのである。

ほんもののダイビングと同じように、感覚情報の海へのスキン・ダイブもまた、危険をともなう。海をよく知り自分の身体をコントロールするスキルを身につけないと、溺れてしまうだろう。けれども生きることの本当の意味やよろこびもまた、こうした経験のなかからうまれてくる。それは、たんに心を癒すといったことよりももっと深い経験、すなわち未知の外界との接触だからだ。

E-text に戻る

(C)Hiroshi Yoshioka