Space in CyberSpace

侵略されているのは私たちだ

オンライン・エッセイ 2003年04月15日

4月10日、バグダッドの「解放」を示す映像を世界中のテレビが放映しました。広場にあるサダム・フセインの銅像を引きずり降ろし、人々がそれを踏みつけている情景です。BBCのある解説者はそれを「ベルリンの壁が崩壊する瞬間のようだ」とコメントしていました。

ぼくは唖然としました。誰がどう見ても、それは1989年のベルリンとは似ても似つかない。「アメリカの勝利をバグダッドの人々は喜んでいる」ということを世界に印象づけるための、とても下手クソに演出された茶番劇にしか見えません。たとえ今回のアメリカのイラク侵略について何も知らない人が見たとしても、これは何かおかしいな、と思えるような映像です。善悪以前に、質が低い。

おそろしいのは、あんな映像を世界の人々に「感動的な歴史的瞬間」として納得させようとする暴力が存在することです。それは、世界中の人々の「映像リテラシー」を否認しようとしているかのようです。ジョージ・オーウェルの『1984年』ではありませんが、まるで4本の指を見せて「これは5本だ」と言うまで拷問して納得させるようなものです。人間のもつ、感覚の力というものを否定しようとしているのです。

もちろん、映像だけではありません。そもそもこの戦争は、わたしたちの言語を破壊しようとしています。ジョージ・ブッシュによるさまざまな幼児的タワゴトは言うにおよばず、今回の戦争をめぐるあらゆる比喩とレトリックが、言語を尊重しそれを注意深く使おうとしているすべての努力をあざ笑い、無効にしようと企んでいます。たとえば、石油の利権を得たいための戦争を「正義」や「自由」で粉飾することは、「正義」や「自由」について真面目に考えるな、と言っているに等しい。その意味で、アメリカの建国理念を否定するものでもあります。

現在のイラクの惨状はとても直視できないほどであり、その現実を知るなら(新聞やテレビはきわめて制限された情報しか伝えていません)誰しも人間として同情や義憤を感じずにはいられないでしょう。けれどもそれとは別な次元でも、この戦争は私たちに深く影響し、私たち自身の魂を貶めようとしている。他人事ではないのです。たとえ物質的な困窮や直接的な命の危険がないとしても、銃口は私たちに向けられているのです。

「私たち」とは誰でしょうか? それは、映像や言葉を注意深く読み、分析し、反省し、そして使おうとしている人たちのことです。感覚や思考の力を、ゆっくりと練り上げようと努力している人たちのことです。人間の中にある「悪」に対しても、ハイテク兵器による撲滅ではなく、言語、映像、音楽などの「記号」を通じて立ち向かおうとしている人たちのことです。それはイスラム世界にも、アメリカにも、日本にもいます。

ようするにアメリカによるイラク侵略は同時に、政治的立場を問わず、芸術、文学、哲学などの文化活動全体に対する攻撃でもあるのです。それは、時間をかけて新しい記号系やテキストを産み出そうとするすべての努力を無意味化するものだからです。この侵略は、現実の政治的侵略ほどは目立たないがゆえに、なおさら警戒が必要なのです。この侵略に抵抗するために、自分自身の感覚と思考とを信じ、大胆に新しい芸術的試みに乗り出す勇気が、今ほど必要な時はないと思います。

E-text に戻る

(C)Hiroshi Yoshioka