世界を覆い尽くす「浄化」の思想
オンライン・エッセイ 2003年4月29日
このテキストはバグダッドが陥落した直後、「白装束」の集団としてテレビや週刊誌に攻撃されていた「バナウェーブ研究所」が、岐阜県の道路で駐車違反のような軽微な違反行為によって警察やマスコミによって「排除」され、行く先がなくなったいたので「では IAMAS の芝生に駐留させればいい」と言っていたのに、学生以外は誰ひとり相手にしてくれなかったので落ち込み、書いた文章ですが、ぼくもそんなことを貫くまでの根性が足りませんでした。
世界が、最悪の事態に向かって突き進んでいる。
たしかに、「戦争」は一応終った。だがこれは、とても後味の悪い「終結」である。それは問題を解決するというより、問題の本質を捻じ曲げ、隠蔽する結果となった。
眼の前で行われているイジメに、抗議すれば自分もやられるから見ないふりをする。それは、とても嫌な経験であろうが、それだけならばまだいい。「本当は間違っているけれど、強者には逆らえないから黙るしかない」という苦々しい自覚があるのならば、まだマシなのである。
今の事態はそんなのより、はるかにもっとひどい。それは「強者の行ったことは正義だったのだ」と、弱者が自己暗示をかけて信じ込もうとし、そのことによって「楽」になろうとしているからである。あるいは逆に、戦争反対のデモとか署名とか、許される範囲で形だけの「抵抗」のジェスチャーをして、それで良心の呵責から逃れることで、やはり「楽」になろうとしている。
ようするにこの戦争の終結とは、何が正しく何が間違っているのかについての、私たちの健全な常識を抑圧し、法とは何か、正義とは何かについての真剣な思考を放棄させる結果となっているのだ。
「戦争」が終わり、地球規模のファシズムが始まった。人類は、20世紀におかしたあれほどの愚行から何一つ学んでいないことが、恥ずかしいほどに、ありとあらゆる神々の前に、露呈してしまったのである。
「戦争による〈悪〉の一掃か、それともテロの脅威か?」――これは最悪の二者択一であるし、そもそもこうした形で問いを立てること自体が作為的である。けれども百歩譲って、どうしてもこの問いに答ねばならないとしたら、健全な常識は「テロの脅威」の方がまだマシだと教えるはずである。
「戦争による〈悪〉の一掃」などというものがありえないことは、歴史の素養なんかなくても、まともに人生を経験してきた大人なら、誰だって直観的にわかることだからだ。と同時に、ひたすら「戦争はいけない」という言葉の欺瞞にも、大人なら同様に気づくべきである。戦争とは一枚岩ではなく、どうしても避けがたい戦争もあれば、今回アメリカが引き起こしたような、不必要で低劣な暴力の行使もあること――このことがわかるのは歴史や国際政治についての知識の問題ではなく、むしろ人が自分の人生をちゃんと経験してきたかどうかという問題である。
さらに大人ならば、「〈悪〉の一掃」と「戦争反対」とは、自分の世界から居心地の悪い要因を排除することで楽になろうとしている点で、まったく同型の態度だということにも気づかねばならない。生きるということはそもそも、「危険」や「脅威」や「悪」と共存することであり、それらは自己の外部にも、内部にもある。生きるとは、そうした存在とどのようにして折り合いをつけるかという、命がけの闘争にほかならないのだ。
「戦争による〈悪〉の一掃」、つまり世界の「浄化(purification)」とは、ようするに生きるという真剣な行為を放棄することである。戦争であれなんであれ、何らかの力の行使によって目障りなものを一掃すれば、その後は安全が保証された安楽な生がやってくるという妄想――そうした妄想を「宗教」と呼ぶのなら、「宗教」とは民衆の阿片(マルクス)であり、克服すべきものである(もちろん、宗教の本質はそんな退廃的態度とは何の関係もない)。
阿片のような「浄化」の思想が、世界の隅々にまで根を張ろうとしている。何も戦争ばかりが問題なのではない。この間日本で、世間を騒がした「白装束」の集団を、あんなにみんなが過剰反応して追い回したのはなぜか? それはかれらの行動が、われわれの多くが「正当」なことと信じて行ってる「浄化」の行為を、きわめてうまくカリカチュアライズしていたからである。
たとえば健康増進法という法律の名の下に、駅のホームから灰皿を一掃することは、タバコという〈悪〉から世界を浄化しようとする、宗教的ファナティスムにほかならないけれども、そのことに多くの人は気づかない。それが、共産主義ゲリラからの電磁波攻撃から身を護るために白い布を巻きつけてゆくかれらの行為を目の当たりにすることで、集合的な前意識のぎりぎりの所までもたらされた。つまり「白装束」とは実は私たち自身の姿なのではないかと、誰もがうすうす気づいた、だからヒステリックに排除しようとした、ということなのである。
本当の敵は、テロリストでも、アメリカでも、グローバライゼーションでもない。本当の敵とは「浄化」の思想であり、「ヒューマニズム」や「法的正当性」というソフトな衣をまとった「宗教」的原理主義である。それが約束する(が決して実現はしない)千年王国、つまりテロも紛争も差別も貧困もない、平等で平和で安全な楽園という「視霊者の夢」(カント)から、私たちは今こそ目覚めなければならないのだ。
(C)Hiroshi Yoshioka