Space in CyberSpace

フレディーの墓前に

オンライン・エッセイ(Tentative) 2009年09月09日

以下は、2009年09月12日(土)に名古屋のカフェ・パルルで行われたトークイベント「フレディーの墓前にて」のために準備した覚え書きに、トークでの議論を踏まえて後に加筆したものです。
 このトークは、コンピュータ音楽ユニット「フォルマント兄弟(三輪眞弘+佐近田展康)」の近作「フレディーの墓On Tombeau de Freddie)が、Ars Electronia 2009 デジタル音楽部門 Honorary Mention を受賞したことを記念して行われました。この作品は、ロックグループ「QUEEN」の伝説的なボーカリスト「フレディー・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946-1991)」の歌唱の音声的特徴を、サンプリングなどを一切使わずデジタル的に構成することで、誰もが耳に馴染んだ「あの」フレディーの声を持つ「亡霊」を作り出し、それが、二十世紀における社会主義運動の頌歌でありかつてソビエト連邦の国歌でもあった「インターナショナル」を、日本語で歌うという作品であり、YouTube で観ることができます。また Art&Science Blogにも動画があります。


「デジタル芸術」についての理論は、未だ存在していない。なぜなら私たちは、デジタル技術が芸術の制作や経験に対して、そもそも何をもたらしているのか、未だ、まったく知らないからである。

人は、非日常的なもの、異常なもの、魔術のようなものには、瞬く間に慣れてしまう。テクノロジーの進歩に取り囲まれた生活とは、ハリウッドの娯楽映画のようなものだ。次から次からやって来る驚異に、人は眼を見はり、戦慄に皮膚を粟立たせ、感動に涙を流しさえするが、後には何も残らない。そのうちに次の映画が始まり、また新たな「驚異」がやってくるだけだ。ここで重要なことは、これらのすべての経験がもたらしているのは、本当は驚きでも感動でもないということである。めくるめく驚異の連鎖を通して私たちが経験しているのは、むしろ忘却であり、忘却の連続を通じて生まれる倦怠である。真の驚異とは、自分にとって親密なもの、もっとも身近なもの、日常的な事物の中にある。だが忘却への強制に抵抗し、日常性を保持して、その中にある真の驚異について真剣に考えるのは実に、実に困難なことなのだ。

デジタル技術における新たな発明に対しても、私たちはまず驚き、魅了され、そしてあっという間に適応してゆく。新たに導入されたシステムや新発売のガジェットは、気がついてみると、もう日常の一部となっている。古くはワープロ、パソコン、ポケベル、携帯電話、そしてそれらすべてを統合するインターネット — これらはすべて、導入の初期には多くの人が「機械的」「味気ない」「不気味だ」と感じていたものである。それがいつのまにか「便利」で「楽しい」もの、それなしには日常生活が考えられないような必需品になっている。

それはなぜか? それはデジタル技術の発達・普及が、資本主義と市場経済によって駆動されているからである。市場原理の中では、デジタル技術のもたらす有用性と娯楽性とが、何よりも際だっている。そうした有用性・娯楽性を強調すればするほど、「技術」そのものは、いわば「非‐政治的」で「中立的」な存在として現れる。技術はたんに私たちが必要だと思ってきたこと、欲しいと思ってきたものを、実現してくれただけだ、というふうに言われる。こうした言い方によって、私たちが本当は何を必要としていたのか、何を欲していたのかがわからなってしまい、そのことについて真面目に考えることができなくなるのである。

たしかに、環境汚染からネット犯罪に至るまで、技術がもたらす様々な弊害について、私たちは語る。「技術」頼みではいけない、人間が正しくコントロールしなければ、などということは誰でも言う。そうした技術批判は、完全に politically correct である。だがそうした「問題」に対処する時、私たちは実は技術そのものについて、深く考えてはいないのである。その代わりに、人は技術のもたらす弊害を、当の技術の設計上の不具合とか、技術を運用する人間の過失や悪意のせいにする。そのことによって、技術についての最も重要な問いは、スッポリと抜け落ちてしまうのだが、それは技術的思考には、そうした問いが存在すること自体を覆い隠す作用があるからである。

石斧を振るって人を殺傷することは、その武器を持つ人間の責任に帰されるが、石斧がマシンガンに持ち替えられても、さらにはそれがコンピュータの端末に置き換えられても、人間と道具とそれがもたらす結果については、あたかも同等の倫理的関係があるかのように語られる。つまり、すべては道具であり、道具自体は中立的なものであり、人間の使いようによって善にも悪にもなる、ということである。そこから出てくる解決策は、もっぱら安全装置や法的規制による対処である(もちろん私は、それらの現実的な必要性を否定しているわけではない)。

だが言うまでもなく、マシンガンは石斧と同じではない(この意味で、棍棒が宇宙ステーションに変化する『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンは、致命的にミスリーディングである)。マシンガンはそれを手にした人間の中に、まったく新たな力の自覚、拡張された世界認識、欲求と快楽とを発生させるのだ。道具が人間を書き換えるのである。コンビュータにおいては、言うまでもないことだ。「コンピュータはただの道具だ」という言い方は、この意味で誤っている。人間はコンピュータのプログラムを書くが、そのとき、同時にコンピュータは人間の脳を書き換えている。道具を人間から切り離して考えることなどできない。このことが真剣に考察されないかぎり、デジタルメディアについて有効な理論を構築することなど、とうていできないのだ。

デジタル技術が開示する新たな世界経験を反省的に自覚したり、そのことが何を意味するのかを考察するといった活動は、現代においては構造的に抑圧されている。「構造的」という意味は、あたかもデジタル技術自体が、そうした反省的自覚や洞察といった活動を不要にしているかのように語られる、ということである。このインターネットの時代に、内省的に物事を考えたりするなんて態度は前時代の遺物、書物と文字言語に基づいた近代的意識の残りカスにすぎない、というわけである。だがこれは、とてつもない大嘘である。致命的に古いのは、デジタル技術の哲学的意味を考察しようとする態度ではなく、むしろ有用性と娯楽性を通してしかデジタル技術を理解しない考え方、つまり技術をあくまで「技術」としてしか理解しない「現代的」態度の方である。

技術を技術としてしか理解しない態度の中では、実は近代がまさに批判の対象としてきた基本的概念が「脱‐批判」化される。その最たるもののひとつが「人間」という概念である。「人間」は、技術の中では、あたかも「世界文化遺産」のように温存されることになる。「世界文化遺産」は、ひとたび認定されれば、その価値については不問となる。そうなれば安心して、永続的な観光資源として収益が補償されるのである。だが、もはやその価値を議論する可能性を奪われた存在とは、実は「文化」ではない。「世界文化遺産」の認定とは、深層においては、人間が過去に作り出した制作物を、もはや文化でないもの、たんなる資産、財産へと変換することである。技術が「人間」を温存するということは、それと並行して考えることができる。このことはデジタル技術を越えて、技術一般の問題である。

たとえばこの7月13日、臓器提供の年齢制限を撤廃する改正臓器移植法が参院本会議で可決・成立した。この決定は「脳死は人の死である」という考えが「おおむね(!)社会的に受容されている」との認識に基づいている。「脳死が人の死である」ということは、裏を返せば、「人間の生とは脳の活動である」ということを意味している。脳死状態にあっても人体を生かし続けることのできる人工呼吸装置を発明した当の人間が、まさにそのことによって「脳死」という未曾有の状態を作り出したにもかかわらず、それによって「これはもう人間ではない」と結論せざるをえなくなったわけである。皮肉なことだ。だが、多くの人はそれを皮肉とは思っていない。技術の進歩に伴って必然的に生じた、技術的・法的に対処の必要な「課題」だと受けとめている。

ここで前提されている「人間」モデルとは、いってみれば、自律的に生存し、知的活動を営む(あるいはそうなるまでに回復する見込みのある)ホモ・サピエンスの身体、といったような意味だろう。だが、本当にこんなモデルが「おおむね社会的に受容(「受容」という語も要注意だが)されている」のだろうか? 私はそうは思わない。人々は、たんに沈黙を強いられているだけだからだ。それはちょうど、パソコンの不得意な社員が、技術担当から「今日からシステムを変えましたので、使い方はこうしてくださいね」という通達を受け、どーかなぁと思いながら何にも言えない、という状況と似ている。自分は素人で先端医療技術についてはよくわからない、と多くの人は思っている。そこに脳死を人の死であると認めれば多くの人たちの命が助かるのだから、と言われては反論できない。つまりそこにあるのは、「脳死は人の死か?」という問題は、結局は「技術」の、「システム」の問題だから、分かっている人に任せるしかない、という態度にすぎない。それを「受容」などと言いかえるのは詐術である。

ちなみに、医療倫理のこうしたややこしい問題について、私のある友人が語った明瞭きわまりない提案(しかし誰ひとり真面目には聞いてくれない提案)を再録しておこう。それは、脳死は人の死ではなく、脳死状態の人の臓器を摘出するのはやはり殺人であるとすべきだという理解である。だが、こうした場合にかぎり、殺人は容認されるべきものであり、起訴したり刑を科すことはないという社会的合意を形成すればいい、というのだ。重要なのは、他の人を生かすためにある人を殺したという認識を、持ち続けた方がよいという点である。いわば脳死の人にわざわざ「お前はもう死んでいる」などと宣言する必要はないということだ。

実はこのことは、人間がみずからのために毎日大量の動物を殺しているという事実と、連続したものである。私たちは自分のために他の生き物を殺しているという事実を引き受けるべきであって、動物には思考や知性がないとか、考え得るかぎり苦痛や恐怖の少ない屠殺方法がとられているからよいのだとか、そうした科学的・技術的な理由によって殺戮を正当化すべきではないということだ。それでも、やっていることは同じだから、そんな理解の仕方の違いなどどうでもいいではないか、という人がいるだろうか? それは間違っている。理解の仕方こそが行動を変えるのだ。鶏インフルエンザ騒ぎで、不必要に大量のニワトリが「焼却処理」されるのを見れば、誰でも本当は深く動揺しているのだ。なぜなら私たち自身の動物的部分が、それが理不尽な大量虐殺であることを明確に認識しているからである。だからこそそれを覆い隠すために、「食の安全」のためには致し方ない処置であった、とヒステリックに反復しなければいられなくなるのである。

ある意味で、科学技術ほど「人間主義的(ヒューマニスティック)」なものはない。(科学技術をニヒリズムとして批判する態度は効力がない。ヒューマニズムこそニヒリズムの究極形態なのだ。)それは、科学技術の中では「人間」の幸福、利便という目的が無批判に前提され、「人間」概念がいわば「遺産」化されているという意味においてである。それに対して二千数百年に及ぶ西欧の文学・芸術・哲学(ヒューマニティー)の歴史において、「人間」はつねに問題的な存在、世界における位置が確定しない存在、自然との境界線が安定しない存在として、批判的・反省的思考の中心であった。「人間」は、人文学(ヒューマニティー)においてはいわば「剝き出し」になっていて、絶え間ない批判にさらされてきたのである。ヒューマニティーを駆動しているのは、世界の諸問題を解決する前に、まずこの自分自身という存在が何も分かっていないではないか、という意識である。

一方、19世紀産業革命以来一般的になった近代科学、その主体である白衣を着た科学者・技術者というあり方(それ以前、ガリレオもニュートンも白衣など着ていない)においては、生身の「人間」は、いわばその白衣の下に隠されている。科学者が人間を研究対象にするとしても、それはみずからの外にある客観的対象、観察や実験の対象としてである。そして、まさにこうした事態によって、「人間」は隠され、批判を免れ、温存されるのである。科学技術は、いわば暗黙のうちに、自明な存在と課した「人間」を要件として成立している。だがそれは自覚されることはなく、表面的には、科学技術による社会の非人間化、といった問題が語られたりする。だがこの問題はダミーだ。テクノロジーが「人間」を危機に陥れているのではなく、テクノロジーこそ、「人間」概念を必要としているのである。遺伝子解析によって人間と他の生物との境界がこれほどまでに曖昧になっているのに、「人間」概念そのものを批判的に再構築することなしに、現代医療について考えることなどできるのだろうか?という問いを、テクノロジー(とそれに追従する政治的立場)は、構造的に問うことができないからである。

デジタル技術においても、まったく同じような状況がある。今回の議論の文脈で言えば、何をおいても「芸術」の概念が問題となろう。人文学一般において「人間」が批判の中心であったように、近代の美学・芸術学とはある意味で、「芸術」概念を批判的に解体し、また再構築するということの繰り返しであった、と私は思う。たしかにそれは、とても「しんきくさい」営みであったことは認める。しかし、他にどんな道があるのだろうか?

だが現代、デジタル情報技術が再現する「芸術作品」は、そうした批判意識と、はじめから無縁のようにみえる。そこでは「芸術作品」とは、いってみれば「特殊な付加価値を帯びた娯楽商品」のことなのである。おいおい、いくらなんでも、そんなんでいいのか?と言いたくなるのである。「芸術とは何か」という問いが、そこでは不問に付されており、そんなことを考えても仕方がないでしょ、という気分が支配している。(技術者の白衣の下に「人間」が隠され不問に付されるように)このようにまさに「不問に付される」ことによって、「芸術」や「芸術作品」といった概念は温存されてしまう。だが、この状況を野蛮と呼ばずして何であろう?

マンガ、アニメ、ゲーム、日本が世界に輸出するそうした戦略商品こそ21世紀の「芸術作品」なのであり、それにグダグダ異議を唱えているのは、芸術における近代主義「イデオロギー」に毒された、(ぼくみたいな?)可愛そうなオヤジたちだけ・・・そうだろうか? もちろんそれは違う。近代的な「芸術」概念を必要としているのは、むしろ市場原理の方だ。たとえば、昨今よく現代美術に関して耳にする「美術館から飛び出せ!」などといったフレーズは、「美術館」とその背後に存在する近代的芸術概念の有効性を疑わないからこそ、有効に作用しているのである。頭の硬い芸術家や美学者が「芸術」にこだわっているのではない。「芸術」を必要としているのは資本主義なのである。

フォルマント兄弟による『フレディーの墓/インターナショナル』を、私はこのような文脈において聴いた。それゆえ、三輪・佐近田の2人から、この作品に対して「こんなの、ただの物真似、デジタル声帯模写ではないのか?」という意味の感想がいくつかあったということを聞き、驚きを禁じえなかった。なぜなら、そのような言い方をすればインタラクティヴ・アートの全体は、「たいして楽しくないゲームのようなものではないか?」と言えるからである。私の考えでは「ただの物真似」などというものは存在しない。すぐれた「物真似」は、常に批評的である。だから「ただの物真似だから価値がない」という評言の背後には「芸術制作は芸人の物真似以上のものである」という前提がある。だがそれは芸術に関する本質主義というものであり、受け容れることはできない。「芸術」という問題は、そうした前提を真に受けた瞬間、どこかに逃げ去っていく。

とはいえ、もちろん違いがないわけではない。芸人の物真似が真似られている当人に対する批評であるのに対し、『フレディーの墓』はフレディー・マーキュリーに対する批評ではまったくない。佐近田によれば、フレディー・M を選んだのは、彼が世界的に知られているロック歌手であるという事実によるのではなく、むしろ、現代において世界中の人がただその「声」を聴いただけで誰かということが同定できる、数少ないボーカリストのひとりであるからだという。そしてその理由はフレディー・M が、人間の声というよりもどこか昆虫のような、私が言い換えてよいなら、まさに「機械的」な特質をもった声の持ち主だったからである。『フレディーの墓』において「真似られている」ものがあるとすれば、それは歴史的に実在した1人のロック歌手ではない。むしろ、メディア環境における私たちの聴取の構造、声の理解、機械的なものと生身のもの、疎遠なものと親密なもの — そうした事柄をめぐる私たちの先入観の全体が、そこでカリカチュアライズされているのである。カリカチュアライズとは、自分の身体の一部を外部のモノのように見る、ということだ(ゴッホの切り取られた耳のように?)。この作品はいわば、私たちのメディア的身体をモノのように見る(つまり自己批評的に見る)ということを試みているように、私には思えるのである。

★忙しいので今日はここまで。もう少し展開させます。


今年2月に関西学院大学の日本美学会西部会で話した「メディアと親密性」の章が、この作品をとりあげて論じ、当時まだ未完成だった『フレディーの墓/インターナショナル』をフォルマント兄弟の許可を得て特別に紹介したものだったので、作品に触れた部分を参考のため載せておきます。

「メディアと親密性」4 「死者なき亡霊」、〈非存在〉の親密なる現前

・・・最後に、コンピュータ音楽というまったく異なった分野における作品を紹介してこの報告を終えたいと思います。それには二つの理由があります。まず第一は、メディアによる親密性の表象というテーマにとって、特に視覚的メディアが優位であるわけでも、「写真」というメディアが特別であるわけでもないからです。ついでに言えば、わたしは作家が制作において実際にメディア装置を用いるかどうかも、本質的なことではないと思います。メディアとは最初に定義したように、私たちがその中で生きている環境のことであり、世界観のことでもあるからです。「装置」とは、それを具体的に理解させてくれる手かがりにほかなりません。第二の理由は、写真のような視覚的再現においてはどうしても付きまといがちな、実在する対象との関係を断ち切るためです。メディアがもたらす親密性の表象は、それを作り出すためにそこに実在の対象が何らかの仕方で刻印されているかどうか(つまり作品を何らかの「痕跡」とみなしうるかどうか)ということには、まったく関係がないと考えています。写真家の石内都の言葉を借りて言えば、メディアが与えるのは「器」(知覚の形式)であって「中身」(コンテンツ)ではないのです。私たちはまだメディアについて語る適切な言葉を持っていません。だから今のところある程度は、写真をそこに移っている対象と、また録音された音響をそれが記録した元の音響現象と、混同しながら語らざるをえないのだと思います。そのことを、これから紹介する作品の例を通して示したいと思います。
 「親密性」について考えるとき、視覚的イメージにおとらず重要なのは「声」です。先に指摘したように、私たちは本来自分の「声」を知りませんが、録音再生メディアが普及し容易になった現在では、わたしたちは自分自身の視覚イメージに対してと同様、自分の「声」を聞くことにも慣れています。それどころか、会ったこともない多くの人の声、すでにこの世にいない語り手や歌手の「声」を、まるで家族や友人のそれであるかのように記憶しています。こうした経験は、録音メディア以前には想像もできなかった事態です。
 さて、ここで紹介したいのは、「フォルマント兄弟」による「フレディーの墓/インターナショナル」という未発表の作品です。「フォルマント兄弟」というのは、コンピュータ音楽の作曲家である三輪眞弘と佐近田展康の二人によるユニットです。この作品の制作と同時に二人によって書かれた「デジタル・ミュージックにおける6つのパースペクティヴ」というテキストを参照しながら、この作品の概要について、簡単に説明してみたいと思います。
 彼らは、顔と同様個人の固有性と分かちがたく結びついたものとしての「声」に注目します。「声」の固有性とは単なる波形のパターンではなく、「音素やイントネーションなどをはじめとする無数の時間的変化の総体」です。しかしそれは、三次元的な視覚情報とは異なり、一次元の「情報」に還元できます。このことが意味するのは、「声」は視覚的刺激よりもはるかに、装置によって現前させることが容易だということです。というより、私たちはとっくの昔から装置による声の現前というリアリティの中に生きている、と言った方がいいでしょう。彼らはこの作品制作にあたって、物故した人気ロック歌手フレディー・マーキュリーをとりあげます。世界中の多くの人々が、この歌手がかつて QUEEN という名前のロック・バンドで歌っていたことを「事実」だと信じています。しかしそれは、最初からメディア・テクノロジーに媒介された事実です。世界中の人々がこの事実を確信しているのは、フレディーの独特の声を親密に記憶しているからですが、それはタンザニアでペルシア系の両親の元に生まれたファルーク・バルサラという男の声ではありません。そうでなく、二十世紀の音響装置によって録音され媒介され、多くの人に共有されている「あの、フレディー」の歌声です。
 「フォルマント兄弟」の佐近田展康は、そのフレディーの歌声を人工的にシミュレートしようとします。それは発達した現代の音響合成技術においても、極めて困難なことです。たんに人の声らしく聞こえるだけでは十分ではありません。つまり音響スペクトルを似せるだけではなく、ミリ秒単位で変化し続ける、固有の身体に由来する定式化不可能なパターンを模倣しなければならないからてす。そのために佐近田は「声帯の緊張度」をはじめとする特徴的な変化を独自にアルゴリズム化し、それに伴う莫大な数のパラメーターを職人的な勘と手作業で調整することによって、「歌声としてのフレディー・マーキュリー」を完成させました。そしてそれに二十世紀における社会主義と労働運動のシンボルであった「インターナショナル」を日本語で歌わせるという着想を得ました。フォルマント兄弟はこれを「死者なき亡霊」と呼んでいます。この「死者」とはもちろん、1991年にエイズによって亡くなったひとりの歌手のことではありません。ここでの「死者」とは、その歌手の肉声の「痕跡」としての録音された声のことです。フォルマント兄弟の作品における「声」ははじめからデジタル情報として作り出されたものであり、いかなる実在の痕跡でもありません。
 「フォルマント兄弟」によるこの作品の意図は、たんに多くの人が知る歌手の声の特徴を、機械によって「物真似」するということではありません。実際、これからお聞かせする曲も、いかにも「人の声らしく聞こえる」ようには作られていません。むしろ、そこで問題にされているのは、録音された音響一般、さらにはメディアによって機械的に複製された表象一般を、われわれはどう考えるべきか?というきわめて根本的な問題提起であると、わたしは思います。というのも、私たちはメディアがもたらす表象について語る、適切な言葉をまだぜんぜん持っていないからです。
 三輪眞弘は、レコードや CD が「音楽」と呼ばれることそれ自体に反対しています。それは、ライブ演奏の一回性を持たないものは音楽でないとか、CD は可聴域の周波数だけを選択的に切り取ってデジタル化しているから、超音波や低周波を含む「生」の音楽体験ではないとかいった、近代主義的な理由からではありません。端的に、録音された音響というのは、そもそも音楽とは、まったく異なったものだからです。彼はそれを音楽とは区別して「録楽」と呼んでいます。録音は ― 「録音」というその言葉からして ― 音楽の、つまり生きた経験の記録、痕跡だと考えられ、その限りにおいて音楽と混同されてきました。「フレディーの墓/インターナショナル」という作品は、わたしの考えでは、音楽の「痕跡」という軛から、「録楽」を解放するものです。
 このことをメディアの美学一般の問題に拡大して言うなら、それはメディアにおいてはじめて可能であるような経験の領域に注意を向けさせ、その経験を適切に記述する言葉を模索するように促すものです。フレディー・マーキュリーという存在自体がメディアによって媒介されたものである以上、彼が日本語でインターナショナルを歌うという事態は、虚構ではなくて〈非存在(non-being)〉です。トリン・T ・ミンハがしばしば語っているように、〈非存在〉とは存在の否定ではなく、〈存在〉が同時に〈存在〉でないものでもある、という状態のことです。メディアの本来的な可能性のひとつは、この状態をかぎりなく「近く」へともたらすこと、〈非存在〉の親密な現前ということにあるのではないかと思います。それは、この上なく生きていると同時に死んでいるような状態です。この知覚は私たちの思考に「困難」をもたらしますが、同時にそれを記述するための新たな美学的言語の探究に向けて、私たちを強く鼓舞するものだと思います・・・。

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(C)Hiroshi Yoshioka