メディアにとって、クリティークとは何か?
オンライン・エッセイ(Tentative) 2009年10月10日
以下は、2009年10月10日(土)に東京大学情報学環の福武ホールで行われるシンポジウムのための覚え書きです。
このシンポジウムは、東京藝術大学大学院映像研究科と東京大学大学院情報学環とが開催してきた連続シンポジウム「メディアアートとは何か?」の第3回目に当たるものです。今回は東京芸大の藤幡正樹氏、東大情報学環の石田英敬氏に加え、立命館大学の北野圭介氏と吉岡が議論に加わります。しかし後期がはじまって恐ろしく多忙で、ぜんぜん準備する時間がない。
メディアにとって、クリティークとは何を意味するのか?
啓蒙主義の時代においてクリティークとは、伝統的権威(キリスト教、封建的秩序)に対して個人の意識と合理的思考の力に訴えることを意味していました。言わば「司祭や国王の言うことを信じるな、自分の頭で考えよ」ということです。マルクス主義においてクリティークとは、資本主義的生産様式によって自明で不動のように見える世界秩序から、階級的団結によって覚醒することを意味していました。「金持ちの善人面に騙されるな、同志との連帯を信じよ」ということです。では、個人の生活の隅々にまでテクノロジー的合理性が浸透した「生政治」的状況の現代において、クリティークとは何を意味するのか? 私たちは何に対して警戒し、何を信じることができるのか? これが、私たちが共通に直面している問題だと思います。「メディアにとって、クリティークとは何か?」 — それはこの状況を、テクノロジー的合理性がとりわけ明確に現れている「デジタルメディア」に即して考えようとする問いであると、わたしは理解します。
メディアの経験は、「力」の経験と結びついています。それは私たちの弱々しい生身の身体が、機械と同化することによって獲得される途方もない「力」の経験です。機械を操作しそれに没入することは、信じがたい高揚感をもたらします。ファンタジーの中では、この力は物理的な力として表現されます。ロボットやサイボーグと化した身体、あるいは『機動戦士ガンダム』のようなモビルスーツです。より現実的には、それらはオタク的な、マニアックな幻想ではなくて、情報テクノロジーの中に生きている人々に共通するオブセッションだと思います。アートであれビジネスであれ何らかの形で「メディア」にコミットしている人が、「メディアリテラシー」なるものを持たない多くの人々に対して抱く優越感は、そうした機械との一体化による万能感に由来しています。けれども、メディアのもたらす「力」の経験は、そうした子供っぽいファンタジーだけを帰結するわけではありません。メディアの経験は同時に、自己と世界との関係についての根本的な反省の契機ともなりえます。このことを感知する能力をこそ、わたしは「メディアリテラシー」と呼んでいますが、ほとんど誰にも賛同されません。
わたしにとって「メディア」というテーマは、何をおいてもまず「現実(リアリティー)の基本的重層性」を認識するための契機なのです。私たちが日々経験している現実が一枚岩のものではなく、その本性において様々に異なった経験の、いわば「重ね合わせ」として成立していることを、美的=直感的(aesthetic)に知覚させてくれる装置こそが「メディア」だと思います。そのように理解しないかぎり、「メディア」について真剣に考えなければならない理由を、わたしは見いだすことができないのです。「現実の重層性」を直感的に経験させるという効果に比べれば、「メディア」がたんに知覚の範囲を拡張したとか、感覚情報の記録や編集を容易にしたといった側面は、副次的で相対的なものにすら思えます。「メディア」について考えるとき、わたしは「デジタルメディア」をその中心に置くのが必要だと常に思いますが、それは「アナログ」に対する「デジタル」の決定的重要性もまた、現実の重層性の知覚という視点をとってはじめて、正当に評価できるのではないだろうか、と考えているからです。
多くのメディア論はこれまで、人間身体が本来持っている能力の拡張という視点から「メディア」を考えてきたように思われます。つまり「メディア」とは、人間の感覚や思考の能力を拡大・増幅することによって、自然的世界をより高度に支配・制御するような補綴的装置として理解されてきたと言うこともできるでしょう。そうしたメディア観は「文明の進歩」といった考え方とも相通じるものかもしれません。ちなみに、 わたしは「文明の進歩」という19世紀的概念を(少なくとも一般に理解されているような意味では)まったく信じていません。「文明の進歩」とは、たかだかここ数世紀の間、近代科学技術の影響力の急速な増大と共に流布した歴史的概念にすぎないし、それがわれわれの現在の世界観をいまだ強力に規定しているにしても、数万年に及ぶ人類史の中では一時的な現象にすぎないと考えた方が至当である、と考えています。「文明の進歩」自体、まったく単層的な歴史観なのです。それよりは、「進歩」は同時に「野蛮への転落」として、つまり「啓蒙の弁証法」(ホルクハイマー+アドルノ)として考えられるべきであり、新たなテクノロジーの発明は同時に「大惨事の発明」(P・ ヴィリリオ)としても考えられねばならないでしょう。
還元すれば、「自然的身体」が、テクノロジーやメディアの獲得によって増大・拡張してゆくというヴィジョンは、基本的にミスリーディングなものであると、私は考えているわけです。「自然的身体」など、いったいどこにあるというのか? おかしな連想かもしれませんが、わたしは人類の「自然的身体」とは、たとえば自然史博物館において、化石をもとに復元された原始人類の姿(イメージ)のようなものだと思います。類人猿から、原人、新人へと、だんだんと直立姿勢になり、背も高くなっていくようなシルエットや模型が、博物館などにはよくありますね。そうしたものを目にする度に、いったいこのようなイメージの効用とは何なのだろうか?と思わずにはいられません。それは、実は科学展示なのではない。むしろ現在の私たち自身を理解するため、私たち自身の、この不安定な身の上をなんとか納得するために必要なのだ、と。私たちがそこから出てきたもの、そこから発展してこれはわたしにとって「自然的身体」というのは、ひとつの「抽象」にほかならないのです。言いかえれば、そうした「身体」とは、何らかのテクノロジーのインパクトによって、何らかの新たな「メディア」的経験によって、つねに事後的に見い出されるものなのである、ということです。
たとえば「写真」は、映像的知覚の機械的な記録と複製とを可能にしました。それは疑うことができない。そこから、「写真」の発明以前には、あたかも人類は一回的で反復不能な視覚経験の世界にのみ生きていたかのように、人々は語りたがります。だがそんなことはありえない。写真技術以前には、人は写真的イメージに媒介されない視覚経験を「一回的で反復不能な」ものとしては捉えてはいませんでした。むしろ、「一回的で反復不能な視覚経験」という概念は、実は写真というメディアによってもたらされたのです。ベンヤミンを読んで、機械的複製技術が「アウラ」を消滅と言う人がいますが、別に複製技術がそれまで存在していた「アウラ」なるものを滅ぼしたのではない。複製技術はむしろ、「アウラ」と「アウラの消滅」を同時にもたらしたのです。写真というメディアが本当にもたらしたものは、私たちの視覚的経験を、「一回的でかけがえのないもの」であると同時に、「記録・反復可能なもの」としても捉える、視覚的経験の重層性にほかならないのです。
話は跳びますが、量子力学の世界ではヒュー・エヴェレットが「多世界解釈」というものを発表してから半世紀以上が経過しました。長い間まともに取り上げられることのなかった、エヴェレットの思想がこれを期に、少し注目を集めているのは、長年の「多世界解釈」ファンとしてはうれしいことですが、今考えている「メディアとクリティーク」というテーマにとっても、無関係ではないと思えるのです。
これは、有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験について、一般的的に物理学で説明される解釈(コペンハーゲン解釈)、つまり波動関数の収縮という解釈に対して、多くの世界が重層している状態を考えるものです。「コペンハーゲン解釈」においては、シュレーディンガーの猫は観測者が観測するまで、「生きている猫」と「死んでいる猫」の重ね合わせの状態にあるが、観測者が観測することで、猫の状態はどちらか一方へと収束します。それに対して「多世界解釈」においては、世界は「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」に分かれますが、その際観測者もまた、どちらかの世界に引き込まれ、その結果、猫は「生きている/死んでいる」と観測するわけです。その際「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」の比率が、量子力学的に予測される猫の生死の確率分布と同じになる、という解釈です。
並行世界が無限に分岐してゆく、というヴィジョンはSF的想像力をとても刺激するので、この解釈について、いろんな物語が書かれてきましたが、わたしはそれらのどれを読んでも、エヴェレットの考えをまともに表現しているとは思えませんでした。「多世界解釈」のポイントは、世界がパラレルに分岐するということではなく、むしろ「重ね合わせ」の状態がどんどん拡大してゆくということだと思うからです。もちろんこんなことは、物理学でも哲学でもなくて、わたしの妄想に近いものだと考えていただいていいのですが、「どこかに別な私が存在する」というようなロマンティックなことではなく、今、この現実が、多数の可能性の重ね合わせとして存在している、にもかかわらず、私は「たまたま」その可能性の中のひとつを経験しているという理解です。「現実の基本的重層性」というのは、こうしたイメージに近いのですが、まだ十分に説得的に展開させることができません。残念ですが、ぼくは「メディアにとってのクリティーク」とは、もしもそれが可能だとすれば、こうした重層的リアリティを基本原理にとするようなものでなければならないと考えています。
明日の東大でのシンポジウムはどんなことになるかわかりませんが、上のような話をするつもりです。
(C)Hiroshi Yoshioka
