「ミーム」で文化を読み解く
ポール・ブーイサック(Paul Bouissac)教授は、サーカスの記号学的分析などで知られたトロントの文化人類学者である。日本では『サーカス――アクロバットと動物芸の記号論』(中沢新一訳、せりか書房、1984)などを通じて紹介されている。この数年かれは、文化の諸問題に人工知能や進化論の観点をとり入れた研究を精力的に行ってきた。
そうした新しい文化理論におけるキーワードが「ミーム」である。ミーム仮説とは、文化的なパターンの伝達や変化の原因に、遺伝子のような、自己複製する情報の単位(自己複製子)を想定する考え方である。遺伝子が生体内部で細胞分裂によって複製され、生殖を通じて他の個体へと伝達されるのに対し、ミームはわたしたちが勉強したり、人の行動を知らずに真似したりすることよって複製され、対面的コミュニケーション、書物、マスメディア、インターネットなどを通して拡がってゆく。
ミーム仮説は、情報が人間の脳に「寄生」すると考える。わたしたちの行動のパターンは、自分の判断によるのではなく、実は脳を乗っ取ったミームによるものではないか、というのである。ミームは人間にとって有利に作用することもあり、その場合には「寄生」は「共生」となる。
こうした仮説はSFのようにみえるかもしれないし、悪意に解釈すれば、わたしたちが主体的に考えるべき問題を、ミームに転嫁しているとも受けとれる。けれどもブーイサック氏の意図はその正反対である。ミーム仮説はかれにとって、民族的・宗教的紛争にみられるような破壊的な行動パターンを理解するために重要なのである。切実な現実問題に直面しているからこそ、あえて、主体が外部の情報によって貫通されているという視点をとること――ミーム仮説の可能性は、そうした知的試みの精神にあるといえるだろう。(岩波書店『世界』、1997年9月号に掲載。)
吉岡: ブーイサック教授は、ここ数年「ミーム」に関わっておられます。ミームはもともと、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが一九七六年に出版した著書『利己的な遺伝子』のなかで示唆した概念です。この「ミーム」概念は、いまでは、広い文化的な文脈において知られているようです。まず、この概念がどのようにして文化一般の研究に取り入れられるようになったのか、説明していただけますか?
ブーイサック: 文化を研究したきた人々、文化人類学者たちは、文化というものが、世代から世代へと伝えられる、一連の基礎的な行動パターンによって形づくられると考えてきました。そうしたパターンのなかには、すぐに変化するものもあれば、長い間ほとんど変化しないものもあります。ある時点で、一連の同じ基本的な行動パターンが見られる場合、そこには世代を越えて伝えられる文化の基本要素があると考えられるでしょう。そのなかには、きちんとした教育を通じて意識的に伝達されるものもありますが、また日々の社会生活において、行動や葛藤を調整するなかで伝わるものもあります。後者は、教育学者や心理学者たちが"「観察学習(obsevational learning)」と呼んでいるものであり、そこでは特定の行動に身をさらすことによって、知覚されることを通じて受け入れられ、文脈のなかで再び強化されます。文化人類学者、社会学者、文化理論家といった文化の専門家たちは、このようにして伝達される文化の単位とは何か、と考えてきました。それらのなかには、時とともに変化するものもしないものもあり、そのことが文化の多様性を生み出します。
さて遺伝科学の進歩、および進化学者たちがそれを発展させたことによって、人々が世代の経過とともに、互いに似てきたり離れていったりするのはなぜかを説明することができるようになりました。つまり、遺伝子の組合せが変われば、進化学者が「表現型」と呼ぶものも変わるということです。
さてリチャード・ドーキンスは、DNAが生物体に寄生しながら自分自身を複製する「エージェント」とみなしてはどうかと提案しました。そしてかれは文化についても、たぶん遺伝子に相当するような何かがあるのではないか、と考えてみたわけです。けれども、これはきわめて思弁的な拡張です。つまり遺伝学をいわばメタファーとして用いることにより、もしもそうしたものがあったとしたら、どうなるだろうか? という仮説を立ててみるわけです。
吉岡: そもそもミーム概念のもとになっている「利己的遺伝子」という考え方について、ある種の誤解が一般に存在しているように思います。というのも、「利己的」という語が何か意図をもつ主体のようなものを暗示するために、わたしたちは遺伝子によって何もかもコントロールされているかのように語る人たちがいるからです。もしもミームが遺伝子をモデルにしているとすれば、やはりここにも同じような誤解が生まれるでしょう。このことについてはどう思われますか?
ブーイサック: 記号学者や哲学者たちのなかには、ドイツのヴァルター・コッホ(Walter Koch)やアメリカのダニエル・デネット(Daniel C. Dennett)のように、ミームですべて解決!とみなす人たちがいます。ちょっと待ってくれ、とわたしは言いたいですね。ともかくかれらの著作では、あらゆるものがミームになってしまうのです。だからこそわたしたちは、このミームという考え方がどういう地位をもつものなのか、それはメタファーなのかどうか、仮説なのか、そしてどんな帰結をもたらすのかということを、慎重に検討してみなければなりません。
まず、ミームという言葉の意味を検討してみましょう。ドーキンスはこの言葉を作ったとき、ミーム(meme)は遺伝子(gene)に音が似ているというからというだけではなくて、フランス語で「同じ」を意味する"m^eme"も考えに入れたと述べています。つまり、複製、クローニングの過程が考えられていたわけであり、いわば特定の考え方がクローンのように自己複製して、脳から脳へと飛び移ってゆくというのです。この飛び移ってゆくというのはメタファーであり、実際にはわたしたちは、パターンの知覚を通じて、そうした考え方を受容します。あきらかに、わたしたちがこの世界あるいは社会のなかで生き延びられるのは、進化を通じてある種の許容性を獲得しているからです。遺伝子のなかにも脳の構造のなかにも、進化によって獲得された、潜在的な構造があり、それがわたしたちの行動を、全面的に規定はしないにせよ、制限しています。わたしたちの行動のすべてがミームによるとは言えませんが、社会のなかで発展する行動パターンのなかには、たとえばファッションのように、模倣によって形成されるものがあります。社会的行動のなかにはまるで伝染病のように広がるものがあると言ったのは、ドーキンスが最初ではありません。たとえば、ルイジ・L・カヴァッリ-スフォルツァ(Luigi Luca Cavalli-Sforza)の『文化の伝達と進化』(Cultural Transmission and Evolution : A Quantitative Approach, 1981)があります。そこでは、流行病学のモデルが、ファッションの発達に適用されています。
最近の日本の例をとるなら、「たまごっち」がありますね。誰かがたまごっちを持っていて、みんながそれを欲しがるようになるというのは、適応的な行動だと思いますか? わたしには、そうは思えませんね……。
吉岡: 少なくとも、ヴァーチャル・ペットを世話することがなぐさめになり、心理的な安定感をもたらすという側面はあるでしょう。
ブーイサック: しかし家族や社会という観点すらみれば、きわめて多くの感情的な関わりが、そうしたオモチャに飲み込まれているのですよ。それはいわば、人間の行動に寄生して感情を吸収してしまいます。たまごっちに夢中になっている若者や大人たちが、むしろまわりの人々に注意を向け、たとえば上野公園にいるホームレスの人々の世話をするとしたら、もっと有益なのではないですか。高いお金を払ってあんな小さな機械の世話をするといった行動は、社会の福祉にも自分自身の幸福にも反するのです。こういうことから、そうした行動が、もしも外部の何かによって決定されたものだとしたら、それはいったい何なのかという疑問が生じてきます。
吉岡: その「何か」が、遺伝子と類似したものとして考えられるというわけですね。しかしここで再び確認しておかなければいけないのは、ドーキンスの言う遺伝子が「利己的」だというのは、意図をもつということではなくて、たんに機械的に自分自身を複製するという意味であるということだと思います。したがって行動を外部から決定する「何か」としてのミームも、もっぱら自動的に作用する情報体とみなされるべきでしょう。
ブーイサック: そのとおりです。ドーキンスの言う「利己的」というのは、道徳的な意味では「利己的」であるわけでも「利他的」であるわけでもありません。もしもミームなるものが存在するとすれば、それは情報の構造にほかならないのであって、それがわたしたちの脳に入り込み、行動を引き起こしたり動機づけたりするわけです。たとえば、たまごっちに夢中になる若い女性は、もともと赤ん坊の世話をするような心理的プログラムを持っています。これはアンチ・フェミニズム的な意図から言うのではありませんよ。人類の自己保存のために、母親の役割が重要であることは否定できません。たまごっちは、こうした役割のための心理的、行動的、経済的な資源【リソース】を利用しています。くり返しますが、こうしたリソースは、個人や社会の幸福に役立つこともできたのです。そうしたリソースを、流行の魅力によって広がる何か別な存在が、自己増殖するために利用しているわけです。「利己的」というのは正しい言い方ではないかもしれませんが、想像力を刺激し、理論にはっきりと眼にみえる形を与える言葉でしょう。
さて、ミーム仮説がもしも現実的【リアル】なものであるなら、ミームはまた非常に生産的に作用することもあります。家族や血縁のつながりを越えた社会的集団といった考え方は、ミームによって作り出されると言えるかもしれないのです。だとすれば、たとえば国家や民族といった観念は、ミームによる観念であると言えます。家族よりも大きな集団として生活した方が容易に生き残ることができるという意味で、明らかにここでは、ミームは生産的に作用しています。遺伝子レベルではわたしたちにきわめて近い存在であるチンパンジーをみても、テリトリーの確保をめぐって、集団を形成したり、また分裂したりします。おそらく同じことが、初期の人類においても起こったことでしょう。個体性を越える観念は、それ自体として人間に好意的であるわけでも敵対しているわけでもない。そこには一種の共生という現象、つまり双方にとって有利であるという状態があるだけなのです。
吉岡: 文化的情報の担い手としてミームが語られる場合、それを厳密にダーウィン的な意味、あるいは情報の機械的な複製という意味で語ることができるのでしょうか? たしかに、遺伝子であれミームであれ、そこに存在している情報を、まるでそれ自体「生きている」かのように語ることはできるでしょう。けれどもこの比喩はどこまで有効なのでしょうか? たとえば遺伝子における情報に対してなら、DNA分子という、情報の物質的な担い手を同定することができます。ミームの場合、そうした担い手をどこに求めればいいのですか?
ブーイサック: それは、ミーム仮説にとっての挑戦ですね。もしもいつか、ミームとして同定できる情報の構造がどこかに発見されたとしたら、それはたしかに大きな進歩でしょう。もしそうならなかったら、ミームはたんなる思弁、あるいはメタファーにすぎないということになるでしょう。
けれども、人類の文化の歴史をみてみると、人間はつねに自分の表明する考えを、外から来た何かによって決定されたものとして考えてきたのです。詩人たちの多くは、かれらが詩を見つけたのではなく、詩の方がかれらを見いだしたのだと語ってきました。そうした、一種の直観を表明してきたわけです。こういう例は、枚挙にいとまがありません。あるいはまた、集団の指導者はしばしば夢から何かを受けとってきました。たとえばオーストラリアのアボリジニは、夢からいろいろな制限やパターンを受けとっており、多くの文化要素が夢から出てきているのです。これは、きわめて重要な問題です。また、現代の作家ですら、その着想を自分で見つけたのではなく、着想のほうがかれらを見つけ、支配したと感じている人はいます。
さて、これらはミームが何かを生み出すというポジティヴな例ですが、他方ではセクト的な孤立という問題もあります。最近の日本の現象を例にとるなら、オウム真理教がそうです。そこでは人々がある観念に感染し、乗っ取られ、洗脳されました。ひとつの強力な情報の構造が、人間の脳を支配してしまうと、行動の方向を変えることはきわめて困難になります。また、北アイルランドや旧ユーゴスラビアの人々は、生物学的には同じ遺伝的貯蔵庫【プール】に属するにも関わらず、異なったイデオロギーがそこに巣くっているために、互いに殺し合うことになります。こうしたことは、わたしがミームを研究する、個人的な動機です。というのも、ミームは人間にとってきわめて破壊的な作用をもたらすこともあるからです。
吉岡: ミームを仮定することが興味深く、また発展性のある議論になるだろうことはわかります。けれども同時に、価値の問題、あるいは倫理的な問題を心配する人々がいるのではないでしょうか? たとえば、良いミームや悪いミームというように言うことができるのでしょうか? もし言えるとしたら、いったいどうやってそれを区別したらいいのでしょうか? こうした区別は、たとえば特定の遺伝子が、長生きするか短命であるかといった区別とは、根本的に異なるものとなるのでしょうか? 情報の善し悪しとは、人間にとってだけのことなのでしょうか?
例をあげるならば、もしもミームという概念が、人々が何を信じるかということ、そして宗教的行動まで決定しているとしたら、どうなるのかということです。宗教と呼ばれているもののなかには、何世紀も存続してきた偉大な伝統もあれば、あなたがさきほど例にあげられたような、きわめて短命に終わる、奇妙なカルト現象もありますね……。
ブーイサック: そうですね。ミームのなかには、「悪い」と言えるものもありますが、それは人間にとって「悪い」のであって、その種のミームは長生きしないといえます。たとえば、呪文を唱えれば窓から飛び降りても大丈夫だ、といった考えがあるとしましょう。実行した人は次々に死ぬでしょうから、こういうミームは長生きできないでしょう。けれども、たとえば喫煙をうながすようなミームがあるとどうでしょう。喫煙は、社会的な行動パターンであると同時に、中毒のプロセスでもあります。喫煙が致命的な病気の原因になることは何世紀もの間、わかりませんでした。つまりこの特定のミームが人間に害があることは、何世紀もの間、わからなかったわけです。
さて、よくわからないある機能を理解するためには、それがうまく機能していない場合に注目することが有効な場合があります。あとで詳しく説明しますが、ミームがもし寄生体であるなら、ミームはなぜ、そしてどのように「死ぬ」か? と問いかけることです。ミームが消滅するのは、それが宿主を殺してしまったり、宿主が他のミームによって殺されたり、宿主が他の宿主によって殺されたり、あるいはミームそれ自体が他のミームに寄生されたりすることによって滅ぼされることもあります。このような仮説にしたがって考えてゆくことによって、いずれはそれが問題の解決の役立つかどうかがわかるでしょう。
吉岡: ミームがうまく機能しない、あるいはそれが「死ぬ」ということを考える場合、その宿主との関係は当然、遺伝子とは異なった条件におかれていますね。遺伝子の場合なら、宿主という個体が自分の子供をもたなければ、遺伝子も自己複製の道はとざされるわけです。けれどもミームは、たとえば人がある考えを本で読んで、それを講義で話したり、頻繁に他の人に話したり、身をもって示したりすることによって伝わるわけでしょう。逆にいうと、ミームを受容した個体がただ生きているだけではダメで、つまり何かを学んでもそれを人に示す気がしないとすれば、ミームは広がることができない。ということは、ミームという情報体のなかには、何かダイナミックな本性、つまり自分自身を積極的に増殖してゆく力のようなものがあり、その力が強いものと弱いものがあるということなのでしょうか?
ブーイサック: そうですね、もしも誰かが本を読んで新しい考えを知ってもそれがあまり影響を与えないとすれば、それはおそらく、その人がすでにより強いミームをもっているということでしょう。つまり前のミームの情報のほうが強力であると言えます。新しい考えを受けいれるといっても、「ああ、それは良い考えだ、自分が今まで考えてきたこととぴったり一致する」といった受けいれ方もありますからね。たとえば、創造説と進化論との対立といった例を考えてみましょう。北アメリカにおける原理主義的なキリスト教徒たちは、聖書の言葉を字義通りに受けいれ、神が六日間で宇宙を創造したと信じます。けれどもカトリック神学のような、別の創造説の立場もあります。そこでは「わたしは神が世界を創造したと信じるけれども、神がどのようにしてそれをされたかなど、どうしてわたしが知ろう?」ということになります。こうした創造説の情報構造は、進化論というミームによって破壊されることはなく、それを自分自身のなかに吸収してしまうのです。創造説を字義通りに信じさせるようなミームは、たとえば恐竜の化石の発見といった基本的な科学知識と矛盾してしまい、生き残ることができません。
では、ミームが強いという場合の「強さ」とは何か? それは、情報を生成する能力のことです。そして同時に、特定の行動を制御する能力のことです。つまり強いミームは、他のミームを吸収し、それが情報を生成する能力を奪います。とはいえ、もちろんこうした言い方も思弁的なものです。重要なことは、ミームの善悪でもミーム学【ミメティックス】の善悪でもなく、なぜ人類のなかには互いに破壊的な行動が存在しているのかを説明することなのです。現状からどれだけのことが理解できるかを調べてみることなしに、倫理的な基準を論じることはできないと思います。もちろん日常生活という観点からみれば、何らかの行動原理が必要でしょうし、ミームの名において倫理的あるいは政治的なコミットメントを回避するのは大きな間違いです。
さて長い視野におけるミームを考えるために、人間と環境との関係ということを例にとってみましょう。もしもあなたが、樹木は魂であり、動物は人間よりも重要であると信じる文化のなかに生まれたとしたらどうでしょう。あなたは生きるためにはそれらを必要としますが、はるかに尊敬をもってそれらを取り扱うことでしょうし、動物を殺した後には許しを乞う儀式をするでしょう。こうしたミームが支配的であるような社会は、あきらかに環境とよりよいバランスを保って存続することでしょう。それに対して、西洋のユダヤ-キリスト教的な文化においては、世界は人間のために与えられたものと考え、動物も樹木もたんなるモノとして考えるために、環境とのバランスはずっと不安定であり、そうした文化は生き残ることはできません。この例が示すのは、ある種のミームは限られた時間内に豊かさをもたらすことができるということですが、その限られた時間とは、一〇世紀であるかもしれないということなのです。
吉岡: 現代の状況に眼を向けてみるなら、わたしたちは大きな転換期にいるということがよく言われます。この変化は、文化、社会、政治経済のあらゆる局面において、地球化【グローバライゼーション】とか多文化性【マルチカルチュラリズム】とか、ポストモダン状況とか、さまざまな名前で呼ばれています。そこではわたしたちは同時に、文化的基準の相対性、衝突、混乱に当惑しています。限られた時間とはいえ一〇世紀の間、とりわけ近代において支配的であったミームによって形成されてきた、ある程度安定した基準が崩壊しつつあるわけです。こうした状況を、どのようにお考えですか?
ブーイサック: 地球化という現象について言えば、それは人々が自分たちとは異なった世界観を、より積極的に受けいれはじめたということでしょう。自分たちのやっていることが実は他者のなかにあり、また他者のやっていることが自分たちのなかにある、ということが理解されはじめたのだ、ととらえています。それはいわば、他者を内面化するということです。一世紀前なら――こう言うと、それは何千年も前のことだと反対する人がいるのですが、わたしは一世紀前、おそらくはもっと最近まで、と考えています――となりの国に大災害が起きても、たいていの人は、お気の毒さま、神の罰だというふうに考えていました。けれども今日では、そうした災害が起こると遠く離れた国を助けるために何かをしようとする多くの人々がいます。「国境なき医師団【ドクターズ・ウィズアウト・フロンティアズ】のような組織もあります。地球化ということにかかわるミームは、人類の共通性を原理として行動を決定していており、「われわれ」と「かれら」との対立とか、他者に対するステレオタイプにとって代わりつつあるのです。他者のステレオタイプは、もちろんそれ自体もひとつのミームと考えることができ、それは閉ざされた共同体の内部においては積極的な働きをしますが、長く存続しつづけることはできないのです。
地球化についてはまた、それが現代のメディアによって作り出されていることを考えなければなりません。そのおかげで、たとえばカナダにいても阪神大震災の様子を見ることができたのですから。他の人間が苦しんでいるのを見ると、わたしたちは同じことが自分たちの身にいつ起こるかもしれないと考えます。わたしたちはすべて、壊れやすく不安定な環境のなかで生きている点では共通なのですからね。こうしたことはたしかに、進歩であるといえます。けれども一方では、非常に小さな地域のなかで互いに危険な状態にある人々がいます。アルジェリア、北アイルランド、サラエボなどで起こったことを考えてください。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
ミーム仮説は、この疑問に対処するためのひとつの方法なのです。それによって、こうした問題についてより多くの知識を得ることができるかもしれない。そしてその知識を用いて、何かをすることができるかもしれないのです。重要なのはミーム仮説自体がいいとか悪いとかいうことではなく、それを使って何ができるかということです。ミーム仮説自体は両刃の剣であり、不正を正当化するためにも、また不正と闘うためにも使うことができるでしょう。こうした両義性はミーム仮説ばかりではなく、多くの理論がもつものです。進化論だって、イギリスでは階級的不平等を正当化するために使われました。たとえば社会ダーウィニズムは、本当はダーウィニズムとは縁のないものですが、そのように使われました。また社会生物学も、正しく理解された進化論とはあまり関係がないものですが、それでも不平等を正当化するために使われたことはたしかです。こうした事情はミーム仮説についても同じでしょう。
吉岡: なるほど。現代のメディア状況によって作り出されているという地球化という状況は、たしかに相互理解の促進をもたらすポジティヴな効果をもつことはそのとおりだと思います。ただこうしたメディア状況にも両義性がありますね。地球規模に発達したメディアは、これまでの地理的な境界や時間的な遅れという保護を取り去ってしまいます。それによって、異なったミームがこれまでとは比較にならないほど頻繁に衝突するようになり、いわば高い突然変異の確率が発生することになるでしょう。こうした変化が、制御できない危険をもたらすことはないですか?
ブーイサック: もちろん、それはあります。ミームがきわめて早く伝達されるからです。シルクロードが主要なコミュニケーションの経路だった時代には、西ヨーロッパから東アジアまで、知識や文物ばかりではなく、テクノロジーも運ばれました。ここで面白いことは、今日ミームがずっと迅速に伝達されるという条件を作り出したのはテクノロジーですが、このテクノロジー自体もミームにほかならないということです。あるテクノロジーが発明されるとき、その発明がどこからもたらされたのかがわからない、ということが多いのです。たとえば自転車の発明はそのことを示すいい例です。自転車は技術者によって発明されたものではなく、偶然生まれたものなのです。人々は別に、もっと便利な交通手段を作り出さなければならないと考えて、それを発明したわけではない。
にもかかわらず自転車は、社会的、文化的な革命をもたらしました。自転車の発明以前には、馬が使われていたからです。馬をもっていない人は、移動が制限されます。自転車は最初のうちはとても高価な贅沢品でした。けれども十年くらいの間に、それはちょうど現代におけるパソコンの価格のような変化をとげたのです。それが社会的解放をもたらしました。つまり、馬を買うお金がない人でも、また馬を飼うための必要条件をそなえていない人でも、馬に匹敵する交通手段を手にしたからです。さらに面白いことに、自転車は女性の解放と結びつき、また民主的な生活の仕方とも結びつきました。
しかも一番興味深いことは、自転車がなぜうまく動くのか、なぜ倒れてしまわないのかということについて、まだ誰も説明できていないということです。科学雑誌にはときどき、自転車の理論をついに発見したという記事が載りますが、次の号ではその説明は否定されてしまいます。わたしが一番最近見たのは、たしか九年前『ネイチャー』に載ったものです。けれどもそれは、自転車が同じ速度で輪をえがいて走るときの動きしか説明できないものでした。人間にとって自転車はたんなる道具ではなく、補綴具なのです。
今わたしが自転車にかんして言ったことは、あらゆる文化について言えるのではないでしょうか。つまり文化的発展とは、偶然の出来事がもとになって、新たな行動が広がってゆくということです。これについては、霊長類の世界にいい実例があります。日本の霊長類学はきわめてすぐれていますが、日本で観察された有名な例がありますね。それは、サルが芋を洗って食べるという行動ですが、この行動は一匹の雌ザルが芋を水に落としたことからはじまったというのです。そして彼女の子供たちが母親の真似をすることによって、この行動が広がりました。こうしたことを、どこまで拡大して考えることができるでしょうか。アフリカでは、大きな川の両岸に棲むチンパンジーが、白蟻を捕まえて食べる技術を発達させました。両岸ではその方法は異なっているので、あきらかにこうした行動は遺伝的に決定されているわけではありません。
吉岡: ミーム仮説にしたがえば、サルの行動から地球化する現代文明までを連続的な相のもとにみることができる、というわけですね。そうしたミームを考えることのポイントは、文化的変化をもたらすそうした情報を「外から」来たものとしてとらえる点にあると思います。さて、ではそうしたミームのそもそもの起源とは何なのでしょうか。わたしがはじめてミームについて読んだときに思い浮かべたのは、スタンリー・キューブリックの映画『二〇〇一年宇宙の旅』のなかで、わたしたちの祖先である猿人たちが、宇宙から飛来した謎の板(モノリス)に触れることによって、〈知〉あるいは〈文明〉に「感染」したというようなイメージなのです。これは、たぶん突飛な連想なのかもしれませんが……。
ブーイサック: いや、そんなことはないですよ。もっともミームを作業仮説として用いているわたしは、その例は使いませんが。生物学的な意味で寄生体がどのように繁殖してゆくかを考えてみることによって、もしミームなるものがあるとすれば、それがどのようにふるまうかを、よりよく理解することができるだろうと思います。寄生体という言葉は、病原菌や害虫を連想させるので、何かそれ自体が悪いもののように思われがちですが、寄生というあり方が必然的に悪であるわけではありません。
吉岡: 「悪い」というのは、人間から見ての話ですからね。
ブーイサック: ええ。寄生体もひとつの有機体であり、ただ他の有機体の内部でのみ生き、繁殖するということです。寄生体学はたんに医学の一分野ではなく、進化論のきわめて重要な部分を形成してきました。寄生体学が進むにつれて、ますます多くの生物が寄生的なやり方で生きていること、寄生体の寄生体、そのまた寄生体といった関係があること、そしてそこには非常に複雑な、寄生的生殖のサイクルが存在することがわかってきました。こうした寄生的繁殖の戦略は驚くべきものです。たとえばある寄生体は、宿主を見つけるまで一〇年間も、一見死んだような状態のまま待機することができます。思想もまたこれと同じで、誰かに読まれ、活用されるまでずっと書物のなかで待機することができるでしょう。もちろん、これはアナロジーです。けれども、実際の寄生体についての観察をミーム仮説と並べてみることは、きわめて興味深いことなのです。そこからたとえば、人間の言語が、こうした寄生的なやり方で形成されたのではないだろうか、といったことが考えられます。言語は、人間の脳のなかでなければ生活し繁殖することのできない存在です。人間がいなくなれば言語は消滅します。しかも言語は人間にとってきわめて有益なものであって、ここには見事な共生の例がみられます。認知言語学者のテレンス・ディーコン(Terrence Deacon)は、「人間と言語の共生」という論文を書きました。『シンボル動物―言語と脳の共進化―』(Symbolic Species : The Co-Evolution of Language and the Brain, 1997)という本に収録されています。かれがミーム理論を使っているかどうかは知りませんが、言語をこのように考えることによってそれをよりよく理解できるようになると思います。
吉岡: なるほど。ただ、わたしがさっき聞きかけたのは、ミームが「外から」来たと言われる場合、その「外」とはどこなのかということだったのです。生物学的な意味での生命の起源にかんしても、たとえば最初の自己複製する有機体は「外から」つまり宇宙からやってきたという仮説を唱える人がいますね。けれども、たとえ生命の起源を宇宙に求めたからといって、それは生命の起源を最終的に解明したことにはならず、ただ「地球外」ということを言っているだけです。「外から」という説明のこうした遡行から逃れるには、生命の自発性を考えなければなりません。ミームについても同じことが言えるでしょう。ミームという情報体の自発性、自己組織性、あるいはオートポイエシス的な側面については、どのようにお考えですか。
ブーイサック: わたしたちがミーム研究を実際的なやり方で進めることができるのは、人工生命研究の発達によるものです。人工生命研究は、サンタ・フェの複雑系研究所のクリス・ラングトンによってによってはじめられた分野です。それによれば、わたしたちがふつう「生命」と呼んでいるものの特徴を数え上げていくと、それは一、二の特徴をのぞいて、ほぼ人工生命の特徴と一致しています。問題は、この一、二の特徴がどれほど決定的なものなのかということです。ここから、わたしたちは生命という概念を、情報の構造へと拡張することができます。そこには、コンピュータのプログラムのなかで増殖するウィルスも含まれるでしょう。
吉岡: ラングトンのアイデアは、地球上の「既存の生命(life as we know it)」を「存在したかもしれない生命(life as it could be)」のひとつの可能性というみるということですね。
ブーイサック: そのとおり。そうした生命の別な可能性のひとつを、いま、たまたま「ミーム」という名で呼んでいるわけです。
吉岡: 生命が自己組織する情報構造であり、言語や文化もそうした拡張された意味における生命の一形態であるということですね。だとすれば、わたしたちがこれまで「文化」という名前で呼んできたものは、文化の可能性のごく限られた一部であり、文化はまったく別な形態をとることもできたのだ、ということになります。わたしたちはいま、根本的に異なった文化形態に向かって進みつつあるのでしょうか?
ブーイサック: それはあきらかだと思います。わたしはいま六三才ですが、もし二〇才のときにコンピュータやサイバネティクスのことを教えられても、それについてどう考えていいか、わからなかったでしょう。人類はたえず異なった生活様式に入ってゆきますが、こうした変化はあらかじめ予測することができません。
ところで、あなたにお聞きしたいのですが、日本の読者はミーム仮説をどのように受けとるのでしょうか。もちろん、原理主義者による攻撃は覚悟していますが。
吉岡: いや、そうした攻撃があるとは思いません。ダーウィニズムが最初に紹介されたときも、西洋やイスラム圏におけるような激しい反発はありませんでした。たとえば「神はミームだ」と言ったとしても、大丈夫だと思いますよ(笑)。ところで、神がミームかどうかはともかく、自己意識についてはどうでしょう。わたし自身は哲学の教育を受けてきた者で、神は信じていませんが、意識の存在は認めています。意識もミームと考えることができますか? あるいは、意識を生じさせるような、ミームが存在するとお考えですか?
ブーイサック: わたしの個人的な意見としては、意識もミームです。哲学者は意識をたいへん重要視しますが、意識というのはきわめて限定されたものにすぎません。意識的な思考あるいは行動と意識を伴わない思考あるいは行動とを比べてみた場合、意識的な思考や行動が必要とされることもありますが、生活の大部分においてはそうではありません。けれども哲学者は意識や精神を存在として考えます。だから……ようするに精神を意識として考えることは、ひとつのミームだといわなければならないでしょう。それによって人間の相互行為や、自己認識が安定して行われるというかぎりでは、それはすぐれたミームです。もちろんわたしは、何でもミームで説明できると思っているわけではありません。ただ、このような見方をとることによってどのような新しい理解が生まれるかということを考えてゆきたいのです。
吉岡: 最後に日本あるいは日本文化について、ミーム仮説の観点から、何かコメントしていただければうれしいのですが。
ブーイサック: 日本といえば、それこそ模倣がうまいというステレオタイプがたしかに存在していますね。わたし自身は日本に来たのは今回でまだ三回目ですし、いずれも短い滞在だったので、わたしが日本について知っていることは、ロラン・バルトの『記号の帝国』のような本から学んだことや、日本に詳しい研究者たちを通じてだけなのです。わたしは、民族間に基本的な差異があるという言い方を信じていません。これも、ひとつのステレオタイプだといえるでしょう。けれどもわたしは、自分でそうした差異を見いだそうとしても、見つけることができないのです。というのも、いわゆる文化的差異として示されるものは、実は自分自身の文化に対して盲目であることから生じていることが多いからです。