Space in CyberSpace

無傷な、日本の私

石内都さんの作品「SCARS」について

 「モデルを見つけたら、撮るのはサッサッとやっちゃう。撮影に時間かけるのって、好きじゃないのよ。」

 「傷跡(scars)」を撮る写真家、石内都さんは言う。ぼく自身も企画にかかわった京都での美術イベント〈SKIN−DIVE〉の、打ち上げパーティでのことである。「今日も、二人モデル見つけちゃった。」

 そのモデルの一人となったのは、美術大学に入ったばかりのおとなしい若い男の子だった。かれのほうから、自分の傷を撮ってほしい、と申し出たそうだ。そのかれに、石内さんは言う。

 「もう撮られてしまったんだから、あなたの〈傷〉は、もうあなた一人のものじゃない。もうこれからは、あなた一人で悩むとことはできなくなったのよ。それは世界の〈傷〉、宇宙の〈傷〉になっちゃったんだから。」

 宇宙の〈傷〉。身体であれ心であれ、〈傷〉をもつ経験はすばらしいことだ、と彼女は語る。すばらしいというより、それはごくあたりまえのこと、生きることそのものだと。〈傷〉とは持続する過去、つまり記憶である。〈傷〉とは、時間そのものである。そして〈写真〉とは、ようするにそういうものなのだ、と。

 生きていれば、わたしたちはさまざまな〈傷〉をうける。〈傷〉の集積によって自分の体は、他人のそれとは区別される「個」となる。傷つくことによって、わたしはわたし自身となる。

 そして、そのことによってはじめて、〈私〉は世界と深くかかわることができるのだ。〈傷〉が世界と私とをつなぐ。克服すべきもの、できればないほうがよかった「汚点」としての〈傷〉という偏見は棄てるべきだ。そう、〈傷〉を背負って生きるのではない。むしろ、「生きる」ことそのものとしての〈傷(トラウマ)〉・・・。

 けれども、この国の文化は〈無傷〉を偏愛している。まるで赤ん坊のように、若々しくなめらかな肌。傷、小皺やシミはおろか、体毛さえもが醜いものであるかのように嫌悪される。そこには、強迫的なまでの〈老い〉の忌避、つまり〈記憶〉や〈時間性〉の否認がある。

 日本的な美意識の核心とされる「自然さ」の正体とは、実はそうしたものなのである。そして忘れてならないことは、この「自然さ」が、本当はきわめて人為的なものだということだ。

 たとえば西洋人は日本の女性のメーキャップを「厚い」と感じるらしい。それは日本人が、ファンデーションを顔全体に塗るからである。そのようにして獲得される「素肌」の美。さらに、「日本人は、肌にあるちょっとしたシミのようなもの、ほくろ、そばかす、アザ、シワといったものを肯定的に評価する」ことはなく、「女性の年齢を経た美しさを評価する伝統」ももたない。(石田かおり『現象学的化粧論・おしゃれの哲学』理想社、1995年)

 病的なまでの「新品」へのこだわり。そのための過剰なラッピング。日本向け製品を作る海外工場では、製品の性能にはなんら影響しない、目に見えないほどのキズや歪みがチェックされなければならない。ツルツルの、ピカピカの新品でなければ、日本では商品にならないからだ。贈答の品はもちろん、結婚祝や香典の紙幣さえもが折り目のない「新札」でなければならない。

 「自然さ」と「新品」のたえざる賞揚。これが、日本という共同体が日々行っている、儀礼の核心である。冠婚葬祭。〈若さ〉の賞揚。制服。新築住宅。正月。入学式。名刺交換。何もかも、形が整っていることが再優先される。この国で重要とされるのは、たんに表層が〈無傷〉であることだけなのだ。

 無傷であること−−なんと結構なことではないか。けれどもそれは同時に、記憶や時間の痕跡をもたないことを意味している。そこでは純粋無垢な「いま」だけが重要であり、記憶や痕跡は過去の不幸な「汚点」でしかない。傷を受けること、それが生きることそのものだとすれば、この国はまだ、生きることを知らないのだ。日本に暮らしているとあまりにも日常的なこの事態に、ぼくはときどき、吐き気を催すほどの嫌悪を感じる。

(2002年8月24日)

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(C)Hiroshi Yoshioka