いまさら、大学とは何か
甲南大学に着任した1991年はまだ「インターネット」なんて言っても誰も理解してくれず、研究室にでかいパソコンを持ち込んで仕事をしているがめずらしがられた。それが、この文章を書いた1998年になると大学をあげて教育環境の情報化、ネットワーク化が推進されるようになり、メールが出来ない人は肩身の狭い思いをするようになった。そういう時流につくづく嫌気がさして書いた文章だが共感する人もいたらしく、「ACADEMIC RESOURCE GUIDE」(http://www.ne.jp/asahi/coffee/house/ARG/rerecord-005.html)に再録されている。
インターネットのホームページを大学での教育活動に利用する――これ自体はもう、少しも新しくはない。世界中の大学で、インターネットは掲示板、講義要項(シラバス)やデータベースの公開、ディスカッションや情報交換に利用されている。
このこと自体、何か新しい時代の息吹、といったものを感じさせるだろうか? ノーである。そうした状況は、大学の掲示板や資料室、談話室といったものが、電子的空間にたんに延長されたということにすぎない。そこでは、ヴァーチャルな電子空間はあくまで、現実の物理的コミュニケーションの補助・拡張としてしか考えられていないからだ。
では、大学教育という場がむかえている、本当の変化とは何だろうか? それを考えるためには、そもそも高等教育とは、何だったのかをふりかえってみる必要がある。
電子的コミュニケーション以前においては、高等教育は主として専門的知識の伝達だと思われてきた。教師=学者は、特殊化された情報を所有し、それを取り扱う権限を付与された、広い意味での「官僚」、あるいは「神官」といった役割を担っていた。そして教壇に立って講義を行なうという情報伝達の形式は、同時に、秘蔵された知識の授与という、神聖な儀式の側面をもっていたのである。
だが現代、こうした儀式が成立するための社会的条件は、完全に崩壊している。たんなるデータとしての専門的知識とか、たんに新しいというだけの情報なら、わざわざ大学の講義室などに足を運ぶ必要などないからである。学生たちが勉強しない、授業にならないという嘆きがいたるところに聞かれるが、それは「儀式としての講義」というフィクションが成立しなくなった、当然の帰結である。たんに専門家であるということだけで権威が付与されるような価値観は、「学会」という、まるでアーミッシュのような特殊な共同体内部でしか通用しない。
ではもしも、専門家による知識の伝達が電子化されたデータベースや教育プログラムによって代行されるとするなら、大学教師などはお払い箱になるのだろうか。いったい、大学の授業から専門的知識の儀式的授与という側面を取り去ったら、何が残るのだろうか?
残るもの――それは、教師の「身体性」である。この「身体性」は、これまでも「専門家」という衣服の下に隠れて存在してきたものだ。ようするに、生身の人間がしゃべっているということが重要なのである。もちろんそれは、今も昔も同じなのだが、「儀式としての講義」の時代においては、知識の伝達というオフィシャルな姿の影にかくれて、そうした身体性が明確に自覚されなかったのだ。
知識の単純な情報内容ではなく、それを生きた人間が目の前で運用してみせる、というあり方こそが大切なのである。思いがけない着想やリンク、インタラクティヴな議論の発展、さらには間違いや極論といったものも含めて。
とはいえ、何も「これからの大学教師は、ただ教えるだけでなく〈芸〉や〈パフォーマンス〉が必要とされる」といったことが言いたいのではない。そんな間抜けなことを言ってるやつらは大嫌いだ。それは、ようするに大学教育も一種のサービス業だから、という発想から来るのだろう。
たしかに〈芸〉や〈パフォーマンス〉は、身体性を特定の仕方で運用することを意味する。けれども〈芸〉とか〈パフォーマンス〉と安心して呼べるような身体の運用は、すでに商業的世界のなかで確立しているものだ。「いい先生」とか「面白い先生」の大半は、たんに優秀なサービス業従事者であるにすぎない。かれらは専門的知識を、肩肘張らないやり方で伝達する術をもつスペシャリストであるにすぎす、その本質においては、学生など眼中になくモゴモゴしゃべっている老専門家と、大差はないのである。
大学はサービス業ではない。だいたい高い授業料をとって難しい話をきかせ、あげくの果ては試験やレポートで顧客を苦しめるような活動が、「サービス」なんかであるわけはないではないか! 大学がもはや「象牙の塔」的サンクチュアリでないことはいうまでもないが、それでもそれは、周囲の商業的世界からは何らかの仕方で隔離された、独特の空間であることはたしかである。……ここで、また初期のRCサクセションの歌を思い出してしまった(やっぱり偉大なんだなぁRCSは)が、それは「ぼくのすきなせんせい」という曲である。
「ぼくのすきなせんせい」で歌われているのは、「タバコを吸いながら」いつでもつまらなさそうにしている「職員室がキライな」美術の先生で、けっして話がうまい、芸達者な人気教師ではない。それは(この場合にはたまたま)しょぼくれたへんなおじさんであって、そうした身体性が率直にあらわれているからこそ、ぼくは「すき」になれるわけである。学校とは、そうした身体性をはからずも許容する場所である点に、その存在意義がある。
大学もまた、そうしたへんな人たち(かならずしも、しょぼくれたおじさんばかりではない)がいるからこそ意味があるのであって、効率的な知識の伝達や訓練を売り物にするテクノクラートたちは、こうした高等教育の本義からいうなら、ただの付け足しである。まあ、そういうまともな大人たちも飼っといたほうが、変化があっていいかな、てな程度である。
さて、このように考えているぼくにとって、教育活動におけるインターネット利用とは、はたして何のためになされるのか? それは、授業その他の「効率化」のためではない。そうではなくて、授業の「二重化」あるいは「乗っ取り」のためだ。このサイトにおける授業関係のページは、実際に大学で行なわれる授業をサポートするためのものではなく、むしろそれを奪取し、主導権を握ることを目指している。早くいえば、ぼくの授業は実はこっちの方が本物であって、大学の講義室でやっていることは、たんなるこれの派生物、あるいはせいぜい「スクーリング」のようなものにすぎないのかもしれない。
でもこれでは、生身の人間がしゃべることこそ重要だ、ということと矛盾するのでは? そう、たしかに矛盾する。そして、この矛盾が大切なのである。不思議なことなのだが、電子的な情報空間が発達してゆけばゆくほど、〈身体〉はますます、もはやごまかしようのないほどに、裸になっていくのである(インターネットに裸の写真が増える、なんてこと言ってるんじゃないよ)。 (1999年1月15日)
このこと自体、何か新しい時代の息吹、といったものを感じさせるだろうか? ノーである。そうした状況は、大学の掲示板や資料室、談話室といったものが、電子的空間にたんに延長されたということにすぎない。そこでは、ヴァーチャルな電子空間はあくまで、現実の物理的コミュニケーションの補助・拡張としてしか考えられていないからだ。
では、大学教育という場がむかえている、本当の変化とは何だろうか? それを考えるためには、そもそも高等教育とは、何だったのかをふりかえってみる必要がある。
電子的コミュニケーション以前においては、高等教育は主として専門的知識の伝達だと思われてきた。教師=学者は、特殊化された情報を所有し、それを取り扱う権限を付与された、広い意味での「官僚」、あるいは「神官」といった役割を担っていた。そして教壇に立って講義を行なうという情報伝達の形式は、同時に、秘蔵された知識の授与という、神聖な儀式の側面をもっていたのである。
だが現代、こうした儀式が成立するための社会的条件は、完全に崩壊している。たんなるデータとしての専門的知識とか、たんに新しいというだけの情報なら、わざわざ大学の講義室などに足を運ぶ必要などないからである。学生たちが勉強しない、授業にならないという嘆きがいたるところに聞かれるが、それは「儀式としての講義」というフィクションが成立しなくなった、当然の帰結である。たんに専門家であるということだけで権威が付与されるような価値観は、「学会」という、まるでアーミッシュのような特殊な共同体内部でしか通用しない。
ではもしも、専門家による知識の伝達が電子化されたデータベースや教育プログラムによって代行されるとするなら、大学教師などはお払い箱になるのだろうか。いったい、大学の授業から専門的知識の儀式的授与という側面を取り去ったら、何が残るのだろうか?
残るもの――それは、教師の「身体性」である。この「身体性」は、これまでも「専門家」という衣服の下に隠れて存在してきたものだ。ようするに、生身の人間がしゃべっているということが重要なのである。もちろんそれは、今も昔も同じなのだが、「儀式としての講義」の時代においては、知識の伝達というオフィシャルな姿の影にかくれて、そうした身体性が明確に自覚されなかったのだ。
知識の単純な情報内容ではなく、それを生きた人間が目の前で運用してみせる、というあり方こそが大切なのである。思いがけない着想やリンク、インタラクティヴな議論の発展、さらには間違いや極論といったものも含めて。
とはいえ、何も「これからの大学教師は、ただ教えるだけでなく〈芸〉や〈パフォーマンス〉が必要とされる」といったことが言いたいのではない。そんな間抜けなことを言ってるやつらは大嫌いだ。それは、ようするに大学教育も一種のサービス業だから、という発想から来るのだろう。
たしかに〈芸〉や〈パフォーマンス〉は、身体性を特定の仕方で運用することを意味する。けれども〈芸〉とか〈パフォーマンス〉と安心して呼べるような身体の運用は、すでに商業的世界のなかで確立しているものだ。「いい先生」とか「面白い先生」の大半は、たんに優秀なサービス業従事者であるにすぎない。かれらは専門的知識を、肩肘張らないやり方で伝達する術をもつスペシャリストであるにすぎす、その本質においては、学生など眼中になくモゴモゴしゃべっている老専門家と、大差はないのである。
大学はサービス業ではない。だいたい高い授業料をとって難しい話をきかせ、あげくの果ては試験やレポートで顧客を苦しめるような活動が、「サービス」なんかであるわけはないではないか! 大学がもはや「象牙の塔」的サンクチュアリでないことはいうまでもないが、それでもそれは、周囲の商業的世界からは何らかの仕方で隔離された、独特の空間であることはたしかである。……ここで、また初期のRCサクセションの歌を思い出してしまった(やっぱり偉大なんだなぁRCSは)が、それは「ぼくのすきなせんせい」という曲である。
「ぼくのすきなせんせい」で歌われているのは、「タバコを吸いながら」いつでもつまらなさそうにしている「職員室がキライな」美術の先生で、けっして話がうまい、芸達者な人気教師ではない。それは(この場合にはたまたま)しょぼくれたへんなおじさんであって、そうした身体性が率直にあらわれているからこそ、ぼくは「すき」になれるわけである。学校とは、そうした身体性をはからずも許容する場所である点に、その存在意義がある。
大学もまた、そうしたへんな人たち(かならずしも、しょぼくれたおじさんばかりではない)がいるからこそ意味があるのであって、効率的な知識の伝達や訓練を売り物にするテクノクラートたちは、こうした高等教育の本義からいうなら、ただの付け足しである。まあ、そういうまともな大人たちも飼っといたほうが、変化があっていいかな、てな程度である。
さて、このように考えているぼくにとって、教育活動におけるインターネット利用とは、はたして何のためになされるのか? それは、授業その他の「効率化」のためではない。そうではなくて、授業の「二重化」あるいは「乗っ取り」のためだ。このサイトにおける授業関係のページは、実際に大学で行なわれる授業をサポートするためのものではなく、むしろそれを奪取し、主導権を握ることを目指している。早くいえば、ぼくの授業は実はこっちの方が本物であって、大学の講義室でやっていることは、たんなるこれの派生物、あるいはせいぜい「スクーリング」のようなものにすぎないのかもしれない。
でもこれでは、生身の人間がしゃべることこそ重要だ、ということと矛盾するのでは? そう、たしかに矛盾する。そして、この矛盾が大切なのである。不思議なことなのだが、電子的な情報空間が発達してゆけばゆくほど、〈身体〉はますます、もはやごまかしようのないほどに、裸になっていくのである(インターネットに裸の写真が増える、なんてこと言ってるんじゃないよ)。 (1999年1月15日)
(C)Hiroshi Yoshioka