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恋愛感情の系譜学

この前に書いた「〈弱さ〉と愛の物語」が、甲南大学の学生を中心とする女子たちから反響があり、感想や質問のメールをたくさんもらったので、調子に乗ってまたクンデラの小説をネタに書いた続編みたいな文。


1月に書いたエッセイ「〈弱さ〉と愛の物語」について、既知のあるいは未知の人たちから、思いがけずていねいな感想や質問を寄せていただいたのは、とてもうれしかった。個別的な質問にはできるかぎり答えたつもりだけれど、いくつかのメールに共通する問いに対しては、もうひとつのエッセイという形で、ここで答えておきたい。その問いの要点は、「では現代に氾濫する恋愛とセックスのオブセッションに対して、あなたはどう考えているのか」というものである。

たしかに、現代日本の消費文化は、恋愛に憑りつかれている。これはあきらかに80年代以降、恋愛が少女マンガや雑誌やテレビドラマなどのマスメディアを通じて、誰もが参加できるゲームのようなものとして広がったことに関係がある。恋愛はいまや、コンビニなどで買うことのできるひとつの「商品」という形態をとっている。もちろん商品といっても貨幣で直接買えるわけではなく、ただ、恋愛と呼ばれているある特異な行動パターンが、商品世界にガッチリと組み込まれているということなのだが。

ここで誤解してならないのは、「商品」だからといって欲得ずくであるわけではなく、ゲームだからといって軽いわけでもないということだ。事実はむしろその逆である。現代の「恋愛」はセックスを伴っているにもかかわらず妙にシリアスであり、言葉が少ないにもかかわらず、救いがたいほど観念的なのである。

たとえば2年前にベストセラーになった小説「失楽園」は、浮気をしている男女がたんにグルメ旅行をしてファックするだけの能天気な話なのに、その雰囲気は不可解なほど深刻で、あげくのはてに意味もなく心中してしまう。俵真智の「チョコレート革命」を歌物語にしたような最近のNHKドラマでは、緒方拳が扮する中年の外科医が若い娘(葉月里緒奈)とつきあうのだが、娘が年長者との恋愛から学ぶものは学んで去っていくと、絶望してカンボジアに行き、地雷を踏んで死んじゃうのである。おいおい、よくある中年男の痴情の破綻が、なんでそんな大げさな結末をむかえなきゃならんのだ?

何かが、すごくアンバランスなのである。それを、現代日本社会に特有な現象として説明することもできるかもしれない。けれどもぼくは、この国の特殊事情にはあまり関心がない。現代日本における恋愛の商品化は、もっと大きな文明史的発展の、たんなるひとつの結果にすぎないと思うからだ。むしろ、こうした事態の淵源は何なのかということに関心がある。人間性についてのどのような把握が、恋愛の商品化を可能にしているのか。このことを考えようとすると、問題は日本という文脈をはるかに越えてしまう。

ここまできて、これは質問を寄せてくたれ人に答えるというよりも、クンデラのもうひとつの大作『不滅』について語りたいために書いているような気がしてきた。『不滅』は大作で、とてもこんな短いエッセイの形で論じられる作品ではない。けれどもそこには、いま考えている問題について、すくなくともひとつのヒントがある。それは、その第4章「ホモ・センチメンタリス」という部分である。

ホモ・センチメンタリス(感情的人間)とは、たとえばユダヤ的な律法によってではなく、個人の魂のなかに善悪の基準を置くような人間のことである。そこには、正義が内的な感情に依存するという前提がある。それはキリスト教にはじまり、被告人の感情を斟酌する、独特のヨーロッパ的な法観念を生み出した。そうした法の考え方によれば、たんに利害のみによる殺人は許しがたいが、侮辱を受けたり、恋愛感情を傷つけられたゆえの殺人には、情状酌量の余地がある、ということになる。

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それを強く感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものだからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きいのである。(ミラン・クンデラ『不滅』菅野昭正訳、集英社、295頁)

感情それ自体が価値となること、これがいわゆるロマンティックな恋愛、つまり「真実の愛」という理想の、基底をなす構造である。セルバンテスの『ドン・キホーテ』をみればわかるように、こうした「真実の愛」においては、「愛される者はあまり重要ではない」ことになる。真実は内的な感情のなかにあるのだから、愛する対象が虚像にすぎないとしても、少しも問題ではないわけだ。

感情は、伝達できない。感情を何とかして伝達しようとする人(自分が激しく恋していることを何とかして他人に伝えようとする男)の身振りは、痛ましくも滑稽である。感情はまた、意のままにならない。つまり「われわれがそれを感じようと〈欲する〉と、感情はもはや感情ではなくなり、感情を模倣する紛いもの、感情の誇示になってしまう。」それを無理して、そうした感情にこだわるなら、感情は神経症の発作のようなものに近づいてゆく。「だからしてホモ・センチメンタリスは、実際にはホモ・ヒステリクスと同一なのである。」(297頁)

さて、これほどまでに厄介な感情の価値づけは、どのような舞台装置のなかで行われるのか。それは、愛の物語をセックスから分離することによってである、とクンデラは言う。「ヨーロッパの重要な愛の物語は、性交外空間で展開される」。たとえばドストエフスキーの『白痴』に登場するナスターシャは、俗悪な商人たちと相手かまわず寝るのに、ムイシュキンやロゴージンと会うことによって「真実の愛」が問題になると、もうどうにもならなくなり、破滅へと向かってゆく。このように「性交外の愛」は、純粋で無垢なものなどではなく(いや純粋で無垢であるがゆえに?)、危険で破壊的なものなのだ。

すべてこうしたことは、たんに過ぎ去ったヨーロッパの話にすぎないのだろうか。セルバンテスやドストエフスキーの描く恋愛を骨董品として退けるのは勝手だけれど、われわれはほんとうにそれらに代わる、何か新しい基準をもっているのだろうか。

二〇世紀は、性を解放したと自負し、ロマン主義的な感情を軽んじることを好んでいるが、愛の観念にいかなる新しい意味をあたえることもできなかったので(それがこの世紀のさまざまの失態のひとつである)、そのせいである若いヨーロッパ人は、この大いなる単語を心のなかで発すると、望むと望まないとにかかわらず、魅惑の翼に乗せられて、ヴェルテルがロッテへの愛を生き、そしてドミニックがすんでにところで馬から落ちそうになったまさにその点まで、連れ戻されるのである。(301頁)

では、われわれの世界ではどうなのだろう。ロマンティックな恋愛は、たしかにそのオリジナルの姿では存在していないとしても、それを支えていた基底的な構造は残っているのではないか。そもそも感情を価値へと変換することなしに、恋愛の商品化は可能だっただろうか。恋愛ドラマのあの不必要な深刻さや破滅への嗜好は、いったいどこから来るものなのか。自分たちの感情を効果的に誇示しあう恋愛の身振りは、何に由来するのか。去年出会ったある若い女性はぼくに「本当に好きな人とはセックスしない」と告白した。ナスターシャの亡霊? どんなに奔放な時代にみえようとも、「性交外の愛」の呪縛はまだ去っておらず、それがもたらすヒステリーの発作も消滅してはいないのだ。消滅していないどころか、それは愛のファンタジーを大量に生み出すことで、この消費社会を駆動しているのである。

歯止めなく肥大する感情にもとづく恋愛は、自己以外のあらゆる外的世界を否認する、暴力へと近づいてゆく。日本で恋愛の広範囲な商品化が進行しつつあった80年代半ば、戸川純はつぎのように歌って、その暴力性を告発した。

Kiss me 殴るよに 唇に血が滲む程
Hold me あばらが音を立てて折れる程
好き好き大好き 好き好き大好き・・・
愛してるって言わなきゃ殺す (戸川純「好き好き大好き」1985年)

ロマンティックな愛の観念の決定的な欠陥は、他者との出会いがないことである。それは愛の対象を崇拝しているように見えるけれども、いや、崇拝してしまうがゆえに、すべての出来事は結局、愛する者の自我のなかでしか起こらない。

だが、愛がそういうものでなければならない必然性は、どこにもないのである。愛は感情ではなく、もっと外的な、自我にとって直接見とおすことのできない関係性に根拠を置いたっていいはずだ。未知の存在を愛するということは、そもそもそういうことではないのか? 感情としての愛から、関係としての愛へ--この移行が完了したとき、恋愛というオブセッションも、感情を搾取する消費のシステムも、もはやどこにも場所をもたなくなるはずである。

(1999年3月9日)

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(C)Hiroshi Yoshioka