科学と芸術の変貌
笑うシュレーディンガーの猫

IMI(Inter Medium Institute)の教科書のために、科学と芸術の関係を原稿用紙十枚で書くという無謀なテキスト。

0.はじめに
 芸術と科学との間には、本来区別はなかった。そこに明確な境界線が引かれたのは、19世紀ヨーロッパにおいてである。ということは、地球全体から見ればごく一部の地域の現象であり、また人類の歴史からみれば、ごく最近の話なのだ。にもかかわらずこの区別はあっという間に世界に拡がり、たとえば現代日本の中学生だって、芸術とはバッハやピカソ、科学とはガリレオやアインシュタインだと考えるようになった。
 どうしてこんなことになったのか。それは、芸術と科学とを区別することが、近代国家という大きな制度にとって、都合がよかったからである。このように芸術と科学とを分離したおかげで、それぞれがみずからの可能性をその極限まで追求し、その結果両者とも、科学であること、芸術であることを突き抜けようとしている——これがおよそ、20世紀末の今ぼくたちが目撃している状況なのである。

1. 機械/計算
 近代の科学とりわけ物理学は、自然をひとつの「機械」と考えることによって、画期的な一歩を踏み出した。ここで「機械」というのは、一連の法則に従って作動する要素の組合せというような意味である。
 ということは、自然をバラバラにして(要素に還元して)その各部分を支配している法則を発見すれば、自然のふるまいを予測したり制御したり、さらには自然と同じ働きをする人工物を作り出すことすら可能だ、ということになる。
 17世紀の自然科学においてこうした機械のモデルは「時計」であった。そこでは神様はさしずめ、優秀な時計職人ということになる。宇宙という時計の中では、一見どんなに複雑で思いがけない発展も、実はあらかじめ仕組まれたものである。だとすればその仕組みを詳しく知ることによって、「最後の審判」【図】——それはそんなに遠いこととは考えられていなかったが——までにこの宇宙に何が起こるかは、すべて予測できることになる。こうした考え方は「決定論」と呼ばれるものであり、それは人類の自然観における大きなジャンプである。「決定論」がなければ、それ以降の科学の発展はありえないのである。
 さて、そうした自然観をテクノロジー的に実現するのが計算機だ。たとえば航海のために天体の正確な動きを知ることは、世界に進出する19世紀の帝国主義的国家にとっては重大な課題だったけれども、そのためには膨大な数値計算を実行する必要があった。そうした必要から生まれたのが、チャールズ・バベッジの「解析エンジン」【図】、つまり現代のコンピュータの前身である。
 コンピュータとは何か? それは魔法の箱ではないのである。コンピュータとは、計算として表現できるかぎりのことは何でも処理しうる機械のことである。その根底には、自然を決定論的な機械としてみる近代科学の宇宙観が流れている。そして、もし自然が機械なら、それは人間が作り出す、完全に合理的な論理体系に従属させることができるはずである。
 こうした科学のインパクトによって、現在ぼくたちの常識の一部として定着している世界観が生み出された。そのひとつが、機械VS生命という対立、つまり数理的合理性の世界と、生命や文化の世界が、別々に存在するという世界観である。ひとつしかない宇宙に、奇妙な分裂が生じてしまったのだ。そしてこの分裂は、科学は必然性を、芸術は創造性を専門にするという、文化の領域化に対応するものである。

2. パラドックスの噴出
 1921年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で、哲学的命題の真理は、結局「AはAである」といった同語反復(トートロジー)に還元され、それ以上の形而上学的真理について言葉で述べることは不可能であることを示した。その10年後、クルト・ゲーデルは、矛盾をもたない論理的体系が、その中に証明することも反証することもできないような命題を必然的に含んでしまう、ということを証明した(「不完全性定理」)。またヴェルナー・ハイゼンベルクは、量子的世界においては運動する対象の位置と運動量とを同時に正確に知ること、つまり自然を隅々まで客観的に観測することが不可能であることを示した(「不確定性原理」)。このように20世紀初頭には、合理的体系の不完全性と限界、さらには客観的観測の不確定性が、次々と発見されてきたのである。
 これらの現象を、20世紀初頭の芸術の流れといっしょに見てみるとどうだろう。芸術は元来、機械や法則性には還元されない自由や創造性にかかわる活動であったはずだが、たとえば未来派は機械を礼賛し、ダダは芸術の人間的性格そのものを否定し、シュールレアリスムは精神をひとつの機械とみるフロイトの精神分析に学んだ。いわば20世紀のアヴァンギャルド芸術では、人間性や自由が内部にはらんでしまう矛盾や逆説を、露呈させることになったわけである。

3. カオス/複雑系/人工生命
 1960年代以降、奇妙な科学の一分野がしだいに注目を集めるようになる。それは、決定論的なシステムの生み出す予測不可能なふるまいを取り扱う数学や物理の一分野である。現在、「カオス理論」や「複雑系科学」という名で知られるそうした分野のカバーする対象領域は、量子的空間から身近な物理世界、生物界、さらには経済・社会まで広範囲にわたっている。こうした研究の発展によって、今までは偶然の結果として確率論的にしか扱うことができなかった現象に対して、因果的な説明を与えたりその挙動を制御したりする可能性が開けてきた。
 けれども、こうした新しい科学について考えるときに忘れてならないのは、それが何も世界についての神秘な直観に基づいているのではないことである。生命が非物理的エネルギーをもつと主張する19世紀の「生気説(vitalism)」は、機械論に真っ向から敵対するものだった。それに対して現代の複雑系科学は、近代科学の決定論・機械論・還元論を単純に否定しているわけではないのである。それはむしろ、決定論・機械論・還元論を極限まで徹底した結果、思いがけず予測不能・創発性・全体論の方に突き抜けてしまったものだ、と理解すべきだろう。
 さて、こうした複雑系科学をふまえながら、コンピュータの力をかりて自分自身で成長・進化してゆくようなプログラムについて研究する分野が、人工生命(AL)である。これも、生命を人工的に作り出す神秘な科学、などと誤解してはいけない。人工生命でもっとも重要なのは、クリス・ラングトンの提出した"life as we know"と"life as it could be"という考え方だろう。すなわち、生命を形式的なシステムとして研究することで、地球という特殊な環境でたまたま発達した生命——われわれが生命と呼んでいる存在——以外に、生命にはそもそもどのような可能性があるのか、ということがわかってくるのである。アーティストやデザイナーの中にも、人工生命プログラムの描き出す不思議なヴィジュアルの世界に魅力を感じている人がいるが、そうしたものが面白いのは、たんに珍しいCG映像だからではなくて、それがこうした新しい自然観と結びついているからなのである。

4. 知覚/意識/人工知能
 生命活動の本質的な特徴のひとつは、生命体が世界について知るということ、すなわち知覚である。知覚は、ふつう外界から感覚器官に与えられた刺激を神経系が処理して、生命体にとって意味のある情報に変換することだと考えられている。これは生物を機械的なモデルで考えるものである。つまり目はカメラ、神経は配線、脳はコンピュータというわけだ。
 けれどもこのような感覚刺激/情報処理というモデルではなく、生物が行っている知覚をもっと生き生きした、ダイナミックなものとしてとらえようとする試みもある。それが、グレゴリー・ベイトソンやJ・J・ギブソンによる生態学的アプローチである。たとえばギブソンは、生物が利用する環境の意味は、生物がそれを利用するかどうかにかかわりなく、環境の中に実在していると考え、情報のそうしたあり方を「アフォーダンス」と名づけている。
 また、コンピュータと脳に関する研究の発達は、外部の自然界ばかりではなく、人間自身をどう考えるかについても、根本的な変更を迫っている。人間が自分自身の中心だと考えているのは「意識」だ。そこで、では意識とは脳の機能にすぎないのか?という問いが起こってくる。ギルバート・ライルは、「意識は脳か?」といった主張がもともと間違った問題設定(カテゴリー・ミステイク)に基づくものだと言っている。
 人工知能(AI)は「コンピュータは考えることができるか?」という哲学上の泥沼のような問いに煩わされてきた。けれども、これも問いそのものが見当はずれだったのかもしれない。機械の中に実現される「知性」を研究することで、人間独特の知性についての理解はかえって深まるのだ。脳科学、複雑系、認知科学といった分野と交流する現在の人工知能研究はむしろ、機械と人間とが相互にその本性を照らし合うような方向へと発展しつつあるのである。