生態学的ラディカリズム
—J・J・ギブソンとカント
青土社『現代思想』1997年2月号に書いた文章。その後加筆修正して、講談社選書メチエ『〈思想〉の現在形—複雑系、電脳空間、アフォーダンス』(講談社、1997年)に含めた。
判断の反射
「きみの眼のなかの塵こそはこの上ない拡大鏡の役目をしているのだ」(1)。
上の文は、テオドール・W・アドルノの『ミニマ・モラリア』に見いだされる断章である。これは、新約聖書マタイ伝第七章三にある「なぜ、兄弟の眼にある塵を見ながら、自分の眼にある梁(はり)を認めないのか」という一節をふまえながら(2)、そこにアドルノ独特のひねりをかけたものだ。
これは一見、謎めいた一文にみえるかもしれない。アドルノ的「ひねり」の意図を深読みすると、こうした警句も、またアドルノの哲学全体も、まるで一種の神秘思想のように見えてくるだろう。けれどもこれはもしかすると、かれの読者たちはとても謎が好きだ、ということを反映しているだけかもしれない。たしかにアドルノの哲学はその悲観的かつ救済的な側面ばかり強調されることが多い(3)。けれどもかれの哲学的文体には、周知の名言にわざと逆説や否定による変形を仕掛けてみて、そこからどんな効果が出てくるかを実験しているような、無邪気な側面がある。それはちょうど、『モナリザ』に髭を書くマルセル・デュシャンのようなものである。哲学であれ美術であれ、こうした無邪気ないたずらと深刻な現実否認とが表裏一体になっていること——これが文学や芸術における二〇世紀の新傾向、つまり「アヴァンギャルド」のスタイルの本質的特徴なのである。
アドルノの著作中でも、とりわけこの『ミニマ・モラリア』という作品は、思想的なパラドクス効果の実験室ともいえるものだ。右に引用した一節のすぐ後に、しばしば引用される「全体は非真理である」という一句が登場する。これはヘーゲルの『精神現象学』にみられる「真理は全体である」という命題を逆転かつ否定したものである。けれどもそれは、ヘーゲル的な観念論に対する単純なアンチテーゼではない。「全体は非真理」であるという文は、それが「真理は全体である」という文をふまえている以上、そのオリジナルと対等の資格で反対の主張をしているのではない。アヴァンギャルド的な転倒の手法は、権威をもつオリジナルに単純に反逆したりそれを揶揄したりするものではなく、むしろオリジナルをきわめて真剣に受けとることから出発し、そのことによって、オリジナルの中に潜在している別な可能性を展開してしまうのである。そこにアヴァンギャルド的メッセージの衝撃力がある(4)。
さて、冒頭に引用した文に戻ってみよう。この場合のオリジナル、つまり福音書の記述はいったい何を言っているのだろうか。「なぜ、兄弟の眼にある塵を見ながら、自分の眼にある梁を認めないのか」。素朴に道徳的な解釈をするなら、この聖書の一節は、自分のことをたなにあげて人を批判することの非を戒めるものとして読めるだろう。あなたの眼は先入観や固定観念のために曇っている、だからわたしがそれを取り去って、よく見えるようにしてあげよう——こうしたお節介な口調は、現代のわれわれにはきわめてなじみの深いものだろう。それは「こんな良い商品を知らないあなたは損をしている」と言うコマーシャリズムの中にも、「世界はこんな大変なことになってるのにあなたは何をしているのか」と詰め寄る新興宗教や慈善運動の勧誘の口ぶりの中にも、また社会悪を告発すると称するジャーナリズムの「真相暴露」や、「あなたは知らないが今のトレンドはこうなのだ」と教えてくれるマスコミの言説の中にも聴くことができる。そしてわれわれ自身も、「社会」や「人々」に向かって何かを言おうとすると、しらずしらずのうちにそうした話し方になってしまっている。
どうしてそんなことになってしまうのか。それは「兄弟の眼にある塵を見る」ことが、近代的意識そのもののあり方に深く関わっているからだろう。迷妄の打破は、「近代」が「過去」を断罪するときに利用する一般的な言い方、つまり「啓蒙」のレトリックに属している。過去の人々は宗教的ドグマや迷信のために曇らされてきた。わたしがそれを取り除いて、世界のありのままの姿を見せてあげよう、というわけである。二〇世紀においては、かつて「偶像破壊」の旗印であった古典的な啓蒙思想が、かつての宗教的権威にかわって決別すべきドグマの役割を負わせられることになる。すなわち、デカルト的な心身二元論からの脱却とか、カント的理性主義の克服というふうにである。近代思想とは、過去を否定するこうしたパワーによって進展してきた。そのことを一概に悪いとか間違っているとか言うことはできない。ただ確かなことは、本当に透徹した近代意識は、過去を悪者あるいは無知蒙昧な存在に仕立て上げたことに対して、実は深い後ろめたさをも同時に感じてきたことである。「自分の眼には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの眼から塵を取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の眼から梁を取りのけるがよい」(5)。啓蒙と進歩の意識の背後には、常にこうした声が響いている。伝統を批判する自分の眼こそ、本当は手に負えない先入観にとらわれているのではないか——こうした良心の呵責を考えに入れなければ、近代思想を本当の意味で理解することはできない。
さて、最初に引用したアドルノの断章は、聖書の言葉に奇妙な変形を加える。すなわちそのオリジナルでは「塵」は第三者(「兄弟」)のものであるのに、それが「きみ」つまり読者のものとされている。だがより重要な点は、それが「眼にある」ということの持つ認識論的な意味を強調しながら、道徳的な意味を奇妙な形でずらしてしまうことである。「塵」とはそもそも取り除くべき障害などではなくて、それこそがよりよく見ることを可能にしている条件なのではないか、というのだ。そしてさらに興味深いのは、こうしたアドルノによる変形を理解した後で聖書のテクストに戻ると、それがまったく別な認識論的洞察として読めてしまうことである。「あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたが量るそのはかりで、自分も量り与えられるであろう」(6)。判断は自分にはね返ってくる、つまりわれわれは対象を判断したつもりでも、実は自分自身を判断したことになる、というのである。これは「だから他人をむやみに判断してはいけない」といった道徳的教訓を越えて、判断というものの本質に触れてはいないだろうか。判断はその本性からして反射=反省的であり、他者を見る眼には自分とは何者かということが含まれている。神ならぬ有限な存在者である人間にとって、判断から「自己」という要因を消去することは不可能なのである。
相対主義/解釈学的パラダイム
判断が反射するということ、したがって判断から自己を消去することができないという事態は、判断に規範的な性格を与える必要がある場合には、なんとか処理しなければならない問題である。判断を客観的なものとするためには、何らかの仕方でそれが本来持っている反射作用を禁止しなければならない。そのためには、たとえば認識する主体と対象としての世界を区別し、運動という要素をなるべく排除することによって、固定した主観-客観関係のモデルを設定することが不可欠だった。このようにして成立したのが近代自然科学の基礎になっている認識論である。そして、それがもたらした成果は絶大だった。物理科学の成功があまりにドラマティックだったので、様々な学問分野、たとえば哲学や社会科学も科学の規範的性質から何かを学べるのではないかと考えるようになった。けれども「意味」の世界を扱うそうした探究に科学的規範を持ち込むやいなや、たちまち判断の反射=反省的性格が噴出し、手に負えないパラドックスを生み出すことになる。判断から「自己」という要素を追い出すことは不可能なのだ。この事実に直面することから、二つの対立する態度が生じてくる。
一方では、判断はしょせん先入観から逃れられないのだから、認識とは異なった先入観の間の権力闘争にすぎず、それを越えた真理などは存在しないという、不可知論的なニヒリズム、あるいは相対主義的な「居直り」の立場が発展してくる。これの極端な形態は、一種のアナーキズムとなる。つまり、いかなる世界観の客観性も、自分自身を根拠づけるための合理化にすぎないと考える立場だ。「あなたが正しいと思っていることは、あなたにとって正しいにすぎない」というわけである。だが一見「平等主義的」にみえるこうした認識論的アナーキズムの明快さは、そのままその弱点となる。ある人にとってのみ「正しい」というのは、「正しい」の意味を正しく表現していない。なぜなら「正しい」という判断の中には、客観性への要求がはじめから含まれているからである。客観性の要求を放棄した判断は、そのことによってもはや「判断」とは呼べなくなってしまう。判断からは恣意性を消去できないにもかかわらず、判断は恣意性を消去したものとして成立するからこそ「判断」なのだ。このこんがらがった事態を、相対主義的な前提からはうまく扱うことができない。
他方、相対主義の陥るそうした不合理性を認めることから、けっして相対化できない規範が何らかの仕方で要請されねばならないとする立場、いわば解釈学的立場とでもいうべきものが発展してくる。解釈学的立場の特徴は、それがみずからの真理要求を合理的に基礎づけることよりも、意味の世界において合理性を追求することが必ず陥る循環——解釈学的循環——を提示し、そこから何かを学ぼうとする点にある。そうした循環が示すのは、何らかの基準を設定しないかぎり、知識の正当性に関するすべての議論が意味をなさなくなるということである。ようするに、「わたしはわたしの正しさを根拠づけることはできないけれども、いかなる客観的基準も持たないのはもっと不合理だから、少なくとも当面はそれを正しいと承認した方がいい」という主張だ。もう少し具体的な内容をこれに当てはめて考えるなら「西洋文明は人間性についての偏った見方かもしれないが、少なくとも現在のところ、文明の普遍的基準としてそれよりもましな候補がないから仕方ないじゃないか」ということである。「民主主義」や「人権」といった規範についても同じことが言えるだろう。現在「ポスト植民地主義」という名の下に戦われている政治的な議論の根底にあるのは、この相対主義/解釈学という哲学的問題にほかならない。
合理性や基準といったことに関してまじめに考えるなら、誰しもこうした問題からは逃れられないようにみえる。それは、これら二つの立場を両極端に置くことが、西洋近代思想というゲームの基本的ルールのひとつだからである。相対主義の極点には、たとえばポール・ファイヤアーベントのようなアナーキストがいるし、解釈学的立場の極点にはマルチン・ハイデガーのような、「人間」概念を無効にしてしまうほどの原理主義者がいる。だがたいていの人は、これら両極端の中間のどこかに位置していて、いくぶんは相対主義的でいくぶんは解釈学的な仕方で考えている。たとえばカール・ポパーの「批判的合理主義」は、よりリベラルな相対主義だし、アドルノの属するフランクフルト学派の「批判理論」はちょうど中間くらい、H・G・ガダマーの哲学は、相対主義を許容する解釈学である。これら中間的な立場の特徴は、合理性の基礎づけが「科学的探究」「コミュニケーション」「解釈過程」といった時間的プロセスのなかで構成されると考える点にある。真理を構成的に考えるそうした議論の詳細はそれなりに興味深いけれども、基本的にはそれは、相対主義/解釈学という枠組みの中に含まれている根本的な矛盾を、議論の厳密化によって解決しようという試みである。アドルノの言葉を借りると、それらは「眼のなかの塵」の性質を詳細に分析するという課題だといえるだろう(7)。
だがこうした相対主義/解釈学的パラダイムとはまったく違った方向から、知識や認識の問題にアプローチすることはできないのだろうか。こうした方向性が、二〇世紀の知的探究のあちこちで噴出してきた。それは、文化・芸術上のアヴァンギャルド運動とオーバーラップしている。それらに共通する意識は、「意味」の世界を取り扱う際に避けることのできない、判断の反射作用を、認識活動の中に取り入れることはできないか、という可能性を考えることである。もちろんそうしたことは、相対主義/解釈学的なパラダイムの中でも試みられてきたのだけれど、この世紀を通じて明らかになってきたのは、そうしたことをするためには、人間がそもそも世界を認識するとはどういうことか、つまり認識そのものの自己アイデンティティが根本的に変わらないかぎりダメだということだったのである。
これまで「認識」や「判断」は人間的主体を出発点として——すなわち世界を視る人間をモデルにして——考えられてきた。そこでは、実在する世界がどんな究極的な構造を持つにせよ、とにかく何らかのデータが感覚器官を触発することが前提される。「判断」とは情報処理であり、「生の」感覚的与件から意味のある認識を生成する計算過程として考えられる。「判断」が生成するのは実在の像であり、その像は実在そのままではありえないが、少なくとも実在の論理的構造の一部を写像したものである。判断の基準とは、その写像が実在のより重要な論理成分を有効に抽出できるかどうか、あるいはより高い分解能で写像できるかどうか、ということに関わっている。これらはすべて、人間の眼がカメラのように世界を写すことを「認識」のメタファーとして使うことが有効であるという前提に基づく議論である(8)。認識を、それ自体は無意味な「生の」感覚データの加工による生成物として考えるかぎり、相対主義/解釈学という問題圏から出ることはできないだろう。
「正しさ」とは何かを探究すること、すなわち知識の基礎づけは、哲学の根本的な課題のひとつである。それを相対主義/解釈学という枠組みの中で行うという伝統は、近代西洋思想から受け継がれた遺産である。近代西洋思想は、科学技術と産業の急速な発達によって、人類が自然的世界に対する未曾有の支配力を獲得してゆくという歴史的過程で形成されてきた。したがってその認識論には、自然の原料の機械的加工、つまり産業的生産というモデルが色濃く反映している。と同時にそこでは、人間が世界から孤立することの不安もまた強く意識される。世界そのものに意味などなく、意味は世界からはっきりと際だった特異な存在者である人間的主体によって付与される——こうした人間中心主義は、何よりもみずからの自然支配に対する人間の不安を慰撫するために必要なものであった。
科学技術においても産業においても、そうした無限の自然支配という一九世紀的な理想はとっくに終わっている。それとともに、自然と人間の関係は従来とはしだいに異なったものに見えてきた。自然についての知識が深まるほど、自然は還元的にはけっしてとらえきれない、複雑な相互依存的メカニズムを持っていることが明らかになってきた。また、生命の基礎をなす物理化学的機構が発見されることによって、生命と非生命との境界はあいまいになり、人工知能や脳科学の進歩によって、人間の知性と機械の知性との境界も、それほど自明なものではなくなってきた。こうしたことを生命や人間性に対する一種の「脅威」ととらえてしまうと、たとえば「人間は機械や動物とはどこが違うのか」という問いが発せられることになる。さらにせっぱ詰まった形になると、「機械は考えることができるか」「動物には意識があるのか」といった問いになる。これらについては最後の章で若干触れるが、筆者の考えでは、この種の問いは今後、しだいに重要な意味を失っていくだろう。それよりもここで問われなければならない哲学的問いは、そもそもそうした「境界づけ」にはどんな意味があったのかということだろう(9)。
これまで「脅威」として感じられてきたものが、むしろ積極的な意味を持つものとして見えはじめたこと——これが現在われわれが経験している近代思想の変容である。たとえばウィトゲンシュタインやゲーデルによって提示された、自己言及パラドクスや論理的体系の不完全性は、合理的な知識体系の完成という理想からすれば「スキャンダル」にほかならなかったが、現代の複雑系研究や生命科学においては、そうした構造は自己組織化が起こるための基本的な条件だと考えられている。筆者には、脳科学、人工知能、進化生物学、宇宙論、数学、哲学、その他様々な分野において、この二〇世紀後半に起きた変化がしだいに合流して、新しい文化の枠組みを形成しつつあるように感じられる(10)。そうした新しい文化の中では、人間と外界、あるいは人間と機械や動物との「境界」という問題も、これまでとは違った意味を持ちはじめるだろう。そうした設定は常に、「あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれる」ということ、つまり判断が自分自身に反射してくるという事態の中で考えられなければならない。そのためには、認識の主体と外界との関係を考えるさまざまな可能性が検討される必要があるだろう。
さて、ここで検討してみたいそうした可能性のひとつは、ユニークな視覚理論の設立者J・J・ギブソンの「アフォーダンス」という考え方である。
生態学的転回
ギブソンの関心は「視覚」の研究という課題に集中しているので、かれをいきなり荒っぽい哲学的な議論の中に巻き込むことは一見フェアではないように思えるかもしれない。けれどもかれはその著作のいたる所で、哲学や認識論の伝統的な枠組みを攻撃しているのである。そうした攻撃はまず、デカルト的な座標系によって表象される空間概念、そしてニュートン的な絶対時間・絶対空間に対して向けられる。空虚な入れ物としての時空間なんてそもそも存在していない、というのである。「空間は神話であり、幻影であって、また幾何学者のための作り事である」(11)。さらに、そうした空虚な時空間の中を物質の究極要素としての粒子が動き回るという原子論の前提が拒否され、またそうした原子の運動が感覚器官を通じて受容され、それにアプリオリな概念が適用されて世界の意味が分節されるという理性主義的哲学の前提も拒否される。しかもそれは、たんにそうした近代哲学・科学の諸前提が生物の知覚を扱うのに適していないというプラグマティックな理由からではないのである。ギブソンは、われわれをとりまく世界はそもそもそのようには出来ておらず、したがって幾何学や力学といったものまで、本当は「生態学的」に作りなおす必要があると考えているようだ(12)。ここで問題にしたいのは、かれのこうしたラディカリズムである。
こうしたラディカリズムが、ギブソンの一見穏やかで平易な語り口の中に潜んでいるために、かれの思考は読む者に特異な緊張感をもたらす。このことが、たとえば筆者のような読者にとっては魅力となっているのだが、哲学的な枠組みの組み替えということを意識しないでギブソンを理解しようとする人にとっては、耐え難い違和感として感じられるかもしれない。たしかにかれは、自分が立脚している哲学的な基盤をその著作の中で体系的には説明していない。けれどもギブソンの『生態学的視覚論』を読んでいると、自分の周囲の世界が突然いままでとは違ったものとして見えてくるような、実に「奇妙な」体験をすることがある。変な言い方だが、この「奇妙さ」がギブソン理論の哲学的成分ともいえるものである。ギブソン理論の簡潔で明快な紹介書である『アフォーダンス——新しい認知の理論』を、佐々木正人は次のように書き起こしている。「読者は本書を読みおわった後に、見ること、聞くこと、触ること、嗅ぐこと、味わうこと、歩くことなどについて、いいかえれば自身と世界との関係について、これまでとはまったく違う『感じ』を体験することができるはずである」(13)。
けれどもこの独特の「感じ」が、同時にギブソン理論に奇異な思いをいだかせる原因にもなっている。ようするに、わかる人にはわかる、というようなところがあるのだが、その理由はギブソンが明言していないかれ自身の哲学的立場が、通常の自然科学のそれとは遠くかけはなれているからである。「自身と世界との関係」が変わる、というのは、たしかに本物の哲学書を読むときの体験である。ギブソンがその視覚理論を構築するために用いる仮説の中には、先述したように、たんにそのように仮定すれば視覚という問題がよりよく理解できるといったことを越えた、世界観におけるひとつの飛躍のようなものが含まれれている。筆者はギブソン理論にも認知心理学にも門外漢ではあるが、この「飛躍」の正体がいったい何なのかということが気になってきた(14)。この飛躍の感じは、とりわけ「情報は光の中にある」という「生態光学」の考え方、そして「アフォーダンス」の概念をめぐって著しい。いったいこの「飛躍」とは、哲学的にどんな意味を持つものなのだろうか。
生物が環境の中で出会う事象が、物理現象に還元できないという主張それ自体は、多くの人にとって少しも奇異なものではないだろう。ニュートン的な絶対的時空間と、その中を力学的法則に従って離合集散する原子という物理学的世界観が、生物あるいは人間にとっての世界のすべてではない、というだけのことなら、誰でも言えるのである。近代哲学も、ドイツ観念論以降ずっと反ニュートン的、反原子論的な枠組みの中にあるし、二〇世紀では現象学がそれを継承している。それらが言っているのはつまるところ、「生きた世界はそんなもんじゃない」ということである。ギブソンが「生態学的事象」と呼んでいるものもたしかに、原子論には還元できない「面」のような「たち現れ」のことである。そこだけに注目すると、ギブソンはまるで現象学者のように語っているようにみえる。だがここで重要なのは、ギブソンにとってこうした原子論批判が、意識や志向性を分析することによって得られたものではないことである。光の配列と運動によって知覚される「不変項」は、「現象学的還元」によって抽出されたものでない。それらは、意識を持つ生物によって知覚されるか否かにはまったく関わりなく、環境の中に実在しているとされる。こうした言い方は近代哲学にとってはきわめて異様なもので、いわば生態学的なアリストテレス主義とでもいうような、非近代的な実在論である(15)。
このように、ギブソンによるニュートン批判、あるいは原子論批判は、近代思想の定石となっている批判のスタイルとはまったく異質なものなのである。ギブソンは、物理的世界に還元できない「意味」の世界が、生物や人間にとっては存在している、と言っているのではない。あるいは、生命や意味のために、物理的世界とは別なリアリティーの次元を設定しなければならない、と言っているのでもない。ギブソンのすごいところは、われわれがたいていはやっているそうした観念論的な留保をまったくしないところである。かれが言っているのは、生物が環境の中に見いだす「意味」とは、実は環境の中に実在しているアフォーダンスがピックアップされたものにすぎないということである。そこからすると、「意味」の世界を説明するためにわざわざ意識的な主体を持ち出す近代哲学の方法は、まったくの余計なこと、ということになる。ギブソンによれば、アフォーダンスの概念を正しく理解する上で決定的な点は、それが主体の欲求や意図によって対象に付与される性質ではないということである。
ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとして常にそこに存在する(16)。
アフォーダンスとは世界に対する主観的な意味づけではない。だとすればそれは、何らかの客観的な実在なのだろうか。そうではない。ギブソンの生態学的立場とは、実はこうした主観-客観という考え方そのものに対立しているのである。生態学的な意味での「環境」とは、人間あるいは特定の生物という「主体」に対立する意味での客観的存在なのではない。そうではなくて、唯一「環境」だけが実在するのであり、生物が外界を知覚するということもそうした環境の一部であるにすぎない。アフォーダンスの概念とはいわば、こうした環境一元論を簡潔に表現したものにほかならないのだ。
環境のアフォーダンスをめぐる重要な事実は、価値や意味がしばしば主観的で、現象的、精神的であると考えられているということである。けれども実際には、アフォーダンスは客観的性質でも主観的性質でもない。あるいはそう考えたければその両方であるかもしれない。アフォーダンスは、主観的-客観的の二分法の範囲を超えており、二分法の不適切さをわれわれに理解させる助けとなる。それは環境の事実であり、同様に行動の事実でもある。それは物理的でも心理的でもあり、あるいはそのどちらでもないのである(17)。
このようにかれの一般的な発言だけを取り出すと、だから何がどう変わるんだ、と思う人もいるかもしれない。けれども、ギブソンの理論は実際に視覚を説明するのにきわめて有効であるばかりでなく、人工知能その他の分野にも大きな刺激を与えているのである。本論で筆者が試みているのは、アフォーダンス概念のそうした有効性を検討することではなく(そんな資格は筆者にはない)、たんにこの概念の哲学的な基盤を探ることにすぎない。
アフォーダンスと言語
アフォーダンスという概念の背後にあるのは、意味と情報についての、ラディカルな生態学的実在論である。そしてこの立場が、知覚をどう考えるかについて、まったく異なった見方を可能にするのである。かれは知覚の理論に一種の「コペルニクス的転回」、つまり「生態学的転回」とでもいうべき根本的な態度変更をもたらそうとしたのだ。それにしても、アフォーダンスという概念はみればみるほど奇妙である。ギブソンは理性的主体が現象としての世界に意味を付与するという考え方、「概念なき直観は盲目である」とするカントの認識論を拒否するけれども、「アフォーダンス」がかれの理論の中で占めている位置は、カントの「物自体」のそれとよく似ている。カントの「物自体」すなわち「ヌーメノン」とは、われわれが知りうる「現象(フエノメノン)」とは違って時空間や因果関係から独立して実在し、したがって認識不可能でありながら、現象の基底にあるような「何か」を呼ぶための語である。「物自体」がカントの強い形而上学的な関心を表すことはたしかだが、カントの批判哲学全体の中でこの語をどう解釈していいのかは未だに解決がついていない。「物自体」なんて不合理だから削除すれば、カントの哲学はもっと整合的に理解できるようになるかというと、そうもいかないのである。「物自体」というのは哲学史的にみると、ヨーロッパの古い形而上学において「神」の概念が占めてきた位地の痕跡である。つまりそれは、それ自体は意味を持たないか、あるいはあらゆる意味を吸収してしまうブラックホールであることによって、体系を機能させるような特異点なのである。
カントは「物自体」について語ることを慎重に避けた。それは「物自体」が時空間や因果関係といった形式の埒外にあって認識不可能だからであり、認識できない存在について語ることはできないからである。ギブソンにとっては、形式的な時空間こそが空疎な抽象物であり、環境はもともとそのような時空間の中で知覚されているのではない。したがって「アフォーダンス」は知覚不可能なものであるどころか、それこそが直接知覚されるべき唯一のものなのである。これは、カント哲学からするとあまりにも素朴な実在論にみえるけれども、実はみかけほど簡単に論駁できる立場ではない。ギブソンは形式的な時空間や因果性などそもそも存在しない、と言っているのだから、カント以降に形成された哲学や科学の常識を拠り所にして批判しても、役にたたないのである。こうした生態学的ラディカリズムを批判するためには、同じくらいラディカルな次元でやるしかないだろう。
生態学的ラディカリズムを批判するためのひとつのきっかけは、それが拒否しているニュートン的時空間とそれに基づく物理学的世界観の存在理由について問うことである。空虚な時空間というアイデアが、実際に役立つことは誰にも否定できない。ギブソンも時計や物差しを使っていただろうが、時計や物差しは空虚な時空間というアイデアを具体化したものであり、いくら抽象的な作り事であったとしても、それがなければ量を測定することできず、したがってすべての定量的科学は不可能になる。これは屁理屈をこねているようにみえるかもしれないけれども、実は根本的なことである。デカルトの座標系も、ニュートン的な時空間も、原子論や心身二元論も、ギブソンが「抽象的な作り事」として拒否する科学の枠組みはすべて、人間の言語活動によって生み出されてきたものであるが、ラディカルな生態学的立場からすれば、だからといって少しも特別なものではないはずである。意識と客観的世界との二元論をあくまで拒否するなら、言語活動およびそこから生成する文化の全体もまた、人間という種にとっては重要な環境情報の一部をなすはずである。
それは、アフォーダンス理論からみて人間の言語活動はどういう意味をもつのかという問題である。近代科学も、そしてかれ自身の視覚理論も、言語活動の所産である。けれどもギブソンは、高度な文化的伝達の問題は将来の課題として残している。言語にかんして言われているのは、それがアフォーダンスとどんなに無関係であるかということ、そして言語という非知覚的な情報では、生きた環境世界を十分吟味することはできないということである。
ギブソンによれば、アフォーダンスは分類・命名に関係なく存在する。ということは、つまり言語を越えた実在だということである。このことは、二〇世紀言語学や構造主義のドグマである、世界は言語(記号)によって分節されているという考えを疑ったことのない人々には抵抗があるかもしれない。けれどもギブソンは何も難しいことを言おうとしているのではない。たとえば「石は文ちんでもありうるし、本立て、かなづち、振り子の分銅でもありうる」。つまり石はそれらのすべてを「アフォード」しているわけだが、このことはその対象が「石」と呼ばれたり「石」と分類されることとは無関係なのである。ギブソンによれば、アフォーダンスは言語的な分類体系ではなく、むしろウィトゲンシュタインの言う「家族的類似性」に近いものであるという(18)。それが言語を越えているのは、対象に触知しがたい神秘な性質であるからではない。そうではなくて、アフォーダンスはその対象を用いるという行為の中で自明のものとなるからである。
アフォーダンスを言語によって同定することはできない。このことは、カントの「物自体」が概念によって把握することができないのと同じである。しかし、にもかかわらずわれわれはそれを「アフォーダンス」という言語記号によって呼ぶしかない。そうしなければわれわれは、それについて考えることことすらできない。そして、まさにそうしたことが言語の重要な特性である。この言語の特性、つまり名づけがたいものを名づけることによって、それを明らかにすると同時に覆い隠すという特性は、見ようによって欠点にも利点にもみえる。ギブソンは言語化された環境情報の特徴について語っているけれども、それはおおむね消極的である。
言葉に直された環境情報には次の短所がある。すなわち、自然の情報の抽出に伴う現実吟味が欠けている。話されるものであれ書かれたものであれ、記述では流動する刺激配列を精査はできない。不変項はすでに抽出されてしまっている。だから最初の知覚者を信用するしかない(19)。
ここでは、人間が置かれている環境がまるで自然界と同じように考えられているように思える。自然界の動物にとってはたえず「流動する刺激配列を精査する」ことが有利となるかもしれないが、人間が置かれているのは、はじめから人工的な文化環境である。そこでは「情報の抽出に伴う現実吟味」がいつも有利とは限らないのである。ギブソンが言語の短所だと考えているものは、人工環境の中ではそのまま言語の有効な機能として読みかえることができるだろう。言語とは不変項を抽出して固定することによって、現実吟味に必要なエネルギーを免除するからこそ適応的に機能してきたということはおおいに考えられることだからだ。いいかえれば、「最初の知覚者」を信用しておいた方が、たとえかれが間違っていたとしても、いつもその都度自分で知覚するよりは、はるかに有利であるような環境も存在するのであり、それが人間の文化的環境である。
言語のような非知覚的な環境情報の働きを評価しないことが、ギブソンの思想を、それについて本来たたかわされるべき哲学的な議論から遠ざけているといえるかもしれない。言語は直接的な知覚情報でないからこそ、自己意識を発生させることができる。この自己意識というのは、ギブソンが触れているような「自分自身を見る」という「単純な原始的経験」(20)のことではなくて、「その生物であるとはそのようにあることであるようなその何か」(21)のことである。こうした自己意識は言語的な、判断の反射(=反省)を含んでいる。それは「わたしとは何か」とわたしが問うという、自己言及的な問いを通してはじめて表現されるものである。いわばそこでは常に「あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」ることになる。ギブソン「生態学的立場」がラディカルに思えるのは、まさにそれがこのような「自己意識」の特殊性から出発した近代思想の閉塞性を突き抜けるように思えるからである。だとすればなおさら、そうした立場を、哲学的な意味での自己意識が問題になるような、より原理的なレベルで考えるべきだろう(22)。
反省的判断力
カントは、判断が自分自身に跳ね返ってくるという性質をきわめてよく理解していた。けれども同時に、判断のそうした反射=反省の作用を切り捨てることによって、自然現象を物理的な機構として記述できるということもまた、よくわかっていたのである。『純粋理性批判』(一七八一年)とは、判断からこうした反射作用を切り離すことによって成立する認識、つまり物理的自然科学の認識を基礎づけるものであり、ふつう「カント的」と呼ばれるのは、こうした判断に基づく認識モデルのことである。けれども『判断力批判』(一七九〇年)の段階に至ると、かれは判断の種類をはっきりと二つに分けて考えている。それは自分自身に跳ね返ることを禁止する規定的判断と、自分のさばきで自分もさばかれるような反省的判断である。そして、『判断力批判』のもっとも重要な主題とは、反省的判断にとってのみ意味をもつような概念——美や合目的性——を、規定的判断の対象と見誤ることを避けることにある。逆にいうなら『判断力批判』とは、ある種の認識は反省作用を考慮に入れなければけっして意味をなさないということを強調するものだといってもいいだろう。
自然が意図をもって動いているかどうかを、理性によって判断することは不可能である。理性が客観的に理解できるのは、機械的に作動する自然だけである。もしも理性が自然に実在的な意図を認めたとすれば、すべての物理的自然科学の知識の正当性は無効になってしまうだろう。これがカントの批判哲学の核心である。理性には自然の実在的な意図が認識できない、つまり神さまの心はわからない(と言ってしまうとまた誤解をまねくが)というこのテーゼは、今日に至るまで有効に反駁されたことは一度もないし、今後も反駁されることはないであろう、と筆者は考える(23)。けれども、自然の中にはたんなる機械的必然性によってではなく、目的をもって作動しているとしか思えないような現象がある。一言でいえば、生命の世界である。だが、自然が目的をもって作動しているように見えるのは、それを有限な理性的存在者である人間が「見ている」という条件があるからである。このように、それ自体として目的にかなっている(客観的合目的性の)体系としての自然という考え方は、奇妙に入り組んだ構造をもっている。それは、われわれをどこに導くであろうか。
『判断力批判』第二部における、「自然の合目的性についてのさまざまな体系(72節)」という箇所で、カントは自然の合目的性をめぐる考え方の様々なパターンを分析している(24)。自然のふるまいは人間が目的をもって何かをすることに似ていることからカントはそれを「自然の技巧」とも呼ぶが、この技巧についての考え方としてまず意図的(志向的)/無意図的(自然的)(25)という区別がなされる。簡単に言うと、前者は自然の技巧の根底にある特別な意図が実在していると考える立場であり、後者はその逆に、自然の技巧は結局自然の機械的作動と同じものであり、そこに目的をみるのはたんに主観的な判断にすぎないとするものである。
こうした区別にしたがって、カントは自然のあらゆる目的を無意図的とみる観念論の体系と、それを意図的とみる実在論の体系に区別する。自然の目的についての観念論の体系を代表するものとして、カントはエピクロスとスピノザをとりあげる。エピクロスは自然における目的の原因性を完全に否認し、そこでは盲目的な偶然だけが唯一自然の説明根拠となる。次にスピノザもまた、自然における目的の実在性を否認するが、それは自然において目的結合とみえるものの根拠が、唯一の実在である神自身の内おける統一から説明されるからである。次に自然目的の実在論としては、物活論(hylosoism)と有神論(theism)があげられる。物活論とはすべての物質は生きておりしたがって実在的な目的をもって動いているとする考え方であり、有神論とは自然の目的を世界原因としての神の意図に帰着させるものである。
このような立場の一覧表を前にすると、機械と生命について今日考えようとしているわれわれ自身の立っている哲学的な基盤も、たいていはこのうちのどれかに分類されてしまうように思えてくる。もっとも素朴な近代科学信奉者は、自然の目的性に関してはエピクロス主義者である。次に自然の目的性を自然自体と不可分な根源的リアリティーによって説明しようとする全体論的なニュー・サイエンティスは、スピノザ主義的である。ギブソンの「アフォーダンス」概念の中にもどこか、こうした意味でのスピノザ的なものがある。物活論と有神論は、近代科学の教育を受けた人間にとっては公然と主張することは難しいが、私的な信念としては強く生き残っているし、また宗教はどんなものでもこうした要素なしには不可能である。
さて、カントは何のためにこうした分類を行ったのか。それは、実はこれら四つの立場はすべて自然の目的性を説明するには不十分であることを示すためなのである。これらの立場はすべて、自然の目的性を、規定的判断力の概念として取り扱っている。いいかえれば、「自然は目的を持つか」という問いを、まるで「空気は質量を持つか」という問いと同じものであるかのように取り扱っているということになる。けれどもこの二つの問いは、命題の表面的な形式が似ているだけである。「自然は目的を持つか」という問題は、測定や観察に基づく論証によっては解決することができない。なぜなら、自然の目的性という概念は、規定的判断力の概念ではなく、反省的判断力の概念だからである。自然の目的という概念が意味を持つのは、反射=反省の作用を伴う判断形式においてだけである。
判断の反射が起こるのは、自己意識があるためである。反省的判断とは、対象を見る主体が、同時に対象を見ている自分を見る、という形式の判断のことである。これは特殊なもののように思えるかもしれないが、実はそうではない。われわれが日常行っている判断行為をよく観察してみるとわかるように、現実の生活の中で行われている判断行為のほとんどはこうした要素を多かれ少なかれ持っている。むしろ、主観と客観とが混じり合うことのない規定的判断の方がよほどめずらしく、自然科学的な思考の訓練を受けないとできないような、特殊な判断形式であるといえる。それなのにこれまでの近代の学問観においては、規定的判断モデルだけがより科学的・客観的な妥当性をもつものとして重視されてきた(26)。
ギブソンはエルンスト・マッハの「視覚的自己」の図をあげながら、知覚される外界の情報にははじめから自己に関する情報が含まれていることを説明している(27)。これはかれが知覚情報というものを、はじめから自己と外界との関係を含んだ、反省的なものとしてとらえていたことを意味する。生きた世界では、すでに生起している相互作用を要素に還元することはできない。主観と客観、物質と意識といった対立は、そうした相互作用から抽出された説明原理にすぎない。アフォーダンスが「主観的-客観的の二分法の範囲を超えて」おり、「物理的でも心理的でもあり、あるいはそのどちらでもない」というのはそういう意味でなければならない。
けれども厄介な問題が生じるのは、アフォーダンスがまるで究極的実在のように、知覚されるかどうかに関係なく、「常にそこに存在する」と主張されるときである。これがストレートに受け取られると、アフォーダンスとはまるで原子のような物質的実在に代わって世界の究極のリアリティーの座を占めるような印象を与えてしまう。ギブソンが執拗に還元論や心身二元論、物理的時空間といったものを攻撃することも、こうした誤解に拍車をかけているように思われる。だがもしもアフォーダンスがそうした物理的実在のライバルとして主張されるとしたら、それはカントのいうスピノザ主義のようなものに陥ってしまい、「自分自身がやろうとしていることを完遂していない」(28)ことになる。アフォーダンスのような概念はそもそも近代自然科学の規範を大胆に踏み越えるものなのに、あまりにその実在性を強調すると、まるでそうした規範の内部でその正当性を主張しているようなことになるからである。
したがって、アフォーダンスの概念を擁護するためには、本当は伝統的な知覚理論が「誤っている」と主張すべきではない。むしろ「そんなの関係ない」と思うべきであり、さらにはなぜ伝統的知覚理論のようなものが発展してきたのかを、みずからの立場から説明してあげるべきなのである。ようするに、ギブソンの知覚理論は、本当はもっとラディカルな探究の試みであり、はるかに深い哲学的な基盤と結びつきうるものであるのに、近代的なサイエンスという枠組みでみられているために、その途方もない可能性や結びつきが隠れてしまっているのではないか、というのが筆者の素人ながらの見解である(ギブソニアンたちにとっては、そんなこと余計なお世話でそれこそ「関係ない」と言われるかもしれないが)。
他者の心
最後に、これまで考えてきたことに関連して、もう少し一般的な文脈でひとつの補足をしておきたい。それは、複雑系、人工生命、人工知能、自己組織化、内部観測といった、まさに「目的論化」しつつある現代科学のフロンティアにおける話題によって触発される哲学的な議論に、筆者を含む科学の非専門家たちも、なるべく実り多い形で参加できるようにしたいからである。というのも、ほうっておくとこうした話題は、そのセンセーショナルなイメージだけが拡大されて、「複雑系」で何でも分かるとか、生命を思いのままに操作できるとか、とにかくとんでもない空騒ぎに終始しがちだからだ。専門的研究者にとってはそんなことはどうでもいいかもしれないが、現代科学が重要な哲学的問題に触れつつあるのに、それをこんな幼稚なバカ騒ぎで覆い隠してしまうのはとてももったいない、という気が筆者はするのである。現代科学が開きつつある「生命」や「意識」という話題は、哲学者ばかりでなく良識ある一般の人々にとっても、語ることができ、また深い関心を誘うであろう話題なのだ。そういうわけで、「生命」や「意識」といった話題について議論するとき、あまりにレベルの低い水掛け論に陥らないために、次のようなひとつのヒントを出しておきたいのである。
カントは先にあげた『判断力批判』の中で「判断力の二律背反(アンチノミー)」という議論を提示している。アンチノミーというのは、二つの矛盾する命題のどちらが正しいとも言えないような状況のことで、それはカントの意味での「超越論的」な立場、つまりそれぞれの命題が表現してるような認識を可能にしているような条件や、その認識の限界を指し示すような立場によってしか解決できない。「超越論的」立場とは、解決不可能にみえる問題を作り出している暗黙のルールの外に立つということ、いわば知的な異邦人として振る舞うことである。さて、判断力のアンチノミーとは次のようなものである。
定立 物質的なものが産出されるのはすべて、たんなる機械的法則によって可能である。
反定立 物質的なものの産出の中には、たんなる機械的な法則によっては不可能なものもある(29)。
「生命」「知性」「意識」といった話題をめぐる現代の素朴な論争のほとんどは、形式的にはこのアンチノミーに包摂されてしまう。「生命を作り出すことは可能か?」「機械は考えることができるか?」「動物(あるいは他人)は意識を持っているか?」これらの問いは連続している。そしてそれらはすべて「たんなる機械」と「機械以上の何か」との間の堂々めぐりであるという点で、結局はカントの提示しているアンチノミーと同じなのである。とりわけ意識をめぐる問いは、切実である。人間を含む生物が、その個体の身体も生殖や進化の仕組みも、きわめて精巧な機械であることが明白になったからである。しかも人間の「精神の座」である脳もやはり機械であると分かった結果、「わたしとはわたしの脳である」といった、一八世紀なら過激な啓蒙思想家しか言わなかったことを、今では誰でも平気で口にするようになっている。その結果、脳を変えれば世界が変わるなんていう本がベストセラーになったりして、脳ブームも行き着くところまで来たという感じである。これは、啓蒙の成果と言えるのだろうか?
実はこうした唯物論的なムードは、現代科学のめざましい進歩に圧倒されて、カントの言うアンチノミーの「定立」側につくことがたまたま流行しているということにすぎない。本当は、「わたし」がわたしの脳に還元できない何かであることは誰でも知っている。ただ、何となく言ってもファッショナブルでないから言わないだけなのである。重要なのは、カントの指摘したアンチノミーがそのまま温存されており、機械と生命をめぐる議論は二百年前と何一つ変わっていないという事実である。
「動物の心」というのは、このことを知るもうひとつのわかりやすい例だろう。こちらについては逆で、むしろ「動物にも心がある」つまり動物は意識や感情をもつ機械以上の存在であるとい「反定立」の側に立つことが今の風潮である。たとえば動物の心について、動物学者たちの書いた本が存在する(30)。そこには、動物が人間と同じような感情、思考、意識を持っているとしか思えないような、楽しい例が豊富に提示されている。けれどもそれらはすべて、動物がいかにも意識や思考を持っているように「みえる」事例がいかに多いかということを示すだけである。そのような事例をいくら積み重ねても動物が意識をもつことがけっして証明できないことは、その著者たちがいちばんよく知っている(31)。
機械と生命とのアンチノミーは、自己意識の還元不能な本質から来ている。つまり誰でも生命を自己意識として、つまり「生きること」を「わたしであること」として内部から知っているために、自分の外に観察される対象に対してそうした還元不可能な属性を認めようとするとき、困難に陥るのである。動物や他者の意識という問題を、還元不能な自己意識から出発して解くことはできないのである。そこでこうした意識の還元不能性をあくまで論理的に貫こうとするといわゆる「独我論」に陥るが、世界の中で孤立する自我という枠組みから出発するかぎり、この主張は絶対に反駁できない(32)。
意識体験の還元不能性は、先述した「その生物であるとはそのようにあることであるようなその何か」ということだが、この表現は哲学者のトマス・ネーゲルが「コウモリであるとはどのようなことか」という不思議なタイトルの論文で用いたものである(33)。コウモリはよく知られているように、超音波の反射によって自分の周囲の空間や自分自身の運動についての情報を得るが、こうした経験がどのようなものかは普通の人間には知り得ない。それは、見ることとも聴くこととも違っているからである。人間はこうしたコウモリのソナーを研究し、それがどのようなやり方で環境から情報を取り出しているのかを知ることはできるけれども、そのように情報を取り出すことがどのような体験であるのかを内部から知ることはできないのである。したがって、コウモリと人間とではそれぞれにとってまったく異なった「世界」があるような気がしてくるだろう。にもかかわらず、コウモリと人間とは同一の世界の中にいるということもまた確かに思えるのである。
ギブソンの「アフォーダンス」理論とは、そうした問題をひとつの外部の視点から眺めるものである。情報はもともと環境の中に不変のものとして存在するだから、異なった知覚システムがそこから異なった意味を抽出したとしても、そうした意味を生みだした元のアフォーダンスそのものは同一である。あまりに哲学的な意味を読み込みすぎているといわれることを承知であえて言うのだが、こうした実在論的な立場が示唆しているのは、そもそも還元不能な二つの意識体験が存在する、という考えは意味を持つのか? という問いかけであるように筆者には思われる。かりにコウモリが意識体験を持つということが何らかの方法で証明できたとして、「人間であることがまさにそのようなことである何か」と「コウモリであることがまさにそのようなことである何か」は、はたして両立するのか? 還元不可能な複数の内的体験というアイデア自体が、何か根本的におかしいのではないだろうか?
さて、カントが「判断力のアンチノミー」に与えた解決は次のようなものである。「物質的なものが産出されるのはすべて、たんなる機械的法則によって可能である」というのは「規定的判断力」の、また「物質的なものの産出の中には、たんなる機械的な法則によっては不可能なものもある」というのは反省的判断力の原理である。つまり、機械と生命とはそれぞれ異なった判断の種類に対応するものであって、それをどちらか一方の判断形式だけで解決しようとすることから、アンチノミーが生じるというのである。超越論的立場からみるなら、物理的科学にとって自然のあらゆるプロセスが機械的に作動することと、目的論的な見方にとって、自然には機械以上の何かが存在することは、なんら矛盾するものではない。機械を越えるものについての問いはすべて、反省的な判断の対象であり、したがって意識すなわち生命が内部から体験されているということと切り離すことができない。こうした観点からすれば、「生命は機械か」と問うことは、実は問い自体が不適切であるということになる。「動物は意識を持つか」「機械は考えることができるか」といった問いは、「動物は心臓を持つか」「機械は飛ぶことができるか」という問いと同じように扱うことができない。それらの問いは、たんに表面的な形が似ているにすぎないのである。「意識や思考を内部から体験しているわたしがそれを言っている」ということを理論的言説の中に反映することができれば、「動物が意識を持つ」「機械が考える」、あるいは「蛋白質分子が観測する」といったことを何ら問題なく主張することができるだろう。
「生命」をめぐる理論的探究は今後、何らかの形で主観-客観関係をめぐる諸問題、知覚、観測、判断、認識といったものの徹底的な吟味を通過しなければならない。それらはすでに解決済みの問題であるどころか、ほとんど未知の、しかも予測できないほどの魅力に富んだ領域なのである。
【後註】
(1) テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』三光長治訳、法政大学出版局、一九七九年、六〇頁。
(2) 前掲書三九四頁、訳注(26)。
(3) 無邪気さやナンセンスが二〇世紀思想において果たしている決定的な機能は、もっと認められるべきである。全体主義や産業社会の批判にそうした要因が不可欠なのは、ほかでもない全体主義や産業社会が無邪気でナンセンスな要素によって出来上がっているからである。あまりにメランコリーに偏った解釈はアドルノ思想を無力化してしまう可能性があることを、筆者はかつて指摘したことがある。(「メランコリーの聖域を開く」『現代思想』、一九八七年一一月)
(4) アヴァンギャルドに比べて、ポストモダン的な転倒の衝撃力はなぜ弱いのか? それはオリジナルを真剣に受けとることができないからである。ポストモダン的状況の中では、オリジナルの権威はすでに何者かによって揶揄されている——ちょうど学生たちに嘲弄された晩年のアドルノ自身のように——ので、そこには強い現実否認の意識がない。われわれはみんな、適度にお利口だからである。このことは、いい悪いの問題ではなく、またどちらがすぐれているという問題ですらなく、われわれが置かれている文化状況の基本的事実として考えられなければならない。
(5) マタイ伝第七章四〜五
(6) 同章二
(7) そうした議論が、相対主義にも解釈学にも長い思想の伝統をもつヨーロッパで重視されるのは当然だが、逆にそうした伝統をもたない日本でそのような議論が発展しないことも、また当然である。それはたんに「だから日本の思想風土はだめだ」というようなことではない。日本のような非西洋世界において、「なぜ基礎づけなしに知識が可能なのか」ということは、もっと真剣かつ厳密に考えられなければならない。
(8) 認識論における「視る」ことのメタファーを批判する試みとしては、リチャード・ローティの『哲学と自然の鏡』(野家啓一訳、岩波書店、一九九?年)を参照。ただしそこに提示されている、非写像的な認識理論についてのプラグマティスト的解釈——これはやはり相対主義の一形式であるように筆者には思える——に同意するかどうかはまた別の問題である。
(9) ブルース・マズリッシュ『第四の境界』(吉岡洋訳、ジャストシステム、一九九六年)は、人間と機械的存在との「境界」が人間の心理的な不安に由来するもので、それを克服するときが到来していると主張している。
(10) ジョン・ブロックマンはそれを「第三の文化」と呼んでいる。これは、有名なスノーの「二つの文化」——つまり理科系の文化と文化系の文化の分裂——の後に来るという意味である。John Brockman, The Third Culture --Beyond the Scientific Revolution, (New York: Simon & Shuster, 1995)
(11) ギブソン『生態学的視覚論』、古崎敬・古崎愛子・辻敬一郎・村瀬旻訳、サイエンス社、一九八五年、四頁。
(12) 科学を根本から立て直すというこうしたラディカルな考え方は、同じくアメリカの生んだユニークな科学者バックミンスター・フラーを思わせる。
(13) 佐々木正人『アフォーダンス——新しい認知の理論』岩波書店、1994年、三頁。
(14) ギブソンを理解するためには「ステップを踏んで理解していくといったことを越えた、ひょっとすると生き方のようなところまでかかわるところがあるといってもいい」「ギブソンと出会うためには、いわゆる知的な理解とは少し違う契機が必要なようです」と、ギブソン理論の専門家である佐々木正人氏も告白しているところをみると、ギブソンを読む際に感じるこの「飛躍」は筆者だけの思いこみでないことはたしかである。(村田純一氏との対談「アフォーダンスとは何か」『現代思想』一九九四年一一月号、二六八-九頁)
(15) 『生態学的視覚論』、一八〇頁。
(16) 前掲書、一五一頁。
(17) 前掲書、一三九頁。
(18) 前掲書、一四五頁。
(19) 前掲書、二七六頁。
(20) 「自分自身を見ることは、複雑な知的経験ではなくて、単純な原初的経験なのである。人間以外の動物は自己意識をもたないという月並の定説は、確実に誤っている」(前掲書、二二〇頁)。
(21) 註(33)参照。
(22) もちろんこのことは、たんに「アフォーダンス」についてだけではなく、「複雑性」「創発」「自己組織化」「進化」といった現代科学の魅力的な諸概念についても同様である。
(23) 今日のように、幼稚な言語体制しかもたないえせ宗教が横行したり、合理主義的思考の限界といったことを誰もが軽く口にする「世紀末的」状況では、啓蒙的な哲学者たちはこういう原理的なことをもっと強調しなければいけないと思う。合理主義的思考をすぐに、「機械化された、非人間的な現代文明」の張本人として告発する悪い癖は、もうそろそろおしまいにした方がいい。
(24) Immanuel Kant, Kritik der Urteilskraft, Suhrkamp taschenbuch wissenschaft, 339.
(25) 原文では、absichtliche Techinik (techinica intentionalis) と、unabsichtlische Techinik (techinica naturalis)となる. ibid. 341.
(26) このことはどこか、自然の数学的モデルとしての線形/非線形という考え方に似ている。自然界には圧倒的に非線形現象の方が多く、純粋に線形で記述できる現象はむしろまれだが、それにもかかわらず数理科学は長い間線形モデルを規範的なものとして取り扱ってきた。それはおそらく、自然界の非線形性をきちんと扱うには、線形モデルの探究がある程度成熟する必要があったためだろう。ここからすれば、近代科学の批判は、近代科学がある程度成熟することによってはじめて可能になった新たな段階ととらえられるべきであり、近代科学のパラダイムが「間違っていた」というような単純な話ではけっしてない。
(27) 『生態学的視覚論』、一二二頁。
(28) Kritik der Urteilskraft, 343.
(29) Ibid. 336.
(30) ドナルド・R・グリフィン『動物は何を考えているか』(渡辺政隆訳、どうぶつ社、一九八九年)、同『動物の心』(長野敬・宮木陽子訳、青土社、一九九五年)、マリアン・S・ドーキンス『動物たちの心の世界』(長野敬他訳、青土社、一九九五年)など。これらの本は公立図書館で見つけたものだが、きわめて多くの貸し出し記録があるのに驚かされる。動物学に関する本は一般読者向けの科学書の中でも人気があることはたしかだが、その中でも際立っているのである。このことは、いかに動物の意識という問題が関心を惹きつけるかということを示すものだろう。
(31) しかも動物が意識を持つらしいということは、動物がいかに人間に似ているかということに大きく左右される。そこからすれば、「動物は意識をもつか」という問い自体が人間中心主義的である。動物は人間とはまったく違った仕方で意識を持つ可能性が十分ありうるからである。さらに、かりに動物が人間そっくりそっくりの挙動を示したとしても、人間どうしですら、他人の意識の存在は証明できないのだから、やはり動物の意識の存在を証明することはできない。
(32) こうした枠組みの外に立てば、「独我論」は簡単に反駁できる。たとえば渡辺恒夫『輪廻転生を考える—死生学のかなたへ—』(講談社、一九九六年)のように、「転生」という外部の立場に立てば、他者は実はすべて自分の(過去または未来の)生まれ変わりであるとする「遍在転生観」によって「独我論」を合理的に乗り越えることができる。
(33) トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(永井均訳、勁草書房、一九八九年、二六〇頁)。