〈知〉の境界への旅
選書メチエ『〈思想〉の現在形—複雑系、電脳空間、アフォーダンス』(講談社、1997年)のために書いた。「21世紀が目の前に迫っている」というフレーズが、ほんの10年前のことなのに、すごく昔のことのように響く。
子供の頃、「二一世紀」は「未来」と同義であった。人類は宇宙に進出し、社会は隅々までコンピュータによって管理され、ハイウェイにはエアカーが走り、家にはロボットのヘルパーがいるはずだった。そしてもちろん、楽しい予測ばかりではなかった。公害で大気や海は汚染され、野生生物は死に絶え、世界は核戦争で崩壊しているかもしれなかったのである……。
その二一世紀が、いま目の前にせまっている。それはもはや、空想上の未来ではない。まさか、もう二一世紀なんて、と思っている人もいるだろう。わたしたちの時間知覚は遠近法的な仕組みをもっていて、近い未来は大きく、遠い未来ほど小さくみえる。「朝三暮四」の猿たちを笑うことはできないわけである*(1) 。もっとも、目前の未来を大きく見せるこうした時間知覚は、とりあえずあと少し生き延びて子孫を残すという、生物の至上目的からするなら、自然な適応の結果といえるだろう。
ようするに、生き物としての人間は放っておくと、目先のことばかり心配して、少し遠い将来は目に入らないらしいのである。そうした傾向は、集団的にも反映される。たとえば近代日本のようにめまぐるしい発達をとげてきた社会においては、とりあえず「生き残る」という目標が異常なまでに肥大している。何世紀もかけてゴシックの大聖堂を建造してきた文明と比べると、近代日本がしてきたことは残念ながら、たいていは間に合わせの突貫工事である。これは、「生き残る」という目標自体が悪かったのではなく、その際に念頭におかれた時間的スケールが、あまりにも小さすぎたのである。
生き物としては自然なこうした近視眼的傾向を補うものとして、科学があり、思想があるのだと言うこともできる。科学も思想も、人間のもつ独特のシンボル体系、すなわち言語にもとづいている。言語は直接的経験とは異なり、シンボル(つまり音声や文字による記号)によって、知覚や経験を固定する力をもつ。それによって言語は、超時間的な〈真理〉を表現することができる。〈真理〉というと大げさに聞こえるかもしれないが、ここではとりあえず、時間的変化からある程度独立した、世界の成り立ちについての知識というほどの意味である。言語のこうした効果によって人間は、生き物としての限界をこえる。すなわち変化する現象の根底に変化しない構造を洞察し、長期にわたる計画を立てることができるのである。
面白いことに、長期にわたる計画においては、自分(とその子孫)が生き残るといった、生物としての自然な目標は、自壊する。自分の一族や国のために何か利己的な戦略が立てられるのは、せいぜい数世代先までだからである。たとえば、二〇世代後の子孫のためにもっぱら利己的な計画を立てることができるかどうか、考えてみればいい。「利己的である」ことは、短い時間内においてのみ可能な様態である。長い時間発展のなかでは、利己主義を徹底して維持することは原理的にできないのである。
言語によって知覚や経験を固定することにより、人間は、ある程度時間から独立して、世界にかかわることになる。それによって、たんなる生存のための計画は、生存からある程度独立した〈知〉へと変化する。科学や思想といった〈知〉が、少なくとも理念上は、永遠で普遍的な性格をもっているのはこのためである。
さて、現代に生きるわたしたちの多くは、永遠や普遍といった概念には疑いを抱きやすい。それはわたしたちが、変化と相対性を認識することによって人類は進歩するのだという近代的な信念に、決定的な影響を受けているからである。近代とは、変化を敏感に知覚し、真理の相対性を認識する点で、「万物は流れる(パンタ・レイ)」と述べた古代ギリシアの哲人ヘラクレイトス*(2) の末裔かもしれない。本来は時間的変化から〈知〉を独立させることを可能にした言語、その言語によって成り立っている科学や思想も、近代においては、変化から自由ではありえない。科学は産業革命以来、テクノロジーと切り放せなくなり、急速な専門化と進歩を遂げてきた。思想や哲学も近代においては、変転する歴史的状況に容赦なくさらされ、それを敏感に反映する言語活動となったのである。
二〇世紀がまもなく終わろうとしている今、こうした変化のスピードはますます加速されている。とりわけ、ここ約二〇年における情報テクノロジーの発達とその生活への浸透は、わたしたちの意識と文化に計り知れない影響を及ぼしつつある。たいていの人は、この激変についてゆくのが精いっぱいで、それについてゆっくり考えている時間などない、と感じているのではないだろうか。そして、とにかくついてさえゆければ何とかなる、と考えているのではないだろうか? こうした態度の底には、どうせ確かなものなのど何もない、という相対主義的居直りがある。
変化についてゆけれぱ、たしかに当面生き残ることはできる。けれどもそれは、ごく短期間のことである。ヘラクレイトスの説いた「万物流転」は深遠な直観かもしれないが、たんに相対主義的に理解された近代版「万物流転」は、往々にして無責任と体制順応を助長する思想でしかない。変化への鋭い感受性は必要だけれども、同時に変わらないものを変わらないものとして認識する力がなければならない。こうした、現実(リアリティ)の不変の構造を論理的に把握する力こそ、言語の与えてくれる最高の贈り物、つまり〈知〉という果実なのである。
本書は、現在わたしたちの〈知〉を襲っている変化の本質を、それを担う言語との基本的な関係において、考えていこうとする試みである。いってみればそれは、〈変化〉と〈永遠〉とをもう一度関係づけようとする、ある意味では途方もない試みである。そしてそのことによって、思想の機能を少しでも回復しようという試みなのである。それが成功していると断言するつもりはない。話題は多岐にわたり、スタイルもふつうの現代思想解説書とは異なった、かなり奇妙な本になってしまったことは、筆者も承知している。とにかく、不必要に道に迷わないために、あらかじめここで、大まかな議論の筋道を示しておくことにしたい。
第一章ではまず、情報テクノロジーがわたしたちの文化世界一般にもたらしている変化の意味を、「サイバースペース」という言葉を手がかりにして考えていく。
今日、新たなテクノロジーを言語的な文化への一種の侵入者としてみる考え方が、根強く存在している。けれどもテクノロジーVS言語文化という敵対関係を前提すると、議論は往々にして表層的な対立に終始してしまう。すなわちコンピュータを、伝統的な言語文化への侵略者とみるか、あるいは言語文化による抑圧的な状況からの解放者とみるか、といった対立である。またコンピュータ化を、文化を根底からくつがえす革命あるいは危機とみるか、あるいは重要ではあるが文化の根幹には影響しない表面的な現象にすぎないとみるか、といった対立もある。
こうした表面的な対立に終わらないために、まずサイバースペースが人間にもたらしているインパクトを、率直に反省してみることから出発したい。サイバースペースの魅力とは、コンピュータをとおして膨大な情報空間にアクセスすることがもたらす、深い没入感や恍惚感である。けれどもよく考えてみると、これは言語そのものの中に含まれていた機能とも考えられ、その意味で言語とサイバースペースとの間には、ある連続性をみてとることができるのである。
コンピュータを支えているのは、サイバネティクスと呼ばれる科学と、それに基づくテクノロジーである。サイバースペースをその根本から見るためには、サイバネティクスが人間と世界との基本的なかかわり方に、どんな変化をもたらすかを考えてみなければならない。さらに、サイバネティクスが可能にした未曾有の情報環境に対する不適応という問題がある。「より多く」を至上命令とするような情報摂取の態度は、サイバースペースにおいてはうまく機能せず、情報の摂食異常とでもいえるような事態を引き起こしかねないのである。
わたしたちはたしかに、情報とつきあうための新たな態度を発展させる必要がある。けれども同時に、サイバースペースに対して存在する深い抵抗感を、単純に無視することはできない。とりわけ、言語のもっとも高度で複雑な機能によって成り立ってきた〈文学〉にとっては、印刷された書物というメディアが電子テクストにとってかわられることは、きわめて深刻な危機をもたらしている。けれどもこれが、本当に〈文学の終焉〉といった黙示録的な状況なのかどうかは、実はまだわからないのである。少なくとも、保守的な人々の危機感をあおっているサイバースペースのイメージは、パソコンやそのインターフェイスの現状からもたらされているにすぎない。だが長い目でみれば、現状はおそらくサイバースペース原始時代のような段階だろうし、わたしたちがコンピュータ文化だと思っているものは、コンピュータ文化の真の可能性からはほど遠いものかもしれないのである。
ようするにここでは、言語を中心とするこれまでの情報環境と、コンピュータによって可能になりつつある新しい情報環境とが、本当はかけ離れたものでも原理的に敵対するものでもなく、むしろそこには根底的な連続性が存在していることが言いたいわけである。
第二章はポストモダンについて考える。だが今日ポストモダンという語を使うときには、若干の注意が必要だろう。ポストモダンはふつう、文化的・社会的現象として対象的に取り扱われるか、さもなければそれ自体が思想、文学、芸術などのポストモダン的実践として、それを取り囲む大きな文化的コンテクストからは絶縁した形で、たんに「演じられる」ことが多い。だがこうした状況では、ポストモダンは容易に近代の「万物流転」的思想のなかに吸収されてしまい、その本当の意味が、いつまでも曖昧なままなのではないだろうか?
実際、流行としてのポストモダンはもう終わっているといっていい。ポストモダンという記号は、ほぼ消費されつくしてしまったのである。けれども、この章でポストモダンと呼んでいるのは、たんなる流行や一時的現象のことではなく、交通やコミュニケーションの発達にともなって、文化の地球規模における多様化・相対化がある閾値を超えたときに生じる、知的世界の〈相転移〉のことである*(3) 。
こうした変化の本質をみるために、ここでも言語を軸として考えてみたい。第一章で考察するように、言語とはテクノロジーと連続した〈人工自然〉のようなものである。この視点からみるなら、近代的な言語意識からの逸脱、その変質とみえていたポストモダン的意識とは、ちょうどサイバースペースがそうであったように、言語のそもそもの本性から連続的に帰結してくるものとして考えることができるのである。
言語は散逸的な本性をもっている。つまり言葉は、翻訳や転写を通じて本来の意味が変質してゆき、当初のあり方とは似ても似つかないものになってゆくのである。こうした事態をネガティヴな宿命としてみる考え方は、言語の複数化を神の罰とする「バベルの塔」の思想に典型的にあらわれている。そこでは、現在はつねに堕落の結果であり、救済は原初的な完全性を回復することのなかにしかない。
ポストモダンとは、「バベルの塔」的想像力からの脱出である。いいかえればポストモダンとは、翻訳、転写、複数化といった時間的進展のなかに、たんなる混乱ではなくて、積極的な秩序生成の可能性を考えるような、想像力の新たな原理なのである。このように、これまでたんなる混乱や無秩序としかみなされなかった状態のなかに、自発的な秩序の生成原理が潜在しているという見方は、たんにポストモダン的言語観だけのものではない。それは、カオスや複雑系に注目する現代科学の視点にリンクしているのである。
第三章は、この数年大きな話題になってきた「複雑系」の思想的な意味についての考察である。まず、「複雑系」は自然科学の新しい研究分野であるだけではなく、大きな思想的問題なのだということが理解される必要がある。複雑系科学は、自然界の一見無秩序にみえる運動のなかに、秩序を形成するダイナミックな原理が潜んでいることを洞察する。いわばそこでは自然が、秩序と無秩序との単純な対立によってではなく、
ランダムネス ←→ カオス ←→ 複雑な秩序 ←→ 単純な秩序
といった、連続的な相のもとに見られているのである。
こうした自然観はまた、単純に客観的であることはできない。自然的過程は、観測者や観測行為を巻き込んで進行してゆく。また、時間が決定的な要因として入り込んでくる。そこでは、主観と客観とはきれいに分離することはできない。その意味では哲学や芸術などの言語活動とある程度共通した、認識論的条件が生じているといえる。だが複雑系科学の重要性は、こうした事態がまさに、決定論および還元論の徹底化によって生じているということである。いわばそこでは、近代科学の原理がその内部から突き破られてしまっているのである。
ここでは、複雑系科学のもたらす思想的なインパクトを、近代思想、さらには言語という文脈のなかに置いてみることを試みる。そのことによって複雑系科学が、わたしたちの〈知〉の仕組みにどのような衝撃を与えているのかを考えてみたいのである。
第四章は、人間が周囲の世界を「知る」とはどういうことなのか、についての考察である。知覚についての近代的理論はおおむね、外界に意味なく存在する「データ」を、知的な主体が意味のある情報へと変換する「情報処理」的なモデルに支配されてきた。アメリカの知覚研究者J・J・ギブソンの「アフォーダンス」理論は、そうした近代的知覚モデルを根本から覆すラディカルな提案である。かれは、知覚される外界の構造ははじめから主体の外部に実在している、と主張するのである。
ここでの目的は、このラディカルな生態学的立場がもつ、哲学的な意味を考えることである。筆者のみるところでは、この問題は、認識と実在の関係をめぐる、きわめて大きな形而上学的問題に結びついている。近代的な知覚理論に対するギブソンの、ある意味では素朴な対立は、こうした問題を逃れようのないやり方で露呈させてしまうのだ。
ポイントは、〈判断とは何か?〉という問いである。近代の支配的な認識モデルにおいては、判断がリアリティを正しく反映するためには、そこから主観的な要素が排除されなければならない。だが二〇世紀の思想はそのさまざまな局面で、そうした純粋に客観的な認識モデルが実現不可能であることを示してきた。判断は、不可避的に主観へと反射してしまうからである。判断の合理性にかんする論争は、そうした反射をどの程度認め、どの程度肯定的に評価するかということをめぐってたたかわされてきた。
ギブソンの生態学的立場は、こうした論争の場そのものを解体する。それ自体では無意味な感覚的データが、加工され解釈されることによって知覚が成立する、という枠組み自体が、そこでは捨てられているからである。知覚とは、環境のなかに実在している「アフォーダンス」を生物体がピックアップすることにほかならない。だとすれば、近代思想の根底にあった主観−客観関係は吹き飛んでしまう。これはいったいどういうことであろうか?
この奇妙にラディカルな立場を、もう一度近代的な認識理論の前提とつきあわせて検討してみようというのが、ここでの意図である。ここでもキーとなるのは、言語をどう考えるのかという問題だ。そして、判断が不可避的に抱え込んでしまう反射作用とは、実は言語が〈知〉を生成する積極的な機能に結びついているのではないか、というのがここでの提案である。筆者にとって、こうした方向性を示唆していると思えるのが、カントの「反省的判断力」という概念なのである。
最後にエピローグでは、思想とは何かという、いささか大時代的に聞こえるかもしれない問いに、あえて立ち向かってみたい。
システム化されると同時に価値の多様化した現代においては、かつて思想がもっていた指導的な役割はもう終わったかのように語られることも多い。けれども「思想の終焉」を叫んだりするのは、本当は思想を一度も真剣に受けとったことのない、悪しき流行としてのポストモダン的態度である。
思想とは何かを検討するためには、考えるとはそもそもどのような行為なのかが検討されなければならない。コンピュータをモデルにするなら、考えるとは推論すなわち計算にほかならないようにもみえる。理性を意味するラテン語"ratio"とは、計算のことにほかならない。そして計算が可能であるためには、それが基づく記号系が閉じていなければならない。
だがわたしたちの〈知〉は単一の記号系からできあがっいるのではなく、互いに通約不能な多くの記号系から成り立っている。考えるとはいわば、階層を異にするこうした記号系の間をジャンプする、非推論的な行為なのである。思想とは、そうした非推論的飛躍を言語的に定着させたもの、つまり異質な情報どうしの関係についての情報とでもいうべきものなのだ。
思想は、異なった〈知〉の領域を一種のハイパーリンクによって接合する。思想とは、知識間のインターフェイスである、というのがここでの主張である。かつては哲学が、そうした役割をもっていた。だが近代における〈知〉の専門化、領域化のなかで、哲学のそうした役割はしだいに希薄になっていった。たとえばC・P・スノーが指摘したように、科学的文化と文学的文化とはうまくコミュニケーションができなくなってしまった。その間を媒介するインターフェイスが、すなわち思想が欠如しているのである。
けれども最近になって、〈知〉をめぐる状況は変化をみせはじめた。サイバースペース的な情報環境、ポストモダン的意識の発展、複雑系科学における自然や認識の新たな把握は、領域化した〈知〉の間に、新たな媒介が生じつつあることを予感させるのである。そして重要なことは、そうした媒介が、外からではなくそれぞれの〈知〉の内部から発見されてゆくことである。このような展開のなかに、インターフェイスとしての〈思想〉の可能性を考えたい。そしてこの意味において、思想の役割は終わっているどころか、来るべき新たな時代にこそ、真に必要となってくると考えられる。
では、〈知〉の境界への旅に出発することにしよう。
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*(1) 猿に果物を、朝に四つ夕方に三つやると言えば喜び、朝に三つ夕方に四つやると言うと怒ったという、中国の故事。人間ではたとえば、(1)「二八日後に千円もらう」か(2)「三一日後に千二百円もらう」かという選択では、ほとんどが(2)を選ぶにもかかわらず、(1)「今日千円もらう」か(2)「三日後に千二百円もらう」かという選択では、(1)を選ぶ人がぐっと増えることが知られている。「報酬の魅力度はその遅延に反比例する」というこの傾向を、実験心理学では「マッチング法則」と呼んでいる。R・H・フランク『オデッセウスの鎖』(山岸俊男監訳、サイエンス社、九六頁)参照。
*(2) 前六〜五世紀のギリシアの哲学者。ヘラクレイトスは、たんに世界の変化や流動だけを唱えたのではなく、対立物への転化をとおして存在が自分自身と一致すると述べ、それを観相する全体的な理性【ロゴス】の立場を主張している。(山本光雄編『初期ギリシア哲学者断片集』、岩波書店、三〇〜三七頁)。
*(3) 相転移(phase transition)とは、たとえば液体の沸騰のように、温度や圧力の連続的な変化のある時点で、物質を構成する分子や原子の配列が異なった規則性をもつ状態へと不連続的に変化することを言う。ちょうどそのように、情報の量や速度の増大にともなって、知的世界を形成する秩序が、別な規則性へと以降しているように思えるのである。