情報環境論

「情報環境論」の続編です。これも『情報の宇宙と変容する表現』(京都造形芸術大学編『情報デザインシリーズ』Vol.6、 角川書店、2000年5月)に収録されています。京都造形大の通信の教科書として使われたもので、本には古川タクさんがミームとタカコのすてきなイラストを描いてくれました。

「情報」とは何か?

 この週末タカコは、ひいおじいちゃんの法事があって、3日ばかり両親の家に帰っていたのだった。
 「どうだった? 久しぶりの故郷は?」
 「故郷、フルサトねぇ…あれが、そうなのかなあ。たんにわたしが生まれた場所っていうだけで、〈豊かな自然〉があるわけでもないし、たんなる地方都市郊外の住宅街だもん。そりゃ子供のときの楽しい思い出もあるけど、はっきりいってつまんない場所なんだよね。」
 「つまんない場所かぁ…なんか寂しいわね。」
 「だってしょうがないよ、ただふつうに暮らすだけの所なんだもん。都市近郊の住宅街って、日本中みんなそんな感じじゃない。たしかに暮らすにはいちおう便利よ。でもそれだけ。そう、〈情報〉が足りないのね。」
 「〈情報〉が足りない…。たしかに昔は、田舎は遠くて不便、という意味で〈情報〉から取り残されているってみんな思っていたわね。けれども今は、インターネットもあるし携帯電話の電波も届く。ほかにもテレビ、新聞雑誌、ファーストフード・レストラン、コンピニエンス・ストア、カラオケ、レンタル・ビデオ…といったレベルでは、べつに田舎だからってそれほど変わりはないのよね。それじゃ、それ以外の〈情報〉って何なのかな。」
 「うーん、そういわれてみると何なんだろう…。たしかにメジャーな、全国共通の情報はあるけど、自分のほしい情報がないっていうか。そりゃ、インターネットを使えばどこからでも、自分の欲しい情報を探り当てることはできるし、本でもCDでもなんでも注文すれば手に入るけど、やっぱり大きな街でいろんなものを見て歩くほうが、すごく楽しいんだよね。前に話してた、思いがけない出会いとかあるし。そういうのが田舎じゃ起こりにくいでしょ。」
 「たしかにそれはそうね。じゃあ、都会なら揃ってる大きな書店やレコードショップや、ギャラリーやライブハウス、そういうのがタカコちゃんにとっての〈情報〉なわけね。」
 「そう…なんだけど、うーん、ただそれだけでもない。わたしの育ったようなところだと、日常そのものがなんか〈情報〉不足という感じなんだ。近所はずっと新興住宅街で、きれいに区画された道路に、おんなじような建て売り住宅が並んでるの。そこから学校に通う毎日だったんだけど、この学校がまた、殺風景なとこなのよ。ようするに、家も学校もただのハコで、毎日一つのハコと別なハコとの間を往復しているようなもんだね。それぞれの場所は快適なんだけど、そこではすることが決まっていて、ムダがないっていうか、遊びがないっていうか。遊びっていっても、もちろん遊園地とか公園とか、遊ぶための場所は用意されてるよ。でもこの〈用意されてる〉っていうのが、どうもわたしの感じる情報不足ということにかかわってるらしいんだ。1」
 「そうか。タカコちゃんが言ってるのは、たんに地方には特殊な最新情報が乏しいということでも、開発された住宅街の環境が人工的でいわゆる〈自然〉がない、ということでもないみたいね。」
 「うん。いわゆるフルサトの〈自然〉っていうのも、何なんだろうなと思うときがある。日本人にとってフルサトのイメージっていったら、たとえば昔の文部省唱歌に出てくるみたいな、『となりのトトロ』に出てくるみたいな、山とか川とか神社の森とか虫捕りとか夏祭とか、そんなの経験したことないわたしがみてもたしかに胸にジーンとくるんだけど、よく考えてみると、なんかみんなパターンが似てるでしょ?」
 「郷愁(ノスタルジー)を引き起こすようなイメージが、ステレオタイプだということね。」
 「うまく言えないんだけど、もしも神社の森が〈虫捕りをするための場所〉だとしたら、それはわたしが育ったような住宅地と、ほんとうは変わらないような気がするんだ。で、もし昔の〈自然〉がいまよりよかったとしたら、それは〈何のため〉でもない場所がたくさんあったからじゃないかな。たんに特定の必要を満たすためじゃない、場所。そしてこういうことが、情報の豊かさに関係あるような気がするの。大きな街の大学に入って、ひとり暮らしはじめていちばん変わったのは、大学の近くで友だちと話したり、ただ街を歩いてるだけでも楽しいこと。これはたぶん、そういう環境が増えたからだと思う。都会か田舎か、人工か自然かという違いは問題じゃないのよ。」
 「何のためでもない場所か。言いかえれば、いろんな可能性やエネルギーが潜在していながら、特定の方向や意味に限定されていないような、そういう情報環境のことね。」
 「なんか、これがその〈情報〉だぞ!ってはっきり示すことのできないような、雰囲気とか、その場の感じとか。あいまいなもんなんだけど、これがとっても大事な気がするんだ。…そうだ、ちょっと話飛ぶけど、前にヨシオカ先生が授業でこんなこと言ってた。グルメ文化というのは〈食〉を〈情報〉に還元していくことなんだけれども、〈食〉という行為のなかには、本物の食材を探したり最高の料理法を極めたりワインの銘柄をおぼえたりするのとは違う〈情報〉のレベルがあるって。」
 「ふんふん、どういうことかしら。」
 「待ってね…思いだそうとすると分からなくなるのよね、あのセンセーの話は(とノートを取り出す)。あったあった。たとえばグルメの人はファーストフードのハンバーガーを馬鹿にするかもしれないけど、ファーストフードとは素材や料理法やディスプレイにいたるまで、消費者の好みに合うようにきわめて科学的に追及した結果生まれたもので、いわば完全に〈情報〉(これはふつうの意味の情報ね)と化してしまった食物である。」
 「なるほど。」
 「…けれどもグルメ文化とは何かと考えてみると、それはやはり〈食〉文化の情報化を、もっと手間やお金のかかる方法で追求するものにすぎない。いずれも〈食〉の喜びは〈味覚〉にもたらされる快楽の量を競い合うことでしかない。だから究極的には、グルメとファーストフードはまったく同じものである。」
 「ほぉー。」
 「…しかし〈食〉のよろこびには、たんなる〈味覚〉には還元できない何かが含まれている。それはたとえば、いつどこで、誰といっしょに、どんな状況で食べたかetc.といった要素で成り立っている。〈食〉をたんなる美味しさの追求にしてしまうと、そうした複雑な経験の意味は壊れてしまう。だから〈味覚〉だけを切り離したら破壊されてしまうような経験を構成している〈情報〉にこそ、注目する必要があるのである…。」
 「ふーん、よっぽと食べることにこだわってるのねェ、あの先生は。」
 「わたしも最初そうかと思ったんだけど、それを通じてかれの言いたかったのは、文化そのもののファーストフード化、コンビニ化ということらしいの。つまり現代ではあらゆるものが、美味しくて快適で便利になっていくでしょ。それのどこがいけないんだ?と言ったら、別にどこもいけなくはない。不便な昔のほうがよかった、なんてことを言ってるわけじゃない。ただ、美味しくて快適で便利…それはけっこうなことだけれど、だから何なんだ?というのがつねに残るというの。」
 「つまり現代文化においては、〈ハイ、これですよ〉と示せるような情報は完備している。でも、だから何なんだ?というわけね。」
 「その後、かれの経験した料理の話があって、これはノートとってないけど憶えてる。」
 「また食べる話題かぁ…」
 「先生の尊敬する美術史学者でやっぱり〈食〉に詳しい人がいてね、その人があの、有名なフランスの小説に出てくる料理を知りあいのシェフに特別に作ってもらって、みんなを招待したんだけど…」
 「なんて小説?」
 「あの、紅茶にクッキーをひたして食べたことから過去の時がよみがえるって話。わたしは読んだことないんだけどね。」
 「クッキーじゃなくてマドレーヌでしょ。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』ね。どの料理のことかなぁ。」
 「なんか牛肉をゼリーで固めた料理で、作るのに何日もかかるらしいの。」
 「それはきっと〈ブッフ・モード・アン・ジュレ〉と呼ばれているものね。へーえそんなのをわざわざ作ってみんなで食べたの、変な先生たちね。」
 「で、美味しかった?ってわたしが聞いたら、うーん料理それ自体はそんなに美味しくないって先生は言うの。少なくともステーキとかハンバーグとか、そういう誰にでもすぐわかる美味しさではないって。でも、一生忘れられない経験なんだって。」  「わかるような気はするわ。そういう複雑な経験を構成しているものも、〈情報〉と考えるべきだということね。わたしもそれに賛成だわ。だっていま〈情報〉っていう言葉でほとんどの人が思い浮かべるのは、コンピュータと、それで機械的に処理できるようなデータのことだもの。文化的な事柄を〈情報〉ととらえるといったって、小説なり映像なり音楽なりをデジタル化して、CD−ROMにしたりインターネットで配信したりというような、たいていはすごく単純な意味でしか考えられていないものね。」
 「そうなのよ! 〈情報〉のこういう意味は、みんななかなか理解してくれないの。こないだの法事でも、久しぶりに親戚が集まって〈タカコちゃん、いま芸大で何勉強してるの?〉ってみんなが聞くから、〈情報デザイン〉って答えたら〈情報デザイン? 情報って技術者がコンピュータで扱うもんじゃないの? それをデザインするってどういうこと?〉なんて聞かれて困っちゃった。たとえばCGみたいな、コンピュータを〈道具として使って〉芸術作品を作る、っていうことならすぐ納得してくれるんだけど、〈情報〉そのものの意味を深く掘り下げて考えることで作品制作するってのは、どうも説明しにくいんだ。」
 「そうでしょうね。〈情報〉がもしも〈情報科学〉の意味での〈情報〉だけだったら、それは根本的な意味では、芸術や文化には関わりがないことだものね。せいぜい便利な道具としてコンピュータを使うとか、文化財をデジタル化するとか、そんなことでしかないものね。」
 「そしたら、お勤めに来てくれたお坊さんが、わたしたちの話してるのを聞いててね、〈情報のデザイン? それは面白い!〉っていうの。みんなびっくりしちゃた。かれの言うには、〈お経というのは、すばらしくデザインされた情報のカプセルなのですよ。とりわけ、いまみなさんと一緒に唱えさせていただいた般若心経というお経ですが、仏教の中心思想をわずか273文字に圧縮してある。そうすることで、少しがんばれば誰でも憶えて、唱えることができる。仏様の教えは、同じ言葉で書いてあってもニュースや解説書や小説の情報とはちがうのです。それは繰り返し唱えられて、心のなかに刻みこまれなければその意味がわからない。そのためにはそれを唱えやすい形に書き、ときには限界までシンプルにする必要もあるのです。こういうのも情報のデザインといえるのではないでしょうか?〉うーん、すごい人だ。わたし感心しちゃった。それにしても〈般若心経〉のデザイン!3 ちょっと勝てそうもないなあ。聞いてみたらかれ、大学院で現代哲学を専攻してたんだけど、学者の世界に失望したんでお坊さんになったんだって。」

リンゴの心

 「タカコちゃん、もう、8時半よ。いいかげんに起きなさい! いくら大学が近所だからって、授業に遅れてもしらないわよ。そうそう、今日は試験だって言ってなかった?」
 まるで子供のときに聞いた母親のようなミームの声(いや、ほんとのお母さんより、もっと迫力ある声だけど)で、タカコはやっと眼が覚めた。昨日は夜中まで一夜づけで勉強してたのだ。今日の2限目は、「情報環境論」のテストなのである。
 「眠いよう。あと5分だけ、ね、お願い。」
 「なに甘えてんの! あたし、あんたのママじゃないんだからね。」とミームはベッドのところに来てむりやり布団をひっぺがした。
 「あたし、こういうだらしない子、キライいなの。」
 「ほーい。」
タカコはしぶしぶ起きて顔を洗い、着替えて、机に向かった。
 「まだ時間あるから、もうちょっと勉強してから行こっと。」
 「それはいいけど、あんた、なんか朝ご飯食べないの?」
 「うん。あんましお腹空いてない。」
 「ダメよ、試験だっていうのに。なんか食べないと頭、働かないわよ。それに、いまさらジタバタにわか勉強したってムダよ、ムダ。」
 「はあ。それもそうなんだけど、食べるもんあるかなあ。おお、いいもんがあった。」冷蔵庫の中に、生卵と、3パック安売りで買った納豆と、葱が見つかった。ご飯は炊いてなかったので、常温保存パックの白ご飯を電子レンジで暖めて食べることにした。
 「あんたそれみんな、賞味期限大丈夫でしょうね…まあ、ちょっとくらい平気か。それにしても、たくさんネギ入れるわね。ちょっと多すぎるんじゃない?」
 「だって、今日試験だから」とタカコは納豆ご飯をほお張りながら答えた。
 「ネギ食べて、頭よくなるように。」
 「ときどき変なこと知ってるわねぇ、この子。」
 「お母さんが言ってたもん。」
 「そりゃ、なんかの根拠はあるんでしょうけど、いま食べてすぐに効くってもんじゃないでしょ。それはともかく、どういう試験なの?」
 「あ、『情報環境論』ね。いま〈情報〉と〈知性〉についての講義なの。面白いとこもあるんだけど、よく考えるとむずかしいんだ。〈知性〉とは何かなんて、ふだん考えたことないもん。知性って、ようするに頭のよさってこと?」
 「わたしに聞いてどうすんのよ。でも、ちょっと面白い問題だわね。〈知性〉とは何か。テストでいい点とるのって、〈知性〉かしらね。あんたがネギたくさん食べればよくなると思ってるのも、やっぱり〈知性〉かしら。」
 「なんか、違うような…」
 「そうやってちゃんと朝ご飯食べたりするのは、ようするに、脳をいいコンディションにもっていくためよね。いま『なんか違うような気がする』って言ったのは、つまり〈知性〉と〈脳〉とは違うってことよね。」
 「そういうことになるのかな。でも〈脳〉っていちばん重要なもんなんでしょ。わたしたちが何かを感じるとき、悲しかったり、気持ちよかったり、怖かったりするのも、ぜんぶ〈脳〉のなかで電気が流れたり、いろんな物質が分泌されて起こるのよね。だから、楽しく積極的に生きるためには、脳がそう感じるような物質を分泌するように、もっていけばいいわけだ。あれ? でもそれだったら、いっそそういう物質を注射しちゃったらどうかな。麻薬みたいに。そしたら、誰でも即しあわせに生きられるんじゃない? でもって、頭よくなりたい人は、そういう物質を注射してもらえばいいわけだ。」
 「で、もしそうなったら、あんたは〈幸せ〉物質と〈頭いい〉物質とを注射してもらって、それでもう何にも問題はなくなるわけね。」
 「ううん、それがねぇ、なんか違うような気がするんだ。〈知性〉とか〈感情〉とはいうのは、たしかにそういう言葉があるだけで、目の前にあってさわれるもんじゃないでしょ。だから、ほんとに存在するのは〈脳〉だけだとは思うのよ。でも、じゃあ〈知性〉とか〈感情〉はようするに〈脳〉の作用にすぎないのかと言われると、ちょっと待って、と言いたくなるのよねぇ。これは、何なのかなぁ。」
 「こんなふうに考えてみたら? たとえば〈知性〉がある、〈賢い〉っていうのは、〈脳〉をもつ生き物だけに言えることなのかどうか?」
 「ふーん、なるほど。でもワープロがうまく漢字を変換してくれたとき、このワープロは〈賢い〉って言うわよね。パソコンだって最新型のは昔のより〈賢い〉っていうし…」
 「つまり、機械的なものについても言える、ってことね。でもよく考えてみると、ワープロが〈賢い〉っていうのは、そのプログラムがよく出来てる、ってことだし、コンピュータのようなハードウェアが〈賢い〉っていうのは、処理速度が早いとか、インターフェイスがよく考えられてる、ってことを、言い換えただけともとれるわね。でもね、ここが大切なところだけど、それを使う人間がプログラムや機械のことを〈賢い〉っていう言葉で表現するのは、面白いことかもしれないわ。」
 「どういうこと?」
 「人間はすぐに、〈脳〉とか〈プロセッサ〉のような実体的なもののなかに〈知性〉が存在するのだと思いたがるでしょ。『知能指数』みたいな、数値化できるような知性のモデルが、好きなのよね。でもほんとうは〈知性〉っていうのは、もうすこし複雑なものかもしれない。それは、なにか特定の実体のなかに宿っているようなものではなくて、人間や、他の生き物や、機械といった存在が互いにかかわりあうことのなかに生まれてくるものかもしれないのよ。」
 「それに関係あるかなぁ、いまね、こないだ観たドイツ映画の一場面を思い出したのだけど。」
 「ふうん、どんな場面?」
 「塔のなかみたいなとこに、なんか謎のような理由で、子供のときからずっと閉じ込められて育った、カスパーという人がいたの4。で、あるとき出てきて、世界はほんとうはこうなっているんだ、ということを教わっていくんだけど、かれにはなかなか納得できない。かれはたとえば、リンゴだって疲れたり意志をもつんだ、といってきかないのよ。それでかれを教えている先生が、リンゴには感情も意志もない、リンゴはただの〈モノ〉で、物理の法則に従うだけだ。ためしに転がしてごらん、足で止めてみせるから、と言うの。カスパーはリンゴを転がすんだけど、なんかのはずみでその人が出した足をリンゴは飛び越えちゃうのね。それでカスパーは『賢いリンゴだ』といって喜ぶの。」
 「ははは、なんかいい気味。タカコちゃんはそれ見て、どう思ったの?」
 「わたしはカスパーのように、リンゴが賢いとは思わないけど、『賢いリンゴだ』と言ったカスパーは賢いと思ったな。」
 「あたしはこう思うの。リンゴが賢いのでも、カスパーが賢いのでもない。『リンゴは物理法則に従うただの〈モノ〉にすぎない』ことをとにかく〈真理〉なんだと信じて、それをあわれなカスパーに教えてやろうなんていう、ふつうの人間の思い上がりが、へこまされたから、この話は面白いのよ。」
 「えっ! リンゴは物理法則に従うただの〈モノ〉ってのは、真理じゃないの?」
 「もしあんたがいま、古典力学の練習問題を解いてるなら、そのとおりね。でもどんなときでも、誰に対してでも、リンゴはただの〈モノ〉であることを主張できるとか、それを人に教えればためになるとひたすら信じたりするのは、はたして〈知性〉かしら。そういう凝り固まった態度は、むしろ〈知性〉の反対だと思うわ。そのことが、もののはずみで暴露されてしまうのが、この話の面白いところよ。だからといってリンゴが本当に賢いわけでもないし、物理学を知ってる常識人よりも、純粋無垢な魂をもつカスパーのほうが本当の知性をもっているわけでもない。〈知性〉は、ふつうの人と、カスパーと、転がるリンゴという〈関わり〉のなかに生まれている、といったほうがいいんじゃないかな。」
 「あっそれ、なんかすごくいい。〈関わり〉が賢いのか。」
 「〈実体〉としての知性ではなくて〈関係〉としての知性ということね。」
 「でもさあ、〈実体〉っていうけど、そもそもコンピュータの素子だってミクロの配線なんだし、わたしたちの脳だって脳細胞が互いに複雑に関わりあってるネットワークなんでしょ。機械を覆う箱とか、頭蓋骨のなかに収まったりしてるから、一見まとまった〈実体〉みたいにみえるけど、細かくみれば全部〈関係〉っていうことになるんじゃないの?」
 「なるほど、すごいすごい。カスパーも顔負けの賢さだわ、タカコちゃん…。」

動物の心

「ただいまー。」
 同じ日の9時半頃、タカコが帰ってくると、ミームはまた缶ビールを飲みながらテレビで「大自然の驚異」という番組を夢中になって観ているところだった。
「あら、遅かったのね。」
「うん。試験のあと、友だちと3人でビデオの編集してたら、知らない間に夜になっちゃった。ねえ、さっきから何観てんの?」
テレビには、科学者たちを乗せたボートと、その周りを周回しながら泳ぐ何頭かのイルカが映っていた。
 「そう、これこれ。イルカのことが今日の問題に出たの。なんか、小説の一部らしいんだけどね。こんな文章があるの。」
 タカコはファイルケースの中から、「情報環境論」の問題用紙を取り出した。「第2問。次の文章を読んで、各自議論を発展させなさい。」
 「読んでみるから聞いてね。『イルカは「頭がいい」とか「知能が高い」とよく言われる。人間並みか場合によってはそれ以上だと言う人もいるけれど、イルカは人間のように文字も持たないし建築物も機械もつくらない。人間の場合、発見や発明をしたり何かすごいことを書いたりする人が頭がいいと言われることになっていて、何も形にしない人はだいたいその対象にならない。別の言い方をすれば人間の場合だと相当頭の悪い人でも何か作ったり書いたりするけれどイルカやクジラはそういう形の知能をもたない。あるいは自分たちの知能をそういう方向に伸ばそうとは考えなかった。つまり人間とイルカは陸の上と海の中で、それぞれまったく別の方向に知能をのばしていったということなのだろうが、ところで、イルカやクジラが頭がいいと言った人は、この二つの全然違った知能の形態についてどういうふうにそれを把握し、そして納得したのだろうか。』
「なるほどー、面白い問題ね。」
「イルカって、ほんとうに頭がいいの?」
「何言ってんのよ、それがここで問題になってることじゃないの! イルカは頭がいいのかどうか、って言う前に、〈頭がいい〉ってどういうことか、ということを考えてみなくちゃ。」
「たとえばミームは、ニワトリの姿してるけど、わたしよりずっと頭いいわよね。」
「どうしてそう思うの?」
「だってわたしよりもいろんなこと知ってるし、わたしが頭のなかであーでもないこーでもないと迷路をさまよってるみたいなとき、それをちゃんと上から見下ろしてるみたいに思えるんだもの。」
「どうしてそう思えるのかしら。」
「そんなの、ふつうしゃべってりゃわかるじゃん、自分より頭いい人かどうかくらい。」
「そうよね、わたしはいま人間と同じように言葉を話してるからね。じゃ、動物はどう? 言葉を話さないイルカは、どうして賢いと言えるのかな。」
「芸をよくおぼえるから?」
「芸って、人間がみて面白いと思うような演技のことでしょ。そんなのを学習するからこの動物は〈頭がいい〉と思うなんて、人間って勝手よねえ。動物たちにとっては大きなお世話だわ。」
「そう言われればそうかも。でもそれは、人間がイルカのこと好きだからだと思うんだけどなあ。そう、悪気はないのよ。人間て〈イルカは頭がいい〉と言ってるけど、それはもしかしたら人間が〈イルカは何も作らないし何も言わないけど、本当は頭がいい動物であってほしい〉と願っているだけなんじゃないかな。」
 「そうかもしれないわね。そうだとすると、人間は〈何もしないけど本当は頭がいい〉状態があると信じたがっていることになるわね。逆に言うと人間は、〈頭がいいと認めてもらうためには、何かを作ったり表現しなくてはならない〉ということを、プレッシャーに感じているとも言える。」
 「すごく感じてるわ、わたし(笑)。かならずしも〈頭がいい〉ことだけじゃないけど、自分の感性とか、思いとか、いくらすばらしくても、表現しなきゃ何にもならんだろ、といつも先生たちに言われるもの。で、そう言われたらナットクするしかないでしょ。」
 「表現行為って本来は、自発的で自由なもんだ、という考え方が一方にはあるのにね。でも大部分の学生は、課題を与えられて締切がないと、たいていは何にもしない。だからむりやり、何かを表現するように仕向けていかなきゃいけないのよね。芸大生ってつらいわね。」
 「そうか…この話は、別にイルカが賢いかどうかだけが問題ではなくて、そういうことだったんだ。〈知性〉と〈表現〉とのそもそもの関係が問題だったわけね。」
 「ふんふん。では、〈知性〉を表現する道具って何だと思う。」
 「そうだなあ、言葉とか、数式とか、絵とか、なんか口で言ったり、紙に書けたりするもの。」
 「それらを、広い意味で〈シンボル〉とか〈記号〉と言っていいと思うわ。広い意味っていうわけは、〈シンボル〉〈記号〉といっても、交通標識みたいな単純なものだけじゃなくて、何かの代理をする、はっきりした〈しるし〉のことだと考えてみればいい。いちばんわかりやすいのは、言葉つまり〈言語〉ね。テレビのナレーションの言葉は、BGMとか他の物音とははっきり区別されて聞こえるでしょ。シンボルによって情報を処理する能力、これが人間の意味での知性といえるんじゃないかな。」
 「でも、ほんとに人間だけのものなの、シンボルって。まえにチンパンジーに言葉を教える研究についてのテレビ番組をみたことがあるんだけど、いろんな記号が書いてあるキーボードを操作して、ちゃんと英語の文章を作るチンパンジーがいるのよ!」
 「それはたぶん有名な、ボノボ(ピグミー・チンパンジー)のカンジのことね6。たしかにかれは、複雑な文章を組み立てることができるし、言葉のわからない仲間の立場にたってものを考えたりすることもできるらしい。でもこの場合でも、いつも忘れてはいけないのは、人間以外の動物にとって、英語であれ何語であれ、人間の言葉を習得するのはとても異常なことだっていうことよ。そういう実験はいままで、たいていは実験室のような、動物にとってはものすごく不自然な環境で、電気ショックや餌などの不自然な刺激を使って行なわれてきた。カンジくんの場合成功したのは、かれが人間とまったく家族のように生活を共にし、しかも強いられてではなく母親が言語を教えられるのを見て自発的に学んだということが決定的に大事なのではないかという指摘もあるわ。」
 「そうか、なんでも無理やり教えちゃいけないのね。」
 「無理やり教えると、生徒のもっている能力はぜんぜん発揮されないし、そもそも教える側と教わる側との関係がとても冷たいものになってしまう。自由な〈関わり〉こそが賢さだというわたしたちの立場からすれば、こんなところから〈知性〉が生まれるはずはないわね。たしかにシンボル能力という観点から考えてみた場合、動物と人間との間には歴然と差があるようにみえることは否定できないわ。でも、動物の限界というふうにみえるものは、実は動物がまだまだ人間に追いつけないという限界性ではなくて、むしろ人間が自分自身の特殊な〈知性〉のなかからしか、動物をみることができないという限界性を意味しているのよ。動物の〈知性〉について考えるときは、つねにこのことは忘れてはいけないわね。」
 「それじゃあ、その人間独特のシンボル能力なんだけど、じゃ、こう言っていいかな。人間の〈知性〉の特徴は、考えたことや感じたことが〈シンボル〉つまり何かの〈記号〉を通じて表現される点にある。一見当たり前のことのようだけど、考えてみたら、〈記号〉って不思議なものよね。だって数式や言葉のような〈記号〉は、たしかにインクと紙のような物質からできていて、土とか木と同じように、外の世界に単純に〈有る〉みたいに思えるけど、ほんとは〈記号〉って、それを読める人間にとってしか存在していないのよね。だって、字の読めないネコにとっては、何か書いてある紙とそうじゃない紙とはなんの違いもないでしょ。うーん、どう言ったらいいのかなあ。〈記号〉ってのは、たんなる〈モノ〉でもないし、わたしたちが心のなかで感じている〈意味〉そのものでもなくて…ちょうど、〈モノ〉の世界と〈意味〉の世界の中間くらいにある何かなのよ。」
 「いいわねぇ。タカコちゃん、きょうはなんか、哲学者みたいよ。実はね、それは〈記号〉だけについて言えることじゃなくて、そもそも生き物にとっての〈環境〉がそういう性質をもっているとも言えるのよ。まあ、それは今は置いとくとして、それではもう一歩進んで、〈記号〉にはどんな利点があるでしょう。〈記号〉を使用することによって、知性をどんな方向に発展させてゆくでしょう。」
 「〈記号〉の利点ねえ。もしわたしが道端にころがってる石みたいに、何も表現しない存在だったらどうか。いくらすごいことを考えたり、豊かな感情をもったとしても、それを日記に書いておくことも、他の人に伝達することもできないよねえ。孤独だなあ、もしそうだったら。いや、もともと自分を表現しないんだったら、孤独も感じないわけか。」
 「人間みたいに伝達手段をもった存在が、その伝達がうまくいかないときに孤独を感じるんだものね。そもそも伝達手段がなければ、孤独もないのかもしれない。」
 「だったら、むしろ気楽なのかも。どちらにしても、もしそういう存在だったら、考えたり感じたりしたことは、いつもその場かぎりのものになってしまうよね。」
 「じゃあ、もしそれが言葉に置きかえられたら、どんなメリットとデメリットがある?」
 「言葉は〈記号〉だから、口に出したり書いたりして、他の人に伝えることができるわ。記録したり、伝達したりできる…これは、すごいメリットじゃない。デメリットは…もちろん口に出した考えは、考えそのものじゃないってことよね。うまく言葉で言えないことがいつも残ってしまうし、それが大事なことだったりするのよね。自分の言ってることが人に伝わらなくて、すごくイライラすることがある。そういうとき、言葉ってダメだなあと思う。」
 「記録したり、伝達したりできるというのは、ようするに言葉が複製可能な〈記号〉だからよ。自分の考えてることがそのまま記録・伝達できないのも、やっぱり言葉が〈記号〉だからね。さっきあんた、すごくうまい言い方をしたわね。〈記号〉は〈モノ〉と〈意味〉との中間的な存在なんだって。ここがポイントよね。言葉のメリットもデメリットも、ここから来るわけ。人間の知性ということを考えるとき、こうした〈記号〉との関係を押さえておかなくちゃ、どうにもならないわね。だから動物の知性と人間の知性とは、そもそも単純に比べることなんかできないわけよ。おサルさんが人間でいうと3歳児の知能だとか、大きなお世話ってもんよ! 動物の知性は、環境の変化にすばやく、臨機応変に対応するために発達してきたけど、人間の知性ってのは、主に〈記号〉との相互関係のなかで計られてきたんだから。動物と人間との間にはっきり境界を引いてきた今までの生命観、知性観は問題だけど、〈記号〉にもとづく知性のあり方とそうではない知性のあり方とは、はっきりと区別して考える必要があるんじゃないかしら。人間のなかには、その両方が併存しているのよ。」

機械の心

 「ねえ、もし記号を操作する能力が知性だとしたら…」とタカコは、この間SF好きの友だちの家で深夜に観た、昔のSF映画を思い出していた。
 「コンピュータは、人間よりもはるかに記号を操作する能力があるわけでしょ。」
 「それはそうね。ある種の記号操作、つまり数値計算とか、大量の記憶や検索とかでは、たしかに人間は、コンピュータの足元にも及ばないわね。ただ、パソコンが自分と同じような知性をもってると本気で信じている人は少ないでしょうね。なんてってもパソコンがやってるのはたんなる記号処理にすぎないけれど、人間の記号処理は意識とか感情をともなっているんだから。」
 「それは、まだ機械が人間の脳に比べると単純だからっていうこと? 能力だけの問題なの? だとしたら、すごく優秀なコンピュータだったら、自分が考えてるって意識とか、死への恐怖とか、感じるのかな。こないだ友だちのところでみた『2001年宇宙の旅』っていう映画8では、宇宙船をコントロールしているコンピュータが感情をもって、人間を殺しちゃうの。でもそれがとっても静かな感じで、よけい怖いんだ…あ、でもこれって前に話したフランケンシュタイン・コンプレックスだよね。」  「たしかにそうね。ただ、機械が意識をもつかどうかって問題を扱っているのは、何もあの映画だけには限らないわ。人工知能学者たちも、哲学者たちも、この問題をずっと考えてきたの。」
 「じゃ、答えは出てるの?」
 「問題は、〈意識〉をもつということをどのように考えるかっていうことよ。だって〈意識〉を経験できるのは、厳密には自分だけでしょ。本当は、人間どうしだって、どんなに親しい家族や恋人どうしだって、相手の〈意識〉を直接経験することはできないじゃない。」
 「なるほどー。そう言われてみればそうだ。じゃあ周りの人たちが実はぜんぶ、人間そっくりの反応をするロボットだったってこともありうるわけか。うー、ぶるぶる。これもなんかSFのテーマになりそうだね。」
 「そうよ。哲学ではそういうの〈独我論〉っていうのよ。たとえばタカコちゃん、わたしは〈意識〉をもってると思う?」  「えっ? 当たり前じゃん、そんなの。」
 「どうしてそう確信できるの?」
 「だってこうしてしゃべってんだもん。相手も自分と同じ人間…じゃなかったニワトリ…じゃなかった、ミームだけどね、自分と同じように〈私〉ってものを感じてるのは、百パーセント確かだよ。」
 「でもね、厳密に考えると…」
 「いやだー厳密に考えたくない。絶対確実にそうとしか思えないんだから、それでいいじゃん!」
 「わかったわかった。それじゃ何かが〈意識〉をもつかどうかは、それと対話している人がそのように確信すればいいということになるわね。」
 「まあ、そういうことかな。」
 「そんなふうに〈知性〉を定義したのが、アラン・チューリングという数学者ね9。〈意識〉とは何か?という泥沼のような哲学的問題に入りこむのを避けるために、かれは〈チューリング・テスト〉というアイデアを考え出したの。」
 「やだなぁ、またテストか。」
 「〈2001年〉に登場するHALは、はじめから機械だってわかっているわけだけど、宇宙飛行士たちはまるで友だちに話しかけるように自然に会話してたでしょ? だからあの映画を観る人にとっては、コンピュータだとわかっていながらも、どうしても人間と同じような意識をもつ存在だと感じずにはいられないわけ。だからこそ、後のほうでHALが沈黙したまま人間を殺してゆく場面が、すごく恐ろしく感じられるのよ。そうでなきゃ、たんにコンピュータの故障による〈事故〉にすぎないものね。」
 「でもほら、HALの思考力を奪うために人間がその内部に入っていって一つずつ基盤を抜いていく場面があるでしょ。HALは〈やめてくれ〉って言うんだけど、だんだん意識がぼやけていって…」
 「たしか"My Mind is going"(頭がぼやけていく=心がなくなっていく)ってつぶやくのよね。それで最後には、自分が生まれた時と場所(なんと1992年のイリノイ!)を思いだしたり、最初に習った歌をうたったりするのね。」
 「あの映画、最後のほうはワケわかんないんだけど、あそこの場面は、なんか泣けちゃうなあ。」
 「ということは、HALはチューリング・テストに合格しているわけ。死ぬ前に幼時を思い出したりするのは、人間の臨終のパターンだけど、タカコちゃんは機械のそれで泣いちゃったんだからね。頭ではコンピュータと知ってても、気持ちの上では区別がつかなかったんだ。」
 「そうか。でもそれだと、ミームに〈意識〉があるってわたしが信じているのも、たんに話しててふつうの人間と区別がつかないからってことになんない? 区別がつかないという理由って、なんか消極的な気がするんだけど。」
 「そう、それがチューリング・テストで〈知性〉や〈意識〉を規定するときのいちばん深い問題ね。たとえば古典的な例では、イライザ(ELIZA)と呼ばれる会話プログラムがあるんだけど…」  「イライザ? どっかで聞いたことあるな。女の子の名前だよね。」
 「イライザはカウンセリングをするプログラムで、患者はキーボードでコンピュータと会話するの。今からみるとすごく簡単なプログラムなんだけど、相手が機械だということは、なかなか見抜くことができないのよ。」
 「へえ、なんでだろう。」
 「カウンセリングを受ける人は、たいていどんなことでも自分の心の問題について言われたこととして受け入れようとする態勢ができてるからよ。そういう対話の特殊な〈枠組み〉があるところでは、比較的な単純な受け答えでも、人間と機械との区別はなかなかつかいなものなの。」
 「イライザって名前、たしかもっと昔の映画に出てこなかった? お母さんがとても好きだった映画で、家にビデオがあったような…『ローマの休日』じゃなかったっけ?」
 「ヒロインは同じオードリー・へプバーンだけど、『マイ・フェアレディ』ね。そう、これは面白い話で、ロンドンの下町娘を言語学者が特訓して、社交界で通用するレディーに仕立て上げるという話。イギリスの階級社会への風刺をこめた、一見ちょっと変わったラブ・ロマンスにみえるんだけど、見方を変えると人工物と〈本物〉との境界という問題を扱った物語でもあるのよ。」
 「人工物…つまり人工的な〈社交界のレディー〉を作り上げるという話ね。で、誰も彼女が〈本当は〉下町娘だってことが見ぬけなかったら、テストに合格したということになるわけだね。区別がつかなければ本物と同じだっていう立場からしたら、〈本当は〉下町娘だというときの、〈本当は〉には意味なんかなくて、彼女は〈レディー〉なんだ。」
 「そういうことになるね。しかもその〈作り手〉である言語学者自身、彼女が魅力的な女性になるにつれて、彼女に惹かれていくのよね。人工物であることをいちばんよく知っていながら、それを愛するようになる。この話はもともと、アイルランド出身のイギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』をもとにしてるんだけど、ピグマリオンというのは古代ギリシアの彫刻家で、自分が造った美少女の像に恋愛してしまったの。ここでも、機械、というか人工物の〈心〉が作り出された存在のなかに実体として存在するか否か? なんて問いかけても、あまり意味がないようにみえるわね。やはり〈心〉は〈関わり〉——この場合は恋愛だけど——のなかで、はじめて意味をもつということかしら。」
 「すてき。そういう恋もいいなあ。ただ、作り手がいつも〈男〉で、作られるのは〈女〉ってのが、なんかすこし気にはなりますけど。」

知性と言語

 「ところでいちど聞こうと思ってたんだけど、ミームは魂の存在は信じてる?」
 「な、なによいきなり。それは…あんたが〈魂〉をどう定義するかによるわね。」
 「わたしが聞きたいのはたぶん、死後も〈自分〉ってものが存続するかどうかってことかな。」
 「それは、自分の肉体の死後、〈自分〉が経験されるのかどうか、という問題ね。はっきり言ってそれ、死んでみないとわからないわね。だって、物理的な時間は神経活動をはじめとする肉体的な生のなかで認識されるんだから、肉体が消失した〈後〉、つまり〈時間的存続〉ってのが、死後の〈私〉にとってどういう意味をもつのかは、経験してみないとわからないでしょ。」
 「うーん、よく理解できんけど、こないだうちの実家に来たお坊さんも、どうもそれと似たようなこと言ってたなあ。」
 「あんた、その坊さんにもそんなこと聞いたの?」
 「だって、仏教なんだから専門家って感じじゃない。それでわたしかれに、幽霊って存在します?って聞いたら、〈存在しない〉って言うの。それじゃ〈魂〉ってありますか?って聞いたら、〈知らん〉って言うの。なにそれー! 坊さんのくせして、なんか無責任だと思わない? それで、じゃわたしたち、何のために死んだ人を弔ったり、こうして法事やったりしてんですか?って問いつめてみたの。」
 「あーいままでのわたしとの議論が、なんか悪影響与えてるみたい。」
 「もし、宗教は本当はわたしたち生きてる者のためなんです、なんていいかげんなこと言ったらね、あ、それじゃ生きてるわたしたちが必要ないと思ったら、お寺もお坊さんもいらないのね?って言おうと思って。」
 「ひぇー、なまいき。今までのわたしの教育、間違ってたのかなぁ…。」
 「そしたらかれ、弔いや祈りは死者のためですよ、って言うの。でも〈死〉が何かということはぼくたちにはわからない。無理にわかろうとすると考えが歪むし、〈私は知っている〉と主張するインチキな宗教家に引っかかる危険もあるって。それでわたし、でも〈心〉はあるでしょ?と聞いたら、〈それはもちろん。ただし、それはハイこれが心です、と特定できるような何かじゃなくて、いわば関係のネットワークなんだ〉って言うの。〈心〉が、神経なり電子回路なりの〈内部〉にあるという考えは、〈機械のなかの幽霊〉という、一種の迷信みたいなもんなんだって。これってなんか、わたしたちが話し合ってきたことに似てるでしょ。」
 「うん、それはそうだね。さすがはもと哲学者の坊さんだ。」
 「〈心〉は関係性としてだけ存在する。仏教ではそういう関係性のことを〈因縁〉っていうんだって。インネンってなんか不吉な関わりみたいな意味かと思ってたら、本来はちがうのね。でもかれは、わたしがいろいろ追及するのをうれしそうに聞きいてたよ。しまいには逆に、〈タカコさんは情報を勉強している大学生だから、ギルバート・ライルの『心の概念』12や、マーヴィン・ミンスキーの『心の社会』13は知ってますか?〉って聞かれちゃった。ひゃーヤブヘビだー。前に〈情報環境論〉の講義で名前と題名だけは聞いたおぼえがあるんで、ええまあ…って言ってしまったけど。」
 「ははは、いい気味。」
 「ぶー。でもようするに、〈心〉というのはどこか、脳とか機械の〈中〉にある何かではないってことよね。そのことは、何となくわかってきたような気がするんだ。けど、もうひとつピンとこないんだなぁ。〈ハイこれです〉って示せるような実体じゃなくて、関係性だということね。でもカンケイセイって、よーするに何なの?」
 「まあまあ、そうあせってもしょうがないわよ。よーするにコレ!みたいに示せないことはあるの。現代はマニュアルが氾濫してるけど、本質的なことはマニュアル的理解ではぜったいつかめないようにできてるんだから。〈心〉はたしかに関係性。でもそれを目の当たりにみることはもちろんできないわ。人間の場合、〈心〉は記号やシンポルをとおして表現される。このことは前に話しあったわね。シンボルの働きをとおして〈心〉の働きを知るしかないわけよ。」
 「シンボルって、たとえば言語のことだったよね?」
 「もちろん、言語は代表的なシンボルね。だから〈心〉が関係性だということは、〈言語〉がひとつの関係性として存在しているということからわかる、ということもできるでしょうね。」
 「言語は関係性…あ、これ言語学の講義で聞いたことあるな。言語はモノに貼りついた名前じゃなくて、ええとちょっと待ってね(と今度は言語学のノートを取り出す)、〈差異の織物〉であり〈関係性のシステム〉なんだっていうことを、ソシュールという言語学者が発見したのよね。ということは、そういうシステムに〈心〉が映ってることになるの? でもシンボルって、絵もあるし言語以外のいろんな記号もそうでしょ。言語、とくに書き言葉がものすごくメリットのある知識の複製手段で、そのおかげで文明が急速に進んだことは前に話しあったと思うんだけど…」  「たしかに書き言葉つまりテクストは、この数千年間人類にとって特別に重要なシンボルでありつづけてきたわね。何十万年もの人類史のなかで、〈ほんの〉ここ数千年の間、テクストという形をとった言語のモデルが、これまでの人類文明の、主要な情報環境を形作ってきたと言えるわ。」
 「テクストにもとづいた文明って長いようにみえるけど、人類という種にとっては、ごく最近のことなのね。」
 「もちろんよ。でも数千年前の文明のターニング・ポイント、考古学的な年代区分では〈青銅器時代〉と呼ばれている時代に、文字言語だけじゃなくいくつかの劇的な変化が起こったらしいわ。この時代は、人類の情報環境という観点からみてもすごく重要ね。たとえば、銅の鉱石は大規模に採掘されるようになり、それを使った合金の製造や利用法は複雑になったこと。これは、そうしたテクノロジーを支える専門的な知識・技術と、それを習得した専門家集団が分化していったことを意味しているの。文字言語の発明は、もちろん言語的知識のそうした複雑化と切り離すことができないでしょうね。けれどもそれだけではなく、牛や馬などの家畜の利用も拡大し、〈車〉も発明された。国際交易がはじまり、富の蓄積と再分配が進み、身分の格差も拡大し、都市や政治組織が生まれた。こういう、交通の飛躍的拡大とコミュニケーションの多様化も、テクストとしての言語の発達に拍車をかけたはずよ。」
 「なんか、そういうふうに言われると、青銅器時代も現代も、文明の基本的な部分はあんまり変わっていないような気もしてくるなあ…。」
 「それは面白い視点ね! たとえば文字言語というのは、前にも言ったように外部記憶の一種なんだから、記号を外的物質に痕跡として記録するという意味では、古代の粘土版から現代の光磁気ディスクまで連続しているし、車輪による物質の搬送ということでみれば、古代の荷車から最新式の自動車まで連続しているわね。もしも宇宙人の人類学者が観察したら、新石器時代から現代までは、ほぼひとつながりの発展プロセスとして見えるかもしれないわ。」
 「そうかー。でも現代のコンピュータ・テクノロジーはテクストだけじゃなくなんでも情報として扱うことができるし、輸送手段だって現代は車だけじゃないよね。ということは、現代の文明って、なにかが根本的に変わりつつあるってことなのかな。」
 「それについてはこんな話を思い出したわ。1991年に、アルプスでめずらしい登山者のミイラが発見されて有名になったことがあるわね。知ってる? 〈エッツィ〉という愛称で呼ばれて、はじめは氷河地帯ではときどき見つかる、19世紀あたりの遭難者と思われてたの。でも、よく調べてみるとなんと、5千年前の人だったのよ。」
 「へーえ、でもどうしてそんな昔の人と、ほんの100年前の人とが、パッと見ただけでは区別つかなかったのかしら?」  「そこが面白いところよ。5千年前と100年前では、登山者が来ている服や持ち物に、それほど基本的な変化はないということなの。これがもし、20世紀後半の登山者かどうかが問題だったら、誰だってすぐに区別できると思わない?」
 「そうか、現代人だったらたいてい、ラジオや電灯などの電気製品とか、プラスチック製品とかを持ってるし、合成素材の服を着てるものね。ええ…ということは、5千年前と100年前との文明の差よりも、100年前と今との差のほうが大きい、ということにならない?」
 「まさにそうよ! 情報環境という視点からみたとき、人類は新石器時代以来の大変革を経験しつつあるのかもしれないわ。もちろん、この変化が人間をどこに導くのかということは、ずっと未来になってみないとわからないのだけれどね。」

写真とテクノ画像

 今日は、タカコの大学の卒業生のひとりによる写真展の、最終日だった。彼女と親しいタカコは打ち上げに参加しているらしい。ミームが部屋で一人で週刊誌を読んでいると、玄関のドアが開いた。
 「遅くなっちっゃた。ミームまだ起きてる? あの、今日まで個展やってた先輩のカオリさんが電車なくなって帰れなくなったんで、泊めてあげることにしたの。あ、どうぞ入って。ちらかってますけど。で、あの、これがさっき話した…」
 「ミームさんですね。こんばんは。突然おじゃましてすみません。」
 「いいのよ、どうぞ遠慮なく入って。あー若いっていいわね。はじめての個展だって? おめでとう! せっかく来たんだから、いっしょにピールで乾杯しようか?」
 「ほ、ほんとにしゃべるんですね。ビックリした。タカコちゃんから聞いたときは信じられなかったけど、こんなことってあるんだ…。でも不思議だわ。こうして話してるとなんか、これが当たり前のような気もしてきて…。」
 「そうそう、適応力あるのは、大切なことよ。ビールは?」
 「い、いただきます。」
 「あらよかった。タカコちゃんと違って話せるじゃん。さすがちょっとは大人ねー。」とミームはわけのわからんことを言いながら、よろこんで冷蔵庫のドアを開けた。
 「カオリさん、ごめんね。疲れてたら断わって寝ちゃえばいいから。」タカコが小声で言った。
 「いいよ。面白そうな人(?)じゃない。あ、ありがとうございます。いただきまーす。これは? ミームさんが読んでらしたんですか?」といいながら、カオリはテーブルの上に広げられた週刊誌の記事をのぞきこんだ。
 「〈若者の学力はこんなに低下している…〉。ふーん、大学の先生たちも、ときどきこういうこと言ってるわ。わたしたちって、そんなにおバカなのかなぁ。ま、すこしは自覚してるんだけどね。やっぱり少子化で競争がなくなったからとか?」タカコがあまり興味なさそうに言った。
 「週刊誌の記事をうのみにしちゃダメよ、タカコちゃん。こういう記事はたしかにひとつの事実を伝えてるんだけど、それは〈若者の学力が低下している〉という事実じゃなくて、〈《若者の学力が低下している》と多くの大人が考えたがっている〉という事実と考えるべきね。」
 「へーえ、なんかすごいなミームさんて。タカコちゃんから話は聞いてたけど。でも、どうして大人はそんなふうに考えたがるんですか?」
 「一種のクセみたいなもんね。〈いまどきの若いもんはなっとらん〉というのは、古代ギリシア時代から言われてきたことなのよ。こういう週刊誌読んでる大人たちだって、若いときは〈今どきの大学生はマンガなんか読んで情けない〉って批判されてたのよ。」
 「そうなのかー。でもたしかにいまの若者はワープロのせいで漢字が書けないとか、社会常識がない、本を読まないっていうのは言われてみると当たってるような気がするなあ。」とタカコ。「こういうのは、嘆かわしいことなのか。カオリさんはどう思う?」
 「うーん。なんかわたしの感じでは大人のひとたちには2種類あって、ある人たちは若者が本を読まないことを知性の低下として嘆くんだけど、また別な人たちは、もう〈書物〉というメディアの時代は終わったんだからそれは当然だ、なんていうの。たしかに若者は活字文化の基準からすれば知的に低下してるようにみえるけれども、逆に考えれば、ロックをはじめとしたポピュラー音楽の浸透度や、マンガなどのサブカルチャー、いろいろなビジュアル表現に対するセンスはむかしよりずっと洗練されてる。〈書物〉的な古い知性がマルチメディア的な新しい知性におきかわりつつあるだけで、ちっとも低下じゃなく、むしろ希望があるんだって。」
 「そんなふうに世間の若者批判に対抗して、若者をもちあげてみせるのも、一部の大人たちの、いつの時代も変わらぬクセよね。」とミーム。「タカコちゃんはそういうふうに言われるとどう思う?」
 「うん、なんかそんなふうに意義を認められてもなー、という感じ。だってやっぱり本は読めたほうがいいと思うし、〈書物〉からマルチメディアへの変化って、そんな単純な政権交代みたいなもんなのかなぁという感じがする。」
 「うん同感。わたしはいまんところ写真を使って表現してるんだけど、若い女の子の感覚、自分の日常を見る感覚がスゴイって言われる。たしかにほめられるのはうれしいんだけど、あんまり感覚、感覚って言われると…じゃあ若い女はコンセプチュアルな表現しちゃいかんのかい?と腹がたってくるときがあったりして。っていうか、そもそも言語的・書物的な内容とビジュアル的な表現って、そんなに簡単に分けられるものじゃないような気がするの。」
 「それは大事なポイントよね。だって誰もが、コンピュータによるマルチメディアが活字文化に置き換わりつつあると考え(たがっ)ているし、マルチメディア化の先には未来があると思っている。この変化をポジティヴにとらえる人もネガティヴにとらえる人も、文化の政権交代を単純に考えようとしている点では、同じかもしれないわ。でもこれでは、テクストや書物の本質も、情報テクノロジーが可能にする新しい文化の本質も、ほんとうは見えていないのかもしれない。」
 「一時期、〈ホストモダン〉って言葉が流行りましたよね。〈モダン〉つまり〈近代〉が、言葉や理性の力をすごく信頼してきた時代だとしたら、そういう信頼がもう成り立たなくなったっていうこと。〈ポストモダン〉て言葉はいろんな意味で使われてたみたいで、けっきょくよくわかんなかったけど、ようするに〈モダン〉はもう限界だっていう意識なのかな。だから、言葉じゃなくてサウンドやヴィジュアルやパフォーマンス、あるいは理性的に割り切れる世界じゃなくて神秘的な世界に対する関心が増大してくるという現象も〈ポストモダン〉だと言われてた。でもここで疑問に思うのは、言葉や理性に置き換わるものとしての感覚的な世界や魔術的な世界というのは、よく考えると〈モダン〉以前の世界と似てるんですよね。だから〈ポストモダン〉っていうのは、ほんとうに新しい事態なのか、それともたんに昔に戻ってるだけなのか、よくわからなくないんです。もっとも、そんなのどっちでもいいやっていう態度が〈ポストモダン〉的なのかもしれないんだけど。」
 「そうね。たしかに、自己表現の道具として、言葉のもっていた決定的な力は失われつつあるようにみえるし、それに代わって情報テクノロジーに媒介されたマルチメディア的な表現がどんどん拡大しつつあることはたしかね。また、合理的な科学技術の粋として生み出された電子的ネットワークの世界のまっただ中に、非合理な呪術や魔術のようなカルトが横行していたりしていることも事実ね15。こういう傾向を大きな視野からどうとらえたらいいのか、人間はいま途方にくれているみたい。だってまったく同じ現象が、ある人たちにとってはなげかわしい退行、つまり言葉や理性にもとづく知性の低下というふうに映るし、また別な人たちにとっては、言葉や理性の限界を越える希望、新しいタイプの文化の黎明を意味するんだから。」
 「むずかしい問題ですよね。どう考えたらいいのかなあ。」
 「たとえばヴィレム・フルッサーという哲学者は、こう考えてるわ16。人間は最初、自分と生きた現実との間に〈画像〉という形のついたてを立てることによって、生きることに〈意味〉を与えてきた。たとえば洞窟壁画はそうした〈画像〉のひとつと考えていいわ。〈画像〉によって人間は、世界と呪術的・魔術的にかかわりあうことができるようになったわけ。これがいわば文明の第一歩で、それ以前とは比較にならない大革命だった。けれどもやがて、呪術は形だけの儀式に変質していった。そして、最初は生きることの無意味さから人間を救い出すものであったはずの〈画像〉は、むしろ人間と世界とが生き生きとかかわり合うこを阻む、障害になってきた。〈画像〉の意味は不透明になり、無意味に感じられるようになったわけね。そこで、それを打開するものとして〈言語〉、とりわけ文字言語が登場して、〈画像〉の支配を終わらせ(たとえば「偶像破壊」)し、〈画像〉を線的・時間的な因果関係に従う〈歴史〉として再編成しはじめたというの。文字言語はいわば、無意味になってしまった〈画像〉に新しい意味を与えるために生まれた。〈呪術〉に代わって〈歴史〉が登場した。前近代の魔術的世界観にかわる、近代科学の合理的世界観も、こうした〈文字言語〉による〈画像〉の再編成によって可能になったのよね。」
 「ええ、ちょっと待って…。その〈呪術〉にとってかわった〈歴史〉っていうのは、学校で習う世界史とかいうのと同じ?」とタカコ。
 「それも含むけど、もっとずっと広い意味ね。つまり、リニアなテクストによって世界全体を意味づけるのが〈歴史〉。ホメロスの叙事詩も、旧約聖書も、小説も、近代科学も、ヘーゲルやマルクスの哲学も〈歴史〉。魔術のように、回帰する円環的時間のなかで類似によって世界をとらえるんじゃなく、直線的な時間のなかで、因果的連鎖として出来事をとらえることね。」  「うう混乱してきた。」
 「たとえば星占いって知ってるでしょ? 自分が生まれた日と星座が対応していて、性格とか運命が決まってるっていう。タカコちゃん、さっきの雑誌の星占いコーナーに印つけてたじゃない。」
 「うんそれは、占いってわりと好きだけど…。」
 「タカコちゃんが9月3日に生まれたことと、意外に几帳面な性格であることとの間には、物理的な因果的関係はないわよね。」
 「うん、だから占いなんてバカバカしいっていう人もいるし、逆にロマンティックだって感じる人もいるわけでしょ。」
 「占いは〈歴史〉以前の〈呪術〉的世界観の痕跡のひとつだけど、ここにいるタカコという人間と乙女座という星座が代表する性格との間には、因果的関係はない。じゃあ何があるのかというと、宇宙的な対応とでもいうべきものね。広い意味での〈呪術〉的な考え方というのは、世界をそういうふうに、時間を越えた類比や対応関係で見ることなのよ。だから現代人からみると、非合理に思える。それに対して、もしも〈几帳面な性格〉が遺伝子によって決定されていると言われたら、たとえ生物学的な知識がほとんどなくたって、なんか合理的で説得力あるように感じるでしょ? 」
「そう、たしかにそう感じる。遺伝子のことなんてほんとは知らないのに、なんで説得力あるのかなあ。占いじゃなくて科学だから?」
 「そうなんだけど、科学が信頼できる根拠は、それが最終的には物理的な因果関係に基づいているということよね。で、そういう因果連鎖は、言葉とか数式とかプログラミング言語のような、線的な形式で表わすことができるでしょ?」
 「ふーん、〈呪術〉に代わる〈歴史〉という意味が、なんとなくわかってきたような気がするわ。」とカオリ。「でも、昔の科学に比べると、現代の科学はすごく複雑ですよね。素人にはとても理解できないことが多いし、科学者どうしだって、専門が違うとコミュニケーションができない、という話を聞いたことあるわ。科学やテクノロジーは魔術なんかじゃないことは知ってはいても、その中身はちょうどパソコンの内部みたいにブラックボックスで、ふつうの人にとっては、ある働きをする〈装置〉がそこにあるというような意味しかない。」
 「ブラックボックスっていえば、わたしにとってはいろんなものがそう感じられるな。大学に行ってると自分がほんとに何にも知らないなあと情けなくなるんだけど、勉強しなきゃと思ういろんな知識に、どう近づいていったらいいのかわからないのよ。ギリシア神話も聖書も、小説も科学も芸術も哲学も、とっても複雑な機械と同じ。興味がないわけじゃないんだけど、なんか遠い感じ。その中身を授業なんかで断片的に聞くと面白いと思うんだけど、自分で本に向かうと、とたんにしんどくなってくる。何が書いてあるかわかっても、それが自分にとって何の意味をもつのか、感じることができないの。」
 「そう、まさにそういう事態に人間は直面しているわけね。その意味では、〈書物〉の危機とか〈知性〉や〈教養〉の低下と言われているものは、表面的な社会現象なんかじゃない。その根本のところは、いままでの〈知〉のあり方では、生きることや世界の意味がもう感じにくくなってきたという問題があるのね。フルッサーの言い方でいうと、かつては〈呪術〉の閉塞状態から人間を解放した〈歴史〉が、いまや世界や人生の意味を人間から隠していることになる。蓄積されてきた膨大なテクストの意味が不透明になり、複雑化した科学やテクノロジーは魔術的な作用をもつようになる。人間は、テクノロジー、官僚機構、マスメディアといった圧倒的に巨大なシステムに取り囲まれるようになり、そのなかで、生きることはますます無意味なものに感じられてゆく。人生はちょうど、フランツ・カフカの小説が描き出すようなものになっていくのね。
」  「えーっ? それじゃもう、未来には希望ないみたいじゃない。」とタカコが情けない声で言った。
 「希望は、蓄積されてきた情報への、まったく新しいアクセスの仕方を発展させることにあるのよ。フルッサーによれば、無意味になってしまったテクストや概念に意味を与える新しい〈画像〉が、19世紀以来発展してきた。それは写真であり映画であり、さらにはさまざまなデジタル・イメージね。こうした〈画像〉はカメラやコンピュータのような〈装置〉を使って生み出されるんだけど、そのことによってそうした〈テクノ画像〉は、テクストを新しい仕方で指し示す〈記号〉になることができるというの。ちょうど古い〈画像〉が無意味化したときにテクストがそれに新しい意味を与えたように、今度は無意味化したテクストに対して〈テクノ画像〉が新しい意味を与えることができる、と。ただ今の段階では、わたしたちはまだ写真や映画以降のメディアを古い〈画像〉のモデルで考えてしまうという意識レベルから抜け出せないでいるから、〈テクノ画像〉の発展がまるで昔の呪術的意識への逆戻りのようにもみえる。また、現在写真、映画、デジタル・イメージといったものを使用している芸術や産業が、まだそれらの〈テクノ画像〉としての本質をはっきり理解していないために、伝統的な芸術モデルに縛られていたり、マスメディアによる画一的な影響という形でしか、〈テクノ画像〉の力が現れていない。ようするに人間はまだ、19世紀半ば以来の、前に話した言い方でいえば〈新石器時代〉以降の、新しいテクノロジー文明に慣れておらず、とまどってるってことね。写真以降の新しい〈記号〉である〈テクノ画像〉を、これからどのように意味のある仕方で発展させていけるかが、人間にとって21世紀の課題でしょうね。」
 「ふーん…。いままでなんとなく、むかしの画家にとっての絵筆が、わたしにとってはカメラで、タカコちゃんにとってはたぶんパソコンなんだろうな、というように考えてきたんです。でもそういうふうに、カメラやコンピュータを〈自己表現〉のための道具とみなしたり、〈アート〉ということでぜんぶまとめちゃうのは、どっか基本的に違うなという気持ちがしてた。でもどこが違うのか、よくわからなかった。ミームさんがいま話してくれたこと、ちゃんと理解できたとはいえないんだけど、少なくともそういうふうに大きなスケールで未来から見るみたいな考え方のほうが、たしかに魅力的だな。ようするに〈道具〉とは何か、〈表現〉するってどういうことか、といった根本的なことが問題なんですよね。人類文明そのものまで、うーんとパンしてみないと、見えてこない風景があるのかもしれませんね。」

現代科学と新しい生命観

 「ただいまー」部屋に入ってくるなり、タカコはベッドの上に倒れこんだ。
 「まあどうしたの? まだ夕方の5時よ。気分でも悪い?」
 「ううん。きのうCGの課題仕上げるのに徹夜しちゃったんで、もう朝から眠くて眠くてー。」
 「しょうがないわねえ。でも服くらい着替えたら?」
 「いいの、ちょっと寝たら起きるから。ほんとはミームに聞きたいことあったんだけど…夢で会いましょう…。」
 「やれやれ。それじゃま、少しお休みなさい。」

 ***********

 いつになく疲れていたせいか、タカコは不思議な夢をみた。
 自分は一羽のモンシロチョウで、春の野原を楽しげに飛びまわっている。そのうちに疲れてきたので、草の葉につかまって居眠りした。すると、夢の中でフッと眼が醒めた。まわりをみると、よく水墨画のなかに描いてある、山の中腹に建ったあずま屋のような建物のなかにいる。なーんだ、いままで自分が蝶だと思ってたのは昼寝の夢だったのかと気がつく。それにしても変な夢だったなあと思いつつ、まだ眠いのでウトウトしながら、本当はこれが夢だったりして…とぼんやり考えた。つまり蝶々の自分が本当で、タカコという人間は蝶々が見ている夢だったとしたら? そんなバカなことあるわけない、と一瞬思うけど、よく考えてみると、いったいどうして、そうじゃないと言える? タカコは気になってきた。そのことをもっとちゃんと考えてみようと、まだ眠かったけど無理して起きあがってみた。すると目の前に、みなれない着物をゆったりと着た小柄な青年が、穏やかな様子で座っている。
 「それ、ぼくも、何度も見た夢だよ。」青年はまるで老人のような落ちついた声で話しかけた。
 「夢って…いまわたしが見た夢のこと?」
 「そう。蝶々になった夢。で醒めてみると、ここにいる自分が本当は蝶々の見ている夢じゃないかと思えてくるんだよね。」
 「ふうん。それで、どうしたらそうじゃないことがわかるの?」
 「どうして、そうじゃないとわからなきゃいけないの?」
 「だって…人間であるわたしが蝶々の見ている夢だなんて、どう考えたっておかしいじゃない。蝶々と人間なんて、あまりにも違いすぎてない?」
 「たしかに蝶々と人間とは違う。世界を見る蝶々の視点があり、人間の視点がある。この二つの視点はまったく異なっていて、比較したり交換することはできない。だから、どちらかが本当でどちらかが夢だなんてことは、決めてもしかたがないのさ。いくら無理して決めたって、それはしょせん、いまは人間であるぼくの視点からの、勝手な思い込みでしかない。蝶々の視点と人間の視点とを、ともに外から見渡せるような、超越的視点なんて存在しないんだ。ただ、まるで夢から醒めるみたいに、気がついてみるとぼくはここにこうしている。驚くべきことに、ぼくは蝶々じゃなく人間だ。リアリティってのは、ようするにそういうものなんだ。」
 この人、ミームよりわかんないこと言うな…とタカコは思った。
 「まあいいや。わたしはタカコ。よろしくね。あなたって夢の専門家なの? ひょっとして心理学者とか?」
 「ちがうよ。ぼくは周っていうんだ。夢については専門家というわけじゃないけど、蝶々にはちょっと詳しいかも。といっても、標本とか集めてるコレクターじゃないよ。ぼくはただ、生きてる蝶々を見るだけ。でもそれで、いろんなことがわかるんだ。」
 「ふうん。どんなこと?」
 「たとえば、蝶々が羽ばたけば風が起こるけど、そんな小さな風なんて、まわりの世界には何の影響も与えないように思えるだろう?」
 「うん。」
 「ふつうの考えでは、大きな変化を引き起こすものは、それ相応の大きな力だよね。蝶々の羽ばたきよりも鷲の羽ばたきのほうが大きいし、鷲の羽ばたきよりもつむじ風のほうが、つむじ風よりも嵐のほうが大きい。嵐は木や家をなぎ倒したり、川の流れを変えたり、人の命を奪うことすらある。それに比べたら蝶々の羽ばたきで起こる風なんて…」
 「すぐ消えちゃうわよね。」
 「ところが、自然というのはそんなに単純じゃないのさ。たとえばきみは、厚さ一ミリの紙を何回折りたためば、その厚さが月まで届くと思う?」
 「ええ? さあ…何万回、いや何億回もかな?」
 「42回。驚いた? 数量が倍、倍と増えていくプロセスというのは、そういうものさ。ちょうどこれと同じように、自然界の中には、起こった変化をどんどん増幅していく〈敏感〉な領域がある。一方ではどんな大きな変化も、放っておくとやがて減衰していく。けれども他方では、蝶々の羽ばたきのような小さな変化でも、そうした〈敏感〉なスポットに触れると、それがどんどん増幅されて大嵐にまで発展していく可能性だってあるんだ…。」
 「まあそれは大変! それじゃあ、ニワトリの羽ばたきだったらどうかしら?」聞き覚えのある声がして、屋根の上からミームが飛び降りてきた。
 「おどろきー。来てくれたんだ。わたしの夢のなかまで来られるなんてすごいね。」
 「朝飯まえよ、こんなの。だってさっき、夢で会いましょうって約束してくれたじゃない。あ、これは失礼しました、周さん。わたしタカコの友だちでミームと申します。」
 「よろしく。それにしても、どうしてぽくの名前を知ってるんですか?」
 「そりゃあ荘周さんといったら、有名ですもの。でもこんなに若くてステキな方だなんて、誰も思ってないでしょうけれど。それはともかく、あなたがいまタカコちゃんに話してたことは、〈カオス〉と呼ばれているものですよね。」
 「〈カオス〉? そうそう、さっき眠る前にミームに聞こうと思ってたのはそれなのよ。〈カオス〉とか〈複雑系〉とか、CGの先生が授業で言ってたんだけど、どうも難しくてよくわかんないのよ。周さん、〈カオス〉っていったい何?」  「さあ…。ただ、前に見た夢のなかにこんなのがある。南と北と中央に、3人の王様がいたんです。その中央の王様が、たしか〈渾沌=カオス〉って名前だった。南北の二人の王様は〈カオス〉に招かれてご馳走になったので、そのお礼に何かしてあげようということになった。で、よく見てみると〈カオス〉には見たり聞いたり息をしたり食べたりするための、七つの穴が開いていない。そこで二人の王は、一日に一個ずつ、〈カオス〉の体に穴を開けていくことにした。そしたら、七日めに〈カオス〉は死んじゃったんです。」
 「面白い夢だけど、〈カオス〉って何かはやっぱりわからないわ。」
 「まあまあ、タカコちゃん、周さんの夢はそんなにすぐに解釈できるもんじゃないわ。でもね、〈カオス〉や〈複雑系〉は科学的な自然観を大きく変化させていくものなのよ。」
 「たしか、こないだカオリさんと話したとき、近代の科学は専門的になりすぎたので、人間にとって世界を直観させてくれなくなったと言ってたわよね。」
 「そう、分析と還元という方法に基づいたこれまでの科学はね。近代の科学は基本的に、自然を単純な過程に分解して、そこに作用している単純な法則を見出し、それを重ね合わせることで自然そのものを理解しようとしてきたわけ。もちろん実際の自然科学の手続きはそんなに単純なものではないけど、最終的にはやはり少数の要素的なプロセスの組み合わせにすることが、自然を〈理解する〉ということを意味していた。別な言い方をすればそこでは、法則に支配される〈秩序〉と、それ以外のたんなる〈ノイズ〉とが対立していたの。こういう考え方は〈還元論〉と呼ばれているわ。」
 「一見無秩序にみえる現象の背後に単純な法則を見つけるのが科学のロマンだって、物理の先生が言ってたけどな。」
 「もちろん、〈還元論〉が間違っているわけじゃないわ。それはとても強力な手続きよ。けれども自然というのは、それだけじゃとても手に負えないものであることがわかってきたわけよ。とくにコンピュータが自然研究の不可欠な道具となってきて以来、単純で決定論的な方程式が予測不可能な運動を生み出してゆくプロセスが注目されている。たとえば周さんが最初に話してたような、変化がどんどん増幅されていくようなプロセス、物理では〈非線形〉と呼ばれているようなプロセスでは、少数の要素に分解して現象を理解することも、〈秩序〉と〈ノイズ〉とをきれいに分けて考えることもできない場合が多いの。体に7つの穴を開けたら〈カオス〉が死んでしまったというのは、分析や還元で理解しようとすると、〈カオス〉は見えなくなってしまうことを教えているように思えるわ。」
 「なるほどー、そういう意味があったのか。」と青年はミームの夢解釈に関心して聞き入っていた。この人難しそうなこと言うけど、案外わたしみたいにのん気なのかもしれない、とタカコは思った。
 「それにしても、夢というのは不思議ですね、ミームさん。ぼくたちの心はとても複雑な機械だけれど、起きているときにはその働きのほんの一部分しかモニタできない。でも、心という機械そのものは容赦なくどんどん動いてるんです。夢だってそうした心のすべてを見渡せるわけじゃないけど、起きているときには見えなかったその意外な動きを教えてくれますからね。」  「タカコちゃんの時代には、人間は自分の外にも、コンピュータと呼ばれる記号処理機械を作りだしはじめているんですよ。〈カオス〉は、そうした機械の助けを借りて研究されてるんです。」
 「それはすばらしい! 〈自然〉は外にあり〈心〉は内にあるという偏見は、ぼくも打破したいと思ってたんですよ。」  「内と外とのそうした対立は、たとえば認知科学や知覚理論で問題にされてきたわ。たとえばデカルトは、それ自体は無意味な外界からの感覚入力を〈心〉が情報処理して意味を作り出すというモデルを作り出した。これまでの人工知能の多くはこのモデルに基づいて設計されてきたけど、〈心〉の中に世界の似姿をまず作りだしてから行動するという考え方は、限界にぶち当たってしまったの。それに、現実の生き物の知能はとてもそんなふうにはできていないらしいこともわかってきた。そこで、生物にとって意味のある情報は〈心〉によって作り出されるのではなくてはじめから環境世界のなかに実在しており、生き物の感覚器と神経系はそれをピックアップしているのだ、という斬新な考え方も生まれたわ。J・J・ギブソンという人が唱えた〈アフォーダンス〉というアイデアね。21」
 「おもしろそうですね、それは。内と外との対立の解消は、〈自然〉と〈文明〉あるいは〈人為〉との対立の解消にもむすびついていますね。ぼくの哲学の核心は、〈自然〉と〈人為〉との対立を越えてものを考えることなんです。たぶんコンピュータと結合した未来の文明においては、〈自然〉と〈文明〉の対立はしだいに意味を失っていくのではないですか?」
 「さすが周さんね、まさにそのとおりよ! 自然vs文明という対立にかわって、拡大された意味での〈生命〉が、しだいに大きな意味をもちはじめていますわね。〈カオス〉は情報処理、とりわけ人間の脳が行っている途方もなく複雑な情報処理を考えるために役立つことが期待されています22。ほかにも、コンピュータのなかで増殖し進化するプログラムの行動を調べて生命の問題を考える〈人工生命〉という分野もあるわ23。コンピュータの内部で組み立てられた自然や知性のモデルが、生きた自然や知性について多くのことを教えてくれるし、逆に生きた体や心を研究することが、よりすぐれた機械の設計へと導いてくれるの。新しい研究分野のいたるところで、自然と人工という対立は破られているし、また客観的・中立的な分析・還元という方法にかわって、構成的、製作的な研究方法が発展しつつある。さらに面白いことに、動物や人間の心が情報処理をしているその意味で、科学と芸術とは、すごく深いところで融合しはじめていると言ってもいいかもしれないわね。」
 すごいなーこの二人がしゃべると…とタカコは感心して聞いているうちに、また眠くなってしまった。

知の〈リンク〉

 「ずいぶんお世話になったけど、わたし、もうそろそろ行かなくちゃ。」
 ミームがいつになくあらたまった声で言った。
 「えっ! ミーム行っちゃうの? どうして?」
 「だめだめ、そんな眼で見ないでよ。あたし、こういうの苦手なんだ。いいこと、わたしは最初に言ったように、ニワトリは仮の姿で、実体は情報そのもの。情報というのはね、タカコちゃん、ひとつ所にじって置いといてもしょうがないの。いつも動き回っていなくちゃ。だから、あたしはいつも旅してんの。ときどきこうして、少し休んだりしてるけどね。」
 「でもわたしまだ、わかんないことがいっぱいあるんだよ。っていうか、ミームと話して、いままで疑問にも思ってなかったいろんなことが、でっかいクエスチョンマークになっちゃったんだ。それに責任とってよ。ね、もう少しいっしょにいようよ。」
 「そう言ってくれるのはほんとにうれしいんだけどねぇ…。わたしといっしょにいると、ますますクエスチョンマークは増えていくばっかりよ。いや、もうわたしなんかいなくても、たぶん増えていくでしょうね。そう願うわ。そしてそれこそが、本当の知的な冒険ってものね。受験勉強とかクイズみたいに、あらかじめ問いと答えがあって、それを憶えるなんてのは、まったく知性の正反対。疑問に答えることが大切なんじゃなくて、当たり前だと思ってたところに、面白い疑問を発見したり、作り出したりすることが大切なの。」
 「じゃあわたし、これからどうしたらいい?」
 「いままでの話をそのまま憶えたりしちゃダメ。これから読んでいくいろんな本もそうよ。知識はどんどん別な知識に結びつけて、思いがけないネットワークを作り出すのよ。言葉やイメージの間にリンクを貼り、テキストをハイパーテキスト化しなさい。とりあえずはそうね、いままでわたしたちが話してきたことをまとめて、前期のレポートがわりにヨシオカ先生に教えてあげたら? かれはいま〈情報デザイン〉の教科書執筆で苦労してるみたいだから、わたしたちの対話が少しは役にたつかもしれない。」