スタイルと情報―メディア論を越えて―

所収『スタイルの詩学―倫理学と美学の交叉(キアスム)―』叢書【倫理学のフロンティア】Ⅶ、山田 忠彰・小田部 胤久 編、2000年12月)

1 Ceci n'est pas un stylo.

 それはペンのような形をした、小さなプラスティックの棒である。けれども、それを「ペン」と呼ぶことはできるだろうか? その先端には芯もなければ、インクを染み出させるような仕掛けもない。にもかかわらずそれは、ペンのように握られ動かされることで、文字や数字が記録される。はたしてそれはペンなのだろうか?
 いまわたしの眼の前にあるのは、Palm Pilotと呼ばれるPDA(Personal Digital Assistant =個人用情報管理ツール)に付属している、電子的な入力装置である。機械の本体はいわば電子化された手帳であり、この細い棒が、手帳についている小さな鉛筆といった格好である。この棒の先端で、液晶画面上のスイッチをタップして機械を操作する。だがそれだけではなく、この棒を使って、入力エリアの上に「書く」こともできるのだ。機械は運動による電界の変化を読み取って、それを文字や数字として解釈し、内部に取り込むのである。紙に書くことはできないけれど、機械の内部に直接「書く」ことができるのだ(1)。
 「書く」――それにしてもこの言い方は正しいのだろうか? たしかに、情報操作は一般に「読み書き」の比喩によって語られる。だが、データをハードディスクに「書き込む」という場合、それが比喩であることは明白である。「書く」といっても実際には、電磁気的な動作が行なわれているだけだからだ。だが一見本物のペンと同じように扱われるこの装置の場合、かえって混乱してしまう。わたしは「書いて」いるのだろうか? それともこの場合も、「書く」とはたんなる比喩にすぎず、実は変わった方法で機械を操作しているだけなのだろうか? そもそも「書く」とは、どういう行為だったのだろうか?
 このペン状の入力装置は「スタイラス(stylus)」と呼ばれている。それは鉛筆やペンで書くという、長い間われわれが慣れ親しんできた動作を、コンピュータの入力方式としてうまく利用したものである。もちろんどんな筆跡でも読み取ってくれるわけではなく、今の段階では、機械が読み取り可能な決まった書き方を、人間の方で習得しなければならない。
 このように言うと、なんだ、やっぱりデジタルは不便だ、手書きのほうがよっぽいい、と思う人がいるかもしれない。けれども、書くことをめぐるデジタルとアナログとのそうした違いは表面的なものである。そもそも紙にペンで書くという行為を習得するためにも、人間はそうした新しい道具の性質にみずからの身体を順応させなければならなかったはずである。一方、電子的な読み取りの効率は機械の能力の問題であり、そうしたツールが持ち主の筆跡まで学習するようになれば、イライラせずに入力できるようになるだろう。
 ではデジタルとアナログとの違いとは、本当はどこにあるのか? それは先ほどの疑問、つまりスタイラスを使ってわたしは本当に「書いて」いることになるのか?という疑問にかかわっているように思われる。実用的な意味でならもちろん、わたしは書いているといって何の問題もない。記録を取り、後からそれを参照できるのだから、ペンで手帳に書こうが、スタイラスを使って機械に記録しようが同じである。
 それでも、スタイラスを用いて「書く」と言うことに奇妙な違和感が伴うのはなぜだろうか?実はこれこそが、「書く」とは何かと問いに触れているように思えるのである。この違和感は抽象的なものではなく、むしろ直接的な身体感覚、スタイラスで「書く」時の独特の感触にかかわるもののようだ。スタイラスで「書く」行為には、摩擦や抵抗が感じられないのである。しかもそれは、それが触れている物理的対象をなんら変化させない。スタイラスの先は入力パッドの上を滑っていくだけであり、その後には何の物質的痕跡も残らないのである。
 それに対して、「書く」とはどういうことだったか? この行為を成り立たせているのは、たんに特定の軌跡を描いて筆記具の先を運動させることではない。書くという行為は何よりもまず、紙その他のもつ物理的な抵抗感や、その上を走る筆記具と紙面との間の摩擦を感じることなのである。書かれることによって紙は圧迫され、物理的に変形される。言い替えれば書くとは、「ザラザラした世界」(ウィトゲンシュタイン)と接触することなのである。筆であれペンであれ白墨であれ、書くことは一方的な出力ではなく、書き手の運動がつねに物質的世界からの抵抗としてフィードバックされる、複雑でインタラクティヴな行為なのである。
 書くことは、そうした行為を通じて、紙の上に物質的な痕跡を残すことである。この痕跡は消去することもできるが、完全に消去することはできない。消去することによって、そこには消去の痕跡が残ることになる。書くことはリニアな時間の流れを記録すること、つまり身体が傷を受けたり、老化してゆくプロセスと同じである。そこには否応なく時間が堆積してゆく。書くという行為においては「初期化」は不可能なのだ。
 それに対してスタイラスを用いるときには、運動だけがパターンとして読み取られる。ここでは空間的な定位が混乱している。つまりスタイラスを持つ手は、本当はどこに位置しているのか不明瞭なのである。特定の物質との触れ合いが重要ではないのだから、書く手がたまたま置かれている場所は意味をもたない。この場合手は、どこでもないと同時にどこでもありうるような場所、まさにヴァーチュアル(潜在的)な空間のなかを動いていることになるのである。
 「スタイラス」とは元来、蝋板に書き記すための鉄筆のことを意味していた。この鉄筆が板に塗られた蝋を掻き削ることによって、文字を書いたのである。この蝋板を古代ローマ人たちは手紙としても用い、その後もヨーロッパではかなり広範囲に使われた。「書く」ことと「掻く」こと。「書く」ことは長い間、まさに「引っ掻く」ことによって痕跡を残す行為だったのである。そして〈文体〉を意味する「スタイル」という語が、この鉄筆の名に由来することはよく知られている。スタイルとは、個人の身体が物質世界を引っ掻いた痕跡の中に記録される何かなのである。
 「書く=引っ掻く」という行為は、言語記号と書き手との間にひとつの関係を設定する。言語には、筆跡という形で書き手の身体性が書きこまれるのである。書き手の精神と身体は、物質世界のなかに転写され、固定される。そして情報の転写プロセスはそこでひとまず終るのである。書かれてしまったものは、取り返しがつかない。自分の残した筆跡に対して愛着、羞恥、憎悪などの強い感情が起こるのも、そうした変更不能性に由来する。書かれた文字とは、モノと化した自分自身なのである。それは、まるで自分の肉体の一部のように感じられるのだ。スタイルとは、こうした変更不能性と切り離すことができない。
 このように文字言語が変更不能な姿で現れることが、記号と意味作用についてのひとつの考え方を導く。つまり「書く」ことを通じて身体性が焼き付けられた「作品」は、あたかも自律的な意味作用をもつ存在であるようにみえるのだ。「書く」ことは創造者が被造物に息を吹き込む(=生命を与える)行為に喩えられることで、独特の儀式性を帯びてくる。作者の精神が受肉した「書物」という形式において、記号過程と解釈のプロセスは完結しているようにみえる。読者はあたかも神殿の中の聖遺物に対するように、到達不能の意味に向き合わねばならないのである。
 文字言語に対する二〇世紀の新たなアプローチ――ロシア・フォルマリズムの詩学、さまざまな記号学的、構造主義的アプローチ、ガダマーの哲学的解釈学や、その影響を受けた読書や受容の理論、脱構築批評etc.――は、いわば「書く」行為の見かけの完結性を批判し、「作品」や「スタイル」の概念がもつ儀式性を解体することによって、言語活動を新たな動的連関の中にもたらそうとしてきたことになる。そして現代のデジタル情報環境の中で、「書く」ことのそうした儀式性は、理論的にではなく直接的な身体感覚として、容赦なく消滅しつつある。
 電子的に入力された言語には、そもそも完結性が存在しない。記号は特定の物質的形態として終結するかわりに、潜在的な情報空間の中を浮遊し、さらなる変更や転写へとつねに開かれた状態にある。「スタイル」という概念がもしも、個人の精神/身体がある特別な行為を通じて残した変更不可能な痕跡だけを意味するとすれば、スタイラスをはじめとする電子的言語環境は、「スタイル」を支えている世界観を根本から掘り崩している。そしてそれにかわって、言語の持つ反対の側面、つまり終結しない記号過程、意味作用につねに介入する解釈者の存在、という側面が強調されることになるのである。電子的環境においては否応なく、言語の動的な側面に注意をはらうように促されるのだ。
 それは、手書きや印刷メディアにおいては見えにくかった、言語の非完結的な本質と可能性が解放されることである。かつて、「ペンを持つ手」は書き手の精神にもっとも近い何かだったかもしれない。けれどもエッシャーの有名な版画においては、互いに描き合う二つの手の行為が循環し、「書く」ことが原理的に終結しないプロセスであることが示されている。スタイラスはもっと直接的に、「書く」行為を脱神秘化し、言語の完結性を崩壊する。そして「手」はもはや、書く人の精神を体現する特権的な器官ではなくなるのだ。

2 「手」から「指」へ
 さて「スタイラス」がキーボードに比べるときわめて非効率的な入力方法であることはいうまでもない。スタイラスとはキーボードの代用にすぎず、それはキーボードの使えないような時(たとえば電車の中で立っている時など、キーポードを置くためのスペースがない時)に文字を入力するための工夫である。スタイラスとは、ワードプロセッサを使うことがすでに文書作成の標準的な方法となった環境の中で成立するものである。つまりそれは手書きへの「回帰」などではなくて、むしろまったく逆に、書くという動作すらタイピングの代用として利用しようとするアイデアである。このことは、かつてタイプライティングが手書きに取って代わったことと比較すると興味深い。
 一九世紀末から急速に普及したタイプライターは、人間と文字言語との関係を大きく変化させた。それはいわば、「書く」ことがもつ形而上学的=性的な前提を、根本から解体することになったのである。「書く」ことの基本的な隠喩は、無垢な何かに引っ掻き傷をつけることで、世界に意味を植え付ける行為であった。その背後には、白紙=自然=女性に対する、ペン=精神=男性による、書字=認識=生殖という連想があった。タイプライティングはペンの支配を終わらせることによって、こうした隠喩の連鎖を断ち切ってしまう。現実的にも、女性タイピストの爆発的な増大によって、文書作成の仕事は男性の占有ではなくなってしまい、女性なしにはテクストの生産が不可能になってしまった。こうしてタイプライターによって、電子情報環境以前に「書く」ことに伴っていた神聖さはすでに消滅していたのである。「書く」ことは「テクスト処理」へと移行したのだ(2)。
 こうしたことは、メディアの歴史としては今や周知のことである。だがこのことを少し違った角度からみるなら、それは「手」から「指」への移行であるといえる。かつて、タイプライターのキーボードを叩くことは、ペンで書くことの効率化であった。スタイラスにおいては「書く」動作が、指でキーボードを打つことの代用となる。「書く」ことが手の仕事であり、「打つ」のが指の仕事であるとすれば、アナログからデジタルへの移行とは、書くことから打つことへの移行、すなわち「手」から「指(digit)」への移行と考えることもできるのではないだろうか?
 マルチン・ハイデガーを引用するまでもなく、人間は「手」とそれが握る道具によって、周囲の世界から分離不可能な存在となる。人類文明の起源に対する説明においても、直立歩行による手の自由が、人間の知的な自由と関係づけられてきた。こうした説明においては「手」は「精神」と不可分であり、それに対して「指」は、手を構成するたんなるパーツにすぎないようにみえる。「手」が心の動きを豊かに表現しうるのに対して、「指」ができることは、指し示すこと、数えること、打鍵すること、といった機械的な動作である。人間は「手」のレベルまではその人格の全体性が保持されているが、「指」にまで分解されるともはや「人間」は見えにくくなる。
 書くとき、眼は動くペンの先を注視する。それに対して、パソコンに向かって仕事をする時、眼は表示装置の中のカーソルやポインタを見ている。車のアクセルに置かれた足が意識されないように、そこではマウスの上に置かれた現実の指先は意識されない。指先は電気信号となってケーブルを通り、コンソールの上の(矢印や指の形として示される)アイコンとして経験されるのである。
 こうして電子化した指は、タイプライターを打つ指よりもはるかに強力に、精神を記号システムへと結合する。指はテキストを産出するだけではなく、電子テキストの中を漂いながら、他のテキストへのリンクを開く。「クリック」は、打鍵することとはまったく異なった経験である。それはボタンを押す行為の延長ではなくて、いわば「わたし」という個人をテキストの無限の連鎖、ハイパーテキストの中に溶解させる行為である。クリックすることでハイパーテキストの中をさ迷う人は、本を読む人と同じ確実な足場に立つことはできなくなる。スタイラスを持つ手が場所を持たなかったように、ハイパーテキストの中では読者の場所はなくなり、そのかわりにリンクをたどって行くさまざまな経路が存在する。個人であることを確認できるものは、わたしがたどった経路の記録(ヒストリー)だけである。
 これは、いったいどういう事態だろう? 決定的に変化したことは、機械によるテキスト処理においては、筆跡のような物質的レベルでの個性の識別が不可能になったということである。個性やスタイルは消滅したというよりも、むしろその物質性、変更不能性を喪失したというべきである。もしも電子テキスト時代のスタイルが考えられるとすれば、それは出口のない「個人」という洞窟に繋がれた囚人としてではなくて、むしろ情報空間の迷路の中を移動する一連の道順、つねにその先を指し示すポインタの連鎖として考えられるべきではないだろうか?
 デジタル情報技術は、書くことにおける「手」の支配を終わらせ、そのかわりに「指」に潜在していた可能性を実現しつつある。「指」とは精神と機械とを媒介する界面(インターフェイス)である。それはテキスト処理を「手」から解放することで、言語的な知そのものが個的な精神や意識を越えた外部と連動していることを露呈する。電子的情報環境とは、言語を解体するというよりも、いわば言語そのものの本質的な外部性を明るみに出すのである。
 情報が現代文化を特徴づけていることは、きわめて徴候的である。指(digit)は離散的な存在であり、精神の全体的な統合性よりも、むしろその部分的・分散的側面を代表する。「指」というインターフェイスによって、精神という機械が電子的な情報機械に結合される。そこでは人間精神が外部性や他者性によって貫かれていることが、これまでよりもはるかにありありと経験される。と同時に、精神と機械、人間と自然との境界は消滅してゆく。いいかえればデジタル情報環境のなかでは、言語や記号活動やコミュニケーションが、文化と自然とを貫通して作動しているような宇宙観を、今までよりも容易に持つことができるのである。
 さて、以上身近な経験を手がかりにしつつ、電子情報環境が人間と言語との関わりをどのように変えるかを考えてみた。けれどもこうしたメディア論的な視点だけでは、このような変化が人類の知の歴史のなかでどのような意味をもつのかを十分論じることができない。ここでメディア論を離れて、「情報」という概念をもう一度根本的にとらえなおす必要があるのではないだろうか。そうしないと、現代わたしたちが経験している文化変容は情報テクノロジーがたまたま与えた影響にすぎないと誤解されるかもしれない。情報テクノロジーの文化への影響という観点を越えて、むしろ「情報」という言葉で要約されるひとつの世界観が、知そのもののあり方を根本的に変化させつつあることに注目しなければならないのである。

3 「情報」は知のスタイルを変える
 デジタル情報技術は文化を大きく変容させつつある。けれどもこの変容の本質について考えるためには、電子テキストが印刷された文字に「取って代わる」とか、それによって読書に基づく教養の世界が「終焉」をむかえるといった衝撃的な言辞に惑わされるべきではない。それよりも、この変容が本当は何を意味するのかが、慎重に検討されねばならないのである。注意深く考察するなら、この変容はメディアの単純な政権交代ではなく、むしろ新たなメディアの登場によって古いメディアに潜在していた可能性が展開されてゆくことがわかるだろう。すなわちデジタル情報技術によって、それ以前の文化的蓄積がまったく新しい意味を持ちはじめるのである。
 こうしたことを根底からとらえるためには、そもそも「情報」とは何かということを考えてみなければならない。「情報」という語は、ちょうどパーソナル・コンピュータ自身と同じように「遍在的」であるが、だからといってこの語の意味が自明であるわけではけっしてないからである。
 「情報」という語の意味は「情報科学」に由来し、情報科学の工学的応用が大きな成果を生み出したからこそ、これほどまでに腐朽していることはいうまでもない。「情報」は物理・生命現象はもちろん、文化や日常生活においても不可欠な概念となっている。まるであらゆるものが「情報」であるように思え、「情報の汎神論」とでもいうべき状況が生じているとすら感じられる。だがここで問いかけてみなければならないのは次のようなことだ。すなわち、もしもすべてが「情報」であるなら、「情報」とはいったい何か?ということである。「情報」という魔法のような言葉は、本当は何を意味するのか? そしてわたしたちは、この語を通じて世界をどのように把握しようとしているのであろうか?
 こうしたことは、実際少しも明らかではない。それどころか、わたしたちはまだ、こうした世界観の変化の深さに気づきはじめたばかりであるようなのだ。いいかえれば「情報革命」なるものが、たんに応用科学が生活にもたらす影響といったレベルを越えて、人類の知の歴史のなかでどれほど深い意味をもつのかについては、わたしたちはまだ気づきはじめたばかりなのである。
 「情報」は特権的な記号である。けれども、この特権性はどこから来るのか? 端的に考えれば、それは情報工学が文化や生活に与えた決定的影響によるものである。けれどもこれは答えというよりも、問いの始まりにすぎない。「情報」という語が普及しているのは、パーソナル・コンピュータが普及している〈から〉だろうか? しかし技術革新が世界観を変えるというのは、事柄の一面にすぎない。電話や自動車やコンピュータのような発明品は人間の生のあり方を決定してしまうが、それは現実の反面しか言い表していない。もう一方の面においては、人間の基本的な世界理解における大きな転換があり、そこからみればテクノロジーとは、その転換の触知可能な現れにほかならないのである。こうした見方からすれば、われわれがパソコンやインターネットを使うのはそれらが便利で役立つからではなく、むしろ二〇世紀後半に顕在化した、世界把握における巨大な変動によってもたらされたものなのである。
 さて、こうした変動の深さを測定するためのひとつの手がかりは、ほかでもなくこの「情報」という語が、さまざまに異なった文化的コンテキストにおいてどのような役割を果たしているのかを検討することである。注意深く考えてみればわかるように、「情報」という語は、そのもっとも素朴な用法においてすら、情報科学的な意味の痕跡を保っている。「情報」は「知識」という語に完全に置きかえることはできない。情報とは知識一般ではなく、「事実」という形をとった知識を意味している。言いかえれば、情報とはデータ、あるいはデータに還元可能な知識を指している。つまり「情報」概念の根底には、意識、主観、志向といった複合的な条件から「知識」を分離できるという判断が含まれているのである。情報とはいわば、哲学的、認識論的な「泥」を洗い流した、知識の清潔なパッケージである。だからこそ、それは「処理」され「複製」され「転送」されることができるのだ。そして「情報」という語が自然科学ばかりではなく社会・人文科学においても及ぼしている圧倒的な力は、まさにこの「清潔さ」から来るものなのである。
 けれども、このことを指摘するだけではもちろん十分ではない。「情報」という語に特権を与えることによって、わたしたちは実は知識一般に対して、これまでにないほど鋭い輪郭線を引いたことになるのだ。世界を諸事実の体系として描き出すことによって逆に、事実ではないもの、データになりえないものが明確に意識化されてくるのである。コンピュータ環境に慣れれば慣れるほど、原理的にデータとしては扱い得ない知識の様態が現れてくる。逆説的なことだが、情報化が進めば進むほど、現実世界の手におえない複雑性がわたしたちに迫ってくるのである。そしてこのことによって、われわれは数理科学的な定義を越えた、「情報」という語のより深い理解に踏み入らざるをえなくなるのだ。
 ここでウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』やクルト・ゲーデルの「不完全性定理」が、現代文化に与えた影響を考えてみよう。それらはとりわけ、さまざまな領域に及ぶポスト構造主義的、ポストモダン的な言説に大きな影響を及ぼした。意地のわるい言い方をするなら、ウィトゲンシュタインやゲーデルの名は、論理実証主義や現代数学についてほとんど何も知らない多くの人々によって、世界観の巨大な変化を言い当てる特別な「記号」として使用されてきたのである。いわゆる「サイエンス・ウォーズ」においては、厳密科学における人名や概念のポストモダン的な濫用が争点となった。ここで問題にしたいのは、なぜ論理学や数学といった高度に抽象的な学問的達成の何が、より一般的な知的意味をもちうるのか?ということである。
 この問いに対して、とりあえず次のように答えておきたい。ウィトゲンシュタインやゲーデルによる達成は、認識に潜む自己言及的なパラドックスを顕在化させ、人間的な知の限界を露呈した。だがそれは同時に、わたしたちの世界理解をまったく根本的に新しい段階へと導く、最初の刺激となったのである。厳密で客観的な世界認識が限界に突き当たることよってはじめて、わたしたちは世界に対する別なアプローチが存在することを知り、自然や知性の本質について、別な形の問いを立てることが可能になったのである。見方を変えることによって、それまで限界と見えていたものが出発点となり、手におえないパラドックスと見えていたものが実は世界の構造の豊かさを示す指標となったのだ。
 さて、このような観点から「情報」という概念を見なおしてみるとどうだろうか? 「情報」に関しても、右に述べたことと同様の逆説的な事態があるように思われる。「情報」という概念は、人文科学的世界認識が前提している「意識」や「意味」に抵抗する。しかしだからこそ、それを通じてわたしたちはこれまでとは別な世界理解に踏み込みつつあるのだ。それは、近代において長らく支配的であった物理的世界と意味的世界との分裂が、融和されるような世界観である。「情報」概念は、そうした新しい世界観に向けて人間の知のスタイルを根本的に変化させる、触媒のような役割をしているように思える。けれども、もしもそうした新たな意味で「情報」という語を用いるとすれば、それはもはや、単純な客観量として定義さるような概念ではありえないだろう。
 「情報」の概念が生物界や文化のような複雑なものに適用されてゆくにつれて、「情報」という語は最初の工学的な定義を越えて、しだいに生命的なものへと発展してゆく。情報科学がもたらした電子情報環境のなかで、「情報」を生命的・宇宙論的な意味へと発展させる新しい知のスタイルが準備されつつあるのである。そうした新しい知のスタイルのなかでは、自然と文化との境界はしだいに曖昧になってゆく。自然科学と人文科学、説明と解釈との間の決定的な差異はなくなり、C・P・スノーの言っていた、自然科学と人文科学という「二つの文化」の区別は原理的には消滅する。もちろんそれとは別に、現実には専門主義が根強く存在することはいうまでもないが、新たな変化の兆しを無視することはできない。ここではそうした変化の徴候を示す2つの例を考えてみよう。

4 情報は生命に向かう――ミーム理論と生命記号論
 ミーム理論(theory of memes)あるいはミーム学(memetics)は、進化生物学の語彙を文化の研究に適用しようとする。「複製」「選択」「進化」「突然変異」といった概念を用いて、言語、社会構造、科学、文学、芸術、行動パターン、ファッション、身振り、空想、そして文化流行といった多様な現象を説明しようとするのである。これまで人間の主体的な選択(または気まぐれ)の結果とされてきたことが、実は特定の思考や行動をもたらす「情報」が人間の脳に「住みつく」ことによってもたらされると考えるのである。
 周知のように「ミーム」という語は、1976年にリチャード・ドーキンスによって着想された。その語源は一種の言葉遊びであって、「ミーム(meme)」は「遺伝子(gene)」と韻を踏むように作られ、またフランス語の"m^eme"にもかけられている。ミームは遺伝子と同様、それが住みつく宿主の利害には無関心である。遺伝子と同様、ミームもまた「自己複製子」の一種であり、ひたすら自分自身を複製して広がるだけの、純粋な情報機械にほかならない。違いは、遺伝子が有機体の身体構造を決定する情報を含んでいるのに対し、ミームは文化的・精神的なパターンを決定する情報を含んでいる点にある。そして、遺伝子の情報が生化学的な反応を通じて伝達されるのに対し、ミームの情報はコミュニケーションを通じて伝達されるのである。
 このようなミーム理論に対処する安全な方法はおそらく、「ミーム」を一種の比喩とみなすことだろう。文化や社会的パターンの多くが模倣され伝達されるの現象の背後に、あたかもわれわれの意識や意志から独立したエージェントが存在するかのようにみえると言ったとしても、それに反対する人はあまりいないだろう。文化の発展をダーウィン的な進化とみなす場合でも、このアナロジーが比喩にとどまっている限りは安全である。けれども、ミーム理論は比喩ではない。それは「ミーム」なるものが存在すると言っているのであり、文化は生物が進化するのと――まったく同一ではないにしても――同じように進化すると主張しているのである。
 このように生物学の境界を飛び越えて進化の概念を世界一般に適用しようとする試み自体は、別に新しいものではない。H・スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)やE・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp AugustHaeckel, 1834-1919)をはじめ、多くの思想家がダーウィンの世界観(あるいはそう思われたもの)を、文化や社会や宇宙そのものにまで応用しようとした。かれらが活躍していた時期――19世紀末から20世紀初頭――には、ダーウィニズムがまだ、みずからの説明を精密な分子機構によって物理化学的に根拠づけることができなかった。言いかえればこの時期には、ダーウィニズム自体が、その比喩的な側面から逃れることができなかったのである。ダーウィニズムは、正確なメカニズムを提示できないにもかかわらず、大きな説明力をもつ仮説だったのである。
 現代のミーム理論にとっては、事情はいわば逆である。わたしたちはすでに、進化をもたらす分子的なメカニズムを発見しており、ミームという概念はまさにこうしたメカニズムの中心的な概念である遺伝子に由来している。ここから、ミーム理論の奇妙な立場が生じる。それはある意味では、DNAの発見以前のダーウィン理論に似ているのである。すなわちミーム理論は、文化や行動のパターンに関して独特の興味深い説明力を持っているが、ミームがどのように作用するのかという精密なメカニズムを提示することができない。ミームは核酸分子のように観察したりモデルを組み上げたりすることができないので、その実体が神秘的なものと解釈されてしまう危険がつねに存在する。こうした側面があるために、未来の基礎科学を自称するミーム理論に対し、疑いを抱く人も少なくない。
 イギリスの心理学者でミーム理論の提唱者の一人であるスーザン・ブラックモアは、「ミーム不安」について書いている。彼女が見たある講演者は、「ミーム」という語をどうしても口に出して言わなければならなくなると、両手を上げて二本の指で引用符のジェスチャーをせずにはいられないようであった。ダニエル・デネット(Daniel Dennett)、リチャード・ブロディ(Richard Brodie)、アーロン・リンチ(Aaron Lynch)のようなミーム理論の有名な支持者たちはたしかにいるものの、多くの人々は、ミーム理論の説明力を認めながらも「ミーム」という語を口にするのをはばかっているようにみえる。ちょうどフロイトの精神分析理論があらわれたとき、多くの人々がその説明力に内心では魅了されつつも、セックスにまつわる語彙を避けたがったように…。
 だが精神分析がセンセーショナルとなった本当の理由はセックスを主題化したことではなく、むしろそれを通じて人間精神の新たな像を提示したことにあった。同様に、ミーム理論の最大の利点は、それが人類とその文化についての新しいイメージを与えてくれることにある。そしてこの新しいイメージこそが、論争を引き起こすものなのである。なぜならそれは、わたしたちがこれまで二つの別々な世界に属するものとして隔離してきた二つの領域、つまり自然と文化、生物と人間、物質と意味との間に「情報」というリンクを張ってしまうからである。
 ミーム理論には、ある種の脱神秘化作用がある。それは人間が自分自身を、「情報」の複合体にほかならないものとみなすのを可能にするのである。ミーム理論は、ホモ・サピエンスから宇宙の中でのその特権的な地位を剥奪してしまう。行動や文化や意識までもが「ミーム複合体(memeplexes)」にすぎないということ――それが意味しているのは、人間性(humanity)が物理学的・生物学的な説明から独立した聖域ではないということある。
 ミーム理論が人間性を脱神秘化する力は、「複製」という概念の思いきった拡張から生じている。ミーム理論における複製概念は、進化生物学におけるそれとは実はかなり異なっているのだ。ミームが複製されるメカニズムを直接「見る」ことはできないから、わたしたちはいわばその「表現型」である言語や思想や行動パターンや社会形成を観察することによってしか、「複製」について語ることはできない。遺伝子とは異なって、ミームを外から観察することでないし、ミームの運ぶ「情報」は他のミームによってしか解釈されることがない。生物学の語彙によって語られながら、ミームの世界は生物学の扱う世界からは完全に独立しているように見えるのである。
 ミームが「第二の複製子」と呼ばれる理由はそこにある。すなわちミームは、遺伝子に対しても、固体に対しても、またいかなる集団や種に対しても、それらへの利害とは独立に作用するのである。A・G・ケアンズ-スミスの仮説を引用しつつ、ドーキンスは「複製」を宇宙の根本原理であると語っている。初期の非生物的な複製過程が、やがて生物学的な複製メカニズム(RNA、DNA)にとってかわられ、それが何億年もの進化の過程を経て脊椎動物、類人猿、ついには人類の神経系へと到達した。生物的な複製子(遺伝子)の担う情報が、それ自身の存在を遺伝子に負っている生体にとってしか意味を持たないように、文化的複製子(ミーム)の担う情報も、それ自身がミームの複合体にほかならない知的存在によってしか解釈されない。このかぎりではたしかに、生物学とのアナロジーを認めることができる。
 だがもしもミームが「第二の」複製子であるなら、このアナロジーだけで満足すべきではないだろう。文化が宇宙における複製の第二段階だとすれば、その場合「第二」であるとはどういうことかを考えなければならない。「複製」は遺伝情報の複製にたとえられているが、もしも文化における「複製」を考えるとすれば、そうしたモデルを越えた新しい規定を行なっていかなければならないだろう。ミーム理論が用いる生物学的なアナロジーは、そうした新しい思考のための突破口にすぎず、けっして最終的な解決ではない。「ミーム」という概念は、先に述べた「情報」の概念と同様、知のスタイルを根本的に変化させ、新しい知的態度を発見するための一種の触媒的効果をもたらしているのである。
 ミーム理論は、現代生物学の機械論的な説明方法を文化の領域へと拡張するものであった。それに対して、現在注目を集めている「生命記号論」(biosemiotics)は、逆に言語や文化の本質である記号論的な複雑性を、生物界の中に見ようとする試みである。生物学は、一九世紀末に生気説(vitalism)を否定することで、ますます精密化する機械論への方向を歩んできた。二〇世紀半ばに生命現象の実体として分子的なメカニズムが発見されると、生物機械論は完成されたものとなる。そうした生命モデルにおいては、物理化学的な力以外の要因を考えることはまったく不必要である。したがって現代生物学において「情報」概念が用いられる場合も、それは多くの場合、情報科学的な意味のそれと同じように使われる。つまりそこでは「情報」とは、意識や主体性から独立して存在しうる客観的な量なのである。それに対して生命記号論は、秩序を生成する原理としての「情報」を考える。あるいは「情報」のかわりに、「記号」「意味」「主体」といった語彙を、生命の世界に導入しようとするのである。
 生命記号論が用いているのは、ソシュールの記号論ではなく、C・S・パースの記号思想である。パースの記号論は二項関係ではなく、三項関係に基礎をおいている。三項関係においては、記号とそれが表わす対象だけでは、けっして世界は完結しない。記号的関係においてはつねに、記号を対象へと媒介する第三項(解釈項)が不可欠なのである。生命記号論は、こうした第三項あるいは「解釈者」の存在が生命現象の説明に不可欠なものと考える。文からその意味が実現されるためには解釈者が必要であるように、遺伝的情報の担い手であるゲノムをそれが意味する特定の表現型にもたらすためには解釈者――たとえば胚発生における受精卵細胞――が必要であると考える。読者のいない部屋に置かれた書物が何も意味していないように、遺伝情報は細胞のなかになければ何も意味していない。
 「情報」を客観的な量としてのみ扱う自然観は、機械論や決定論一般と同じく、ひとつの奇妙なねじれをその内部に含んでいる。それは自然のなかからすべての主体性や意識を排除しておきながら、そのようにして自然を見ている人間だけには、暗黙のうちに主体性と意識とを認めているということである。ただし通常の自然科学においては、そうした主体(人間)は理論的説明の外にあって不可視である。いわば通常の自然科学的世界観においては、自然と、自然を探究する人間との間に、暗黙のうちに形而上学的境界線が引かれていることになる。(にもかかわらず自然科学の中心にある機械論や決定論は、みずからを形而上学とは無縁な思考だと主張する)。
 生命記号論はそれとは逆に、「主体」「意識」「自己」といったカテゴリーが自然の不可欠な構成要素であるという前提から出発する。といってもそこでの「主体」「意識」「自己」は、それ以上還元不可能な実在ではない。「自己」とはデカルト的な「コギト」ではなくて、むしろ「自己言及」に関係がある。デンマークの生命記号論者ジェスパー・ホフマイヤは、論理学にとって途方もないパラドックスを引き起こすこの自己言及性こそ、生命にとってむしろ喜ばしいものであり、また本質的なものであると言う。生命はすべて、DNAにおいてデジタル化された情報を通じて、自己記述を遂行している。「自己とはそれ自身に関連している関係である」というキルケゴールの言葉を引用しつつ、ホフマイヤは次のように考える。「つまり、『自己』は、彼が存在する場と、その場における彼の存在、そしてその二つを認識する彼という三項関係を前提する。」そしてその意味で、自己とは人間の自己意識の経験から類推されるべきものではなく、自然の記号論的過程(そこにはつねに三項関係が含まれている)のなかに想定されるのである。
 このように生命記号論は、個体や種を中心に考えるのでも、また遺伝子を中心に考えるのでもなく、さまざまなレベルの記号どうしのきわめて複雑なコミュニケーション過程としての生物界を考えている。そこでは生命という「記号圏」が個体を貫いて生動しており、人間の感情や思考のような精神活動も、そうした記号圏に完全に浸透されていることになる。生命記号論は、「主体」「自己」「意味」といった語を生物界を説明するために用い、そのことによって、自然と人間との境界をなくしているともいえる。これまで人間は、一方ではみずからを自然の支配者とする傲慢な態度、他方では自然に対するセンチメンタルな共感やロマンティックな憧れを持ち、その間をゆれ動いてきた。記号論的過程という点で自然と文化とを連続したものとして見る考え方は、自然に対するこうした不安な両義性からわたしたちを解放してくれるのである。
 今のところ、ミーム理論や生命記号論がわたしたちをどこに導いていくのかは未知数である。また、ミーム理論と生命記号論とはまったく性格が異なっており、このように並置すること自体、無理があるかもしれない。実際生命記号論者たちは、ミーム理論はただの流行にすぎず、理論的には早晩挫折するものだと考えているようである。本論でこれらに言及したのは、これらの新しい試みが、何らかの仕方で自然と文化との境界を消去しようとしており、それがデジタル情報テクノロジーによる文明の再編成という、わたしたちが現在経験しつつある状況と密接に結びついていることを指摘するためである。コンピュータ・ネットワークにおけるコミュニケーションという状況がなければ、文化的情報が遺伝子のように自己複製し進化するというイメージは説得力をもたないだろうし、地球規模の電子的言語環境の中に生きていなければ、生物界を複雑な記号過程のネットワークとしてリアルに想像することも難しかっただろう。「情報」は、新しい知のスタイルへとわたしたちを導いているのである。

* * * 注 * * *
(1) Palm Pilotではこの独特の書法は”Graffiti”(落書き)という意味深長な名で呼ばれている。「落書き」とは特定の意図や目的なしに書くこと、まさに無意識からのメッセージを、壁や地下鉄などの本来書くべきでない場所に書くことだ。落書きとは、言語がハイパー空間へと逸脱してゆく衝動を本来もっていることを、電子情報環境の到来よりはるか以前からずっと証明してきた行為だと言ったら、言い過ぎになるだろうか?
(2) フリードリヒ・キトラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(石光泰夫・石光輝子訳、筑摩書房、一九九九年)二八三頁以下参照。
(3)「スタイル」という概念に関してもそうではないだろうか。「スタイル」とは個人であれ特定の集団であれ、また一つの時代であれ、何らかの個的な特徴から抽象される。それは「個」の中にある、「個」を越えた何かなのだ。「個」は反復も模倣もできないが、「スタイル」は習得し模倣できる。「物真似」とはある人を再生するのではなく、その人の「スタイル」を真似るのである(だからこそ、卓越した物真似はしばしば本人には似ていない)。いってみれば、言語表現その他を「スタイル」としてとらえることが、すでにしてある種の「情報化」なのである。
(4) アメリカの科学者グロスとレヴィットによる『高次の迷信』(1994)が引き起こした反響に呼応する形で、アメリカの雑誌「ソーシアル・テクスト」が1996年に「サイエンス・ウォーズ」特集を組み、そこから広がった学問論争。論争の事実的経緯については金森修「サイエンス・ウォーズ」(『現代思想』1998, vol.26-9,10)などを参照。
(5) リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(日高敏隆他訳、紀伊国屋書店、一九九一年)第11章「ミーム――新登場の自己複製子」参照。
(6) Susan Balckmore, The Meme Machine, 1999, Oxford University Press. p.8.
(7) こうした情報の概念は科学思想史からみれば、一九世紀末のネオ生気論者たち、たとえばドリューシュが考えていた「エンテレキー」に近いものである。生命記号論は、そうした生命の秩序原理を記号論的的過程として考えているわけであり、いかなる超自然的な力の存在を仮定しているのでもない。記号論的説明は機械論的説明と矛盾するのではなく、むしろ機械論的な説明において排除されている「主体」という要素こそ、生命にとって本質的に重要であると考えるのである。
(8) オリジナルのデンマーク語版は一九九ニ年に出版。ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』(松野孝一郎、高原美規訳、青土社、一九九九年)七五頁。
(9) 前掲書八九頁。
(10) 室井尚も、ミーム理論と生命記号論との間に共通する問題を見ているようである。『哲学問題としてのテクノロジー――ダイダロスの迷宮と翼』(講談社、二〇〇〇年)一八四頁。
(11) 一九九九年のドレスデンにおける国際記号学会の「生命記号論」分科会において、わたしがミーム理論のもつ意味について発表したとき、たまたま司会をしてくれたのがホフマイヤーであった。次の研究発表がキャンセルされたためにわたしたちはミーム理論について長い質疑の時間を持ったが、生命記号論者たちはミーム理論そのものについては一様に否定的であった。なお、本エッセイの三章、四章の一部が、この時の発表原稿の内容と重なっていることをお断りしておきたい。