情報と身体
(ネットで「世界」は狭く、情報は身体を離れる)
以下の小文はすごく忙しかった時期に、新聞に頼まれた締切を忘れていて慌てて書いたのですが、国語や現代文の入試問題、模擬試験、参考書や問題集などに採用され、あげくのはてに文科省検定教科書(三省堂 『新編・国語総合』)にまで掲載されてしまい、複雑な思いをもっているテキストです。
世界が、とても狭くなってしまった。
ここには二つの意味が含まれている。第一に、メディアの発達によって、世界のさまざまな場所で起こっている出来事を、簡単に知ることができるようになった。新聞、写真、電話、映画、テレビ、そしてインターネットのおかげで、空間的距離や時間的遅れはどんどん縮小されてゆき、その結果世界はたしかに「狭く」なった。メディアの中では、自爆テロもオリンピックも国会での証人喚問も、あたかも目の前で繰り広げられている一連のショーのようだ。それらは悲しみや怒りや喜びといった強い感情を引き起こすけれど、自分自身は日常生活という「観客席」に座ったままなのである。
これは未曾有の状況である。人間は長い間、自分が住む小さな共同体=ムラの外で何が起こっているかを確かめるには、旅に出るほかはなかった。「旅」とは身体がリアルな時空間のなかを運動することであり、その運動を通して世界を経験することである。これは、生き物として自然なことでもあった。一方メディア環境においては、身体の運動なしに世界についての知識が獲得される。そこでは反対に、より多くの情報を得るためには、より長くモニターの前に座っていること、つまりできるだけ身体を動かさないことが必要になる。そこでは知覚と運動とが分離されている。その意味で、生き物としてたいへん無理なことを強いられているわけだ。
さて、そのようにして膨大な情報にさらされているぼくたちは、これまでよりも世界をオープンに経験しているだろうか? とてもそうは思えない。インターネットによって誰もが直接「世界」にアクセスできるはずなのに、ほとんどの人が仕事以外にやっているのは、仲間うちでメールを交換し、国内のごく限られたウェブサイトを眺め、掲示板でおしゃべりすることである。情報ネットワークは、それがただ存在するというだけでは、未知の人々どうしの出会いなど生み出さない。むしろ現在のインターネット環境においては、人々は情報を既製品のカタログのようなものとして経験する。「出会い系サイト」では、人間どうしの「出会い」すら、もはや思いがけない出来事ではなくなり、一定の「手続き」に変えられてしまう。
これが、世界が狭くなったということの、二番目の意味である。情報ネットワークの中で、人々はますます狭い世界の中に安住するようになってしまったのだ。八〇年代末、「オタク」ということがよく話題にのぼった。さて現在、多くの人はマニアという意味でのオタクではないけれども、「オタク」的な心性はこの十年あまりの間に、社会にしっかり根を下ろしたようにみえる。すなわち人々は、外の世界「について」の言葉やシンボルを操作するのは巧みだが、自分の世界「の中で」それらを意味づけようとはしない。まるで「幽体離脱」のように、知識と身体とを切り離す術を修得してしまったのである。
かつては、わずかな情報を手にいれるために、図書館に通って片っ端から資料を調べたり、注文した外国雑誌を何ヶ月も待ったりしなければならなかった。それはたしかに、とても不便なことであった。けれどその「不便さ」がある意味では、情報の意味をゆっくり考える猶予を与えてくれていたとも言える。また、ある種の情報が手に入りにくいことは、それを獲得し自分のものにしようとする強い動機づけになってもいた。逆説的に聞こえるかもしれないが、そうした「効率の悪さ」が、とても複雑な意味の場を形づくっていたのである。長い時間のかかる作業は人にいろいろなことを考えさせたし、その途中で思いがけないものが見つかったりした。それに対し、探しているものがすぐ見つかる情報空間とは、裏をかえせば「単に探しているものしか見つからない」退屈な場所だともいえる。
こんなふうに言ったからといって、昔を懐かしんでいるわけではけっしてない。そうではなく、人間がつねに身体をともなった存在であること、情報に意味を与えるのはこの身体を通してしかありえないことを、今一度思い出そうと言っているだけだ。インターネットにどっぷり浸りきるのも、逆にそれを拒絶するのも得策とは思えない。大切なのはむしろ「頻繁にスイッチを切る」習慣かもしれない。メディアという「観客席」からサッと立ち上がってはまた戻ってくること。電子的空間と身体的現実との間の往復運動に、自分なりの軽快なリズムを見出すこと。パソコン講習会に通うことではなく、それこそが本当の「情報リテラシー」だ。「IT革命」も行き詰った今こそ、情報通信技術が人間にとって何の役に立つのかを、産業や専門家まかせにせず、日常生活の「中から」考えていく絶好の機会なのである。