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流体生命論:野口三千三『原初生命体としての人間』を手かがりに

日本記号学会編 叢書[セミオトポス]第1巻『流体生命論』

はじめに

日本記号学会から新たに発刊される『叢書セミオトポス』の第一巻となる本書を、「流体生命論」と名づけた。それは〈生命〉あるいは〈生きる〉ということを、何か固定した目的を目指す活動としてではなく、絶え間なく変化する〈流れ〉として理解しようというような趣旨である。このようなテーマ設定をしたのは、高度に発達した技術文明や経済のグローバル化という現代的状況の中では、生きることのダイナミックな側面が、見えにくなっていると思うからである。しかもそれは、人々が意図的に変化や運動から目を背けているからではなくて、変化や運動すら現代では一種の技術的問題、プログラムの問題に還元されることによって、見えなくなっている。だからよけいに厄介なのだ。この状況が、社会や文化に深刻な危機をもたらしているばかりでなく、知的活動にとって本質的に重要な、懐疑や批判の精神を窒息させようとしている。

生命のダイナミズムについて考えるためには、ベルクソンやドゥルーズの哲学は決定的に重要なものであるし、また仏教のような非西洋的思考の大きな伝統が存在することも忘れてはならない。だが本書では、野口体操教室を長年にわたって主催し、ユニークな身体理論を展開した野口三千三の著書『原初生命体としての人間』をひとつの手かがりとして考えることにした。野口の思想は体操という実践的な活動を通して生み出されたものであり、身近で平易な言葉で語られていながら、現代文明が自明のものとしている生命観や身体観を、根本的に批判するものだからである。本特集は野口三千三について系統的に紹介するものではないが、かれの「原初生命体」という発想を様々な領域における人々の思考と結びつけることによって、日本記号学会の標榜する広い意味での「記号学」の核心である、知の横断的な運動を目指そうとするものである。この小論では、こうした企画のもとになったいくつかの考えを、いくぶん断片的ながらも書き記しておきたい。

ロボットの人間化=人間のロボット化

現代における生命観・身体観の問題を考えるために、まず最初にロボットについて考えることから出発してみたい。意外に思われるだろうか? もちろんロボットは機械であり人工物であって「生きて」はいない。だから厳密な意味では「身体」を持つとはいえない。だがロボット——とりわけ人間型ロボット——は、生きた人間に「似ている」ことによって、生命とは何か、人間とは何かという問いを常に喚起し続けてきたのである。ロボットは人間にとっていわば〈鏡〉のような存在であり、それを通してぼくたちは自分自身の欲望や不安をありありと見、自分自身の姿に直面することになるのだ。その意味でロボットとは人間にとって、魅力的であると同時に不気味な存在であった。

だが、長らく小説や映画の中の空想的存在であったロボットは、今や現実のものとなりつつある。ちょうど本書が出版される頃に開幕する愛知万博では、最先端テクノロジーを駆使したさまざまな人間型ロボットが、人々の注目をあびるていることであろう。それらは二本足で歩行し、ダンスをし、人と対話する。かつてロボットの特徴であったギクシャクした機械的な動作は、高度な運動制御装置の発達によってなめらかでデリケートな動きに置きかえられている。現代のSF映画に登場するロボットも、多くは人間と区別がつかないような存在として描かれている。今日実現されているロボット・テクノロジーのレベルからすると、そのように描かないとリアリティーが感じられないからであろう。かつて『禁断の惑星』に登場した「ロビー」のようなロボットは、もはやノスタルジーを感じさせる存在でしかなくなってしまったのだ。

これはある意味では、ロボットと人間との区別が消滅してしまったということではないだろうか? もちろん文字通りの意味でではなく、人間が機械に対して抱くイマジネーションのレベルでの話である。つまり人間の〈鏡〉としてのロボット、人間を不安に陥れ、人間とは何かという問いへと導く妖しい魅力をもった存在としてのロボットが、死滅しつつあるのではないかという意味だ。現代のロボットは——現実のものであれ空想上のものであれ——チャペックのロボット、アシモフのロボットがかつてぼくたちに与えたような衝撃を与えることはない。逆説的なことだが、ロボットが発達し人間に近づくことによって、かつてのロボットは力を失った。いわばロボットという存在の中に潜んでいた批判的機能は消滅し、それは人間にとってきわめて安全な存在になってしまった。ロボットはもはや他者ではなくなったのだ。

このことは、ぼくたち人間が自分自身の身体を精巧な自動機械として感じはじめたということでもある。ヒトゲノムの解読、遺伝子操作、クローニング、臓器移植が声高に話題にされることによって、一般の人々の身体観は静かにしかし劇的に変化した。つまり今や、身体とは、そのプログラムを書き換え、パーツを交換することのできるような何かであるという認識を、専門家ばかりでなく一般の人々までが共有するようになったのである。脳はコンピュータのようなものであると言っても今では誰も驚かないし、遺伝子DNAのデータを示して「これがあなたです」と言っても不安や抵抗感を感じる人は少ない。このことは、科学的知識が普及したといったこととはまったく違う。そうではなく、ぼくたち個々人の生の理解の内部にまで、テクノロジーに従属するような思考パターンが入り込んだということなのである。大病院でCTスキャナなどのハイテク医療器具による診断を経験するだけで、多くの人は「あなたの身体のことはあなた自身よりもこれら機械の方がよっぽどよく知っているのだ」という暗黙のメッセージを受け取り、それに従うしかないと感じるのである。

すべてが技術的問題に還元される

人間とロボットが身体的想像力の中で同じになり、ロボットが他者ではなくなったということは何を意味するのだろうか? たしかに、博覧会で器用に歩く二足歩行ロボットを初めて目にした人は、そのテクノロジー的達成には目を見張るであろう。だがそこには、わけの分からない魅力や不気味さはもはや感じられない。なぜなら、そうしたロボットはすでに設定された目標——二本足で歩くこと、人と対話すること、ダンスすること、病人を介護すること、etc.——に対する、最新の技術的応答を示しているにすぎないからである。そこには本当は「ロボット」という独自の存在などはなく、動く機械を通して人々が目にしているのは、実はテクノロジーの発達の現状報告にほかならない。さらにいえば、そこに伝えられているのはたんに最先端のロボット工学の成果ではなくて、そうしたテクノロジーに大量の投資を行い、技術的思考を他のあらゆることに優先させようとする国家と産業のメッセージなのである。

技術的思考それ自体のうちに何か邪悪なものがあるわけではけっしてない。技術的思考とは元来、無邪気な知的好奇心と製作への衝動に支えられたものである。技術者魂とはようするに「出来そうなものは作ってみたい」ということだ。だがグローバル化した経済と産業の中では、それが歪んだ姿で表現されてしまう。そこでは技術的思考が、一部の集団による一方的な富の蓄積のために利用されることになるからだ。そのようにして技術が経済的勝利をおさめる結果、技術的な思考は人々の生の内部にまで浸透してゆく。人生や社会におけるあらゆる問題は、技術的問題へと還元され、生きることは限られた資源と環境の中でいかにして他者を出し抜いて繁栄するか、という適応のゲームとして理解されるようになる。グローバリゼーションを支えている生命観とは、徹底したネオ・ダーウィニズムなのである。そこでは福祉や弱者の保護といった問題ですら特殊な技術的課題——法の整備や介護ロボットの開発——でしかなくなってしまう。

こうした現代の世界において決定的に欠落しているものこそ、生命のダイナミズムに対する視点である。ダイナミズムというのは予測不可能な変化や運動のことであり、技術的目標としては設定できない。ごく簡単な例をあげてみよう。ロボットにダンスをさせることはひとつの技術的目標になりうるけれども、ダンスそのものは技術的目標として発生したものではない。たしかにダンスを習うときには決まったステップを真似するから、まるで技術的な目標がそこにあるかのように見えるかもしれない。だが舞踏家の麿赤兒は言う。「ステップっていうのは、はじめから決まっるもんじゃなくて、新しいステップが生まれる時ってのは、こうして止まって、ちょっと出てしまった時の、それをオットット、オットットと行けばタンゴになるだろう‥‥。」

このような視点は一見いい加減な考え方にみえるかもしれないが、生命について考える上で、根本的に重要な事柄を言い当てている。それは、この世界には原理的に非‐技術的なプロセスが存在するということである。しかもそうしたプロセスは、技術的に定式化できないからといって、たんなる偶然の結果ではない。いや、技術的思考からはたんなる偶然や「エラー」としか見えないものの中に、生きた世界のもつ産出力が隠れているかもしれないのだ。新しいダンスのステップのような秩序が創発するこうした瞬間の背後には、生きた世界のダイナミズム、運動の論理が作動しているのである。だがこの論理は、客観的にプログラムすることはできず、もっぱらみずからの生きた身体を通じて発見してゆくしかないものなのである。あらゆる問題を技術化する現代文明の中で見落とされているのは、こうした経験の意味である。自分の身体の奥から発せられる声を聞くこと、身体的経験を通して問題に対処してゆくことは、やみくもな直観や実感といったものではなくて、むしろ高度に知的な活動なのである。そのことを知るのが重要なのだ。

野口三千三のアクチュアリティ

野口三千三の『原初生命体としての人間』が最初に出版されたのは一九七二年のことである。ぼくがはじめてそれを読んだのは刊行から数年後、大学に入ったばかりの頃だったが、正直言ってその時は、さほど興味をひかれなかった。不思議な魅力のある文章だとは感じたが、ずいぶん大雑把な議論だと思っていた。生命についての思想という点では、同じ年に翻訳が刊行されたジャック・モノーの『偶然と必然』が激しい論争の的となっており、分子生物学における当時最新の知見を踏まえたそうした議論からみると、野口三千三のこの本を、自分の中でいったいどのように位置づけたらいいのかわからなかったのである。当時のそうした最先端科学の発見に背を向けて自分自身の身体感覚、「今ここにあるなま身のからだ」を探ることで、いったい生命について何が言えるのだろうか、と疑っていたのだ。

だが今の時点から振り返ってみると、何が問題であったのかが少しはよく見える。生命の全体性を無視してひたすら数値分析に没頭する論理・科学の偏向性を野口は批判するが、その場合「戦後の虚脱から抜け出すのにたいへんな思いを経験した体操の教師」であるかれにとって、「論理・科学」とは明治以来日本が国家政策として採用してきた西洋近代的な知識の枠組みのことを意味していたのであり、かれはそれを戦前から体操教師としての訓練の中で、痛切に感じてきたのであろう。一方、歴史を知らない戦後生まれの大学生にとっては、七十年代における分子生物学は野口の言う「論理・科学」ではなく、強烈な知的刺激をもたらす魔術のような思考であった。その知識がやがては生物工学という形でグローバルな産業・経済システムに組み込まれてゆくことは、SF小説を通じて想像してはいたものの、まだ実感できなかったのである。

野口が「論理・科学」と呼んでいたのは、本当はテクノロジー、技術的思考のことであり、さらにはそうした技術的思考を強力に推し進めてきた政治的な力のことであったと理解できる。それは野口にとって、身体の「今ここ」というありようを無視し、身体をまるで機械のように、ロボットのようにコントロールする、近代的な体操の中にも体現されているものであった。そこでは身体の各部に力を入れ、姿勢を正し、身体を鍛えることが中心となる。明治時代の「富国強兵」「脱亜入欧」「和魂洋才」といったスローガンは、すべて日本という脆弱な国家にいわば「力を入れる」という方針を表すものだった。西洋近代の技術的思考を取り入れることによって力をつけた日本は、日露戦争の勝利によって国家的なナルシシズムを肥大させ、さらに力を入れて、ついには太平洋戦争に突入する。

野口の言う「戦後の虚脱」とは、日本の近代化と並行する「力の入った身体」の破綻という経験のことだと理解することができる。その中から、力を入れるのではなく力を抜くという、野口体操の基本的原理が発展してきた。そして今日、野口三千三の思想がアクチュアリティーを持っているのは、歴史的な状況が変わっていないからである。すなわち戦後の混乱期が一段落すると、日本という国家はまたやみくもに「力を入れ」はじめたのだ。高度経済成長を達成し、バブル経済を経験することで、再び日露戦争後にも似た集合的ナルシシズムが蔓延した。そしてその後、九十年代のいわゆる「IT革命」の大騒ぎや、今日のイラクへの自衛隊派兵、憲法改正や国連の常任理事国入りに関する議論などを取り巻いている気分は、グローバル化という外圧の中で、無理して「力を入れ」ないと大変なことになる、油断すると取り残されてしまうといった危機感である。

そうした気分は社会を通底して、個人的な身体感覚にまで入り込んでいるのではないかと思う。たしかに、現代のぼくたちは、自分の身体が戦前の軍隊のような機械的な規律によって縛られているとは感じていない。だがそのことは身体への支配が、高度化したテクノロジーによってさらに内面化され徹底されたことによって、たんに見えにくくなっているというだけなのではないだろうか。ようするにぼくたちの身体は、ギクシャクと動く古典的なロボットから、なめらかで自然な動きを実現した、コンピュータ制御の最先端ロボットに変わったというだけのことではないのだろうか。だとすれば、そこにはたんに技術的進歩があるだけであり、根本的には何も変わっていないということになる。このような時代認識の中で、ぼくは野口三千三の『原初生命体としての人間』を再び読んだのである。

「ゼロ地点」から出発すること

現代文明を取り巻いている複雑な状況を考えると、野口の理論は一見あまりに素朴なものと思われるかもしれない。だが注意深く読めば、体操の実践の中から紡ぎ出されたかれの簡潔な言葉は、驚くほど長い射程をもった洞察に支えられていることがわかる。そしてそうした洞察の根本になっているは、いわば力が抜けてゼロになった状態、虚脱状態の身体の中に経験されるリアリティーなのではないかとぼくは思うのである。歴史的には終戦直後の一時期、多くの日本人がそうした虚脱状態を体験した。最近ではいうまでもなく、9.11の攻撃によってグローバル化の中枢に「ゼロ地点」が出現した。あるいはそうした人為的な破壊行為でなくても、大地震などの自然災害の直後には、人々はそうした虚脱状態を、これまで繰り返し経験してきたのである。

それらはもちろん悲惨な経験であるが、かつて人々はその中に、超越者が人間に示すある種の教訓——つまり人間の愚かさ、それが地上でなしうることの脆さの自覚——を読み取ってもいたのである。だが超越者に対する感覚を失った近代人にとっては、大惨事とは、もっぱら一刻も早く復興・復旧しなければならない課題を課すだけのものであり、虚脱感そのものの中にも何の意味も認められなくなった。もちろん復興は必要なのであるが、それとは別に、すべてがゼロとなるというきびしい経験の中に何か重要なものを探るという余裕を、失ってしまったようにみえるのである。それは人が「死」への感受性を失ってしまったこととも関係があるだろう。現代人は、死に直面するのを避けるのと同様、「ゼロ地点」的なるものからも目をそむけようとしているのだ。

けれども死や破壊がもたらす虚脱感・脱力感の中には、実はぼくたちの身体が伝えてくる重要なメッセージが含まれているのではないだろうか。体操という実践を通じ、「力を抜く」ことによって野口が伝えようとしているのは、ゼロ地点に立った身体に潜在する可能性に気づくということではないだろうかと思う。何も、戦争やテロや災害の経験だけが問題ではないのだ。藤田紘一郎との対話の中で話題になったように、若者という状態、つまり大人になっていない不定形状態もまた、人生の中でのそうしたゼロ地点のひとつであるといえる。野口は、若者とは何かの「卵」というより「ウジ虫」なのだと秀逸な比喩を用いている。つまり、グニャグニャ、ニョロニョロしてまだ何になるか分からないような存在、どう動くか分からない存在であり、どちらかというと不快なものなのであるが、まさにその形の定まらないうごめきの中に、途方もないエネルギーが隠されていると考えるのである。これは現代のマスメディアやコマーシャリズムの中で普通に受け入れられている「若さ」のイメージとは大違いだ。そして不定形性、予測不可能性といった若さの定義からすれば、現代の若者はあまりにも早くからそれを失っていると感じざるをえないのである。

ゼロ地点から出発すること——それはこの日常生活のただ中で、膨大な情報、当然とされている手続き、堅固で変更不能に思えるシステムといったものを、あえてカッコに入れてみることであり、そのことによって現実は、まったく異なった姿で見えてくるのではないかと思うのである。記号学とはそもそも、そういう知的冒険であったとぼくは理解している。それは、既成の常識や価値観を相対化し、現実をまったく異なった視点から見る方法論を提示したからこそ、二十世紀の思想に大きな刺激を与え続けてきたのではないのだろうか。今の時代は、グローバリゼーションと共に技術的思考が浸透してゆく結果、知的領域から政治や産業、そして日常生活に至るまで、常に既存の情報、手続き、システムの内部で問題を処理しようとする態度が、あまりにも幅をきかせすぎている。そうした現代という時代において、あえて「力を抜いて」ゼロ地点から出発するような発想が、決定的に重要であると信じている。

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(C)Hiroshi Yoshioka