<反>ファッションチェック
IAMASフリーペパー「クロッカス」の連載記事
IAMASでの教え子で青春の輝きまっただ中だった廣田ふみとかくだなおみ(IAMAS 新聞部)が発行した、伝説的な学内フリーぺーバー「クロッカス」。そこから依頼されたぼくの連載記事「<反>ファッションチェック」の、第1〜5回の原稿です。
第1回 ファッションという暴力
IAMAS新聞部が私に依頼してきたお題がなんと「ファッションチェック」である。まったく何を考えているのか(笑)・・・あまりにもバカバカしいので引き受けることにする。
まず「ファッションチェック」とは何かについて私見を述べておこう。ひとことで言うと「おおきなお世話」である。街角を行く人の写真とか、時には本人をわざわざテレビスタジオに呼び出して、投稿短歌の添削をするみたいに、あれやこれやとアドバイスをする。すべての講評がそうであるように、そこではチェックされる人ではなく、チェックする人のレベルが露骨に表れる。そしてたいていは聴くにたえない。
そんなにまでしてみんなを「イケてる」ファッションに近づけて、いったい何が面白いのか。「ファッション」から「ン」を取ると「ファッショ」である。ファッションはファシズムと一字違いなのだ。両者ともチェックされたい人、すすんで時流に従属したい人が大量に存在することで成り立っている制度なのである。
江戸の美意識の頂点は「粋【いき】」だが、その次にまだ許せるのは「野暮」であった。それに対してもっとも軽蔑されたのは「半可通【はんかつう】」だ。「半可通」というのは、マニュアル的情報だけ習得して自分は最先端だと信じている輩のことである。こういう「自信」がいちばんみっともない。なぜか。無知だからだ。センスとはそもそも教えることができない(マニュアル化もチェックもできない)という基本的事実を知らないからだ。だがすべての芸術的訓練は、まずこの事実を徹底的に納得することから出発するのである。
「野暮」は「半可通」の成金根性をもたない分、少しは可能性がある。「気楽に、何も考えないように生きる」という、現代の多くの若者に共通する「野暮」は、流行とブランドを血眼になって追い求めた一時代前の「バブル半可通」よりは健全で、見苦しくはない。だからといってそこに居直ってはどうにもならない。時流に媚びる大多数を気にしない点でこの野暮は正しいが、真に眼を持つ少数者をも懼れない点で誤っているからだ。
ようするに何が言いたいのか。「チェック」とはそもそも間違った制度だと言いたいのだ。チェックは「半可通」を大量生産し「野暮」を排除するからである。学校も社会も、今の世はとにかくチェック過剰である。その反面、センスの伝達不能性のような基本的事実を軽視する。だから私がファッションについて書くとすれば、そうした事実の重要性を喚起するため、懼れの感情を呼びさますためでしかない。すべてはそこから始まるからだ。
身を殺して魂を滅ぼしえぬ者どもを懼るな、身と魂とをゲヘナ(地獄の火)にて滅し得る者をこそ懼れよ。(「マタイ伝」10章28節)
第2回 もっとフェアリー
衣服とは制度そのものである。制服やドレス・コードによる拘束だけが制度的なのではない。むしろそうしたルールを廃して「気楽に」「自由に」と言われた瞬間、衣服の深い制度性は剥き出しになる。
「クール・ビズ」はそれまでの背広ネクタイ姿よりも、ある意味「きつい」かもしれない。「ノーネクタイ時のシャツは襟元がしっかり立つタイプを」「アンダーウェアへの配慮もお忘れなく」etc.——「気楽」にしようとすればするほど、まさにそのゆえに、人はますます衣服に縛られてゆくことになるのである。
衣服はたんに身体を覆い隠すものではない。「隠すと同時に見せる」ものである。衣服において最も重要なのは身体と衣服との境界部分——襟元、袖口、裾など——であり、制度の力もとりわけそこに集中する。地球温暖化がどんなに心配でも、空調の温度をさらに一度上げそのかわり半ズボンにしようという提案はない(作家の橋本治はかつて「革命的半ズボン宣言」を提唱したが)。オフィスで知的労働をする男性が膝を露出させることは、いったい何に抵触するのだろうか?
袖口もまた、決定的に重要な箇所である。多くの伝統衣装では、袖口の周囲に様々な文様が施されている。それはデザインのためでなくて、この開口部を通じて外部から邪悪な霊が身体に侵入するのを防ぐためだった。現代の衣服ではそうした魔よけの文様は消滅したが、そのかわりに「長袖/半袖」のような規格化によって、身体の露出がコントロールされる。クール・ビズでは半袖は許されてもノースリーヴは論外である。同じ理由から七分袖も、オフィスでは異様とみえるだろう。つまり露出の程度が問題ではなく、「どっちつかず」であることが排除されるのだ。
衣服は動物から人間を区別する。だが区別することは、別な仕方で関係付けることにほかならない(ヘーゲル)。衣服は人間を動物から切り離すと同時に、身体を新たな仕方で「動物=霊」【アニマ】と関係付けるものでもある。衣服を身に纏うことで、私たちは多かれ少なかれ、精霊=妖精【フェアリー】の如き存在になるのだ。フェアリーとは境界に浮遊するもの、いずれの領域にも「属さない」というあり方を駆動力とする存在である。ここに、事実としては制度そのものでありながら、内的に制度から逸脱してゆくという、衣服の弁証法的運動がある。
フェアリーとは本来「醜い」ものであった。ロマン派の詩人たちが、近代社会のテイストに合うように、美少女の姿に描き直したのである。だがフェアリーの「醜さ」とは実は、美醜の相対的スケールにおける醜さではなく、その脱領域的な本性のために「表象できない」ことを意味している。そう、すべてが表象可能性へと還元されるメディア社会を脱構築するためには、もっと多くのフェアリーが必要なのだ。衣服の本来的な境界性を目覚めさせ、身体を可視と不可視のあわいへと解放するために・・・。
第3回 パンクの本懐
ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクの近著『操り人形と小人——キリスト教の倒錯的な核』(中山徹訳、2004年、青土社)は、G・K・チェスタトンの『正統とは何か』 (安西徹雄訳、1995年、春秋社)への見事なコメンタリーになっている。ご存知のようにシャーロック・ホームズのライバル「ブラウン神父」の産みの親である推理作家チェスタトンは、また特異な批評家でもあったのだ。曰く、「狂人とは理性以外のすべてを失った人のことである。」逆説の中から真理を取り出す手法は、ヘーゲルも、マルクスも、ジャック・ラカンも用いた。だが自作を評して、それらは「一個の退屈なジョーク」の様々な変奏にすぎない、なんて見得を切ったのはチェスタトンだけだ。ここに、かれが偉大な逆説的哲学者たちより百倍もカッコいい理由がある。そう、チェスタトンは「イカれていた」のだ。
チェスタトン=ジジェク的な逆説の力を借りて書いてみよう。前衛が終息したポストモダンの現代においては、伝統破壊行為ほど安全なものはない。芸術上・思想上のあらゆるスキャンダラスな破壊的言説は、それによってシステム自体がびくともしないことを、暗に前提しているからだ。銀行強盗は資本主義経済を破壊しない(というか、銀行強盗がスキャンダルとして成立するのは資本主義経済のおかげである)。それに対して、真に破壊的なものはむしろ徹底した伝統主義である。シュトゥックハウゼンは9・11を芸術行為と呼んだとしてメディアにハメられ西欧社会から批難されたが、アルカイダは西欧の集合的無意識がテロを芸術的・ロマン主義的に解釈するであろうことをも予測しえたほどに、伝統主義的であったのかもしれない。
このような時代にあっては、アーティストであること、思想家であることなど不可能に思える‥‥そんなことをあえて引き受けるというイカれた、「パンク」な選択なくしては。シニシズムの支配する世界においては狂人の如く生きよ、と楚の狂接輿は孔子に向かって説いた(『荘子』「人間世篇第四」)ところをみると、パンクの起源は少なくとも二千三百年前の中国に遡ることができる。時代は下ってモダニズムや前衛の歴史的真理も、パンクであることの中にあった(メディアアートも1990年代前半のほんの一時期パンクだったと言えるかも)。このように、ファションとしてではなく(ファッションとしてのパンクなんてただのゴミだ)「伝統」としてのパンクを生きること——それが昔も今も、芸術や思想にとって唯一の可能性であるのは、ほとんど自明だと思われる。
第4回 ファッションとネイション
会社ではふだんスーツ・ネクタイ姿で仕事をしているお父さんが家でくつろぐ時、「作務衣」を着るか「ジャージ」を着るか?これは重要な問題である。
もともと禅僧の仕事着であった作務衣を俗人の日常着として普及させたのは放送作家の永六輔だが、作務衣を着るという行為には、彼の「尺貫法復権運動」のような主張へのコミットメントがどこかに組み込まれている。作務衣を日常着にすることは「啓蒙」的行為といえるが、それはいわば反‐啓蒙としての啓蒙、つまり行き過ぎた合理化や近代化に反対するアンチ・グローバリズムの形をとった啓蒙であり、時代の趨勢に流されず個人に立ち返るべし、というメッセージがそこには感じられる。
それに対してジャージは、そもそもそれがひとつの「ファッション」であること、すなわち衣服とは何にせよ主張を持たざるをえないという事実それ自体から逃れようとする、逃避的な服装である。ジャージが「楽」なのは、それが個人の身体を完全に消去し、すべてを集団的な規律の中に解消してしまうからだ。匿名的存在として生きることはこんなにも気持ちがいい——そういう気分を具体化するファッションである。たとえば中学の生活指導の教師がもしもジャージではなく作務衣を着ていたらどうなるか、想像してみてほしい。
在日韓国人の青木定雄さんが創始して大成功したMKタクシー社では二年くらい前から、「きものを着たお客さん運賃一割引」という画期的なサービスを京都で行なっている。この「きもの」には作務衣も含まれる。ただし英語では「kimono」と呼ばれるハッピは不可。二人以上で乗る時にはその中の一人がきものを着ていればいい。ただしこの場合「きもの」とは「和服」の意であり、チマ・チョゴリは割引の対象にならない。作務衣のような、もともと特殊な集団が着用する法衣は含まれるのに、である。(詳しくは、http://www.mk-group.co.jp/kyoto/taxi/taxi/service.html を参照)。
衣服と「ネイション(民族、国民)」との関係をとりまく問題の層は、深く、錯綜している。衣服とは着脱可能なリアリティであり、ある意味では生身の皮膚よりも身体に近いものである。作務衣にはかつて、ナショナリズム的身体の匂いがした。だが今日『ゴーマニズム宣言』や『マンガ嫌韓流』に見られるような痴呆症的ナショナリズムと結合しているのは、ジャージを着た匿名的身体である。ジャージとは、深層の日本の制服なのかもしれない。もしもファッションがひとつの闘争でありうるなら、衣服をネイションへの帰属から奪還するという目標が、まず第一に立てられるべきだろう。
第5回 黒いチューリップ
新宿の新国立劇場で「劇団唐ゼミ★」の公演『黒いチューリップ』を観た。「状況劇場」時代の唐十郎の作品(1983年)である。タクシーの無賃乗車で刑務所に収容された姉が、獄中で黒いチューリップを育てている。その妹が働くパチンコ店には、人に語りかける不思議な黒いチューリップをもつ台がある。本物の植物とパチンコ台上の人工物——この二つの「黒いチューリップ」を結びつけるのは「ギャンブル」である。アレクサンドル・デュマの小説『黒いチューリップ』(1850年)は、莫大な賞金がかかった黒チューリップの栽培に没頭する男が、政治的陰謀によって投獄される物語だ。事実、16世紀半ばにトルコから持ち込まれたチューリップは、品種改良が容易なことから広範囲に普及し、18世紀にはヨーロッパ経済を揺るがすほどの巨額な投機の対象となっていた。
チューリップと並んで「黒」が深い意味を持つもう一つの花が「水仙」だ。「月の夜はこっそり花盗人になります/姫鏡台の上の黒水仙の瓶/私にはまだまだ似合わない香りなのに/しのばせる時なぜかドキドキする」(薬師丸ひろ子「アドレサンス」1984年)と歌われた「黒水仙【ナルシス・ノワール】」は、1911年に作られたキャロンの香水の名前である。イギリス映画『黒水仙』(1947年)は、はるばるヒマラヤまで伝道に来た修道女たちが異郷で人間的な感情や欲望に目覚めてゆくという物語である。さらに最近の韓国映画『黒水仙』(2001年)では、朝鮮戦争時代に「黒水仙」という暗号名で捕虜の脱走を助けていた女の日記が、物語の核をなしている。それからそうそう、若松孝二にも『情欲の黒水仙』(1967年)という作品があった。
黒いナルシス——それはテクノロジーに取り囲まれた現代社会ではどんな喚起力をもちうるだろうか?かつて西垣通は『デジタル・ナルシス』(岩波書店、1997年)において、情報テクノロジーの根底にナルシシズムというテーマがあることを看破した。だが「ナルシシズム=自己愛」とは何かという問題は、フロイトがそれを文明の基盤として主題化(「ナルシシズム入門」1913年)してから一世紀近くが経過した今も、少しも自明ではない。確かなのは、テクノロジーは自己愛を拡大し集団化するということだ。発達した航海術や兵器で武装した近代西欧国家のナルシシズムは、世界の地政学的均衡をずたずたに引き裂いてしまった。それを模倣した明治以降の日本は、肥大した集団的ナルシシズムによる破壊衝動の発作を繰り返しつつ今日に至っている。私たちが生きている世界は、そんな荒涼とした原野なのである。黒いナルシス。それは敵なのか味方なのか、スパイなのか死の天使なのか。心穏やかに開花を待とう。
(C)Hiroshi Yoshioka