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大学の溶解、文化の自殺

日本記号学会編 叢書[セミオトポス]第3号『溶解する大学』

2005年に東京富士大学で開催された日本記号学会第25回大会「〈大学〉はどこへいくのか?」で報告し、その後『新記号学叢書 [セミオトポス] 第3号「溶解する大学」』に書いた文章。


日本記号学会第25回大会「〈大学〉はどこへいくのか?」の準備を進めていた時、何人かの友人たちから、次のような感想を聞いた。「ふーん、記号学会のテーマが〈大学〉ですか‥。面白そうだけど、ちょっと元気が出ないかも。」彼ら彼女らの多くは、人文科学系の学部、あるいは新しく設置された文理融合型の総合的な学部・学科に勤務する教員たちである。国立大学に勤める友人たちは一様に、独立行政法人化以降の学内環境の激変と、その中で人文科学系の研究者がどんどん追い詰められてゆく惨状を嘆き、私立大学に勤務する人たちは少子化の中での生き残り競争の熾烈さを訴える。大学がいろいろな意味で危機に瀕していることは確かでも、そうした厳しい現実の中で語られる大学の〈危機〉という話題には、いいかげんうんざりしているので、学会くらいはもう少し夢のある話をしたら?なんて言うのである。

『中央公論』二〇〇六年二月号の特集は「大学の失墜」というテーマだった。サブタイトルには「低迷する権威、進む就職予備校化」とある。マスメディアの中でこのように大学が問題にされる時、そこに共通するのはいつも〈危機の言説〉とでもいうべき論調だ。いわく、大学の伝統的な権威の「失墜」とは情報化、グローバル化、少子化などの押しとどめようのない歴史的現実の帰結である。今や、「閉鎖的」で「非効率的」なアカデミズムの旧弊な構造はやっと崩壊した。大学が生き延びるためには、新しい時代に即応した改革こそ急務である、云々。まるで革命後の非常時のようである。そこでは、現行の改革に異議を差し挟む者はもちろん、昔の大学を懐かしく語っただけでも、過去の権威に盲従する反動分子という烙印を押されかねない。そして、その知的活動の本性上「効率」や「有用性」という基準ではみずからを正当化できない人文科学系の研究者たちは、たとえ表立ってはそう呼ばれないとしても、「失脚した階級」として運命付けられていることになる。

いつの時代も、こうした〈危機の言説〉による現実把握がきわめて偏向したものであることは言うまでもない。情報化もグローバル化も少子化も、現在行われている大学改革を一義的に要求するような条件ではけっしてない。大学における研究・教育の「機能化」「効率化」を考えることはたしかに重要だが、それらが本来どのような「機能化」「効率化」であるべきかが、まず議論されるべきことである。それがなされないまま単純な数値モデルを押し付けることは、大学にふさわしい知的な振る舞いとは言いがたい。人類の知的営為の中には、原理的に客観化も数値化もできない領域が存在することは自明である。だがそうした知的活動は、それにふさわしい環境の中でしか「効率的」に「機能」することはできない。予算を獲得すればいいというような問題ではないのである。予算の獲得競争に追い込まれるような状況、そのための膨大な書類作成に忙殺されるような環境が問題なのだ。

ようするに現在の大学改革は依然として、「文明開化」以来近代日本がとり憑かれてきた〈危機の言説〉に共通する口調、事態を根本から熟慮しようとするあらゆる試みに対して「今はそんな時代じゃない」と叫ぶ、上擦った金切り声に支配されているように感じられる。過去の大学には少なくとも、熱に浮かされた現実社会から一歩退いて正気に戻り、落ち着いて世界や人生について考えるための場所、という役割があった。大学がある程度社会から隔絶された〈アジール〉であること、それが産業や経済にかならずしも即効の利益をもたらさないとしても、そういう場所もこの世界には必要だと思われていたのである。大学の存在を許していたのは「権威」などではなくて、一見役に立たないようにみえる存在も世の中には必要だと考えるような心の余裕、あえて言うなら〈エコロジカルな直観〉のようなものである。時代に即した改革はたしかに必要だろう。だが今、大学という存在の根幹をなす〈異空間〉としての機能までもが、湯水と一緒に流される赤ん坊のように捨て去られようとしている。これが真の意味での大学の〈危機〉であり、それはグローバリゼーションの中で文化そのものが直面している〈危機〉のひとつの徴候にほかならない。

もちろん近代国家の中における大学とは、そもそも社会から隔絶された修道院のような聖域ではありえなかった。大学はむしろ現実社会のただなかにありながら、一種の〈隙間〉のような異空間として機能してきたといえるだろう。大学は国家や産業社会に組み込まれながら、その内部ではかなり異質な論理が支配する場所だった。表向きには社会に「役立つ」ことを研究していることにしておいて、実際には直接の有用性とは関係のない幅広い知的好奇心を許容する。その意味では、社会という「宿主」に対してそこそこ利益も与えながら、そこから栄養を得て自分自身の生き残りを画策する「寄生虫」の生き様と似ている(1)。ここで重要なのは、「そこそこ」という部分である。というのも現代では、社会のあらゆる局面において「そこそこ」ではなく、一分の隙もない完全な機能化や最適化が目指されているように思えるからだ。だが寄生虫の例をみても分るように、生きた生態系は一般に、「一見無駄にみえるものが実は重要に機能する」という複雑な相互関係によって安定した秩序を形成している。無駄のないガチガチの機能連鎖だけで作られたシステムは「危ない」。大学から〈隙間〉としての側面を完全に奪ってしまうのは、こうした観点からみて完全に誤った選択なのである。

私が大学で学んだことは〈いいかげん〉であること、あるいは〈サボる〉ということのもつ創造的な意味であった。現代ではこれらの言葉にネガティヴな意味しか認められていないことを知りつつ、あえて言っているのであるが。知的活動というものが、単に事実として与えられた問題を解くことではなく、むしろ問題の根拠を問いそれを新たな形で定式化することをも含むとすれば、ほどほどの〈いいかげん〉さはそこには必要不可欠なのである。また〈サボる〉という日本語は、二十世紀のはじめフランスの労働者が木靴(サボ)で機械を破壊した行為を示す〈サボタージュ〉という語から造られた言葉であり「やるべきことをあえて怠ける」というような意味の日本語として定着している。それは、たんに課された仕事や勉強をしないというネガティヴなことではなく、それらをあえて放棄することによって、未だ意味づけられていない空白の時間を作り出すというアクションを意味していた。

未だ意味をもたない世界の〈隙間〉を生きること——それはつまり「若さ」ということである。年齢の問題ではない。現代人は、肉体的な「若さ」を維持することに病的なまでに固執するくせに、こうした本質的な意味における「若さ」を自分から放棄しようとしている。教育や研究だけではなく、産業やビジネスもまた、無駄なもの、〈隙間〉的なものを駆逐してしまえば、システムはやがて機能不全に陥るだろう。グローバル化とは世界の老化である。‥などと言いつつ、たんに悲観的になっても仕方がない。「溶解」してゆく大学の中で、自分の周囲にさまざまな〈隙間〉を作り出していくほかはないのである。そのためにはクソまじめに批判ばかりしているよりも、知的な「プチやくざ」(ほんもののヤクザになるような度胸はないので)になって、居直って駆け引きを楽しむくらいの余裕をもった方がいいのだろう。「大学なんて無くなったって平気」くらいの覚悟で教える先生が増えた方が、たぶん大学は良くなると思うのである。

そういうわけで、この論もこれから先は〈サボる〉ことにしたい。以下に紹介するのは、私が一九九八年と二〇〇四年に、自分のホームページに書いた大学をめぐるエッセイの一部である。この六年間に、日本の大学は劇的に変化した。昔を懐かしむためにこうした個人的な文章をお見せするつもりはない。だが、今私たちが生きている世界がいかに倒錯したものであるか、文化を担う立場にいるはずの人々が進んで文化の自殺に加担していることに気づいてもらうためには、時には過去(といったって、ついこの間のことだ)を振り返って正気にもどる必要があると思うのだ。

「いまさら大学とは何か?」

‥‥大学という場がむかえている、本当の変化とは何だろうか?それを考えるためには、そもそも高等教育とは、何だったのかをふりかえってみる必要がある。

電子的コミュニケーション以前においては、高等教育は主として専門的知識の伝達だと思われてきた。教師=学者は、特殊化された情報を所有し、それを取り扱う権限を付与された、広い意味での「官僚」、大げさにいえば神の言葉を伝える「神官」といった役割を担っていた。そして教壇に立って講義を行なうという情報伝達の形式は、同時に、秘蔵された知識の授与という、神聖な儀式の側面をもっていたのである。

だが現代、こうした儀式が成立するための社会的条件は、完全に崩壊している。たんなるデータとしての専門的知識とか、たんに新しいというだけの情報なら、わざわざ大学の講義室などに足を運ぶ必要などないからである。学生たちが勉強しない、授業にならないという嘆きがいたるところに聞かれるが、それは「儀式としての講義」というフィクションが成立しなくなった、当然の帰結である。たんに専門家であるということだけで権威が付与されるような価値観は、「学会」という特殊な共同体内部でしか通用しない。

ではもしも、専門家による知識の伝達が電子化されたデータベースや教育プログラムによって代行されるとするなら、大学教師などはお払い箱になるのだろうか。いったい、大学の授業から専門的知識の儀式的授与という側面を取り去ったら、何が残るのだろうか?
残るもの——それは、教師の「身体性」である。この「身体性」は、これまでも「専門家」という衣服の下に隠れて存在してきたものだ。ようするに、生身の人間がしゃべっているということが重要なのである。もちろんそれは、今も昔も同じなのだが、「儀式としての講義」の時代においては、知識の伝達というオフィシャルな姿の影にかくれて、そうした身体性が明確に自覚されなかったのだ。

知識の単純な情報内容ではなく、それを生きた人間が目の前で運用してみせる、というあり方こそが大切なのである。思いがけない着想やリンク、インタラクティヴな議論の発展、さらには間違いや極論といったものも含めて。

とはいえ、何も「これからの大学教師は、ただ教えるだけでなく〈芸〉や〈パフォーマンス〉が必要とされる」といったことが言いたいのではない。そんな間抜けなことを言ってるやつらは大嫌いだ。それは、ようするに大学教育も一種のサービス業だから、という発想から来るのだろう。

たしかに〈芸〉や〈パフォーマンス〉は、身体性を特定の仕方で運用することを意味する。けれども〈芸〉とか〈パフォーマンス〉と安心して呼べるような身体の運用は、すでに商業的世界のなかで確立しているものだ。「いい先生」とか「面白い先生」の大半は、たんに優秀なサービス業従事者であるにすぎない。かれらは専門的知識を、肩肘張らないやり方で伝達する術をもつスペシャリストであるにすぎす、その本質においては、学生など眼中になくモゴモゴしゃべっている老専門家と、大差はないのである。

大学はサービス業ではない。だいたい高い授業料をとって難しい話をきかせ、あげくの果ては試験やレポートで顧客を苦しめるような活動が、「サービス」なんかであるわけはないではないか。大学がもはや「象牙の塔」的サンクチュアリでないことはいうまでもないが、それでもそれは、周囲の商業的世界からは何らかの仕方で隔離された、独特の空間であることはたしかである。……ここで、初期のRCサクセションの歌を思い出してしまったが、それは「ぼくのすきなせんせい」という曲である。

「ぼくのすきなせんせい」で歌われているのは、「タバコを吸いながら」いつでもつまらなさそうにしている「職員室がキライな」美術の先生で、けっして話がうまい、芸達者な人気教師ではない。それは(この場合にはたまたま)しょぼくれたへんなおじさんであって、そうした身体性が率直にあらわれているからこそ、ぼくは「すき」になれるわけである。学校とは、そうした身体性をはからずも許容する場所である点に、その存在意義がある。

大学もまた、そうしたへんな人たち(かならずしも、しょぼくれたおじさんばかりではないが)がいるからこそ意味があるのであって、効率的な知識の伝達や訓練を売り物にするテクノクラートたちは、こうした高等教育の本義からいうなら、ただの付け足しである。まあ、そういうまともな大人たちも飼っといたほうが、変化があっていいかな、てな程度である。

さて、このように考えているぼくにとって、教育活動におけるインターネット利用とは、はたして何のためになされるのか?それは、授業その他の「効率化」のためではない。そうではなくて、授業の「二重化」あるいは「乗っ取り」のためだ。このサイトにおける授業関係のページは、実際に大学で行なわれる授業をサポートするためのものではなく、むしろそれを奪取し、主導権を握ることを目指している。早くいえば、ぼくの授業は実はこっちの方が本物であって、大学の講義室でやっていることは、たんなるこれの派生物、あるいはせいぜい「スクーリング」のようなものにすぎないのかもしれない。

でもこれでは、生身の人間がしゃべることこそ重要だ、ということと矛盾するのでは?そう、たしかに矛盾する。そして、この矛盾が大切なのである。不思議なことなのだが、電子的な情報空間が発達してゆけばゆくほど、〈身体〉はますます、もはやごまかしようのないほどに、裸になっていくのである‥‥。


「いまさら大学とは何か?その2」

一九九八年、ぼくは「いまさら大学とは何か?」という小文を書いた。その頃ぼくは甲南大学文学部人間科学科というところで、芸術論のゼミをもっていた。大学ではインターネットや情報技術の本格的な導入がはじまり、ぼくがそこに就職した1991年当時の「牧歌的」なキャンパスの雰囲気は急速に失われつつあったものの、大学(特に文学部)は、まだ外の社会とは一線を画した場所として機能していた。その中でぼくは、コンピュータのもたらす文化変容に対してポジティヴな若手教員と思われていたらしいが、本当はテクノロジーによって逆照射される身体性や知の本性に関心があっただけであり、いわゆる「IT革命」を無反省に受け入れて大学再編成を推進する頭の悪い改革派たちを、超然とあざ笑っていたようなところがある。右のエッセイを今読みかえすと、そういう悠長な雰囲気を感じるのである。

あれから約6年。大学は今、本当に惨憺たる場所になっている。ぼくは何も自分だけの「大学」像を理想化しているわけでも、昔はよかったなどと回顧しているわけでもない。ぼくは一九七六年に京都大学文学部に入学したのだが、その頃だって大学は空虚な、ひどい場所だった。学生に支持されているわけでもない集会やストライキが慣例のように繰り替えされてろくに授業はなく、文学部の大半の教師たちは無気力に自分の研究の中に引きこもるか、セコい学内政治・学会政治に奔走しているかだった。だが今と唯一違っているのは、そういうダメな先生でも、自分のダメさをあえて隠そうとしなかった、つまり自分のやっていることの意味を社会に向かって正当化しようとはしなかったという点である。中世哲学の山田晶先生は新入生に向かって言ったものだ。「哲学の研究者などというものはそもそも何も生産しないインポテンツなのだから、そういう知識が何の役に立つのですかなどと目を輝かせて聞かれても困る・・。」

こういうのはまあ居直りにすぎないし、それ自体別にほめられたことでもない。実際それを聞いたぼくは、そんなこと自慢してどうするんだよと正直思ったし、そういう脱俗的姿勢こそ本物の学者のそれだとして敬服する文学部の保守的なクラスメートたちにもウンザリした。大学の体現する「権力」に対抗すると称してルーティン化したデモや派閥争いに明け暮れていた運動家たちにウンザリし、そうやってあらゆることから距離をとりながら何をするでもない自分自身にウンザリするのと同じように、ウンザリしていたのである。そう、まったくひどい状況だった。けれどもそんな中でも、今よりははるかにマシだと思えることがひとつだけあった。それは学問、あるいは学問という名を借りて行われる知的・理論的な活動が、大学とか授業とかカリキュラムとかいった制度的な枠組みとは、本来何の関係のないもので、いわゆる「制度」「規則」とは、そうした活動を許すための口実にすぎないことを、誰もが暗黙のうちに認めていたという点である。

数学者の森毅は教養部の授業に一時間近くも遅れて来たり予告なしに休講にしたりすることがあったので、ある時クソ真面目な学生の一人が「先生せめて休講にする時には予告してください」と抗議すると、「きみらだって予告なしに授業欠席するやんか」と平気な顔で答えていた。先生がいつまでも来ないので、待っていた学生同士で仕方なく生協の喫茶店に行き、今日読むはずだったテキストについて議論したりした。ぼくにとっての学部時代は、そういうポッカリ空いた空白の時間というものを体験させられることで、そのうち大学にもあまり行かなくなった。まあ森先生ほど極端でなくても、多くの教師は授業に15分くらい遅れてくるのがふつうで、そのことを聞かれると「15分は遅刻ではない。ドイツの大学では常識だ」とかワケの分らないことを言っていた。ようするに大学というところは、社会の常識から外れた不適応な大人が住んでいて、何の役に立つかわからないけどちょっと他では聞けないようなことを呟いているような場所であり、それが大学が大学たるゆえん、というか存在理由のようなものだったわけである。

それがいつの頃からか、授業の1コマは90分と決まっているのだから、90分間ちゃんと授業しないのは規則違反であると、職員ばかりではなく、学生も、教員自身も考えるようになったのである。それで、そういったことはみんなで監視し、守らせなければならないということになった。これは、たんに規則がきびしくなったということではなくて、大学の教師自身が変質したことの結果でもある。つまり「15分遅れるくらいのことはとやかく言わない」という暗黙の了解が壊れて、「15分遅れることが許されているなら自分も遅れていかなきゃ損だ」と考える、小役人根性の教師が増えたということだ。そういうふうに先生の人格が小さくなってタダの人になってしまったので、当然周囲から「大学のセンセイだからといってそんな特権を許すのはおかしい、みんな時間通りに来て働いているのに」と不満が出るようになった。それで、きちんとシラバスを出させ、授業の評価を実施し、年間の授業日数や開始時間をチェックする、という現在の大学世界が出現したわけである。

同じ15分の遅刻でも、「悪いけど今日は遅れる」というのと「みんなやっているから自分も遅れなきゃ損」と考えるのとでは、天と地ほどの開きがある。この違いがわからない人間がとても増えた。もちろん遅刻や休講は、それ自体はいいことではない。まあ、どちらかというと悪いことだ。昔はそれを、悪いと思いつつやっていた。今はみんなが、悪いことはやめましょうと言い合って、そのための規則を作る。そして規則に違反した人をよってたかって批難するけれども、その反面規則に従ってさえいれば、人のことには口出ししない。つまりシラバスや評価を出さなかったり、遅刻や休講が多いと注意されるけれど、それさえ守っていれば、「大学」や「学問」という口実のもとにどんなにくだらないことをしていてもそれは「働いている」ことになる。制度やタテマエが内実にとってかわる。これは腐敗した社会主義国家と同じである。物質的な豊かさを別にすれば、世界の状況は北朝鮮と変わらない(というか、北朝鮮がそういう「自由」世界の戯画になっているからこそ、あれほどまでみんな過剰反応するのだろう)。

まあ一言でいうと「モラルの低下」ということである。でも注意して聞いてほしい。ここで言う「モラル」というのは、ふつうに言われている、「社会常識」といった意味ではない。「みんなで決めた規則に従い、人に迷惑をかけない」——そういうのが今は「モラル」と呼ばれている(本当はそんなことを「モラル」と呼ぶことがそもそも笑止千万、倫理学者はどこにいるんだ?)。そういう態度は、正確には「奴隷根性」とか「服従精神」と呼ばれるべきものである。なぜならこうした態度は常に「規則に従い、人に迷惑さえかけなければ、後は何をしてもいい」という、責任とプライドの放棄と裏腹だからである。政治家や役人や警察官がいろんな不正行為、違法行為をしたことをマスコミは「モラルの低下」と騒ぎ立てるけれども、本当のモラルの低下とは、かれらが規則を犯した点にあるというよりも、「規則を守ってさえいれば文句は言われない」と多くの人が考え、そのことだけに汲々と生きている点にある。本当のモラルとは、自分の仕事を——それが普通の意味で人の役に立つか否かにかかわりなく——誇りをもって行なうことであり、場合によってはそのために、現在たまたま通用している規則を逸脱することもいとわないような、真のゆとりをもった精神のことだろう。

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(C)Hiroshi Yoshioka