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「おおがきビエンナーレ2006」について

『ART IT』第12号に掲載した「岐阜おがきビエンナーレ2006」の紹介記事

1. 「ビエンナーレ」

 今日、「ビエンナーレ」という共通の名のもとに、数多くの美術展が開催されている。「ビエンナーレ」とはまるで「ミーム」、つまり世界の様々な都市で自己複製する文化的遺伝子のようだ。グローバリゼーションの時代におけるこうした「アート」の増殖は、いったい何を意味するのだろうか? もちろん、ある都市がアート・ビエンナーレを開催すること自体は悪いことではない。だがそこで重要なのは、有名な、あるいは論争を呼ぶような現代美術の作品によって、都市を飾り立てることではない。そうではなくて、ある社会に住む異なった人々どうしを、普通とは違う面白いやり方で結びつけるような、新しいチャンネル開くにはどうしたらいいかを考えることである。「京都ビエンナーレ2003」はじめ多くの美術プロジェクトとの関わりの中で私たちが学んだのは、このことである。つまり「いかにしてアートを見せるか」ではなく、「アートによって何をするのか」の方が、はるかに重要な問題なのである。このようにビエンナーレとは、私たちの住む社会の内に批判的対話や変容を生み出すための、強力な手段となることができる。このビエンナーレを通じて私たちが望んでいるのは、それをきっかけにして大垣市内の異なった人々や空間どうしの間に、興味深い対話が生まれることである。

 2006年10月に大垣市で行なわれるビエンナーレは、二つの点でユニークなものである。まずそれは、「ビエンナーレ」という言葉からふつう連想される、莫大な費用を費やした文化事業ではなく、IAMASと呼ばれる学校が主催する、比較的地味な美術祭典である。さらにそこでは、アート一般ではなく特にメディア・アートを批判的に展示しそれについて議論することに、強い関心が注がれている。大垣の異なった場所や人々を結びつけるため、展示そのものも市内のいくつかの会場で行われ、それらを訪れる人々にとって、各地点の間のつながりや結びつきがわかるようにしたいと考えている。


2.テーマ「じゃんけん:運の力」

 テクノロジーの発達と普及とによって、とりわけ「先進」社会における私たちの生活は、計画やプログラムにますます依存するようになりつつあると思われる。他方、生活や芸術、そして科学的探究においてすら決定的な役割を演じる「運(ルビ:チャンス)」の重要性は、忘れられているかもしれない。「メディア」化され、決まったやり方で機能するようにプログラムされた世界の中で、運やセレンディピィティ【セレンディピティ(serendipity)18世紀のイギリスの作家ウォルポールが、「セレンディップ(セイロン)の三王子」という物語のエピソードにより、意図せざる発見・発明を意味するものとして作った造語】を探究することは非常に大切である。この意味での「運」はまた、そうした秩序を生み出しているインフラやテクノロジーの違いに対して、文化がどのようにアプローチしてゆくかという問題を提起するまた、運(ルビ:チャンス)の働きが儀式やインターフェイス、日常生活の内部ではるかにうまく具現され配慮されてきた文化もあり、そうしたことについての歴史的・文化的な問いも起こってくるだろう。

 「じゃんけん」とは、通常の理屈や調停では決まらない事柄を決定したいとき、子供大人を問わず、誰でも行なう遊びである。だがそれは、表か裏かという二者択一のコイン投げとは異なる。「じゃんけん」の重要な点は、それが三つの手からなり、そのどれもが、最終的な勝者にはなりえないということだ。私たちは「じゃんけん」のこの側面を面白いと考え、それによって「2」に対する「3」という数の重要性を強調したい。「2」がともすると固定へと向かうのに対して、「3」は回転と循環を可能にする。「3」はまた、多くの文化を通して民話や伝承に登場する。少年は「狼が来たぞ」と三回叫ぶ。王子たちは姫が課す試練に三回挑む。サッカーなどの「ハットトリック」(一試合中に三回得点すること)は、ラッキーだが難しいという特別な意味をもつ。また「第三者」は、自己と他者、そして両者を媒介する第三者の存在という人間関係について考えるとき、強力な倫理的概念となる。私たちは、この「3」という数のもつ特別な意味をも、何らかの形でビエンナーレの中に具体化したいと考えている。

3.アジアのメディアアートへの注目

 岐阜おおがきビエンナーレのもうひとつの重要な側面は、アジア諸国において勃興しつつある様々なメディアアートに、地理的・文化的に焦点を当てることである。これまで日本では、アジア地域におけるメディアアートの著しい発展が組織的に紹介されたり、その美学的、文化的、批判的、技術的な特異性について議論されたことはなかった。岐阜おおがきビエンナーレは、そうした機会を提供する最初の展覧会となるであろう。そしてまた、アジアのメディアアートを見せるというこの選択は、実は「じゃんけん」というテーマと、不思議な仕方で結びついているのである。二値的な厳密性に従ってテクノロジー的・文化的に構造化されている現代世界では、運の力、そして生成、循環、差異の評価における「第三者」の重要性は、非‐西洋的文化において(必ずしも意識的にではないにせよ)はるかに強く感じられていると思えるからである。こうした第三者や運といった概念が様々なアジア諸国で異なった働きをもつとしても、それぞれがどのように異なり、どんな可能性をはらんでいるかは、議論に値する問題であろう。

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(C)Hiroshi Yoshioka