デジタルメディアの形而上学
京都美学美術史学研究会紀要『京都美学美術史学』第7号 2008年3月20日
以下の論考は、デジタルメディアの広範囲な普及という現在の状況が、美学、哲学、あるいは人文科学的な思考活動一般にとってどのような意味をもつのかという問いを考えるための、ひとつの予備的な考察として位置づけうるものである。
デジタルであれアナログであれ、メディアとはしょせん「媒体」にすぎないのであるから、メディアにおける変化は美や芸術にかかわる諸問題や、人間と世界をめぐる言語的な探究には本質的には関わりがない、あったとしてもせいぜい二次的な重要性しかもちえない、とみなす立場もあるかもしれない。だが、わたしはそうは考えない。たとえば写真技術の普及がなければ、写真技術以前の膨大な資料群をも対象とする美術史や芸術学は、少なくとも現在のような形をとることはありえなかっただろう。写真というメディアは、意識の上では研究のための実用的手段にすぎないと考えられていても、実は深い部分で美術史的知識の構造や作品の意味を決定する条件として機能しているように思えるのである。同様に録音技術によって音楽や音響的経験一般は、再現可能性という未曾有の環境の中に投げ込まれた。もちろんそうした複製技術によって、オリジナルやライヴの重要性が危機にさらされるわけではない。むしろ複製技術によって「オリジナル」であること、「ライヴ」であることの今日的意味が作り出されたのである。オリジナルな対象、ライヴの出来事を、わたちしたちはもはや複製技術以前と同じようには経験できないのだ。さらには活版印刷の普及によって、活版印刷の発明以前を含むあらゆる時代の言語的制作物が印刷されたテキストとして提供され、わたしたちは言語的世界を印刷されたテキストの世界として想像するという状況が生まれた。そしてタイプライターの使用、さらにはワードプロセッサによるテキストの生産という状況が、読み書きという行為そのもの、文字言語に基づく人間の思考活動自体の意味を、不可逆的に変質させてしまった(1)。
メディアがもたらすそうした変化に共通しているのは、それらがいわば匿名的で控えめな仕方で、しかし深く着実に進行してゆくということである。といっても、メディアの変化はけっして隠されているわけではなく、むしろあまりにもあからさまな、当たり前のこととして生じる。新しいメディアは多くの場合、それが導入される当初はある種の身体的抵抗感を伴うが、実用性や利便性という抵抗しがたい魅力によって、あっというまに日常的な環境となる。多くの人が新しいメディアを採用する意識的な理由ははたんに「便利だから」であり、それを使っても重要なことは何も変わらないように思えるからである。だが実用性や利便性を求めるという合理的選択の根底にあるのは、身体と世界との根本的な関係における変化であるように思われる。写真の普及以降、わたしたちの身体は写真的イメージを介して世界と結合されるようになり、現実の視覚それ自体が写真的イメージによって再解釈される。録音技術によってわたしたちの聴覚的経験は、時間的な一回性を剥奪されるとともに、物理的な音源との空間的関係からも切り離されたものとなる。印刷とタイプライターの普及により、文字言語による活動の全体が活字という形態と複製可能なテキストをモデルとして再構造化される。しかもこうした劇的な変化はたいていの場合、主題として前景化されることがない。わたしたちの身体はいつのまにか、気がついてみると写真以降の視覚、録音以降の聴覚を備え、印刷以降の言語感覚を身につけているのである。メディアにおける変化はあまりにも身近なものであるために、その変化がわたしたちの思考や意識とってもつ深い意味は、つねに後追い的に反省されるしかないのである。
さて、この四半世紀の間に広範囲に普及するにいたったデジタルメディアは、他の分野におけると同様人文科学的研究にも大きな利便性を与える手段となっている。光学的な写真、手書きや印刷による画像や文字の処理は、デジタル化されることよって比較にならないほど高速かつ効率的になった。だがこの変化は根底においては、人文科学的思考を支えてきた意識のあり方や、人文科学的知識の根底的な構造を着実に浸食し、変質させつつあると考えられる。だがここでも、変化はいわば匿名的で中立的なものとして進行しており、この変化そのものが重要な問題として反省されることはあまりない。わたしたちはデジタルメディアというものを、たんに知識処理の効率を高める便利さのゆえに用いているのだと考え、そこにそれ以上の重要な意味を認めてはしないかもしれない。だが、デジタルメディアが人文科学に対してもたらしているのは、言語的知識の意味や価値そのものにまで到達する、きわめて深刻な変容なのである。わたしはこの変容を、最終的には肯定的に解釈したいのであるが、単純に楽観視するのではなくその正体を冷静に考えてみなければならない。本論では、未だそうした変容の正体を解明するには至らないが、少なくともこの問題にアプローチするためのいくつかの手がかりを与えたいと思う。そのために、まず(1)わたしたちが現在置かれているコミュニケーションの環境およびその変化の契機について確認し、(2)デジタルメディアの形而上学的な次元を芸術表現という文脈で主題化する試みとしての「メディアアート」に目を向けた後、(3)デジタルメディアの形而上学の根底にある「情報」という存在様態について考え、最後に(4)そうしたデジタルメディアの形而上学が、知識や文化に対するわたしたちの関係にどのような帰結をもたらしているかを素描してみたいと思う。
本論の要点は、デジタルメディアの普及がわたしたちの生活環境・文化環境に大きな変化をもたらしたという事実(これについて異議を唱える人はいないだろう)を確認することではなくて、それが人文科学のよって立つ言語的認識そのもの、言語文化の理念や価値といったレベルにもたらす変化を見極めようとすることである。そのような根本的な変化など起っていないと目を閉ざすことは簡単だが、このような態度ほど、当の変化に対してヴァルネラブルな立場はないとわたしは考える。人文科学的な知の本質はメディアの変化などには関わりがないと信じる本質主義的態度は、当の変化に対してもっとも脆弱で無防備であるだけでなく、そうした態度そのものが実は変化の産物なのである。とはいえわたしは、新たなメディアが一方的に何もかもを変化させるといった、いわゆるテクノロジー決定論の立場はとらないし、またテクノロジーによって人文科学的な知が解体されつつあるなどという、危機意識をあおるつもりもない。危機に関して言うならば、現在デジタルメディアという形でもたらされている変化は、そしうたメディアが現実に普及しはじめるはるか以前から人文科学的な知がその内部に抱えてきた危機が、顕在化し具体的な形をとったものである。わたしたちの言語的な生を救出すること、つまり言語活動の全面的なデジタル情報化という環境の中で、なおも美学的・哲学的思考を続けることに意味があるのかという問いに肯定的に答えるためには、わたしたちの言語的思考自体を、不断に更新してゆく他はないと思えるのである。
1 この四半世紀に、いったい何が起こったのか?
朝、目が醒めて身支度を終えると机の前にすわり、パソコンの電源を入れる。メールをチェックし、ニュースや天気予報を確認する。朝食をすませ、通勤電車に乗る。周囲の乗客の多くは、携帯電話に向かってメールやウェブを見たり、iPodその他のブレーヤーで音楽を聞いたりしている。ゲーム機でゲームや「脳トレーニング」をしている人もいる。職場に着いて机に向かうと、まずやることはまたもやメールのチェックである。会議や業務上の連絡を見落とさないように注意する。スケジュールを確認し、企画書や見積書を作成する仕事ももちろんパソコンを使ってであり、取引先との連絡も、メールで可能なものはすべてメールで行なう。さて昼休みになった。楽しみにしている来月の休暇の計画を立てる。航空券やホテルをウェブで予約し、代金をオンラインで決済する。午後は会議でプレゼンをしなければならない。夕べ遅くまでかかって作成したパワーポイントのデータに不備がないか、もういちどチェックする。会議をなんとか首尾よくこなし、また自分のデスクに戻る。隣の部署の後輩が、社内のつまらない噂話を書いてくるので、そんなことを会社のメールで流すなよという注意のメールを返す。夜は、何人かの仲間と飲みに行く約束がある。最近ちょっと話題になってる店をウェブでチェックし、予約を入れておく。さて、出ようと思って財布をみると、金がややこころもとない。給料日はまだ先だが、帰りにコンビニに寄って銀行口座から少し引き出しておこう…。
現代日本の企業社会で働く人の多くは、多かれ少なかれ、このような生活をしているのではないだろうろか。いや、企業社会ばかりではなく、わたし自身が勤務している大学だって似たようなものである。教授会その他重要な連絡のほとんどはメーリングリストで配信されてくるし、忙しい同僚たちとのやりとりもメールで行なうことが多い。図書の検索はもちろん、物品の購入も、出張旅費の申請もオンラインである。どんどん拡大するネットワーク利用に伴って情報セキュリティの周知が求められるが、それも「eラーニング」の自主的な受講という形をとる。学生たちは大学のウェブや学内の電子掲示板で講義情報を知り、提出するレポートも、たとえメール添付による提出を認めていないとしても、ほとんどはパソコンを使って、しかもしばしばインターネット上にあるテキストをおおいに活用して作成されたものである。キャンパスにいる学生たちを見ていると、一人でいる時はたいてい携帯電話の画面を見ている。飲み会の時ある学生から「先生が若い頃は携帯電話がないのに、いったいどうやって街で友だちと会ったりデートしたりしてたのですか?」と真顔で聞かれて驚く。学位論文を提出する大学院生たちの中には、様々な段階の草稿をメールで送ってきては、指導を求める者もいる。そうしたことの良し悪しは別にして、そのようなふるまいは電子的なテキスト生産ということが前提条件となって、はじめて可能であることはいうまでもない。
現代日本ではまったくの日常となってしまったこのようなデジタルメディア、デジタルネットワークという環境は、主として一九八〇年代以降、つまりおよそここ四分の一世紀の間に急速に普及してきたものである。インターネットが普及する一九九〇年代以前、パソコンを購入したり電話線を使ってパソコン通信に接続したりすることは、一般にはかなり「モノ好き」な行為だと思われていた。わたし自身、まだ定職もない時代に何十万円もするパソコンを月賦で購入した時、ある先輩から「いったいそんなものが君のやっている美学や哲学の研究と何の関係があるのか?」と尋ねられたことがある。電車の中で発売されたばかりのウォークマンを聴く若者は新奇な風俗として話題にされたし、ワードプロセッサで印刷したレポートや論文を嫌って受けとってくれない教授たちも少なくなかった。「手書き」へのそうしたこだわりは一般にもみられ、宛名をワープロ印字した年賀状は「なんだか味気ない」といった意見が、新聞の読者投稿欄に寄せられたりしていた。さらに、ペイジャー(日本では「ポケベル」と呼ばれていた)、続いて携帯電話が普及しはじめると、街なかや電車の車中で周囲と遮断してそうしたガジェットに向かっている若者たちのことを「不気味だ」とか「恐ろしい」という感想を、多くの年長者たちはもらしていた時期があった。 新しく登場してきたデジテルメディアに対するこうした初期の抵抗感は、それぞれほんの数年のうちに、ほとんど跡形もなく解消してしまった。パソコンは今やマニアのためのものでなく、テレビや冷蔵庫と同じ「家電」のひとつとなり、大都市の駅前にはデジタル機器の量販店が次々に建っている。街や電車の中で自分だけの音響を聴いたり、メールや電話をするといった行為も、周囲に迷惑をかけないという「マナー」さえ守っていればまったく普通のことと考えられ、しかもそれは年齢や世代にはほとんど関係のない行為とみなされている。大学での授業のレポートも学術論文も、今ではむしろデジタルデータとして作成されることが「標準」となっている。年賀状をそれが機械的に製作されたという理由から嫌悪する人はいなくなり、むしろ多くの人は新しいパソコンやソフトウェアを駆使した様々な工夫やデザインを競い合って、楽しんでいるようにみえる。そして、昔わたしが高価なパソコンを買ったことをいぶかった先輩からは「自分もブログを始めたのでよかったらのぞいてください」というメールが届く…。
人々はいとも簡単にデジタルメディアという環境に適応してしまった。それはひとえに「便利だから」だという。だが「便利」とはどういうことか。それは、デジタルメディアがそれ自体として問題なのではなく、何かもっと重要な別の目的のための「手段」であるということを意味している。技術をそのようにたんなる手段としてとらえる立場とは、「ユーザ」の立場である。つまりこの四半世紀を通じたデジタルメディアの普及とは、言い換えれば、わたしたちが「ユーザ」としての自己規定を受け入れてしまったということを意味しているのである。その根底には、デジタルメディアにかぎらず一般に技術、テクノロジーというものが、それ自体は中立的な存在であり、もっぱらそれを用いる人間の意図によってのみ善くも悪くも使用されるものだという前提がある。問題なのは技術それ自体ではなく、それを用いる人間のモラルであるという考え方である。「ルール」や「マナー」だけが論じるべき事柄とされる一方、デジタルメディアの存在そのものは自明の前提となり、理論的に不可視のものとなるのである。また「ユーザ」にとってテクノロジーが純然たる手段であるのに対して、「開発者」にとってはもっぱらテクノロジーそれ自体が問題となる。つまりデジタルメディアという環境に適応することは、同時に「ユーザ」と「開発者」との分離という状況に適応することでもあるのである。
これらのことはすべて、一見当たり前のこと、自明で平凡なたんなる事実のように思えるかもしれない。けれどもそれは、わたしたちがデジタルメディアの使用を前提とした世界にすでに住んでしまっており、その中からしか世界を見ていないからではないだろうか? 世界は激変したにもかかわらず、それが戦争や政治的革命ではなく技術的イノベーションによるものであるがゆえに、わたしたちは変化それ自体の衝撃を瞬く間に忘却し、記憶喪失に陥っているだけではないのだろうか? わたしたちはいったいいつから「ユーザ」などという存在になったのだろうか? そして「ユーザ」の立場と「開発者」のそれとは——まるでH・G・ウェルズの『タイムマシン』が描き出す未来社会のエロイとモーロックのように(2) ——はっきり区別できるものなのだろうか? またデジタルメディアとは、本当にそれを用いて何かもっと重要な目的を達成するための、たんなる「手段」にすぎないのだろうか? そもそも「ハイテク社会」と呼ばれる環境の中で、わたしたちはいったい、毎日何をしているのだろうか? もちろんわたしたちは、自分たちが以前と変わらず仕事をしたり、同僚と話し合ったり、勉強したり、文章を書いたりしているのだと「信じて」いる。つまり、デジタルメディアが存在しない時に行なっていたと同じ行為を、今もしていると思っているのである。だが、もしもブッシュマン(でも、誰か架空の存在でもいいのだが)がわたしたちの生活を目撃したら、いったいどう思うだろうか? おそらくこの人間たちは、朝から晩まで大小様々なモニタに向かい、ひたすらキーやボタンを押し続けるという、何かわけのわからない苦行をしている、あるいはもしかすると奇妙な病気に罹っている、というふうにみえるのではないだろうか? そして、たしかにその観察どおり、わたしたちが直接やっている「行為」の多くは、もっぱら電子的な表示装置を眺め、電子的な入力装置を操作するということ以外の、なにものでもないのである。
このようなことを書くとすぐさま、この筆者はテクノロジーへの過度の依存に対して警鐘を鳴らし、生身の身体の重要性を喚起しようとしているのだと早合点されるかもしれない。たとえば学生たちに対して、インターネットで容易に手に入るただの情報に頼らず、ちゃんと本を熟読して自分の頭で考えるようにと警告しているように思われるかもしれない。もちろんそれはそれとして正しいことであるし、二十世紀中葉に生まれた大学教員としてそう言いたくなるのも無理のないことではある。けれども、本論で扱いたいのはそういうことではない。むしろわたしは、そのような「たんなる情報」と「生きた知識」、「マシン」と「生身の身体」といった対立の自明性、と同時にそうした対立を基にして思考することの無力さもまた、実はデジタルメディアの普及という状況が作り出した「効果」のひとつだと考えている。二十数年前、一般の人々の生活にとってまだあまり効率的ではなかったデジタルメディアに対しては、直感的な抵抗感が広く共有されていた。だからこそ、その頃デジタルメディアのもたらす文化的意味を論じることは、知識と身体についての近代的な通念を揺さぶる、ある種の批判的な機能をもつことができたのである(3)。だがその後二十数年の間にもたらされた、デジタルメディアによる社会生活の圧倒的な効率化によって、デジタルメディアはいわば「商品」や「貨幣」にも匹敵する自明の存在となり、テクノロジーがますます洗練させてゆくに伴って、テクノロジーがもつ根本的な意味への問いは隠蔽され、不可視になってきたように思われる。今日、デジタルメディア、さらにテクノロジー一般は、もはやそれ自体について問われるべき問題としてではなく、暗黙のうちに人々をある自己理解・世界理解へと導き、行動を誘導する、ひとつの「形而上学と」して作動しているように思われるのである。
このことは、わたしたちがみずからの心や身体について抱く一般的理解の中に、はっきりとあらわれているように思える。たとえばかつては、人間の心や身体は「たんなる機械」ではないという心情は、広く共有されていた。だが今日、心とは脳の所産であり、脳は複雑なコンピュータであると言っても、それに心底から嫌悪感や抵抗感を持つ人は少ないのではないだろうか。たとえばわたしは大学の授業で哲学の話をする時、有名な「リベットの実験」を話題の発端にすることがときどきあった。一九八〇年代、アメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットは、人間が主観的に経験する時間と、脳内でニューロンが動作する客観的な時間との関係にかんする興味深い実験を行なった。詳述はここでは避けるが、この実験の要点は次のようなことである。あるニューロン群の活動を私たちが自分の心の活動として意識するためには、ある短い時間(約0.5秒)その活動が継続することが必要である。そしてこのニューロン活動の結果として生じる感覚が、主観的な時間の中ではどの時点として認識されるかというと、それは活動開始から0.5秒経って意識化された時点としてではなく、まさにニューロンの活動が始まった瞬間に起こったかのように、いわば時間が引き戻されて感覚されるというのである。自分の指を動かそうと思って動かすといった「自由」の感覚も、その例外ではないという。つまり、わたしたちは自分の「意志」で自分の身体を動かしているように思っているが、実は脳内での神経活動はそれ以前に開始されており、その動作が自分の意志によるものだという確信は、いわば脳が作り出すイリュージョンにすぎないのである。「自由は幻想にすぎないのか?」という挑発的な議論のきっかけになった実験だ*(4) 。
このこの話題を何度か授業の中で紹介するたびに、わたしがきわめて興味深いと感じたのは、この実験結果に対して美学や哲学を専攻する学生たちの多くが、根本的な脅威をまったく感じていないようにみえるという事実である。なるほど西洋近代哲学を学び、「自由意志」をめぐる議論に多少とも馴染んでいる学生が知的な関心を示すことはある。だが、欧米の脳神経学者や心理学者、哲学者たちの間で論争の的となってきたこの話題に、心から衝撃を受けているとは思えないのである。人文科学を専攻する現代の学生たちは、意識や心が脳というマシンの生み出す効果であったとしても「別に困らない」らしいのだ。この発見はわたしにとって、ある意味ではリベットの実験それ自体よりも重要である。それは、学生たちにとって哲学的研究とは規範的なテキストを読み、規範化された議論の方法を習得することであって、世界の謎についての深い関心によって突き動かされるような活動ではないことを意味する。言い換えれば、かれらは既存のものである哲学的知識の「ユーザ」であって、そこにユーザとしての優劣や修練はあっても、けっして「開発者」の立場にはたたないという点では同質なのである。さて、ここでわたしは「かれら」と呼んでいるが、何も「現代の学生」を特定して批判したいわけではない。同様の心性は多かれ少なかれ世代を越えて、わたしたちの内部に広く浸透している。リベットの実験の話に驚かない学生をみながら、わたし自身もまた本当は根本的に驚いてなどいないのではないか?と疑ったのだ。
デジタルメディアが急速に普及したのは、けっしてたんなる効率や利便性の追求という、合理的な選択のためばかりではない。むしろ、わたしたち自身の身体がそれを欲望したがゆえに普及したのである、とわたしは主張したい。言い換えれば、デジタルメディアはわたしたちの身体に潜在していた世界理解の可能性を具体化してしまったのである。デジタルメディアには、その実用的なレベルを越えて、実在する世界についての根本的理解を与える形而上学的なレベルが存在する。そのことを主題化するためには、たとえば次のような問いに直面しなければならない。わたしたちの行なうあらゆる行為が、その目的を遂行するために最適化されたシンボルの操作へと還元されるということは、そもそも何を意味するのだろうか? それはわたしたちの生にどんな変化をもたらしているのだろうか? デジタルメディアがもたらす、社会や文化における事実的な変化を記述・分析するメディア論は少なからず存在するが、わたしたちはまだ、デジタルメディアの形而上学的な作動を言語化するための理論を手にしているとはいえない。正直なところわたしは、この課題にどこからアプローチしていいのか途方にくれているのであるが、とりあえず次章においては、この数年間にわたるわたし自身の経験を踏まえて「メディアアート」をひとつの手がかりとして考えてみたいと思う。
2 メディアアートについて
二〇〇六年秋に京都大学に赴任するまでの六年半の間、わたしは岐阜県大垣市にあるIAMAS(情報科学芸術大学院大学・岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)という学校に勤務していた。一九九六年(大学院大学は二〇〇一年)に設立されたこの学校では、デジタルメディアを用いてさまざまな表現活動を行なうことを、教育・研究の中心にすえている。そうした表現活動は「デジタルメディア・アート」「ニューメディア・アート」あるいは特に日本では「メディアアート」と総称されている。そこでわたしは唯一の人文科学系教員として、情報やデジタルメディアについての美学的・哲学的な講義を行なってきた。また、わたしはそこで大学院の附置研究機関である「メディア文化センター」の所長を兼務し、この学校が二年おきに開催してきたメディアアートの国際展「岐阜おおがきビエンナーレ」の企画運営を担当した。「メディアアート」をどのように定義するかについては様々な考え方があるだろうが、わたしの理解するところでは、それはデジタルメディアをその通常の実用的文脈から逸脱させ、デジタルメディアの本性を何らかの仕方で美的・直感的に経験させること、あるいはデジタルメディアと人間の身体とを新たなレベルで関わらせるような試みのことである。その意味でメディアアートは、本論が主題とするデジタルメディアの形而上学、つまりそれがわたしたちの自己理解・世界理解を根本的なレベルでどのように変更しているのかというテーマと、密接にかかわっている。
だがこうしたわたしの理解は、メディアアートについての通常の考え方とは大きく異なっていることを、しばしば思い知らされた。メディアアートはふつう、デジタルメディアを利用することによる芸術活動のイノベーションだと理解されている。それによれば芸術活動、表現活動といったものはデジタルメディアとはかかわりなく自律的なものとして存在しており、新しいメディアはたんにそれに新たな手段を提供しているだけだということになる。こうした考え方はデジタルメディアについてばかりではなく、少なくとも写真や映画のようなメディアについても、以前から語られ続けてきたものである。写真も、映画も、デジタルメディアも、人間に新たな表現手段を提供し、人間を芸術活動の未踏の領域へと導き入れるが、その根底にある表現衝動や芸術活動それ自体は、人間にとって不変のものとして存在し続けている、というわけである。こうした説明はある意味でとてもわかりやすい。なぜならそれは、メディアを何か別の目的のためのたんなる「手段」とみしている点で、メディアについての常識的な理解とまったく同型だからである。違いはただ、メディアを手段として追求される目的が通常の生産活動や社会的行為ではなくて、芸術的創造行為に置き換えられただけである。こうした考え方においては、写真、映画、コンピュータと、次々にどんなに新しい「手段」が発明されようとも、それらは新たな経験や効果を提供して当初は人々を驚かせはするが、根本的な意味では、新しい変化は何ひとつ起こっていないことになる。
デジタルメディアが当初もたらした「驚き」とは、知識、記憶、思考といった、それまで人間の身体と不可分なものと考えられてきたものを身体から「脱文脈化」したことである。デジタルメディアが人間をその身体から解放する——一九八〇年代以降のいわゆる「サイバーカルチュア」「サイバーパンク」においては、その種のイメージが支配的であった。わたしたちの意識や記憶がプログラムやソフトウェアとして生物学的身体から離脱し、サイバースペースの中を飛び回るといったイメージ、あるいは自分の意識や記憶が知らない間に改変されたり、世界経験そのものが人工的に生成されるといったイメージである。ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』(1984)やリドリー・スコットの『ブレードランナー』(1982)のような初期のカルト的な小説や映画、またウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』(1999)をはじめとする多くの映画やアニメーションの世界はそうした空想に支配されており、メディアアートの活動も、そうしたサイバーパンク的想像力から大きな刺激を受けている。だがよく考えてみると、心や魂を身体から離脱させるというのは、人類が太古より抱いてきた呪術的想像力を継承するものにほかならず、デジタルメディアはたんにそれに新しい形を与えたにすぎないとも言える。それに対し、わたしにとってデジタルメディアの重要性とは、身体からの離脱という古い呪術的空想を反復する点にではなく、むしろ身体を再発見させるという点にある。だがそれはけっして、ヴァーチュアルなものからリアルなものへの回帰といったことではない。いってみればこの身体を、ヴァーチュアルであるからこそリアルな何かとして再発見するという経験なのである。
このことは、IAMASにおける六年半の教育経験の中でわたしが繰り返し遭遇した出来事に関係している。IAMASに入学する大学院生たちは様々なバックグラウンドを持っており、その中には芸術系大学の卒業生たちも少なくなかった。かれらの多くは当初、デジタルメディアの技能を自分の表現活動の新たな「手段」として身につけようという目的で入学する。しかしやがて、デジタルメディアを芸術制作の手段にするというやり方に無理を感じ、スランプに陥る学生が少なくなかった。それには、技術的知識を短期間に習得することが困難であるとか、技術系の学生・教員との文化的なギャップのためにコミュニケーションができないといった理由もあったが、わたしの見てきたかぎりでは、そうした理由は表面的なものにすぎない。メディアをアートの手段として利用したいという、かれらの素朴なメディアアート観が挫折する本質的な理由は、まさにメディアを手段として考える前提それ自体に、すなわち芸術活動というものをデジタルメディアから独立した、自律的な何かだと考えている点にこそあった。
メディアアートの学生たち、とりわけ「インタラクティヴ・インスタレーション」のような分野を専攻する学生たちの中には、自分たちの作品を展示しても一般の人々になかなか関心を持ってもらえないという「悩み」を告白する者も多かった。「インタラクティヴ・インスタレーション」とは、デジタルメディアを用いて観客の動きその他の情報が作品に映像、音響など何らかの変化をもたらすように工夫された作品のことである。この場合、関心を持ってもらえないというのは、作品の「内容」に関してではない。内容に関してであれば、実験的な映像作品や現代美術の多くも、一般的な観客に関心を持たれているとは言いがたい。だがメディアアートの場合にはもっと深刻であって、そもそも観客が作品の内容を経験する(つまり装置のある場所に来て何らかの働きかけを行なう)所まで来ないという問題がある。新宿オペラシティのインター・コミュニケーション・センター(ICC)や山口情報芸術センター(YCAM)、せんだいメディアテーク(SMT)のように、インタラクティヴ・インスタレーションの展示を行なっている施設ではそのような場合、作品をどうやって体験するのかを教える「ナビゲータ」を配置する。作品の前に立つ観客はまず、この作品をどのように体験するかを教えてもらわなければならないのである。学生の作品展のような場合には、当然作者や同僚の学生たちがこのナビゲータの役割を演じなければならない。
これはどういうことだろうか? たとえば実験的な音楽や映像の場合、観客が作品を適切に観られるように誘導するナビゲータは必要ない。なぜなら観客はすべて、どうやってコンサートホールで音楽を聴くか、どうやって映画を観るかを知っているからである。つまり、所定の建物や部屋に入って、席に腰掛け、前方を向いて待つというプロトコルである。その上で、作品の内容に対して興味をもつかどうかはわからないが、少なくとも観客はとりあえず作品の前まで来ることはできる。だがインタラクティヴ・インスタレーションの場合、観客はそもそも作品の前まで来ることがなく、たとえ来ても作品に触れるとはかぎらず、たとえ触れても期待されたとおりにそれを操作するとはかぎらないのである。ナビゲータの指示によっておそるおそる「適切に」作品を動かしてみたとしても、それはしばしば、非常にぎこちない経験となる。ナビゲータとの人間的なやりとりの方が、作品そのものよりも強い印象を残したりすることもある。メディアアートの作品制作においては、こうした観客の身体が示す抵抗や挙動を研究することは本質的に重要なのであるが、多くの学生たちはそれを二次的なものだと誤解し、たんなる「インターフェース」の問題だとして軽んじる傾向がある。それは、デジタルメディアは何か別な内容を表現するための手段だという考えに影響されているからである。
たしかに、デジタルメディアはそれまでのメディアでは実現できなかった様々なことを可能にする。だがそれは、絵や言語のような万人に共有された象徴表現ではないことに注意しなければならない。このことを理解するためには、たとえばアメリカの心理学者ジュディ・S・デローチが、子供が象徴を理解するプロセスに関して提唱する「二重表象理論」が参考になる(5) 。それは、次のようなものである。大人にとって、たとえば靴の写真は本物の靴を示す象徴にすぎない。けれども幼い子供にとってはそうではなく、写真の靴を履こうとする行動をとる。すべての象徴にはそれ自体とそれが意味するものという二重性があり、それが常に適切に理解されるとはかぎらないのである。こうした観点から彼女は、子供に簡単な文字や算数を教える教材についての調査を行なった。子供のための新しい教材絵本には、子供が馴染みやすいようにさまざまな工夫や仕掛けをこらして、遊びながら学習できるようなものが数多く作られている。つまり文字や絵が動いたり飛び出したり、音を発したりするような仕掛けである。大人からみると、たしかによく出来た興味深い試みだと思うかもしれない。だがデローチの研究によれば、「A」という文字の横に林檎(Apple)が描いてあるだけといった、昔ながらの単純な教材絵本のほうが、学習効率はよいのである。遊べるような仕掛けを作ると、子供たちはその仕掛けの方に気をとられてしまい、それを通じて学ぶように意図されている事柄には関心を失ってしまうのではないか、というのが彼女の推論である。
多くのメディアアートも、これと同じような過ちをおかしているのではないかとわたしは思う。制作者は、デジタルメディアを用いることによって、観客はこれまでよりも容易に、あるいはより少ない負担で、作品のメッセージに到達できるのではないかと期待する。だが多くの場合、結果はまったく逆なのである。インタラクティヴな仕掛けは多くの場合、作品の内容を伝達する妨げになる。観客にとっては、作品がバソコンによって制御されていること、自分の動きがセンサーによって感受され、作品にフィードバックされるような仕掛けがあること、等々といったことが、まず気になるからである。もしも作品によってなんらかのメッセージを伝達したいのならば、絵画や彫刻、小説や音楽といった伝統的なフォーマットのほうが、一般的にはずっと強力であり効率的である。そこでは、作品をどのように鑑賞するかというプロトコルがすでに共有されているからだ。つまり表現の「手段」としてデジタルメディアを選択すること自体、はじめから間違っているのである。それではなぜ、メディアアートを研究するのか? メディアアートの研究や制作を原理的に意味あるものにするためには、それを近代的な芸術表現の継続として理解する態度をきっぱりと捨てなければいけないのである。「アート」という言葉に惑わされることなく、メディアアートにおいてはわたしたちはいわゆる「アート」とはまったく別なことをしていると考えたほうがいいのだ。多少とも成功した作品の場合、インタラクティヴな仕掛けそのものが作品の主題と密接にかかわっている。デジタルメディアを表現手段として用いるのではなく、デジタルメディアと身体の関わりをどこまで深く洞察できるかということが、メディアアートの成否を左右する最大の要因である。
メディアアートの根本的な動機となるのは、いうまでもなくテクノロジーへの強い関心であるが、それはかならずしも最先端技術を追い求めることを意味してはいない。むしろ、技術と身体とを直面させることで、技術の根底にある概念や世界観の奇妙さ、不思議さが露呈される瞬間が面白いのである。この奇妙さや不思議さは、一般にある技術が発展し洗練されてくればくるほど、見えにくくなってゆくものである。逆に、生まれたばかりの新しい技術は、実用とはほど遠い反面、それ自体がアート作品と言っていいようなインパクトを持っている。それはその技術の発明者に芸術的センスがあったからではなく、その技術が提示するあたらしい概念や世界観が、そこではいわば「剥き出し」になっているからである。メディアアートを成功させるためには、テクノロジーの日常的な見掛けをある種の暴力によって破壊し、その根底にある奇妙さを直感的に提示することが重要である。そしてこのことはメディアアートにかぎらず、わたしたちがデジタルメディアについて考える場合にも言えるだろう。デジタルメディアの根底にあるもっとも奇妙で不可思議な概念とは「情報」それ自体である。情報テクノロジーは、いまやスマートで洗練されたものとしてグローバルな世界システムの基盤となっている。だからこそ、わたしたちは「情報」とは何かという問いを忘れてしまったように思える。多くの人は「情報」がまるで世界内の他の事物と同じように当たり前に存在すると考えている。わたしたちは「情報」についての常識的理解にある種の暴力を加え、その存在様態が実はきわめて奇妙で不可解きわまりないものであることを露呈する必要があるだろう。
3 〈情報〉の存在様態
デジタルメディアの普及とともに、わたしたちは否応なく、「情報」という存在様態を、日常的に経験するようになる。(「情報」はさまざまな意味で論じることができるが、本論で以下「情報」と呼ぶのは、「デジタル化されたデータとしての情報」のことを意味することとする。)わたしたちはいまや当たり前のように「情報」という言葉を用いるようになり、それをモデルにしてさまざまな事物、事象、知識を考える習慣を身につけてしまった。「情報」という名を冠したおびただしい数の教育・研究機関、出版物、団体、政策、等々があり、その大半はテクニカルに定義された「情報」を意味してはいない。「情報」という語によって暗黙のうちに何かが正当化され、政策が決定され、予算が執行される。だがそもそも「情報」とは、いったい何なのだろうか? それはかならずしも明確ではない。たしかに、デジタルデータとしての「情報」はパソコンのハードディスクの中に、フラッシュメモリなどの記憶媒体の中に、あるいはインターネット上に存在する、何の変哲もない事物のようにみえる。だが、少し注意深く考えてみると、「情報」とは具体的な物ではなく、きわめて抽象的な存在であることがわかる。「情報」は、わたしたちの周りの見慣れた事物やわたしたち自身が存在すると言うのと同じ意味では、この世界の中に存在してはいないのである。
その意味で「情報」とは、まるで「貨幣」のようなものだ。マルクスによって分析された「貨幣」もまた、具体的な事物のみえながらきわめて抽象的な存在にほかならなかった。「情報」も同様に、今ではもっとも身近で当たり前のものにみえながら、それ自体を直視することがきわめて困難な存在であり、その意味である種不気味なものですらある。貨幣経済が近代人の生の形式を決定しているという意味で、デジタルメディアはわたしたちの現代的な生の形式を規定している。「情報」とは「貨幣」の究極的な発展形態であると考えることもできるかもしれない。「情報」がテクノロジーに取り囲まれたわたしたちの生を根底的に規定しているとすれば、デジタルメディアの形而上学とは、そうした生の根底的規定のひとつにほかならないだろう。このようにわたしたちの生を規定するものとしての「情報」について考察するためには、「情報」の数理的、工学的な定義を知るだけでは十分ではない。「情報」をもっぱら情報工学の専門家の仕事だと考えているかぎり、わたしたちはデジタルメディアの形而上学的な次元に到達することはけっしてないだろう。したがってここでは、「情報」とは何かということを、みずからの生の問題として了解することを試みなければならない。
「情報」についてまず第一に認識すべきことは、それが原理的に「非時間的」であるということである。「非時間的」というのは永続的であるという意味ではない。端的に時間とは無関係に存在しているという意味である。たとえばわたしが今書きつつあるこのテキストは、デジタル情報としてパソコンのハードディスクの上に磁気のパターンとして記録されている。たしかに、パソコンもその内部のハードディスクも物理的な物体であり、それは書いているわたし自身という人間や、このテキストがやがて紙の上に刻印されて作られて出来る印刷物と同じように、時間的存在である。そして、物体としての情報機器は一般に、書物よりもずっと寿命の短い存在である。書物は保存状態さえよければ何もしなくても数世紀は楽に保つであろうが、現在のパソコンのハードディスクはどんなにメンテナンスをしても五〇年後も動き続けているとは思えない。だが、いうまでもなくそうした情報機器や記憶媒体は「情報」ではない。「情報」それ自体は、それがどんな物理的状態として記録されるかということとは無関係である。わたしが書きつつある文はパソコンの内部では0と1からなる列、つまり二値的なパターンとして表現されているが、それは電子的に記録されても、パンチカードに記録されても、石版に彫られていても同一なのである。
電子的な情報がちょっとした不注意で消失することをわたしたちはよく経験するが、実は消失したのは情報そのものではなくて、特定の媒体の表面に記録された磁気のパターンである。しかも多くの場合はパターン自体が消失したわけではなく、たんにそのパターンが記録されているディスク上の位置が読み出せなくなっただけである。わたしたちは「情報が消えた」と言うが、この表現は現実世界における何らかの事物の消滅になぞらえた比喩にほかならない。いずれにしても、情報はつねにバックアップをとることが容易であり、実際多くのアプリケーションは作成中のデータを自動的にバックアップするように設計されている。もちろん、印刷された書物であってもそれを文字「情報」として考えるなら同じことだろう。わたしは自分が今読んでいるカントの『判断力批判』を紛失しても、その文字情報は紛失していない。もちろん同一の本をまた注文することができるし、そもそも文字情報としての『判断力批判』は、すでにインターネット上に存在していていつでも読むことができる。わたしが紛失するかもしれないのは文字情報ではなくて「この本」である。「失う」ことができるのは「この」と指示できる個物だが、「情報」というものを個物として「この情報」とは言えないのである。この点はさらに厳密に議論することのできるテーマであるが、ここでは本論の主題から逸れるためこれ以上立ち入らないことにする。
情報が非時間的であり非個体的であることは、言い換えれば情報が、それを記録したり処理したりする機械や、書物や、わたし自身が属しているのと同じ世界に、そもそも属していないということである。わたしは、周囲の人々や生き物に対してはもちろん、自分が読んでいる書物に対しても、あるいは使っているパソコンに対してすら、愛着を持つことができる。けれども「情報」に愛着を持つことはできない。わたしがいま使っているパソコンは、おそらくわたし自身が死ぬまでには壊れるだろうし、わたしが読んでいる書物は、わたしが死んだ後も当分はどこかに存在しつづけているだろう。けれどもそれらはすべてわたし自身と同じように、時間の中でやがては劣化し、摩滅し、消滅してゆく。その意味で、わたし自身と同じ世界に属しており、多かれ少なかれ同様の運命をもっているのである。だがデジタル化された情報は、劣化や摩滅や死とは、原理的に無縁である。このことを、実際問題として情報が容易に失われたり改変されたりしやすいという事実と混同してはならない。
情報のもつこの原理的な非時間性こそが、わたしたちがこれほどまでに強く情報に魅了される、最大の理由ではないだろうかとわたしは考える。(それに比べると、デジタルメディアのもたらす効率性や利便性は、表層的な理由にすぎないように思われる。)サイバーパンク的空想の中で、人間が生物学的な身体を捨て、その心や精神がソフトウェア、つまり「情報」と化すことによって不死の存在になるというのは、「情報」が人間にあたえる高揚感の極端な例である。もちろん多くの人はそうした空想を本気では受けとらないだろうが、それでもデジタルメディアを日常的に使うことによって、わたしたちは知らず知らずのうちに時間を見る視点を逆転させているのである。すなわち、死すべき存在としての自己自身の有限性からその外部としての永遠をみるのではなく、むしろ情報の非時間性という立場から逆に有限な時間をみているかのような、超越的感覚をもつのである。多くの人はバソコンで作業しているとき、それが処理に要する(実際にはほんのわずかな)時間にもイライラする経験をするだろう。それは、そもそも時間というものが情報処理においては何の意味ももたず、できるだけ少ない方が望ましい、たんなる「遅れ」にすぎないからである。これに対してレストランで注文した料理が運ばれるのを待つ人は(仕事に追われてなるべく早く食事を済まそうというのでないかぎり)、同じような仕方で時間にいらだつことはない。食事を待つ時間には何らかの意味があるからである。多くのOSでは、処理時間にアニメーションを動かしてそうしたユーザの苛立ちを緩和する工夫がされているが、それはまさにそのわずかな時間に——砂時計の砂が落ちるといった——現実世界になぞらえた意味を与えるための工夫であるといえる。
情報について確認しておくべき第二の点は、情報それ自体は「時間」から無縁であるばかりではなく(あるいは、時間から無縁であることの当然の帰結として)、「知識」や「意味」からも無縁であるということである。このことは、一見奇妙に思えるかもしれない。なぜならインターネットをはじめ情報社会と呼ばれている今日の状況は、わたしたちの生活にむしろ知識の過剰をもたらしているように思われるからである。いわゆる「情報化社会」の問題とは、把握すべき知識や意味が多すぎて個々人がそれについてゆけないことだというように語られることが多い。だが、0と1にコード化された情報がわたしたちにとって意味をもつ知識となるためには、それが厳密な規則にしたがって人間に解読可能な自然言語へと復号化されなければならない。さらに、人間に読みうる言語として表現されていたとしても、ただ存在するというだけでは、それは意味を持たないのである。情報が意味をもつためには、それが固有の生の文脈において解釈されなければならないのだ。たしかに、インターネット上には膨大な情報が存在している。だがそれだけで、膨大な意味がそこに存在しているわけではない。また大きな図書館の書庫には、何十万冊もの書物が存在しているだろう。だからといってそこに膨大な知識が収蔵されているわけではない。巨大なデータベースやアーカイヴを指差して、それ自体が何か偉大なものであるかのように想像したり、そうしたものを構築すること自体が何か知的な達成であるかのように語るのは、ある種の呪術的思考とでもいうべき態度である。
「情報」の呪物崇拝【ルビ:フェティシズム】、つまり膨大な情報の集積をそれ自体が何らかの知的存在であるかのように考える傾向に、わたしたちは少なからず影響されている。だが「情報」が持つこうした呪術的効果について、現代の社会生活の中で十分に自覚されているとはいいがたい。冷静に考えれば、情報がそれ自体で意味をもちえないことは当然であるにもかかわらず、わたしたちはあたかも、それが自律的な意味をもつかのように考えてしまうのである。たとえば若いメディアアーティストや研究者たちは、何か新しい着想をもつと、すぐにそれをインターネットで検索する。すると、類似の着想がすでに誰かによって発表されていたり、さらに不運な場合には、すでにどこかの会社が製品化していたりする、といったことがある。現代では芸術制作においても研究活動においても「独創性」が強く要求されるので、かれらはせっかく得た自分の着想をそれ以上発展させるのを断念し、インターネットは自分よりもはるかに賢い存在だと思ってしまう。だがこれは、情報について呪術的に考えることから来る、まったくの誤りである。一般に、芸術や研究上の着想がもつ意味は、それを抱いた人の固有の生の文脈の中で展開されることによって、はじめて現実化されるのである。「情報」はただ存在するだけでは「意味」ではない。情報を意味そのものと混同することがたしかにわたしたちの知的活力を鈍らせているのだが、そのことにはっきりと気づいている人は少ないのである。
情報それ自体に意味がないということは、先述した情報の非時間性という側面からも考えることができる。以前わたしはある実験的な遠隔授業において、生命工学がやがて達成するかもしれないとされる「不死テクノロジー」について話をした。もちろん、そうした技術的達成が現実に可能か不可能かを予測する能力も資格もわたしにはない。わたしはただ、そうした事態が仮に到来した場合、わたしたちがどのような状況におかれるのかということについて考えただけである。人間が不死になることは、人間の意識や精神そのものが電子的な情報となって機械の中で生き続けるか、あるいは細胞の自然に死に至るプログラムを何らかの方法で書き換えて老化そのものを阻止するとか、さまざまな方法が考えられるだろうが、いずれにしてもテクノロジーによる不死とは、何らかの意味での生命の「情報」化と引き換えに与えられるものである。わたしの考えでは、自分の前に無限時間の人生があるというのは恐ろしい事態である。そうなればわたしは、おそらく想像もできない倦怠と絶望の中に投げ込まれ、自殺を考えながら臆病なため実行もできない地獄のよう日々を送りついには発狂してしまうだろう、と述べた。すると遠隔地の大学の教室にあるモニタでわたしの講義を聴講していた一人の学生が「不死は太古からの人間の普遍的願望であり、もし科学によって不死が実現されたら、自分なら与えられた無限の人生を有意義にまっとうする」と反論(?)した。だが、無限の人生は「まっとう」できない。人生に意味があるのは、その時間が有限だからである。わたしたちが死を恐れるというが、それは死が今すぐ、あるいは二年後に到来すること、つまり自分の死が時間の中に具体化されることを恐れるのであって、死そのものを忌避しているわけではない。
情報の非時間性とは、それを人間的に解釈するなら「不死」である。人間が古代からあこがれてきたといわれる不老不死とは、老いや死に脅かされない安楽な生という理想であって、テクノロジー的に実現される生の時間の無限化とけっして同じものではないが、それでもわたしたちは情報の存在様態の中にそうした人間的な願望を投影しているのかもしれない。「情報」はたしかに死とは無縁だが、それは端的に情報が生と無縁だということ、そして生を条件とするあらゆる意味とも無縁であるということのひとつの側面にすぎないのである。ようするにわたしたちは「情報」の存在様態を人間的に、あまりに人間的に解釈する結果、そこに過剰な意味を読み取りすぎているのだが、同時にそのこと自体を明確に意識しているとはいえないのである。
「情報」の存在様態にかんして最後に付け加えておきたいことは、「情報」には本来的な意味での「著者」が存在しないということである。そしてこの著者性の欠如もまた、「情報」の圧倒的な影響力の背面ともいえる問題であるが、これに関しては紙数の制限もありごく簡単にコメントしておきたい。著者性とは有限時間の世界内における署名という行為、つまり何らかの物質的な書き込みという行為がなければそもそも成立しない。著者性とは、自分と自分の制作物との間の物質的な関係のことである。別な言い方をするならば、生に意味があるのはそれに限りがあるからだというのと同じ理由で、著者性に意味があるのは、著者が誰かということがいつかは忘却されるからである。署名、つまり制作物への物質的な書き込みという行為は、それがいつかは誰のものかがわからなくなるような世界の中において、はじめて可能なのである。このことは、なぜデジタルメディアの時代に至ってとりわけ「著作権」がやかましく取り沙汰されるようになったかを説明する。それは、デジタルメディアによるすべての著作物の情報化がもたらした、ひとつの必然的な帰結なのである。つまりそれは、著者性が物質的にしか確保できないということと、「情報」はその非-物質的な存在様態からして著者を持ちえないということとの間の矛盾が、現実問題として表面化してきたということにほかならないのである。
4 知識のパッケージ化——デジタルメディア形而上学の帰結
「情報」には著者が存在しない。それは「情報」という存在様態においては、それがその中から切り出された、生きた世界の固有の文脈が抹消されているということに由来する。生きた世界の文脈からの離脱——このことをわたしは、きわめてポジティヴな意味においても言っているのである。「情報」のこうした脱-文脈性こそが、地球を包むリアルタイムのネットワークを可能にしていることは疑いない。少なくとも一九八〇年代以降の世界の発展は、社会のあらゆる局面におけるこうした脱-文脈化の影響なしには理解することができない。だがそれと同時に、「情報」のもつそうした存在様態がわたしたちの世界理解の中に根を張るにしたがって、文化的対象や知識一般についての知覚のあり方もまた、根本的な変化をこうむることになる。わたしたちは知らず知らずのうちに、あらゆる知識やその対象を、固有の文脈から切断された「データ」とみなすように、知らず知らずのうちに誘導されてゆく。本章ではデジタルメディアの形而上学あるいは「情報」モデルがもたらすいくつかの帰結について、少し具体的に記述することによってこの論考を終えようと思う。
知識の情報化はまず、「メディア」と「コンテンツ」、つまり媒体と内容との完全な分離を自明な「事実」として前提するように、わたしたちを誘導する。もちろん「書物」という伝統的メディアにおいても、本の大きさ、デザイン、装丁といったものと、その内容(文字データ)とは、別々のものである。だが、そこには完全な分離は存在していなかった。たしかにハードカバーの高価な初版本でも最新版の安価な文庫本でも、そこに印刷されている一篇の小説作品は、テキストとしては同一であり、わたしたちがその作品を鑑賞したり研究したりする場合、わたしたちの意識が向かう対象はあくまでテキストとしての小説であり、物体としての書物ではない。だがそれでも、わたしたちの意識は書物の物質的特性と完全に切り離されることはないのである。初版本はそのテキストが書かれた固有の文脈を反映しているし、文庫本はその形態自体の中に、オリジナルの書物のリプリントであるという意味を潜在させている。テキストはつねに、その意味を支えるバックグラウンドとしての時間的・歴史的文脈を伴って提示されるのである。つまり書物という形態においては、その内容はたんなる文字データ、つまり「コンテンツ」ではないし、「メディア」としての書物もまた、それと完全に分離すことのできる、たんなる容れ物ではない。
それに対してデジタルメディア環境においては、テキストはそれが生み出された固有の文脈から完全に分離することのできるたんなる内容、つまり「コンテンツ」としてしか存在できない。たしかに、パソコンや携帯電話で読まれる言語作品に対して、フォントや背景デザインなどテキストの表示環境に工夫をこらすことによって、テキストが置かれていた背景的意味の文脈を擬似的に与えることは可能である。だがそれはあくまで、書かれたり印刷された実世界でのテキストの状態を模倣しているだけであって、本質的にはテキストはたんなるデータにすぎない。そのことは知識として理解される必要はまったくなく、たとえばインターネット上のテキストを自分のパソコンのエディタにコピー&ペーストするといったなんでもない作業を通して、直接的かつ日常的な身体的知覚として経験されるのである。コンテンツとはたんなる著作物のことではなく、データ化が可能であるかぎりでの著作物のことである。コンテンツという言葉のこうした現代的な意味は、デジタルメディアという環境の中でしか理解できない。
画像に関しても同様のことが言えるだろう。光学的写真によって撮影された絵画においては、たしかにオリジナルの作品が置かれていた固有の空間的文脈が剥奪されている。たとえば、カタログに収録された写真には、ふつうは作品の周囲はもちろん額縁すらも写っていない。その意味で、光学的な写真はすでに絵画作品という存在を額縁の内側にあるスクリーン上の画像データへと変換しているようにみえる。だがそれでも、光学的な写真や印刷によるその再現という環境においては、わたしたちは絵画の周囲に額縁が存在し、それが固有の空間的環境の中に置かれていることを、暗黙のうちに前提しながら見ていたのではないだろうか。それは、再現された画像の品質とか再現の忠実度といったこととは関係がない。わたしたちが光学的な写真をそれが写し出すオリジナルの対象との関係において見ることができたのは、光学的な写真や印刷物それ自体が、特定の物質的形態をとってこの世界の中に固定されているという様態、つまりそれらが再現しているオリジナルの作品が属しているのと同じ世界の中で、劣化と消滅という運命を共有しているためではないだろうか? それに対してデジタル化された画像は、画像の精細な再現的忠実度という点ではいまや光学的写真をも凌駕しているのであるが、「情報」という存在様態を持つかぎり、その画像はこの世界の中に固有の位置を持っていない。それは、どこにもないと同時にどこにでもある、つまり位置を欠いていると同時に「遍在的」なのである。
わたしたちはこれまで、言語や画像からなる知識内容を、紙などそれ自体が物質性をもつ媒体を使って、提示したり発表したりしてきたし、今でも行なっている。たしかに「紙に印刷されていないと落ち着いて読めない」という現実的な理由から、多くの書類はブリントアウトされる。だがそのとき、わたしたちは以前と同じように何かを読んでいると言えるだろうか? わたしたちが紙の上に読んでいるのは実は、プリントアウトされた「情報」にすぎないのである。液晶画面よりも印刷物の方が読みやすいというのは、物質としての紙がたまたまインターフェースとして優れているということを意味しているにすぎない。自分が作成したなんらかのデータをプリントアウトするという、現代ではまったく日常的な行為を通じて、わたしたちの身体は暗黙のうちに、任意の媒体に表示可能な「情報」という、知識の非-時間的で非-空間的な存在様態を理解し、受けいれている。そしてあらゆる種類の知識内容を、「情報」のこうした存在様態に適合したものとして表現するように、知らず知らずのうちに訓練されているのである。
このことを示すきわめて身近な例のひとつが、広範囲に普及している情報提示ツール、「パワーポイント」の使用である。「パワーポイント」はいうまでもなくマイクロソフト社の一製品の名称にすぎないが、今やこの名前はほとんど普通名詞化しているといえるのではないだろうか。(これ以外にも、同じマイクロソフト社のWindows系OSや、「ワード」「エクセル」、あるいはAdobe社のPDFなど、特定の会社の特定の製品仕様にすぎないものが、企業や官公庁や教育機関においてあたかも「情報」の標準的なフォーマットであるかのように通用しているが、この事態は率直に言って異様である。)さてそれほど昔のことでもないが、パソコンが普及する以前、主として文字と静止画からなる情報を提示する方法としては、スライド・プロジェクタやOHP(オーバーヘッド・プロジェクタ)が広く用いられていた。パワーポイントは、それらの道具を使うのに要した手間や時間をおどろくほど軽減したことはいうまでもない。だがここでも、そうした実用性や利便性というレベルを越えて、知識の提示にかかわる身体と世界との関係が根本的に変化していることに注意をうながしたい。「パワーポイント」はわたしたちの身体を、「情報」提示という操作の一部として組み込んでゆくのである。
わたしたちの身体はまず、「情報」の無重性という事態に適応する必要がある。現実的なレベルではもちろん、それは重い書類ケースからの解放ということである。パワーポイントは当然のように多くのパソコンにあらかじめインストールされているので、わたしたちはプレゼンテーションに自分のパソコンを持参する必要すらない。それどころか反対に、自前のパソコンを持ち込むことは接続その他のハードウェア的なトラブルの可能性があるため、推奨されないことが多い。つまりわたしたちはたいてい、「データ」だけを持って来てくださいと言われる。それでわたしたちが講演や発表の場に持ってゆくのは、重さ数十グラムにも満たないフラッシュメモリである。あるいは、あらかじめデータをメールで送付したりインターネット上の特定の場所に置いておけば、何一つ持って行く必要すらない。つまり「情報」という様態をとる知識内容は、物理的な重さとはまったく関係がない。わたしたちはもはや、原稿や資料をカバンの中に入れて「これを今日発表するのだ」と実感することはできなくなったのである。
〈情報〉はまた重さだけではなく、「摩擦」とも無縁である。ここで「摩擦」というのは、いわば物質的な世界の中を動くことから発生する抵抗力であり、いわばある対象がこの世界に属していることを証明するものである。スライドプロジェクタやOHPによる提示においては、わたしたちは投影された内容に注視すると同時に、スライドが切り替わる機械音、シートが擦れ合う音、光源から発生する熱といったことばかりではなく、しばしばスライドの写真が裏向きになっていたり、シートの順序が前後してしまったり、時にはせっかくの資料がテーブルの上からこぼれて床にばらまかれてしまったり、といったことを経験する。もちろんそうしたことは、提示される情報内容にとっていかなる明示的な意味をもつわけでもないが、それでもそれらの現象は、媒体の物質性や発表する人間の身体の存在をつねに思い起こさせ、それによって話者と観客の双方が同じ世界の中に属していることを確認させるバックグラウンドとして機能していたのである。それに対しパワーポイントにおける提示においては、知識内容はわたしたちの身体と、物質的なレベルでは結びついていない。知識は「情報」として摩擦の存在しない世界に属している。スピーカーも聴衆もともに、別な世界に属する「情報」を眺めているのである。常識的な意味ではたしかに、スピーカーは「パワーポイント」というツールを用いて、彼女あるいは彼の知識を聴衆に伝達している、ということにほかならない。だが、メディアと身体との根本的な関係性というレベルでみると、すべての人々がパワーポイントの話す唯一のメッセージ——〈あらゆる知識は情報へと還元可能である〉という暗黙のメッセージ——を聴いているという光景が、そこには浮かび上がってくるのである。
いうまでもなくわたしは、ここで特定の製品としての「パワーポイント」について語っているわけではない。この名称をとりあげたのは、たんにそれが現在もっとも広く利用されている情報提示ツールであるという理由からにすぎないし、わたし自身も時おり利用するこのアプリケーションを特にとりあげて非難するつもりもない。ただこの典型的な事例によって、デジタルメディアが知識一般の「パッケージ化」とでもいうべき事態をもたらしていることを示したかっただけである。「パッケージ化」とは、はちょうど大規模な流通システムの実現がもたらした商品の提示様態、つまりスーバーマーケットにおいてはあらゆる生鮮食品が発泡スチロールのトレイと透明なセロファンのラップによって梱包されるという事態に似ている。そうした処理をしたからといって、梱包されている中身が何か違ったものに変質するわけではないし、中身が何であるのか、どんな色でどれくらいの大きさであるか、といった必要な「情報」は問題なく得ることができる。「コンテンツ」としての同一性は保たれているどころか、むしろパッケージ化によって中身の品質の劣化を防ぐことができる。と同時にパッケージ化は、中身が放つ匂い、滲み出す泥や水分、ようするにパッケージの「中身」が本当はわたしたち自身と同じ世界に属していることを示す諸要因を可能なかぎり遮断する。パッケージ化は世界内の事物の基本的に厄介【ルビ:メッシィ】な有りようを消滅させ、あらゆる事物をクリーンなものとして提示する。いってみれば情報化によってフィルタされるのは、知識がもっている本来的な「生もの」性なのである。
こうした脱-文脈化=情報化が眼にみえる形で進行しているもうひとつの重要な例は、わたしたちがその中に生きているはずの自然や文化そのものを「財産」や「遺産」というメタファによってパッケージ化することであろう。たとえば国際連合教育科学機関(UNESCO)が推進している「世界遺産」と呼ばれるプログラムは、そうした動きを代表する大規模な事業のひとつである。文化とはいうまでもなく、それぞれ固有の歴史的・地理的環境の中で現に生きている人々のものであるのに、それが「遺産」であるとはどういうことであろうか? 公開されている定義を読めばわかるように、そこでは「遺産」を残した者も、それを引き継ぐ者もともに「人類」であるという抽象化が行なわれている。そもそもいかなる委員会も「人類」を代表できるわけはない。だが、固有の歴史的文脈の中で生み出された文化的産物をパッケージするためには、「人類」という虚構の主体が必要なのである。このことは一見、わたしたちが本論で問題にしているデジタルメディアや情報とは直接関係のないことのように思えるかもしれない。だが、自然や文化を「人類」という架空の参照点によって「遺産」化することは、知識内容を生の文脈から切り出して「情報」化することと、まったくパラレルなのである。「世界遺産」とは現実的な存在であるというよりも、データでありコンテンツなのである。「世界遺産」は、実際にそこを訪れたり光学的な写真によって再現するよりも、パワーポイントによるプレゼンテーションとか、デジタルハイビジョンのテレビ画面に写し出されるのに、はるかに適している。「遺産」としての文化とは、デジタルメディアの中にしか存在していない、あるいはデジタルメディアの中では文化は「遺産」という形でしか存在できないのである。
ここでも再び注意すべきことは、デジタルメディアによってわたしたちはあらゆるものをパッケージ化されたコンテンツとしてしか見なくなったというような(あるいは、子供たちはゲームのヴァーチャルな世界と現実の区別がつかないとか、若者たちはもはやネットの中で生活しているとか、そうした類いの)「事態」が問題ではないということである。もちろんそのような「事態」などどこにも存在しない。わたしたちは誰でも、デジタルメディアの掬いとることのできない現実があることを知っているし、スーパーマーケットに並んでいるラッピングされた生鮮食品が、本来は別な姿で自然の中に存在していたことは知っている。問題は、そんなことを「知って」いるだけでは無力であるということだ。デジタルメディアによってデータ化された世界に対する、本来の「生きた」世界といったものは、けっしてそれだけでデジタルメディアの形而上学を相対化するものではなく、むしろデジタルメディアによって最も効果的に表象されるような何かなのである。デジタルメディアが把捉しえない何らかの「外部」としての生きた世界、リアルな世界に訴えるという身振りは、知識のパッケージ化に抵抗するどころかむしろそれを促進するものとなるのである。
5 おわりに
デジタルメディアの背後にあるのは、いうまでもなくテクノロジー一般の問題である。本論でデジタルメディアに特に注目した理由は、それがきわめて深く広範囲な浸透力を持ち、あらゆる問題をテクニカルな課題に還元するようにわたしたちを誘導する強い教育的影響を持ち、しかもそうした影響は明示的に意識されることなく進行してゆくからである。たしかにデジタルメディアは現象的なレベルにおいても、様々な社会的、文化的な問題を引き起こしており、それらに対する法的、倫理的な合意を形成することが必要とされている。だが、デジタルメディアにかかわる事柄がテクニカルな外観をもつからといって、それにはもっぱらテクニカルな仕方でしか対処できないと考えるべきではない。たしかにデジタルメディアは文字言語をめぐるわたしたちの態度や習慣を変化させ、人文科学的研究の核心をなす反省的・批判的な思考を掘り崩しつつあるようにみえるかもしれない。だが、それは見掛けだけのことだとわたしは考える。デジタルメディアに美学的、哲学的な考察すること、デジタルメディアを通してテクノロジーの本質について、そしてわたしたちの生の根本的な状況について考えることは、きわめて重要なことなのである。
【注】(本文に戻るには参照した注番号をクリックしてください)
(1) Friedlich Kittler, Grammophon Film Typewriter, Berlin: Brinkmann & Bose, 1986(フリードリヒ・キットラー、『グラモフォン フィルム タイプライター』石光泰夫・石光輝子訳、筑摩書房、1999)を参照。
(2) H.G. Wells, The Time Machine, 1989(H.G.ウェルズ『タイムマシン』)この物語では、八〇万年後の人類が地上で優雅な生活をおくる種族(エロイ)と地下の暗黒で工場労働に従事する種族(モーロック)へと進化している。
(3) たとえば1993年に出版した『情報と生命—脳・コンピュータ・宇宙—』(室井尚・吉岡洋、新曜社)は、そのような文脈の中で執筆された。
(4) Benjamin Libet, Mind time: The temporal factor in consciousness, Perspectives in Cognitive Neuroscience, Harvard University Press, 2004(ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』下條信輔訳、岩波書店、2005 )
(5) Judy S. DeLoache, "Dual Representation and Young Children's Use of Scale Models", in Child Development, Vol. 71, No. 2 (Mar. - Apr., 2000).
(C)Hiroshi Yoshioka