Space in CyberSpace

「聴く」ことのスローネスをめぐって

雑誌『SLOW』 (株)ワールドフォトプレス 2008年5月5日

「オーディオ」というのは、不思議な言葉である。それはラテン語の「聴く(audire)」という動詞の一人称現在形(audio「私は聴く」)から英語化されたものだが、聴くことや音響一般のことではなくて、「記録された音響」に限定された意味をもっている。現代の英語や日本語においては「オーディオ」とは、音響を記録する装置、またそうした装置による音響経験のことを指すのがふつうである。いってみれば「オーディオ」という語の中では、「聴く」ことと「記録・再生できる」こととが、ひとつに重なっているわけである。たとえタイムマシンに乗って過去に行ったとしても、わたしたちが理解している「オーディオ」の意味を、古代ローマ人にわかってもらうことはできないだろう。彼らにとっては、音響を聴くという経験と、その記録・再生可能性とは何の関係もないからだ。「オーディオ」という言葉の意味は、音響を記録・再生するテクノロジーの存在を前提しないかぎり、けっして理解することはできないのである。

音響は物理的振動から生み出される。自然現象としての音響は、この世界に人間が存在しようがしまいが、あるいは音響を記録・再生する装置があろうがなかろうが、それ自体として存在してきた——そう考えるのが合理的であるように思われる。けれども、本当にそうだろうか? たとえば人類がこの地上に登場するはるか以前、いやそれどころか、原始的な聴覚を持つ生き物すらまだいなかった太古の地球において、マグマが噴出し大地が揺動するすさまじい轟音が響きわたっていたと、はたして言えるのだろうか? 誰ひとりとしてそれを「聴く」ものがいないのに? このように問いかけてみると、ちょっと確信をもってそう言いきれないという感じもするだろう。それは当然である。音響というものは物理現象それ自体ではなくて、「聴く」という行為を通じた経験のことだからである。

音響の経験は「聴く」という行為を通じて生み出される。では「聴く」とはどのような行為だろうか? それはたしかに空気振動を、聴覚器官を通して知覚するということには違いない。だがこんな説明では「オーディオ」の経験を理解することはできない。「オーディオ」の経験は聴取行為のメカニズムによってではなく、その意味によって決定されているからである。「聴く」ことの意味——このことを整理して理解するために、それを三つの異なった状況の中で考えてみたい。それは、(1)音響の記録・再生とは無縁な状況(2)アナログ的・物質的記録という状況(3)音響のデジタル情報化という状況、という三つである。だがこの三つをかならずしも単純な時系列の中に、つまり「テクノロジーの進歩」という退屈なオハナシの中に位置づける必要はない。ハイテク社会に生きていても、わたしたちは日常生活においては記録・再生とは関わりのない音響経験をしているし、また本誌を手に取る多くの人は、デジタル環境の中におけるアナログのオーディオ経験に、たんなる懐古趣味とは違った独特の魅力を見出しているだろう。この三つの状況は相互にオーバーラップし、影響しあっているのである。

(1)ではまず、記録・再生と無縁な仕方で「聴く」とはどういうことなのだろうか? そこではいうまでもなく、いかなる音響も一回的なもの、反復不可能なものとして経験される。ここでは音響とは、宇宙の中で万物が生成流転してゆく、壮大なプロセスの一部なのである。「人は同じ河に二度と入ることはできない」と、古代ギリシアの哲人ヘラクレイトスは言った。たとえば家路に向かう夕暮れ、学校の側を通りかかり合唱の練習をしているらしい歌声を耳にするとき、また寝静まった山小屋で、遠い岩山の崩落する音が微かに耳に届くとき、わたしたちはそのような仕方で「聴いて」いるのである。そしてこれらが、わたしたちの人生を形づくる最も基本的な音響体験である。ここには、「オーディオ」という経験は存在しない。

(2)「オーディオ」という経験は、音響がなんらかの物質的な刻印として記録され、再生されるという条件の中で、はじめて出現する。それをもっとも明確に表しているのは「音声の書き込み【ルビ:フォノグラフ】」、つまりレコードプレーヤーをはじめとする機械装置であるが、もっと広く考えるなら、調性やそれに基づく楽譜、あるいは楽器そのものも、記録・再生テクノロジーの前身と言えるかもしれない。楽器とは演奏のための道具であると同時に、音響という不安定なものを安定して記録し再生するための装置でもあったのである。

ここで重要なことは、どのような「書き込み」がなされるにせよ、そこでは音響という物理的振動のもたらす情報が、なんらかの物質的なパターンや構造——ドラムやディスク上の溝、譜面の紙のインクの形、一定の仕方で調律された楽器——に変換されているという点である。音響それ自体は、つかの間に変化する儚い現象である。だがそれが書き込まれた物体もまた、永遠に同一性を保って存続するわけではない。レコードの溝はやがて摩滅し、楽譜は散逸し、楽器もいつかは壊れてゆく。それらはすべて現実世界の中でたえずノイズの影響にさらされながら、有限の時間を生きる。その意味でわたしたち人間と同じである。つまり、音響も、その書き込みも、それを経験するわたしたちも、同じ世界に属しており、それぞれ時間の長短はあれ、やがては摩滅し消滅してゆくという点で、同じ運命を生きているのである。「オーディオ」という経験の本質はここにあるのではないかとわたしは考えている。

(3)さて二〇世紀後半以来急速に普及してきたデジタルメディアは、これとはまったく異なった状況を、聴取行為に対してもたらすことになった。アナログ/デジタルの違いとは、たんなる記録方式の違いでも、それによる再現の品質や忠実度の違いといったものでもない。もっとも本質的な違いは、デジタルにおいては音響が非物質的な存在に、つまり「データ」に変換されるという点にある。データはその本性上、摩滅・劣化することはない。なぜならそれは物質的世界には属しておらず、時間とはそもそも無関係に存在しているからである。実際問題としてはたしかに、デジタルデータにもエラーが発生したり、消失したりする。だがそうした不安定性は、データを記録し伝達しするための物質的条件に起因するのであって、データそれ自体の本性に由来するものではない。データあるいはデジタル情報自体は不死であり、それは考えてみるときわめて不思議な、ある意味では不気味な存在なのだが、今やわたしたちはそれに大きく依存した生活を送るようになった。

「聴く」ことをめぐるこれらの異なった状況を区別して考えてみれば、デジタル音源が普及した現在、なぜ「オーディオ」がふたたび興味深くなってきたのかがわかってくるだろう。それは、デジタル写真の普及という状況の中で、光学写真の面白さが再発見されることと同じである。そうした傾向は、たんに贅沢なレトロ趣味というだけでは説明できない。大げさな言い方をするなら、そこには物質性の再発見ということがある。一九七〇年代以前、つまりデジタル化以前のオーディオ装置はいわば透明な「システム」を指向していた。そこでは装置の物質的な特性がもたらす歪みや劣化、ノイズといった実世界的要因は排除すべきものであった。それに対して現代においては、そうした要因をも含めた全体的な音響経験を許容する余裕が出てきたように思える。いわば「オーディオ」も歳を取ったのである。若く溌剌としている時には身体のことなど気遣わないものだが、歳を取るにつれて自分の身体の物質性を強く意識するようになる。そしてそれは、けっしてネガティヴなことではないのである。

人生の有限性、つまり摩滅し消滅してゆく時間的存在としての自己を受け入れる態度を、スローであること、「スローネス」と呼ぶこともできるかもしれない。別な言い方をするなら、それは「あきらめる」という態度とも言える。精神科医たちに言わせると、現代日本人は実年齢とはかかわりなく「あきらめる」ことが苦手らしい。あるべき自己を実現するために、あたかも生きる時間が無限にあるかのように、若さをいつまでも保ち、あきらめずに努力することが称揚される。その結果、子供から老人まですっかり疲れきってしまい、うつ病にかかってしまう。「あきらめる」ことはいわゆる「負け組」になることと同義のように思われているからだ。けれども「あきらめる」とは、「生の実相を明らかにする」という意味でもあるのである。「あきらめ」なければ、けっして見えてこない世界というものがあるのだ。  このような文脈において、わたしは現代におけるオーディオを、「聴く」ことのスローネスとして考えているのである。さてここまで書いてきて、ある音楽作品のことが頭に浮かんできたので、それに簡単に触れることで、この文章を締めくくりたい。それはジョン・ケージの「Organ²/ASLSP」(1987)というパイプオルガンの曲である。「ASLSP」というのは「As SLow As Possible(できるだけスローに)」という意味だ。この曲は二〇〇一年にドイツの聖ブルヒャルディ教会で機械によって演奏されはじめ、演奏が終了するのはその六九三年後、二六四〇年である。現在、二〇〇六年から二〇〇一二年まで続く三連符が演奏されているはずだ。(興味のある方は http://www.john-cage.halberstadt.de/ を参照されたい。)

「聴く」ことのスローネス。知ったかぶりをして小難しい理屈をならべたりせずに、最初からただこの圧倒的な作品を紹介するだけでよかったのかもしれない。

(C)Hiroshi Yoshioka