模倣と創造
『複々製に進路をとれ 粟津潔60年の軌跡』 川崎市民ミュージアム 2009年1月24日
漫才コンビの「爆笑問題」が大学を訪問するというテレビ番組が、話題になっている。なかでも「独創力」をテーマに京都大学の教授たちとやりとりする特別版はなかなかの人気を呼び、再放送もされた。数ある大学の中で京大が選ばれたのは、そこが哲学者の西田幾多郎や物理学者の湯川秀樹をはじめ、時代の学問的常識から大きく逸脱した「独創的」な研究者たちを輩出してきた学府である、という通念があるからだろう。実際、京大は今もみずから「自由な学風」ということを、セールスポイントにしている。いかに学生を放ったらかしにしているかを、誇らしげに語る教授も少なくない。そしてそうした「自由」が「独創」を育むのだという考え方が漠然と共有されている。このロマンティックな思いこみに対して、「爆笑問題」の太田光が辛辣なツッコミを入れるのが、この番組の見どころである。
「独創性とは何か?」「独創的であるためにはどうすればよいのか?」。これは学問にかぎらず、競合的な状況の中で何か新しいものを創り出そうとする人が、ときおり自分自身に差し向ける問いであろう。そのような問いを発する時、人は創作活動のただ中にはいない。むしろこうした問いが発せられるのは、人がふと立ち止まり、途方にくれるとき、みずからの活動に自信を失う瞬間である。その背後には「私が自分の独創だと考えてきたものは、実はすでになされたことの反復にすぎないのではないのだろうか?」という疑念が潜んでいる。そして自分の制作物と過去のそれとを比較してみると、たしかに顕著な類似性が観察されることが、少なからずあるのだ。そればかりか、多くの人々が「独創的」と認めている有名な歴史上の制作物ですら、調べてみるとそれに酷似した、何らかの先行例を持っていることが判明する。これまで素朴に「独創」という価値を信じてきた人にとって、その価値があたかも空中楼閣のごとく、頼りないものに見えてくる。そして独創性とはいったい何なのか、それは何によって保証されるのだろうかと疑いはじめるのである。
こうした疑念にとらわれて行き場を失った時、私たちがとりあえず逃げ込む、お決まりの道が二つある。ひとつは「自分」、もうひとつは「社会」という逃げ道である。「自分」という逃げ道とは、みずからの心に証する強い信念をもっぱら根拠とする、という態度である。ようするに、「他人が何と思おうとも、この私自身が独創と信じてやっているのだから、これは独創的なのだ!」と断言することだ。ヤケクソだが、少なくとも元気はいい。だがこれが逃げ道であること、つまりこの考え方自体が間違っていることは明白である。そんなことをいくら叫んでも、誰も聞いてはくれないからだ。独創性はその定義からして、他人による承認を必要とする。さもなければ、独創的であることと狂人であることとの、区別がなくなってしまう。だが、こうした明らかな錯誤にもかかわらず、この考え方にはある種の力があることも否定できない。それは、こうした断定的信念を持つことが、人が自分の活動に自信を喪失したとき、みずからを励まして仕事を続けるために、ある種の実践的効能を発揮するからである。試合を目前に控えたボクサーは「もし負けたら」などとは考えない。どんなに無根拠であれ、とにかく「自分は勝つのだ」と信じる。そうした信念を持つ方が、そうでないよりも実際の勝利に導きやすいことを、経験的に体得しているからである。
もうひとつの「社会」という逃げ道は、これとは正反対にみえる。それは「本人が何を思って創ったにせよ、それを周りの人たちが『独創的』として受けいれれば、それは『独創的』なのである」という考え方だ。「独創性」の判定基準を自分の心証にではなく、他人の判断に委ねるのであるから、こちらは一見、穏当で謙虚な態度であると思われるかもしれない。だが実は、そうではない。この態度は前者のそれに劣らず独善的であるばかりか、さらに悪いことには、前者よりも無責任な態度なのである。このような言い方の底には、ひとつの誤魔化しがあるからだ。誰も「周りの人たち」、つまり「社会」を代弁することなどできない。右の文における「周りの人たち」とは、実は、この文の話者のことにほかならないのだ。「『社会がそう決めている』と〈私〉が決めている」のである。そしてこの〈私〉が隠れている分、タチが悪い。言ってみればそれは、若者を諫めるべき場面で、自分の判断を表に出さないことで善人ぶろうとして「そんなこと、世間では通用しないよ」と言って諭す、年長者の偽善のようなものである。(「世間じゃない、あなたでしょう?」(太宰治『人間失格』))ようするに独創性の基準を社会の判定に委ねるということは、「社会」なるものが時間的にも空間的にも相対的である以上、本当は「独創性など存在しない」と言っているのと等しい。だからそれは、「独創とは何か」という問題に答え(respond)ていない、つまり無責任(irresponsible)な態度なのである。さらに言えば、「何事もすべて社会が決める」などと言われて元気の出る人はいない。つまりこの態度は虚偽であるばかりでなく、実践的な有効性も持っていないのだ。「私はひたすら作るだけ、作ったものの善し悪しはひとさまが決めることです」と謙虚に言えるのは、自分の作るものに揺るぎない自信を持っている(言いかえれば「ひとさま」の判断など本当はこれっぽっちも信じていない)人だけである。
このように二つの逃げ道をあらかじめ塞いでおくことで、やっと私たちは「独創」について、まともに考えるための、端緒にたどり着くことができるのではないだろうか。「独創とは何か?」と真正面から問いかけても、問いに脚をすくわれるだけなのだ。むしろ「独創」と、普通それと対立すると思われている「模倣」や「複製」との、真の関係について考えてみなければならない。結論を先取りして言うなら、それらが単純な対立物ではなく、むしろ創造活動の持つ分かちがたい両面であることを、認識する必要があるのである。現代の常識は、独創と模倣とを客観的に区別できるという前提に立っている。「客観的に区別できる」とは、制作物のもつ事実上の特徴を比較することで確認可能である、という意味である。(そうでなければ「著作権」という考え方がそもそも成り立たない)。そして、写真技術からコンピュータに至る機械的複製技術の進歩によって、模倣はきわめて容易となり、私たちは複製されたイメージの膨大な群れに取り囲まれて生活するようになった。こうした状況が、現代の人間の「独創力」を脅かしている、というふうにもしばしば語られる。まるで、複製技術もなく情報も乏しかった時代は、人のやることなすことが何でも独創となる「幸福な」時代であったかのような言い方である。だがこれは過去というものに対して失礼な、というか、想像力の欠如した見方である。複製技術以前の時代においては、人々は現在の意味における「独創」にあまり価値を置いていなかったし、関心も持っていなかったのではないかと私は思う。多くの人が現代を「危機」として ― つまり技術の発達によってもたらされた文化の危機として ― 考えたがるのは、たぶん「危機」というものが人をうっとりさせるからだ。今や落ち着いてものを考えている場合ではない、という意識を共有するのは楽なのである。
さて独創と模倣とが創造活動の不可分の両面であるということを考える時、「ミーム(文化的自己複製子)」という概念が参考になるのではないだろうか? これはもともと、イギリスの動物学者リチャード・ドーキンスが一九七六年の著書『利己的な遺伝子』のなかで提唱したものである。ドーキンスの考えた「ミーム」とは、ちょうど「遺伝子(ジーン)」が個体の特徴や生得的な行動パターンを決定する生物学的情報を担っているように、思考や行動の文化的なパターン決定する情報の単位である。そして遺伝子が生殖を通じて自己複製するように、ミームは模倣を通じて複製され、個体から個体へと ― あるいは脳から脳へと ― 転写され拡大してゆく情報の単位である。それによって ― 私たちが「自分のものだ」と感じている ― 身振りや習慣から、言語、感情的反応、政治や宗教上の信念といったものまでが伝達されると考えられるのである。ミーム概念はその後、コンピュータ科学者のダグラス・ホフスタッターや哲学者のダニエル・デネットによって魅力的な仕方で語られ、またリチャード・ブロディやアーロン・リンチといった人々の著作を通じてユニークな解釈が与えられたが、ミームという概念の原点は何をおいても、文化的現象をあたかも生物学的現象であるかのように考えうるという点にある。このことが、どのような新しい視野を開くかということが、ミーム概念の可能性の核心である。ここでは、もっぱらその点に注目してみたい。
私たちはみんな、生物界の「内部」にいる。生物を研究する科学者といえども、もちろん例外ではない。だが、科学者が実験室で生物を研究する時、培養器の中の微生物、迷路の中のマウス、といった存在は、その外にひろがる生態系とは切り離されたものとして考えられている。実験室や実験器具というものは、観察されるべき現象にとってノイズとなりうる外部からの影響を、できるかぎり遮断するように設計されている。(と同時にそれらは、社会的な文脈においては、そうした遮断が可能であることを保証する象徴的な機能も持っているといえる)。この遮断機能によって、科学者自身は、自分が実験室の中で観察している現象の〈外〉に立っていると思い込むことができる。科学的認識の主体があたかも現象世界の〈外〉に立って世界を視ているかのような記述を可能にすることが、自然科学の発揮する大きな威力の根底にある。〈外〉から世界を記述するかぎり、世界の中に真に神秘なものは存在しえない。ある現象が説明不能で神秘的にみえたとしても、それはその説明原理が未だ発見されていないだけであると「説明」できる。さて「ミーム」概念の効力は、こうした説明方式を、文化的事象に関しても適用できる点にある。つまり、人が何か「独創的」なことをやりはじめたとしても、それはこの人個人の天才的能力によるのではなく、その人が学習や教育を通じて獲得した文化的情報つまり「ミーム」が何らかの「突然変異」を起こし、それがたまたま適応的に働いたということにほかならない。個体が遺伝子が自己複製して存続してゆくための「乗り物」であるように、脳は文化的情報を担う「ミーム」が自己複製するための「乗り物」であり、私たちが観察するすべての文化的現象は、ミームの自己複製と突然変異を通じた、情報進化のプロセスにほかならない、と考えることができるのである。
この考え方はすばらしい、と私は思う。文化現象のすべてを、情報の転写、複製、増殖、適応のプロセスとみることによって、「独創性」や「創造性」を素朴に信仰するロマンティックな世界観から、逃れ出ることができるからだ。そしてそれは、機械的な複製技術が高度に発達を遂げた現代に相応しい仕方で、自然の領域と文化の領域とを連続的にとらえるために、有効な手がかりを与えてくれるようにも思える。だが同時にそこには、ミームという観点が自然科学(現代生物学)に倣ったもの、つまりミームを観察し記述する主体はミーム現象を〈外〉から観察しうる地点に立っている、という前提があることも、つねに意識されていなければならない。この前提は、それ自体としては誤りである。なぜならミーム学の教えるところによれば、ミームについて思考する私たちの意識自体がミームだからである。人間が生物界の〈外〉に立つことができないように、意識というミームは「ミーム界」の〈外〉に立つことはできない。〈外〉の視点とはあくまでフィクションである。もちろんフィクションとはいってもそれは、あってもなくてもいい作り事という意味ではなく、私たちがこの世界をより厳密に認識するためには不可欠なフィクションである。そもそも ― 私が今行っているように ― 言語によって何ごとかを記述するという行為そのものが、この〈外〉というフィクションなしには不可能である。このフィクションは、あらゆる言語的記述の根底で機能している。
一方、そうした〈外〉の視点を棄却しないかぎり、理解できない事柄もある。「独創」とはそうした事柄のひとつである。「独創」とは、人と違ったことをするという意味ではけっしてない。人と違ったことをするためだけなら、「何がまだなされていないか」をリサーチすれば事足りる。それとは反対に「独創」とは、「すべてがやり尽くされてしまった」ような世界においてこそ、生じるものである。すべてがやり尽くされているのだから、「模倣」以外に「独創」に至る道はない。子供たちがひたすら何かの真似をしながら知らない間に新しい遊びを創り出してしまうように、「独創」は「模倣」を通じて行われる。この点において「独創」は「模倣」と分かちがたく結びついているであり、それらは同一の行為の二側面なのだ。あるいは別な言い方をするなら、「独創」はたえざる「模倣」の結果として現れるものであり、独創を「目指す」ことなど原理的にできないと言うべきかもしれない。問題は「独創か単なる模倣か」ではなく、「模倣」でありかつ「独創」でもある活動を生み出す、生命力の充溢の度合いなのである。ところが「著作権」や「特許」といった考えに取り憑かれた現代の常識は、「何か新しいもの」という側面にばかり重点を置いているために、致命的にバランスを欠いている。生命力はたえざる変化をもたらすものであり、模倣や反復は単なる機械的な作用だと、現代人は思っているからだ。「複製」をオリジナルよりも価値の低いものとみなす謬見は、こうした誤った生命観に基づいているのである。
だが、私たちの生活をふり返ればわかるように、変化を求めるのは生命ではなく、むしろ死の徴候である、とミステリー作家で批評家のG・K・チェスタートンは述べている。私たちが何か新しいことをしたいと欲望するのは、生命の力が衰え、反復に飽きるからなのだ。それに対して、同じことが繰り返されるのは「生命がないからではなく、生命があふれ、ほとばしっているからである。」生物界は遺伝情報によって、文化的世界はミームによって、つねに複製が生み出され続ける。世界は反復に溢れている。それは活力に溢れている子供が、同じ遊びを飽くことなく繰り返して倦むことがないようなものなのかもしれない。「子供はいつでも『もう一度やろう』と言う。大人がそれに付き合っていたら行きもたえだえになってしまう。大人は喚起して繰り返すほどの力を持たないからである。しかし神はおそらく、どこまでも歓喜して繰り返す力を持っている。きっと神さまは太陽に向かって言っておられるにちがいない――『もう一度やろう。』」(「おとぎ話の倫理学」、G・K・チェスタートン『正当とは何か』安西徹雄訳、春秋社、1995、99-100頁)
「独創性とは何か?」「独創的であるためにはどうすればよいのか?」。これは学問にかぎらず、競合的な状況の中で何か新しいものを創り出そうとする人が、ときおり自分自身に差し向ける問いであろう。そのような問いを発する時、人は創作活動のただ中にはいない。むしろこうした問いが発せられるのは、人がふと立ち止まり、途方にくれるとき、みずからの活動に自信を失う瞬間である。その背後には「私が自分の独創だと考えてきたものは、実はすでになされたことの反復にすぎないのではないのだろうか?」という疑念が潜んでいる。そして自分の制作物と過去のそれとを比較してみると、たしかに顕著な類似性が観察されることが、少なからずあるのだ。そればかりか、多くの人々が「独創的」と認めている有名な歴史上の制作物ですら、調べてみるとそれに酷似した、何らかの先行例を持っていることが判明する。これまで素朴に「独創」という価値を信じてきた人にとって、その価値があたかも空中楼閣のごとく、頼りないものに見えてくる。そして独創性とはいったい何なのか、それは何によって保証されるのだろうかと疑いはじめるのである。
こうした疑念にとらわれて行き場を失った時、私たちがとりあえず逃げ込む、お決まりの道が二つある。ひとつは「自分」、もうひとつは「社会」という逃げ道である。「自分」という逃げ道とは、みずからの心に証する強い信念をもっぱら根拠とする、という態度である。ようするに、「他人が何と思おうとも、この私自身が独創と信じてやっているのだから、これは独創的なのだ!」と断言することだ。ヤケクソだが、少なくとも元気はいい。だがこれが逃げ道であること、つまりこの考え方自体が間違っていることは明白である。そんなことをいくら叫んでも、誰も聞いてはくれないからだ。独創性はその定義からして、他人による承認を必要とする。さもなければ、独創的であることと狂人であることとの、区別がなくなってしまう。だが、こうした明らかな錯誤にもかかわらず、この考え方にはある種の力があることも否定できない。それは、こうした断定的信念を持つことが、人が自分の活動に自信を喪失したとき、みずからを励まして仕事を続けるために、ある種の実践的効能を発揮するからである。試合を目前に控えたボクサーは「もし負けたら」などとは考えない。どんなに無根拠であれ、とにかく「自分は勝つのだ」と信じる。そうした信念を持つ方が、そうでないよりも実際の勝利に導きやすいことを、経験的に体得しているからである。
もうひとつの「社会」という逃げ道は、これとは正反対にみえる。それは「本人が何を思って創ったにせよ、それを周りの人たちが『独創的』として受けいれれば、それは『独創的』なのである」という考え方だ。「独創性」の判定基準を自分の心証にではなく、他人の判断に委ねるのであるから、こちらは一見、穏当で謙虚な態度であると思われるかもしれない。だが実は、そうではない。この態度は前者のそれに劣らず独善的であるばかりか、さらに悪いことには、前者よりも無責任な態度なのである。このような言い方の底には、ひとつの誤魔化しがあるからだ。誰も「周りの人たち」、つまり「社会」を代弁することなどできない。右の文における「周りの人たち」とは、実は、この文の話者のことにほかならないのだ。「『社会がそう決めている』と〈私〉が決めている」のである。そしてこの〈私〉が隠れている分、タチが悪い。言ってみればそれは、若者を諫めるべき場面で、自分の判断を表に出さないことで善人ぶろうとして「そんなこと、世間では通用しないよ」と言って諭す、年長者の偽善のようなものである。(「世間じゃない、あなたでしょう?」(太宰治『人間失格』))ようするに独創性の基準を社会の判定に委ねるということは、「社会」なるものが時間的にも空間的にも相対的である以上、本当は「独創性など存在しない」と言っているのと等しい。だからそれは、「独創とは何か」という問題に答え(respond)ていない、つまり無責任(irresponsible)な態度なのである。さらに言えば、「何事もすべて社会が決める」などと言われて元気の出る人はいない。つまりこの態度は虚偽であるばかりでなく、実践的な有効性も持っていないのだ。「私はひたすら作るだけ、作ったものの善し悪しはひとさまが決めることです」と謙虚に言えるのは、自分の作るものに揺るぎない自信を持っている(言いかえれば「ひとさま」の判断など本当はこれっぽっちも信じていない)人だけである。
このように二つの逃げ道をあらかじめ塞いでおくことで、やっと私たちは「独創」について、まともに考えるための、端緒にたどり着くことができるのではないだろうか。「独創とは何か?」と真正面から問いかけても、問いに脚をすくわれるだけなのだ。むしろ「独創」と、普通それと対立すると思われている「模倣」や「複製」との、真の関係について考えてみなければならない。結論を先取りして言うなら、それらが単純な対立物ではなく、むしろ創造活動の持つ分かちがたい両面であることを、認識する必要があるのである。現代の常識は、独創と模倣とを客観的に区別できるという前提に立っている。「客観的に区別できる」とは、制作物のもつ事実上の特徴を比較することで確認可能である、という意味である。(そうでなければ「著作権」という考え方がそもそも成り立たない)。そして、写真技術からコンピュータに至る機械的複製技術の進歩によって、模倣はきわめて容易となり、私たちは複製されたイメージの膨大な群れに取り囲まれて生活するようになった。こうした状況が、現代の人間の「独創力」を脅かしている、というふうにもしばしば語られる。まるで、複製技術もなく情報も乏しかった時代は、人のやることなすことが何でも独創となる「幸福な」時代であったかのような言い方である。だがこれは過去というものに対して失礼な、というか、想像力の欠如した見方である。複製技術以前の時代においては、人々は現在の意味における「独創」にあまり価値を置いていなかったし、関心も持っていなかったのではないかと私は思う。多くの人が現代を「危機」として ― つまり技術の発達によってもたらされた文化の危機として ― 考えたがるのは、たぶん「危機」というものが人をうっとりさせるからだ。今や落ち着いてものを考えている場合ではない、という意識を共有するのは楽なのである。
さて独創と模倣とが創造活動の不可分の両面であるということを考える時、「ミーム(文化的自己複製子)」という概念が参考になるのではないだろうか? これはもともと、イギリスの動物学者リチャード・ドーキンスが一九七六年の著書『利己的な遺伝子』のなかで提唱したものである。ドーキンスの考えた「ミーム」とは、ちょうど「遺伝子(ジーン)」が個体の特徴や生得的な行動パターンを決定する生物学的情報を担っているように、思考や行動の文化的なパターン決定する情報の単位である。そして遺伝子が生殖を通じて自己複製するように、ミームは模倣を通じて複製され、個体から個体へと ― あるいは脳から脳へと ― 転写され拡大してゆく情報の単位である。それによって ― 私たちが「自分のものだ」と感じている ― 身振りや習慣から、言語、感情的反応、政治や宗教上の信念といったものまでが伝達されると考えられるのである。ミーム概念はその後、コンピュータ科学者のダグラス・ホフスタッターや哲学者のダニエル・デネットによって魅力的な仕方で語られ、またリチャード・ブロディやアーロン・リンチといった人々の著作を通じてユニークな解釈が与えられたが、ミームという概念の原点は何をおいても、文化的現象をあたかも生物学的現象であるかのように考えうるという点にある。このことが、どのような新しい視野を開くかということが、ミーム概念の可能性の核心である。ここでは、もっぱらその点に注目してみたい。
私たちはみんな、生物界の「内部」にいる。生物を研究する科学者といえども、もちろん例外ではない。だが、科学者が実験室で生物を研究する時、培養器の中の微生物、迷路の中のマウス、といった存在は、その外にひろがる生態系とは切り離されたものとして考えられている。実験室や実験器具というものは、観察されるべき現象にとってノイズとなりうる外部からの影響を、できるかぎり遮断するように設計されている。(と同時にそれらは、社会的な文脈においては、そうした遮断が可能であることを保証する象徴的な機能も持っているといえる)。この遮断機能によって、科学者自身は、自分が実験室の中で観察している現象の〈外〉に立っていると思い込むことができる。科学的認識の主体があたかも現象世界の〈外〉に立って世界を視ているかのような記述を可能にすることが、自然科学の発揮する大きな威力の根底にある。〈外〉から世界を記述するかぎり、世界の中に真に神秘なものは存在しえない。ある現象が説明不能で神秘的にみえたとしても、それはその説明原理が未だ発見されていないだけであると「説明」できる。さて「ミーム」概念の効力は、こうした説明方式を、文化的事象に関しても適用できる点にある。つまり、人が何か「独創的」なことをやりはじめたとしても、それはこの人個人の天才的能力によるのではなく、その人が学習や教育を通じて獲得した文化的情報つまり「ミーム」が何らかの「突然変異」を起こし、それがたまたま適応的に働いたということにほかならない。個体が遺伝子が自己複製して存続してゆくための「乗り物」であるように、脳は文化的情報を担う「ミーム」が自己複製するための「乗り物」であり、私たちが観察するすべての文化的現象は、ミームの自己複製と突然変異を通じた、情報進化のプロセスにほかならない、と考えることができるのである。
この考え方はすばらしい、と私は思う。文化現象のすべてを、情報の転写、複製、増殖、適応のプロセスとみることによって、「独創性」や「創造性」を素朴に信仰するロマンティックな世界観から、逃れ出ることができるからだ。そしてそれは、機械的な複製技術が高度に発達を遂げた現代に相応しい仕方で、自然の領域と文化の領域とを連続的にとらえるために、有効な手がかりを与えてくれるようにも思える。だが同時にそこには、ミームという観点が自然科学(現代生物学)に倣ったもの、つまりミームを観察し記述する主体はミーム現象を〈外〉から観察しうる地点に立っている、という前提があることも、つねに意識されていなければならない。この前提は、それ自体としては誤りである。なぜならミーム学の教えるところによれば、ミームについて思考する私たちの意識自体がミームだからである。人間が生物界の〈外〉に立つことができないように、意識というミームは「ミーム界」の〈外〉に立つことはできない。〈外〉の視点とはあくまでフィクションである。もちろんフィクションとはいってもそれは、あってもなくてもいい作り事という意味ではなく、私たちがこの世界をより厳密に認識するためには不可欠なフィクションである。そもそも ― 私が今行っているように ― 言語によって何ごとかを記述するという行為そのものが、この〈外〉というフィクションなしには不可能である。このフィクションは、あらゆる言語的記述の根底で機能している。
一方、そうした〈外〉の視点を棄却しないかぎり、理解できない事柄もある。「独創」とはそうした事柄のひとつである。「独創」とは、人と違ったことをするという意味ではけっしてない。人と違ったことをするためだけなら、「何がまだなされていないか」をリサーチすれば事足りる。それとは反対に「独創」とは、「すべてがやり尽くされてしまった」ような世界においてこそ、生じるものである。すべてがやり尽くされているのだから、「模倣」以外に「独創」に至る道はない。子供たちがひたすら何かの真似をしながら知らない間に新しい遊びを創り出してしまうように、「独創」は「模倣」を通じて行われる。この点において「独創」は「模倣」と分かちがたく結びついているであり、それらは同一の行為の二側面なのだ。あるいは別な言い方をするなら、「独創」はたえざる「模倣」の結果として現れるものであり、独創を「目指す」ことなど原理的にできないと言うべきかもしれない。問題は「独創か単なる模倣か」ではなく、「模倣」でありかつ「独創」でもある活動を生み出す、生命力の充溢の度合いなのである。ところが「著作権」や「特許」といった考えに取り憑かれた現代の常識は、「何か新しいもの」という側面にばかり重点を置いているために、致命的にバランスを欠いている。生命力はたえざる変化をもたらすものであり、模倣や反復は単なる機械的な作用だと、現代人は思っているからだ。「複製」をオリジナルよりも価値の低いものとみなす謬見は、こうした誤った生命観に基づいているのである。
だが、私たちの生活をふり返ればわかるように、変化を求めるのは生命ではなく、むしろ死の徴候である、とミステリー作家で批評家のG・K・チェスタートンは述べている。私たちが何か新しいことをしたいと欲望するのは、生命の力が衰え、反復に飽きるからなのだ。それに対して、同じことが繰り返されるのは「生命がないからではなく、生命があふれ、ほとばしっているからである。」生物界は遺伝情報によって、文化的世界はミームによって、つねに複製が生み出され続ける。世界は反復に溢れている。それは活力に溢れている子供が、同じ遊びを飽くことなく繰り返して倦むことがないようなものなのかもしれない。「子供はいつでも『もう一度やろう』と言う。大人がそれに付き合っていたら行きもたえだえになってしまう。大人は喚起して繰り返すほどの力を持たないからである。しかし神はおそらく、どこまでも歓喜して繰り返す力を持っている。きっと神さまは太陽に向かって言っておられるにちがいない――『もう一度やろう。』」(「おとぎ話の倫理学」、G・K・チェスタートン『正当とは何か』安西徹雄訳、春秋社、1995、99-100頁)
(C)Hiroshi Yoshioka