マズリッシュ『第四の境界』

ブルース・マズリッシュ著『第四の境界──人間機械進化論』(ジャストシステム、1996年)の訳者解説です。原著は、Bruce Mazlish, The Fourth Discontinuity -- the co-evolution of humans and machines, 1993マズリッシュはマサチューセッツ工科大学歴史学教授(発表当時)。

 人間とは道具を作る動物である。この定義がふつう言い表しているのは、道具の制作という点で人間が他の動物から、そして全自然界から際だった、特別な存在であるということだ。要するにこの定義が言っているのは、人間と他の自然界の間に一つの決定的な(不連続性)があるということである。そうした境界が存在することを知って、われわれはひとまず安心する。というのも、そうした境界がなければ人間は獣と同じであるということになり、文化の中で育まれてきたあらゆる価値や尊厳が台無しになると恐れるからだ。そこからもう一つの定義を引き出すとすれば、人間とは常に、「人間とは何か」というオイディプス的な問いに答える必要に迫られている存在なのである。
 人間は道具を作る動物である──本書の著者マズリッシュも、この定義に異論を唱えているわけではない。それどころか、かれは原始人の石斧から現代のコンピュータまでを連続的発展として考え、それを広い意味での「機械」と呼ぶことで、それを「人間とは機械を作る動物である」と、より現代的に定義し直している。けれども重要な点は、マズリッシュはそのことによって人間と他の自然界との間に境界線を引こうとしているのではなく、まさにその反対であるということだ。たしかに人間が機械を制作する能力は際だっているが、動物だって──ビーバーのダムや、小枝を使ってアリを捕まえるサルなど──外界の自然を利用して道具や構造物を作り出す。もちろんそこでも、人間は言語のようなシンボル体系を用い、明確な意識を持つといった区別をしようと思えばできる。けれども著者によればそうした区別は見方をかえれば「程度の問題」にすぎず、人間と自然とを隔てる決定的な境界線は存在しないのである。
 本書は、通常は不連続的と思われている人間と自然との関係を、連続的なものとみなそうとする。そしてそのために、人間は道具を作る動物である、ということを、進化論的な文脈の中で考察しようとするのである。ただここで誤解を招かないように言い添えるなら、この本の眼目は人類の文明史を素朴に宇宙そのものの進化の中に位置づけることにあるのではない。人類が宇宙そのものの進化の結果であるといった超進化論は、あまり人間の傲慢さを戒める役には立たないようである。それは人間を謙虚にするよりも、むしろ本書でも触れられているように、人類の無限の進歩を夢想する「テクノロジー的大風呂敷」へとつながりやすい──もっともマズリッシュは必ずしもそれを全否定しているわけではなく、未来の可能性に関しては基本的に保留する態度である。
 本書における筆者の立場はもっと反省的なものである。それは、「人間と機械とは連続的である」というテーゼをポジティヴに主張するよりも、「なぜ人間は自分を機械とは隔たった存在だと考えたがるのか」ということを歴史的に反省することに力点が置かれている。人間は自分が作った機械に対して、愛着や自己同一化の感情を抱くと同時に、嫌悪や恐怖をも感じ、この両面的な感情的態度が、古代中国の自動人形から『ブレードランナー』のレブリカントまで、機械と人間をめぐる物語の基本的な筋書きを形作ってきたのである。それは現実の歴史であると同時に、現実の底を流れている、人間の深いあこがれと不安が渦巻く想像力の歴史である。そして、この想像力の歴史を描き出している点こそ、本書のもっとも面白く啓発的な側面ではないだろうか。

 では内容について簡単に解説しておこう。
 まず、「第四の境界」という主題の意味を説明する序章は、短いが本書の全体的な意図を述べたものとして重要である。フロイトを参照しつつそこでは、人類の成長とはすなわち自分と周囲の世界との連続性を容認することにほかならないと言われているのである。いわば自分は万能で不死だと信じていた幼児が、やがては自分も他の人と同じ限界を持つことを自覚するのが苦しい経験であるように、人類の自我にとっても自分と動物界、意識と無意識とが連続していることを認めるのは「ショック」なのだ。けれどもそれを通過しなければ成長することができない。そして、人間と機械との連続性は現在われわれが経験しつつある最新の「ショック」であり、やがては乗り越えられるべきものなのである。
 第一部の残り三つの章は、古代から一九世紀にまで及ぶ歴史の中からいくつかの重要な論争や主題に焦点を当てることによって、人間と機械との関わりという基本的な問題を提起する部分である。まず第二章では、動物、機械、人間という互いに入り組んだ関係が、一七世紀の動物機械論争を中心にして考察される。動物機械という問題に注目することで、ふつうは近代的世界観の確立者とされるデカルト中に、手に負えない逆説が潜在していることが浮き彫りにされる。第三章では、オートマトン(本書では文脈に応じて自動人形あるいは自動機械と訳した)をめぐる人間の空想の系譜を、それをあつかった文学作品を例にあげながら追究している。そこではチャペックやアシモフといった「ロボット」文学の古典ばかりではなく、アンデルセンの童話やボームの「オズ」シリーズなどがきわめてまじめに考察されているのが興味深い。第四章が扱っているのは、オートマトンがたんなる玩具や空想ではなくなり、産業機械という現実的な姿をとって登場する一九世紀の世界である。最近の「ユナボマー」のような過激な例ともかく、われわれの中にもテクノジーを敵視する「ラッダイト派」的な感情が巣くっていることはたしかだろう。
 第二部は何人かの重要な思想家を併置して考察するというスタイルをとっている。まず第五章は、リンネとダーウィンをいわば「静」と「動」として対置する。自然を体系的に「分類」するということが、そもそも動物界と人間との連続性を確立するための第一歩であり、リンネによるそうした自然の体系に時間的な運動を導入したのがダーウィンの進化論だというわけである。第六章では、人間という「機械」に対する二つの対照的な研究方法を発展させた人物として、フロイトとパヴロフとが対置される。フロイトは物理主義的な神経生理学から出発し、人間の神経系が生み出す複雑な問題を理解するために言語を手段として用いたが、その本質においては唯物論的、つまりダーウィン的であったことが見逃されてはならない。また現代では動物行動学および動物を扱う倫理的な観点から「悪役」とされるパヴロフについても、機械論の歴史の中でもその意味が吟味される必要があるだろう。第七章に登場するのは、単なる発明家ではなく生産を念頭においた工学者(いわばチャペックの描く「若いロッスム」)としてのバベッジ、最初の「職業的」科学者の一人としてダーウィン主義を広めたハクスレー、そして機械が人間に取って代わるという主題の両義性に文学的な形式を与えたバトラーであり、いずれも二〇世紀へとつながる新たな世代の誕生を示す三人といえるだろう。
 さて第三部は、いよいよ現代が主題となる。第八章および第九章は、遺伝子およびコンピュータ・テクノロジーの発達によって、一九世紀までの機械論が更新され、さらにわれわれが日常レベルにおいて著者の言う「第四の境界」の克服という問題に直面せざるをえなくなった現実を確認するものである。空想と現実の入り交じった「自動人形(オートマトン)」という主題は、今やコンピュータ・ロボットという形で現実化されつつあり、それはもはや「フランケンシュタイン・コンプレックス」の感情では処理できない切実な問題なのである。
 では、そうしたコンプレックスの中心をなしている恐れ、つまり「人間が機械に取って代わられるのではないか」という恐れは、著者の提唱する「第四の境界」を克服することでどのように解消されるのであろうか。本書の結論部は、錯綜した話題にふさわしく(?)結論も二章に分かれている。著者は「コンボット」のような進化した機械が人類を引き継ぐという可能性そのものについては、結局意見を保留しているようである。ただ、たとえそうなったとしても、人間が完全にお払い箱になることは考えられないから、人類の週末だといって騒ぎ立てるべきではない、と言う。ロボットやコンピュータを人間のライバルとして考えたがる傾向が、要するに人間の側の心理的な不安を反映する妄想にすぎないという点については、訳者もこの著者と同意見である。【以下略】