中ハシ克シゲ「あなたの時代」
「中ハシ克シゲ展―あなたの時代」(西宮大谷記念美術館2000年1月8日〜2月20日)について、醍醐書房『美術フォーラム21』〔現代作家紹介〕に掲載したもの。
「ゼロ戦」のプラモデル、沖縄の道路に散る桜、ブリスベンのマッカーサー指令本部――それらを接写した何千枚もの写真がふたたびつなぎ合わされ、立体的な形へと復元される。そこでは物理的な重さはもちろん、写真がもたらす歴史的記憶の重みすら、意図的に消去されているようにみえる。かつて「大和魂」を具現していたこの戦闘機は、まるで空気の抜けたビニールの人形のように力無く地面にへたりこみ、桜や指令本部は襤褸のように壁面にまとわりついている。(アンゼルム・キーファーの鉛の飛行機の対極にあるようなこの「ゼロ戦」は、展示後には焼かれ、文字どおり「ゼロ」となる。)
あるいまた、左右対照の図像として合成された巨大な富士の姿。中心軸から鏡像反転された人間の顔が異様であるように、完全にシンメトリカルなこの日本の「顔」も、どこか不安をかきたてる。その中心軸に、あからさまな女性器のような、あるいはロールシャッハ・テストのような、公然と見てはならない何かが露呈されているように感じられる。見慣れたものの不気味さとでもいうべき感情、”unheimlich”というフロイトの概念を思い出させる。
そして、「あなたの時代」と思わせぶりに題された作品。その形は菊、蓮の花、あるいはキノコ雲か。観客は、キッチュな宗教的モニュメントを思わせるこのシリコンの神殿に靴を脱いで参内し、その茎にあたる部分を触ってみるように誘われる。するとの内部にいるは、かつては神であった一人の人物をきわめて正確にかたどった、金箔を張られた等身大の彫像が隠されていることがわかるのである。
中ハシ克シゲの最近の活動について、何を言うことができるだろう? その作品はもはや彫刻ではなく、アートでもないと断定すればいいのだろうか。それらは日本的なイメージを戯画化した際物的なオブジェにすぎず、きわどいテーマを扱って人目を引こうとしているだけだと批判すべきなのだろうか。あるいは反対に、そうしたテーマにあえて挑んだ、日本的な美の固定観念――黒塀、松、力士、神社、茶室、富士山、ゼロ戦、桜、菊etc.――とのこのような戯れを、面白がるべきなのだろうか。そして、この国の現代美術が避けたがるストレートな政治的挑発を行なった勇気を認め、国際的な注目を集めていることを評価すべきなのだろうか。
西宮大谷記念美術館で開かれていた「中ハシ克シゲ展―あなたの時代―」を最終日近くに見に行く以前から、わたしはそうした賛否両論を耳にしていた。だが見おわって感じたのは、そうした議論のいずれも、中ハシの作品をたんに上滑りしているだけではないか、ということだった。これらの作品が挑発しようとしているのは、何かまったく別なものではないのか? 「彫刻か否か」「アートか否か」という問いは、「彫刻/アートとは何か?」がその都度根源的に問題にされるのでなければ、言語能力の退化した官僚的なおしゃべりにすぎない。そうした制度的な問いとは無関係なところで、中ハシの作品が「表層」と「深さ」との関係を問題化していることは確実である。繋ぎあわされた写真が作り出す「形」は、深さをもつ実質がその帰結として表層を持つのではなく、表層が否応なく深さを作り出してしまうという事態に触れているのだ。たとえ断片化された間接的なイメージにであったとしても、表層を見てしまった者は避けがたく深さを背負いこんでしまうという事態。そしてこれこそ、歴史について語ることの核心にある現実なのである。
「昭和」という時代を、若い世代にも伝えなければならないと思った、と中ハシは言う。だがわたし自身と同じ昭和三十年代生まれのかれにはもちろん太平洋戦争の体験はなく、直接経験したのはゼロ戦のプラモデルである。さて直接的経験という「実質」が存在しないにもかかわらず、われわれが「忘れてはならない」と思ってしまう戦争の記憶とは何なのだろうか? 戦争とは、ある時起こった特定の出来事の経験ではない。「戦争そのもの」など、どこにもないのだ。「戦後」という言い方は、まるで戦争をすでに終った出来事と思わせるけれども、われわれは新聞やテレビ画面という「表層」で毎日戦争を観ているし、戦争への傾斜をもつあらゆる集団的な排除と暴力の応酬を、日々経験しているのである。「現代日本は平和ボケ」だなんて当たり前のように口にする人たちには、たんにあなたたちがボケているだけではないかと言いたい。
今回の作品展に際して中ハシは、右翼による嫌がらせや、戦争体験者たちからの反発を覚悟していたと語る。けれども実際には、嫌がらせや妨害はなく、戦争経験をもつ年配の観客のほとんどは、むしろ積極的な感想を口にしたという。忘れられてゆく昭和と太平洋戦争を、美術という形で問題にしてくれてよかった、というのである。かれの作品がそれらを揶揄するものでないことは問題なく伝わっている。かれの作品に過剰な政治的意図を読み取り、「ヤバイ」とか「危険かも」などとすぐに口にしてしまうのは、むしろ太平洋戦争を経験していない世代だろう。ようするに、経験していないということにこだわりすぎてしまうのである。そのために、「戦争」「ヒロシマ」「ホロコースト」といった主題を、みだりに触れてはならない神聖な領域として、「平和な」日常的現実から隔離してしまうのだ。そしてそうした主題について語るときには、ついもったいぶった厳粛な身振りをとってしまうのである。
こうした過剰反応は不様で滑稽であるけれども、わたしたちは容易にそこから逃れることはできない。それは、歴史に対するわたしたちの基本的な態度、いわばその歴史的な身体性から帰結することだからである。歴史に対する構えを作り出したのも歴史なのだ。わたしたちが「戦争」について語るときのこうした居心地の悪さ、シリアスに振舞ってしまうことの恥ずかしさ。まず直面すべきなのは、おそらく自分自身のこうした姿である。これこそが、自分自身の歴史についての経験の入口であるからだ。とやかく言われるなら黙っていたい、不様な姿をさらすくらいならいっそ消え去りたいと、この国の人々は感じる。「存在の耐えがたい恥ずかしさ」とでもいうべきこうした心性は、日本的な美の基準と不可分に絡み合っている。日本の「日本性」を、あわてて拒絶したり逆に美化したりするのではなく、まずよく見てみなければならない。中ハシ克シゲが視覚化しようとしているのは、そうした主題ではないかと思えるのである。