東浩紀『動物化するポストモダン』

東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』(講談社新書、2002年)について、『美術フォーラム』(醍醐書房、2002年)の書評欄にとりあげました。

 マンガやアニメが美術館で展示されたとしても、現代ではとりたてて驚くべきことではないし、「そんなものがなぜ〈美術〉なのか?」と目くじらを立てて怒り出す人もいない。それだけで「越境」とか「ポストモダン」と言っていいだろうか? さらには美術家自身が、マンガやアニメからイメージを借用したり、そうした文化経験を前提した作品を作ったりして、国際的な評価を得ている。昨年(2001年)、東京都現代美術館では「村上隆展――召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか」が、また横浜美術館では「奈良美智展」が開催された。いずれも、マンガ、アニメに代表される日本のサブカルチャーの経験を考えなければ、語ることのできない作家たちである。では、前提となるそうした経験をとらえるために、美術史学はいったいどんな語彙をもっているだろうか?

 そうした現象が相変わらず「モダニズム」や「前衛」の言葉で語られるとしたら、「越境」なんてどこにも起っていないというべきだろう。美術がサブカルチャーを取り込むこと自体は、少しも新しいことではない。ポップアートはすでに半世紀近い歴史をもっているのである。美術がマンガやアニメなどを取り込んで、それを美的に洗練させることにより、現代という時代の深層を抉り出すとか、見慣れたポップなイメージを異化して人間存在の不安に迫るとか、その類のことはいくらでも言うことができる。けれども、そうやってサブカルチャーを芸術に「昇格」させてみたって何も変わらない。美術館でマンガが展示されること自体も、ちっとも「ポストモダン」ではないのである。マンガを美術品と同じように扱うなら、何一つ新しいことは起っていない。美術館とはそもそも、何だって美術品として展示しうる制度なのだから。

 それではいったい「越境」は、あるいは「ポストモダン」はどこにあるのだろうか? 本当はそんなもの、この国ではどこにも起っていないのではないだろうか? 東浩紀の『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』は、この問いに対して、「オタクこそポストモダンだ」と答える。オタク? 拍子抜けした読者もいることだろう。オタクというのは、アニメやゲームやパソコンに没頭する一部の若者のことで、身なりが汚く社会性に欠けていて女の子にモテなくてロリコンで‥というイメージが、たしかに定着している。そんなマイナーで矮小なものが、ポストモダンといったい何の関係があるというのだろうか?

 だが考えてみると、「オタク」という言葉が若者の風俗や文化を語るために用いられはじめたのは、もう十年以上も前のことなのである。つまり、オタクはちっとも新しくはない。ということは、その最初の世代はもう若くないということだ。オタクの中心となる世代は、「社会的に責任ある地位についている三〇代、四〇代の大人たち」である、と東は指摘する。その数もまた「数十万の規模を下ることはな」く、さらにアジア地域の文化にも影響を与えているという点で、日本独特の現象というわけでもない。しかも、今や社会に深く浸透しているパソコンやネットワークの文化は、「オタクたちによって築かれている」のである。たしかにその意味では、オタクはあなどれないのだ。

 東によれば、「オタク系文化の構造にはポストモダンの本質がきわめてよく現れている」。さてこの命題には、二重の主張が託されている。ひとつは、ポストモダンは日本においてはオタク系文化という形で表出しているという主張、もうひとつは、日本でオタク文化として現れているものにこそ、実はポストモダンの本質がある、という主張である。ポストモダンは日本ではオタクとして現れる。オタクの中にポストモダンの本質がみられる。これら二つの主張が独特の形でからみあっているのが、本書の特徴といえるだろう。

 まず前者を説明するために東は、オタク文化が戦後の日本において、アメリカ化に対する一種の反動、あるいは文化的ナショナリズムとして発生してきた経緯を指摘する。オタク文化の中心をなすマンガやアニメでは「巫女」などの日本的キャラクターが好まれるばかりではなく、大塚英志や岡田斗司夫をはじめとするオタクの代弁者たちは、オタク文化と伝統的日本文化との連続性をしばしば主張してきた。なぜだろうか? それはオタク文化が、敗戦とアメリカ化による日本文化の断絶の後、たとえばアニメという「アメリカ産の材料」を使って、擬似的な日本を回復しようとする欲望に発しているからなのだ、と東は言う。

 たとえば戦後日本のTVアニメは、ディズニーのような自然な動きを作り出せなかった。低予算で短時間に作らねばならないために、製作者たちは限られた動画枚数でできる限り多様な表現を行おうと、独自の演出や画面構成を工夫させざるをえなかったのである。そのようにして発達した日本的アニメの手法や特徴が、オタク文化の核をなす美的価値となる。そしてそれがある程度定着し認められるようになると、そうした表現こそ「趣向」や「粋」などの日本的概念に通じるものだと主張されるようになるのである。欠乏が、日本の伝統との連続性を保証しているのだ。(ちなみに、これと同種の心理的メカニズムは、トランジスタ・ラジオからパソコンにいたる戦後日本の技術的成功について語る、ロマンティックな言説の根底にもあるだろう。)そこには「戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望」が働いているわけだ。

 このように、「オタク系文化の検討は、この国では決して単なるサブカルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、日本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、近代化とポストモダン化が与えた歪みのすべてが入っている」という東の視点は重要である。というのも、オタク文化それ自体は、自己を歴史的に分析する能力を持っていないからである。しかしこの著者のユニークな点は、言葉を持たないオタクを代弁して、オタク文化とはポストモダンの日本的現われなのだと主張することだけでは満足せず、そこからさらに進んで、オタク文化の中にポストモダン一般の特徴がきわめて明確に現れている、と主張している点である。

 それはどういうことだろうか? ポストモダンはしばしば、ジャン・ボードリヤールのいう「シミュラークル」の概念や、ジャン・フランソワ・リオタールのいう「大きな物語」の失墜から説明されてきた。「シミュラークル」とは、オリジナルとコピーの区別がない存在のことである。さてオタク文化を構成するマンガ、アニメ、ゲームにはたしかに作者がおり、その意味でオリジナルは存在する。だがオタクたちは、オリジナルを希求しない。むしろオリジナルを読み替えて作られる二次的な創作物の方が、かれら(ちなみに本書では男性のオタクだけが念頭に置かれている)の欲望の向かう対象なのである。また、「人間」や「世界」の真理を語る近代的な「大きな物語」は、無数の「小さな物語」へと分散したと言われる。そしてたしかに、オタクたちはたくさんの物語=虚構に夢中になっているが、そうした物語はけっして人生の指針を示したり、世界観を変えたりはしないのである。

 これまでのポストモダン論においては、オリジナル/コピーの区別の「不在」とか、大きな物語の「喪失」といった、否定的な面のみが語られすぎてきた、と著者は批判する。それはぼくも同感である。日本ではボードリヤールやリオタールの言葉だけを表面的に引用するつまらないポストモダン論が多すぎた。近代的な構造が壊れたと言うだけでは、ポストモダンとは「何でもあり(Anything goes)」の無政府状態にすぎず、未来への希望を何も与えてくれない。さて興味深いことに本書ではこの指摘が、オタクについてマスメディアは否定的な面だけを語ってきた、という指摘と呼応する。つまり、オタクは社会の現実に背を向けて趣味的な文化の共同体に閉じこもっているだけだという、よく聞かれる批判である。けれども東によれば、それは「彼らが社会性を拒否しているからではなく、むしろ、社会的な価値規範がうまく機能せず、別の価値規範を作り上げる必要に迫られているから」なのである。

 「別な価値規範」とはいったい何だろうか? もしも著者の言うように、オタク文化の中にポストモダンの本質が現れているとすれば、そうした価値規範を可能にするような新しい構造が、ポストモダンの中になくてはならない。「データベース」こそ、そうした構造を指し示す言葉としてふさわしいと東は考える。近代的な世界観においては、意識に現れる「表層」の背後に世界の「深層」があることになっていた。そうした深層=大きな物語を解明するのが学問であり、それを直感させるのが芸術であった。ポストモダンにおいては、こうした表層/深層のツリー構造が解体され、すべてが同一平面上の記号に還元される。そして八〇年代では、そうした「表層の記号だけが多様に結合していく『リゾーム』というモデル」に希望が持たれていた(ここで著者が念頭においているのは浅田彰の『構造と力』である)。だがポストモダンとは、リゾームというよりもむしろデータベースなのだ、とかれは言うのである。

 データベース・モデルがツリー・モデルと異なる決定的な点は、表層を決定する要因がふたたび表層にあるということである。分かりやすい例として筆者があげるのはインターネットや、その中心をなすウェブページの構造だ。ウェブの見かけは深層の構造によってではなく、それをユーザがどのように読み込むかによって決定される。同じ情報がウェブのページとしても、HTMLのテキストとしても、たんなる十六進数の配列としても現われるが、それらの間には階層の区別は存在しない。それらすべてを通じて同一である情報の本体(おそらくは集積回路内の電荷のパターン)は実在するが、それを直接見ることは原理的にできない。こうした特長を、東は「超平面性」や「過視性」(過剰に可視的という意味の造語)という言葉で捉えようとしている。

 こうした考え方が八〇年代のポストモダン論と異なるのは、すべてを表層における記号の戯れと考える代わりに、「シミュラークルが宿る表層」と「データベースが宿る深層」との二層構造を想定している点である。さらに、この二層構造が近代的な表層/深層の関係と異なるのは、近代におけるように深層が表層を通して自己を決定するのではなく、自己が際限なく深層=データベースを「読み込む」ことで多彩な表層を生成させると同時に、深層そのものはどこまでも到達不能な審級にとどまるという点である。

 さて著者によれば、ポストモダンがデータベース・モデルでとらえられるようになったのは、いわばポストモダンが定着した結果である。モダンからポストモダンへの移行期にあっては、データベースの存在は明確ではなく、むしろ近代的な深層=大きな物語から切り離された記号の浮遊状態の方が強く意識された。コジェーヴ、スローターダイク、スラヴォイ・ジジェクなどを引用しつつ、東はこの移行期を「スノビズム」あるいは「シニシズム」の時代として特徴づける。そこでは人は、表層にある物語=虚構をウソだと知りつつ、それに熱中する。たとえばスターリン体制下のソ連や東欧におけるマルクス主義がそうである。また、非合理と知りつつ形式的な名誉や規律のために「切腹」することをコジェーヴは「日本的スノビズム」と呼んだ。一方オタクは、子供だましの幼稚な物語に、それと知りつつ本気で感動する。その意味でオタクとは、日本的スニビズムの洗練にほかならないのである。

 だがこうした、スノビズムという態度も、現代では有効性を失いつつある、と東は考える。オタクにおけるスノビズムとは、生に意味を与える大きな物語の凋落を埋め合わせるために、まがい物の物語としてのサブカルチャーに夢中になるという点にある。けれども著者は、大澤真幸による「理想の時代/虚構の時代」という観点を引用しつつ、一九九五年のオウム真理教事件を境にして、もはやフェイクとしての物語すら、生を意味づけるものとしては機能しなくなったと言う。確信犯的に物語を消費するスノッブも、進行するポストモダン化についていけなくなってしまったのである。

 ここで注目されるのが、オタクたちによる新しいタイプの文化受容の中に見られる、「動物化した」ポストモダン的な主体である。ここで「動物」というのは、コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』における意味で言われている。それは簡単に言えば、もはや理想や共感を通した他者との交わりを必要とせず、欲求の充足が自己の内部で閉じているような存在、その意味で「人間」であることを放棄した存在である。それはまた、直接的感情と理性的な世界把握とがバラバラになった「解離的」存在とも言われる。これはたとえば、オタク文化がさまざまな性倒錯のイメージであふれているのに、オタクの性倒錯者は少なく、性においては一般に保守的であるという事実をみれば理解されるかもしれない。

 本書は、ポストモダン理論を用いてオタクと呼ばれる日本のサブカルチャーを分析した試みとしては興味深く、また多少ともオタク文化の影響を受けた現代美術を語る際にも、有効な語彙を与えてくれるだろう。一文化現象を外から観察するのではなく、みずから深くオタク文化の中にコミットしている著者にして、はじめて書きうる本である。だが、オタクの消費行動に現れているような自閉的な主体やその行動原理が、ポストモダンの世界に適応する新しい規範を作り出すとは、とうてい信じられない。適応性があったとしてもそれは日本の消費文化のようなごく限られた環境の中の一時的なものであろう。「ポストモダン」と言うとき、当然のようにいわゆる先進国の情報消費文化だけが想定されている点も気になる。ポストモダンとは、進歩や歴史的発展段階という単線的な時系列が混乱する経験でもあるからである。

 とはいえ、あたかもオタクという「虐げられてきた階級」が、未来世界における人間の支配的モデルとなるかのような、グロテスクな虚構を語りうる力は、本書の欠点というよりは、奇妙な魅力というべきだろう。いくらポストモダンといったって、それを語る学問や批評の言説は、そう簡単に「大きな物語」の呪縛から逃れることできない。はたしてオタクたち自身は、この話をどう読むだろうか(あるいは読まないのか)? また日本のオタク文化に影響されているというアジアの若者たちは、こうした物語をどう受けとめるのだろうか?