『インターネットについて—哲学的考察

ハイデガー研究や『コンピュータには何ができないか』などの著書で知られるアメリカの哲学者ヒューバート・L・ドレイファスの近刊邦訳(石原孝二訳、産業図書、2002年)の書評を、『図書新聞』に頼まれて書いた。

 原著は、哲学的問題を分かりやすくコンパクトに提供すべくルートリッジ社が企画したThinking in Actionシリーズの一冊として刊行されている。このシリーズはタイトルがすべてOn〜(〜について)から始まるが、本書の原題 On the Internet は、インターネット「について」と同時に、インターネット「上で」とも響くところがおもしろい。実際、著者ドレイファスの名前を検索すると即座にものすごい数のウェブサイトが見つかるし、かれ自身の論文もオンラインで読むことができる。また、かれは自分の勤務するカリフォルニア大学バークレー校内のサイトに、講義情報はもちろん、自分の授業をMP3で録音して載せたり、ウェブ放送で流したりしている。ドレイファスは別にインターネットを忌避しているわけではなく、それどころか、多大の関心を抱いているのである。

 それではなぜ、インターネットについて、これほどまでにきびしい批判を書いたのだろうか? それはおそらく、インターネットやそれを支える情報テクノロジーの可能性を称揚する人々に共通してみられる、ある耐えがたい鈍感さに対して苛立っているためだと思う。それは、コミュニケーションにおける「身体」や「文脈」の重要性を理解しない鈍感さである。IT推進を唱える人々の多くは、おそらくはマシンの能力に幻惑されてか、これまで人間が行ってきたコミュニケーションについて、音声や画像などの情報を正確かつリアルタイムに拾いさえすれば、何も失われるものはないと考えたがる。したがって、電子化されたコミュニケーションを、身体を伴う対面的なコミュニケーションに置き換わるものとして空想したがるのである。

 だがそれはまったく誤った幻想だ。たとえば日本でもどんどん導入されようとしている遠隔授業では、自分の部屋にいながらにして、一流の教師による授業が受けられるとされている。授業を受けるという経験が、声や文字や身振りといった情報だけで出来上がっているなら、その通りだろう。だがドレイファスが指摘するように、伝達内容が高度なものになるほど、身体を伴った現前【ルビ:プレゼンス】が重要になってくる。現前、つまりその場に居合わせることは、教師とのアイコンタクトや周囲の反応を感じるといったことはもちろん、何が起こるかわからないという状況の共有、リスクを伴ったコミットメントを意味する。それこそが、コミュニケーションの本質なのである。こうしたことを示すためには、かならずしもプラトンからハイデガーにいたる西洋哲学を参照する必要はないのだが、そうしたほうがはるかにドラマティックに、かつ徹底的に示せることが、本書を読めばわかると思う。

 その意味では第四章「情報ハイウェイのニヒリズム」が本書のクライマックスといえるだろう。ここで著者は、キルケゴールのすばらしいテキスト『現代の批判』を引用しつつ、インターネットとは実は、新聞とともに始まる公共領域(public sphere)がもたらした、情報の水平化と人間のコミットメントからの撤退の、最終的な帰結であると語る。ハバーマスのような人は、公共性は一九世紀に変質したから救出すべきだと唱えるが、キルケゴールにとっては公共性それ自体が、生から意味を奪うニヒリズムの源泉にほかならない。(ドレイファス自身は「われわれが身体を肯定し続ける限り」インターネットも有益だとフォローしているが。)空疎なネット礼賛より、こうした徹底的批判を読む方が、現代の情報環境を生きるためによほど元気が出ると感じるのは、ぼくだけだろうか?

初出:『図書新聞』2002年8月24日


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